鴆鳥−実在から伝説へ
真柳 誠
1 毒と薬
ふつう薬といえば命を救うもの、毒といえば命を危うくさせるもの、と思われがちである。しかし、物としての薬と毒を一線で分かつことは、ときに不可能にひとしい。抗生物質の多くは病原を攻撃すると同時に、生体にも何らかの毒性を示すのである。使い方が不適切なら薬物も毒性を示し、逆に、うまく使えば薬用に可能な毒物も少なくない。いまでこそ毒物学や毒性学が薬理学から分科しているが、薬と毒は本来ひとつの物の両面として、古くから考えられていた。
薬学を英語でpharmacyというが、これは前五世紀の医人、ヒポクラテスの時代からのギリシア語に由来する。同じ語幹のギリシア語で、pharmakonは薬物ないし毒物。pharmaekiaは魔術師ないし薬剤師。pharmakeusは毒殺者。pharmakopoloiは諸国行脚のヤブ医者。pharmakoiとは死刑囚のことであった[1]。
一方、中国でも薬と毒を同列にみる古い表現がある。『周礼』天官は医官の職務を定め、「医師は医の政令をつかさどる。“毒薬”をあつめ、それで医事を行う」[2]という。『史記』倉公伝には、「肉がなくなって屍体のようになる尸奪の病人には、針灸や“毒薬”をも治療に用いるべきではない」[3]とあり、同書の淮南王伝には「苦い“毒薬”ほど病にきく」[4]なる成句も記される。
ところで、中国の本草書は一世紀頃の『神農本草経』に始まって十二世紀まで、人体への作用により薬物を上中下に分類する、ユニークな編纂方法がとられていた。すなわち『神農本草経』の凡例は、収載の上中下薬・三六五種を次のように定義する[5]。
上薬一二〇種は…“無毒”。多く服用しても長期に服用しても害にならない。…上巻に収める。このように毒性まで含めた生体ヘの作用面から薬物を分類するのは、どの時代のヨーロッパ本草書にもみられない中国独自の特徴といえよう[6]。さらに後の『呉普本草』からは個々の薬物にも毒性の有無・程度が記されるようになり、毒性は薬味・薬性とともに作用を象徴する三要素の一つとされた。現代の中国伝統薬物学でも、この三要素の規定は広くおこなわれている。
中薬一二〇種は…“無毒か有毒”。斟酌して服用すべきである。…中巻に収める。
下薬一二五種は…“多毒”。長期に服用してはならない。…下巻に収める。
毒性のある薬物でも、治療への巧みな応用の開発が中国本草に古くから課せられていた、ということができよう。事実、猛毒のあるトリカブト属植物の根は、一方で、欠くべからざる生薬として紀元前から現在まで広く使用され続けている。しかし例外もあった。
医療への応用が一向に開発されず、毒殺にしか用いられなかったため、中国本草の正式品目から除外され、ついには伝説上の毒薬となってしまった鴆鳥がそれである。
2 毒鳥の出現
有毒の生物は数多く知られている。しかし、こと鳥類についてだけは、毒性を示す鳥の存在が報告されていなかった。それゆえ中国の本草書や古典に記される鴆鳥も、『山海経』の珍奇な動物と同様に空想上の産物、と考えられていた。ところが最近、世界初の毒鳥(巻頭カラー図版14)がニューギニアのジャングルで発見され、がぜん鴆鳥も実在していた可能性が高まったのである。
ピットフーイという二音節に近い鳴き声から、Pitohui(モリモズ)属と命名された鳴き鳥が報告されたのは一八三〇年のこと。それから一六〇年、シカゴ大学のダンバッチャー氏らが偶然その羽に中毒し、毒性に気付いたのは一九九〇年のことである。鳥類で初めて発見された毒性物質の研究を、かれらは『サイエンス』一九九二年十月三十日号に報告し[7]、当号の表紙(巻頭カラー図版15)も二種の毒鳥の絵でかざられた。
カラー図版14と、カラー図版15の下の鳥が毒性最強のズグロモリモズ(Pitohui dichrous)である。その皮膚のエタノール抽出エキス(皮膚一〇ミリグラム相当)をマウスに皮下注射すると、痙攣して一八分から一九分で死亡。羽毛二五ミリグラム相当のエキスでも一五分から一九分で死に至らしめる。この毒性はズグロモリモズの胸の骨格筋にも弱く認められるが、心肝胃腸などには認められない。
一方、カラー図版15の中間の鳥もやや弱い毒性を持ち、毒性の強い下のズグロモリモズに擬態すると上図の鳥のようになる。このため、名をカワリモリモズ(P. kihocephalus)という。その毒性は皮膚二〇ミリグラム相当のエキスで一六分から一八分、羽毛五〇ミリグラム相当のエキスでは一九分から二七分で、マウスを痙攣ののち死亡させる。しかし胸の筋肉と心肝胃は毒性を示さない。また同属のサビイロモリモズ(P. ferrugineus)も、皮膚四〇ミリグラム相当エキスの皮下投与で三〇分から四〇分後にマウスを死亡させるが、羽毛と胸の筋肉に毒性は認められていない。
分析の結果、これら毒性の主成分はステロイド系アルカロイドの神経毒、ホモバトラコトキシンと確定された。動物実験でマウスの体重の一キログラム換算あたりホモバトラコトキシン三マイクログラムで、投与マウス群の半数が死亡する。これとモリモズ属各鳥の毒性試験から類推して、ホモバトラコトキシンは六五グラムのズグロモリモズで皮膚に一五〜二〇マイクログラム、羽毛に二〜三マイクログラムが含まれる。八五〜九五グラムのカワリモリモズでは皮膚に六〜一〇マイクログラム、一〇〇グラムのサビイロモリモズでは皮膚に一〜二マイクログラムが含有されると概算された。しかもホモバトラコトキシンおよび同類毒のバトラコトキシンはコロンビア産のカエル(Phyllobates aurotaeniaなど)にもあり、皮膚の汁は矢の毒に利用されている。
AP通信によると[8]、ダンバッチャー氏らはこの鳥を捕捉したとき噛まれた傷口をなめ、口内が痛みしびれた。さらに羽毛を舌にのせたところクシャミが出て、口と鼻の粘膜に麻痺と灼熱感を即座に覚えた、という。原地でモリモズ属だけが蛇や鷹に襲われないのはこの毒性のためであり、カワリモリモズも毒性のより強いズグロモリモズの配色に擬態するのだろう、と彼は推定する。ちなみに、もし人に使用するならば、重い中毒を一羽でも十分に起こすだろうとも語っている。
ところでニューギニアの別地域のモリモズ属には毒性が認められず、その地域の人々が捕って食べることもある。また毒性のあるカワリモリモズでも、成鳥よりは幼鳥の毒性が低かった。ダンバッチャー氏はその理由として、ジャングルの特定地域に分布する虫などの食餌に、この毒成分が由来する可能性を考えている。フグ毒や一部の貝毒成分であるテトロドトキシンが、食餌に由来することはすでに解明されている。とすればダンバッチャー氏の推測も、今後の研究で裏づけられる可能性もある。
ともあれ、これら毒鳥が出現したことで、鴆鳥に関する古い文献記載にも再検討すべき余地が生まれた。与えられた手がかりは多い。
(1)南国の密林に棲息する。(2)鳴き鳥で、声は二音節に近い。(3)皮膚・羽毛の毒性が強い。(4)毒性はヒトに経口でもすぐ発現する。(5)毒成分はエタノールに溶出する。(6)蛇・鷹が捕食を忌避する。以上の六点である。
3 鴆鳥による毒殺
鴆鳥に関する記述は、かなり多くの中国文献にみえる。大多数はなかば伝聞に近いが、記述のタイプは大きく二つに分かれている。ひとつは鴆鳥自体への関心が希薄で、もっぱら毒殺の事実や恐怖を描くもの。いまひとつは珍奇な鳥として認識し、それへの関心を中心に描くものである。後者は多分に興味本位であり、雑多な情報にあふれている。しかし前者は鳥としての鴆鳥には無関心なので、情報は少ないが、空想の混入も少ないといえる。そこでまず、史書ほかの毒殺記録を通覧し、鴆鳥毒の特徴を明らかにしてみよう。
酖という文字が、前六六二年にあたる『春秋左氏伝』荘公三十二年の話にでてくる[9]。病にたおれた魯の荘公から世継ぎを相談された成季が、意見を異にする叔牙を殺すのに飲ませたのが酖である。すると酖は酒に関連した毒液に相違ない。この翌年にあたる同書閔公元年でも、「安楽の害は酖毒に同じ」、と管敬仲が斉公に説く[10]。次の話からすれば、この酖とは鴆鳥をしこんだ毒酒とわかる。
『国語』晋語二[11]に記される前六五六年の策謀では鴆が使われるが、単純な毒殺ではない。すなわち、晋の献公は異族の驪戎を討って、美人の驪姫を得た。献公の寵愛をわがものとした驪姫は、わが子を世継ぎとするため、異腹の太子申生を廃する陰謀をはかる。
「まず申生に亡き生母を祭らせてから、その祭祀の酒肉を献公に送らせた。次にすきをみて酒に鴆を、肉にトリカブトをしこんだのである。献公が酒を地にそそいで祭ると、土がもり上がった。そこで驪姫が肉を犬にやると、犬は死んだ。宦官に酒を飲ませたら、やはり死んだ」
こうして無実の罪をかぶせられた申生は、自殺へと追いやられてしまう。
この猛毒トリカブトは「菫」の字で記され、中国でもっとも古いトリカブトの表現である[12]。すると並記される鴆鳥の存在と毒性も、相当にはやくから知られていたことが示唆されよう。なお『穀梁伝』もほぼ同一の話を載せ、酖の字を使う。けっきょく酖は鴆酒なのである。
さて屈原(前三四三頃〜前二七七頃)は、これらを背景に『離騒』第十一段で次のように記す[13]。
「私は美しい娘を見た。そこで鴆に媒酌させようとしたが、その娘は美しくないと鴆が告げた。…私は心にためらいが生じ、疑いまよってしまった」
先の話とからめて、人をおとしいれることを「鴆媒(毒の媒酌)」という用例が、ここから生じた。鴆鳥の形状などより、毒性のみが意識された結果である。
一方、『国語』魯語上の記載によれば、鴆を用いる医者もいた。前六三二年にあたる魯の僖公二十八年の話である[14]。楚を破って覇権を確立した晋の文公は、二心を抱く諸侯の処理をもくろむ。
「晋の文公が諸侯を温の地に集めたとき、晋人が衛の成公を捕らえて周に送った。そして医者に命じ、鴆を使わせたが死なず、医者もとがめられなかった。これについて臧文仲が僖公に言った。『衛侯はほぼ無罪でしょう。刑は原野・市場・朝廷で公然と行うもので、隠すことはありません。毒殺が失敗したのに衛侯はまだ殺されず、失敗した医者も処罰されていないのは、これを知られたくないからです。諸侯が請願すれば、きっと衛侯を赦免するでしょう』、と」
『春秋左氏伝』僖公三十年(前六三〇)の同じ話によると、毒殺を命じられた医者は衍といい、使用したのは酖。衛侯が死ななかったのは、衍が賄賂を受けて酖を薄めたから、とある[15]。すると『周礼』天官に、「毒薬をあつめて医事を行う」と定められた医官の職務に、毒殺への関与が含まれた可能性もあろう。
ともあれ毒殺はふつう暗殺であり、公然たる刑ではない。しかし、こうした非公然の需要があるかぎり、鴆鳥の知識は闇の中でのみ伝授されてゆく。『山海経』に形状が述べられる不思議な鳥は多いが、「…の山、…鴆多し」(中山経)としか表現されない[16]。そして陰惨な毒のイメージだけが、人々に語られてゆく。前二三〇年頃の『韓非子』では、「君子が不注意なら鴆(酖)をもられる」[17]と、毒殺される恐怖をあおる表現に鴆は使われるのである。
ついには毒が何であれ、毒・毒酒・毒殺を鴆毒・鴆酒(酖)・鴆殺、とたとえる場合がでてくる[18]。『史記』以来の史書でも、単なる形容や比喩らしい記述がかなりある。とはいうものの、鴆鳥が実在したことを示唆する話もないではない。まずは鴆に関する記載が見出された各正史の主な箇所を、以下に挙げておこう。
『史記』呂太后本紀以上のうち、鴆鳥を捕獲した記事が『晋書』に二つみえる。ひとつは石崇(三世紀末の人)伝で、次のように記す[19]。
『漢書』斉悼恵王伝・趙隠王伝・霍光伝・楊雄伝・王莽伝
『後漢書』質帝紀・安思閻皇后紀・霍{言+胥}伝・単超伝
『魏志』高貴郷公髦紀
『晋書』高祖宣帝紀・孝宗穆帝紀・石崇伝・{广+叟}懌伝
『宋書』周朗伝
『南史』斉本紀高帝
『旧唐書』李訓伝・賈直言伝
『新唐書』李訓伝・楊収伝・賈直言伝
『南唐書』雑芸伝
「石崇が官僚として南中に派遣されたとき、鴆鳥の雛を入手し、これを後軍将軍の王トに与えた。ところが鴆鳥を揚子江の北に持ちこんではならない、という規則があった。それで司隷校尉の傅祗が摘発し、詔書によって鴆鳥を街頭で焼いてしまった」
南中とは漠然とした南方のことであるが、揚子江以南には相違ない。この時代、北の人間にとって鴆鳥の実物はたいへん珍しかったこと、北に持ち出そうとしたからには、それが生鳥であったこと、しかし実物の毒鳥が北に持ち込まれるのを皇帝らが恐れたこと、などが推察されよう。また同書の孝宗穆帝紀には、次の記事がある[20]。
「升平二年(三五八)三月、{イ+次}飛督の王饒が穆帝に鴆鳥を献上した。帝はこれを怒り、王饒を二百のむち打ちに処し、殿中御史に命じて鴆鳥を四つ角で焼かせた、云々」
この時代も鴆鳥の実物は珍しかったので献上された。当然、生鳥であったろう。また穆帝も鴆鳥におびえ、鴆鳥を持つこと自体が罪であるのを人々に知らせるため、見せしめとして、街頭で焼かせたのだろう。ともあれ以上の二つの記録は、鴆鳥と判断された鳥が揚子江以南に棲息していたことを推測させるに十分である。
鴆鳥と毒殺・自殺の記事は、比喩や引用を含めれば、前掲正史のほかにも多い。他方、毒物としての観点だけからの記述が、史書以外の書に見出せた。六五三年に著された『唐律疏議』巻十八賊盗二は、殺人を意図した毒薬の使用と販売に対する刑罰を、次のように説明する[21]。
「毒薬とは鴆毒・冶葛・烏頭・附子など、人を殺せるものをいう。毒薬でも病気治療は可能なので、購入者が殺人を意図していても、その事情を知らずに売った者を処罰することはできない。もし事情を知りつつ売り、毒薬が殺人目的で使用されたら、購入者・販売者ともに絞首刑。未使用なら、両者ともに流刑二千里に処せられる、云々」
ここで毒薬にあげられる冶葛とは、野葛・鉤吻・胡蔓藤とも記されるフジウツギ科の植物で、全草に猛毒アルカロイドのコウミンほかを含有する。烏頭はキンポウゲ科のトリカブト属各種の主根、附子はその側根で、いずれも猛毒アルカロイドのアコニチンほかを含む。
野葛・烏頭・附子ともに、いまも使用される生薬である。これらの筆頭に鴆毒が記されることは、七世紀の唐代にも鴆鳥が毒物として使用された、ないしその可能性が十分にあったことを物語る。実際、六五五年頃に著された『千金方』の巻二十四解毒并雑治には、烏頭や野葛とともに鴆の中毒を解く処方が記されている[22]。
くだって北宋代でも、政府の毒薬庫に鴆毒が貯蔵されていたことを窺わせる記録がある。蔡絛の『鉄囲山叢談』は次のように記す[23]。
「政和年間(一一一一〜一八)の初め、…大内後拱宸門の左、後苑東門の正面に本来無名ではあるが苑東門庫と呼ばれる倉があった。これは毒薬の貯蔵庫で、外官の一員が共同で管理し、毒薬は広東・広西・四川から三年ごとに献上させている。毒薬は七等あり、野葛・胡蔓ばかりか鴆すら第三等でしかない。これより上となると、鼻で嗅ぐだけで、たちどころに死んでしまう。…」
蔡絛は徽宗時代(一一〇〇〜二五)の後年に徽猷閣の待制となった官僚で、次の欽宗のとき流刑に処されている[24]。本書は流刑後の作であるためか、いささか内情暴露に近く、それゆえ真を伝える記事が多いという[25]。とすればこの毒薬庫の話も伝聞ではあろうが、事実を伝えている可能性が高い(2010, 11,18補『宋史』卷二十一徽宗本紀の政和四年(一一一四)秋七月戊寅に、「焚苑東門所儲毒薬可以殺人者、仍禁勿得復貢」とあるので、毒薬庫自体は以前から実在し、その毒藥は一一一四年に焼却されていた)。とくに鴆を常識的な毒薬の、最強の例に挙げる点は注目に値しよう。中国南方の広西・広東などに、この当時まだ鴆鳥が棲息していた可能性を示唆するからである。ちなみに南宋代の文人の陸游の『避暑漫鈔』にも同様の逸話があり、それらの毒は不廷の臣を殺すのに用いられたと記す[26]。
これ以降、明代・清代にも鴆鳥に関する記述はあるが、宋代までの記述からの転録か修辞上の用例のみで、鴆鳥が実在したことを窺わせる記録は見あたらなかった。中国人の見聞がおよぶ範囲から鴆鳥は消滅してしまったのかも知れない[27]。
以上、前七世紀から十二世紀まで、鴆鳥にまつわる毒殺ほかの記事を検討した。それらの記事は、致死的毒性のある鴆鳥と認識された鳥が、かつて中国南方に棲息していたことを強く示唆している。また毒物としての鴆鳥の特徴もうかび上がってきた。
すなわち毒殺については、実際に鴆鳥の肉を食べさせた、と判断される記述が見あたらなかったことである[28]。「鴆酒・酖」か、「飲ませた」という表現ばかりだった。鴆鳥の肉はまずいか、即効的毒性を欠くのであろう。一口で毒性を感じれば吐き出すし、呑み込んでも、即効性がなければ、嘔吐して助かる可能性がある。一方、酒剤とするからには、毒成分が酒でよく抽出されるに相違ない。そうすれば毒性も強まり、即効性も期待できる。ただし肉や骨などを酒に漬けても、味や色や香気が変化して毒酒の用をなさない。
ではどの部分を毒酒とするのか。雑多な情報にあふれてはいるが、それを本草書ほかの記載に見出すことができる。
4 本草と鴆鳥
中国では本草と呼ばれる分野で、薬物に関する情報を集積してきた。現在、全体の内容が伝えられる最古の本草書は、後漢の一世紀頃に原型が編纂された『神農本草経』で、凡例部分と、三六五薬を上薬・中薬・下薬に分類した部分からなる。鴆鳥は、条文として本書に設けられていない。が、中薬の犀角条文に唯一の言及がみえる。すなわち「犀角は…鉤吻・鴆羽・蛇の毒を殺(け)し…」[29]とあり、鉤吻つまり野葛や毒蛇の中毒とともに、鴆羽による中毒を犀角が解毒するという。ならば鴆鳥は羽毛に毒性があった。しかも羽毛は食用にならない。つまり鴆羽の用途はあくまでも毒用しかなく、それが毒酒にもされたのである。
ところで、漢代までに原型が著され現在に伝わる医書の『素問』『霊枢』『難経』『傷寒論』『金匱要略』には、鴆・酖などの文字が出現しない。近年までに出土した漢以前の医薬文献にも、それらの文字はない。おそらく鴆鳥には薬用効果と呼べるものがまだ知られておらず、闇の中で伝授される毒殺の用途しかなかったのではないか。それで医薬書では『神農本草経』のみに、羽毛中毒として記述されるにすぎないのだろう。
この三六五薬の『神農本草経』は、のちの伝写過程で薬数や文章に変化が生じた。そこで南北朝・斉梁間の陶弘景は全体を校訂して朱字の経文とした上、後漢以降の医薬書から新たに三六五薬を墨字の経文で補足して計七三〇薬とし、さらに注釈を加えた。これを『本草集注』という。五〇〇年頃の編纂である。鴆鳥はこのとき後漢以降の医薬書から採用され、はじめて経文に立てられた。陶弘景は一方で、新収載の薬三六五種のうち、一七三種を実物不明の「有名無用(実)」薬とし、巻末に一括した。鴆鳥はこの「有名無用」に分類されていない。陶弘景が鴆鳥の実在を信じていたのは疑いない。
のち隋と唐で中国の南北が大統一されると、国外交易も加わって、新たな薬物の知識がふえた。南方人の陶弘景による『本草集注』は、注釈も北方の知見が不足していた。この不便を解消するため、唐の政府は蘇敬らに命じて『本草集注』に新薬と注を増補、こうして六五九年に完成したのが、計八五〇薬を収める『新修本草』である。
次の北宋政府も同様の増補を次々と重ね、作業は北宋末の十二世紀まで続けられた。その結果、最終的に約一七五〇薬を収める『大観本草』と『政和本草』の二系統の『証類本草』となり、諸版本が現在に伝えられている。
『神農本草経』を核とした以上の増補は、いわば雪ダルマ式といえよう。つまり前代の記述に誤認等があっても、原則上それには手を加えない。かわりに新たな注を加え、補足・訂正を重ねてゆく。ただし薬物の分類・配順だけは例外で、そのひとつが「有名無用」への格下げである。
実は『新修本草』の段階で新たに「有名無用」とされた二〇種に、鴆鳥が加えられたのである。この分類はのち『大観本草』『政和本草』まで踏襲された。
すると唐の『新修本草』の六五九年、鴆鳥はすでに存否不詳と判断されていたのだろうか。その少し前の六五三年、同じ唐政府が編纂した『唐律疏議』が、毒薬の筆頭に鴆毒を挙げるにもかかわらずである。まずは『新修本草』の巻二十「有名無用」に収められた鴆鳥の部分(図1)[30]を、順に読み進めてみるべきだろう。
大字で記されるのが『本草集注』で新たに採用された墨字の経文で、次のようにいう。
鴆鳥の毛は大毒があり、五蔵に入る。(服用する)と(内臓が)ただれ、人を殺す。そのくちばしは蝮蛇(マムシの類)の毒を殺す。鴆鳥は一(別)名を{云+鳥}日といい、南海に生きる(棲息する)。ここで「くちばしは蝮蛇の毒を殺す」、という薬効が認められたので、鴆鳥はようやく本草の正式品目に立てられたのである。
ところで『神農本草経』では、犀角が野葛・鴆羽の毒とともに蛇毒も消す、と記されていた。そして『本草集注』の墨字経文では、鴆鳥のくちばしに犀角と同様、蛇毒への薬効を認めたことになる。犀角・鴆鳥・毒蛇および野葛は、のちのちも関連して語られ、とりわけ鴆鳥と毒蛇の話は多い。
その最初は後漢の応劭が『漢書』斉恵王伝につけた注[31]と思われ、「鴆鳥は黒身赤目で、蝮蛇・野葛を食う。その羽でひとかきした酒を飲むと、たちどころに死ぬ」と記す。蛇が小鳥を捕食するのは普通である。しかし鳥が蛇を、しかも毒鳥が毒蛇を捕食する、という話はよほど興味を引いたのであろう。『山海経』の郭璞(二七六〜三二四)の注[32]もこれを踏襲し、「鴆はG(ワシ)ほどの大きさで紫黒色。頸が長く、くちばしが赤く、蝮蛇の類を食う」という。はるか後代になるが一五九六年の『本草綱目』初版(金陵本)の絵(図2)[33]も、郭璞の説にもとづくと思われる。後代こうして鴆鳥の形状も敷衍されてゆくが、それらについては後述したい。
『本草集注』の墨字経文はまた、「{云+鳥}日」なる鴆鳥の別名を記す。「{云+鳥}」は当条文が初出と思われる字であるが、一○○年頃の『説文解字』では鴆の別名に「運日」を挙げている[34]。とすれば「運」と同音の「{云+鳥}」は、形声兼会意文字と理解されよう。なお前一二〇年頃の『淮南子』繆称訓に、「暉目は晴れると鳴き、陰諧は雨が降りだすと鳴く」とあり、三世紀初の高誘はこれに「暉目は鴆鳥。陰諧は暉目の雌」と注釈する[35]。いずれも字義からの連想を感じさせる説であるが、暉は暈と通用するので運・{云+鳥}と同じ。すると暉「目」は暉「日」の誤伝であろう[36]。
ともあれ鴆鳥の別名から派生したらしい雌雄の別称は、のち張輯(二二〇〜二六四)の『広雅』、『山海経』の郭璞注、十二経世紀の『爾雅翼』にまで無批判に踏襲されてゆく。
ではここで、『本草集注』の墨字経文に対する陶弘景(四五六〜五三六)の説明をきいてみよう。図1の細字双行の文章で、七行目に、「謹案(謹んで案ず)」とある以前である。
これ(墨字経文にいう鴆鳥と{云+鳥}日と)は二種の鳥である。鴆鳥はすがたが孔雀に似て色とりどりの斑紋があり、丈が高くて大きく、頸が黒く、くちばしが赤く、交広(ベトナム・広西・広東の一帯)の深山に棲息する。{云+鳥}日鳥はすがたが黒い{イ+倉}鶏(シャモ)に似ている。どちらもまじないで木を腐らせ倒し、蛇をさがして呑みこむ。「同力」の発音に似た声を出すので江東(揚子江下流南岸)の人が同力鳥と呼ぶ鳥も、やはり蛇を食い、人が誤ってその肉を食うと即死する。鴆鳥の羽毛は人に近づけるのはよくないが、それでも蛇毒をいやす。鴆鳥のくちばしを身につけていても、蛇よけになる。むかしはみな鴆鳥の羽毛で毒酒をつくり、それを酖酒と呼んでいたが、このごろはもとのようではない。赤色でかたちが竜のような、海薑と呼ばれるもの(Chrysaora pacifica アカクラゲらしい)が海に棲息し、それにも鴆鳥の羽よりもっと強い毒がある。
ここで新説が出た。鴆鳥と{云+鳥}日鳥は別種という。さらに{云+鳥}日鳥と同種らしい同力鳥は、肉に毒性があるという。しかし{云+鳥}日鳥・同力鳥とも、羽毛の毒や薬効を記さない。他方、鴆鳥については羽毛の毒性だけをいい、酖酒も近ごろは使用されないと記す。さらに鴆鳥はくちばしのみならず、羽毛も蛇の毒消しとなり、くちばしは蛇よけにもなるという。この陶弘景の口吻には、『本草集注』の墨字経文で新出の{云+鳥}日を無益の毒鳥とする一方、先秦時代からの鴆鳥に、有用性を認めようとする意図が秘められていないだろうか。
もしそうだとすると、理由はいくつか考えられる。『神農本草経』を校訂した陶弘景は、その凡例にある「有毒な下薬は、急性疾患に用いる」[37]、という定義を十分承知している。また儒仏道に通じ、当代随一の学者と称された彼にとって、本草のテキスト作成に際し、古くから知られた毒薬を無視することができなかった。しかし斉・梁の皇帝とも親交のある彼は、毒薬の知識でいらぬ嫌疑を招きたくない。こう仮定すると、彼の注釈にみえる不自然さも、少しは納得できよう[38]。
しかし疑問はまだある。なぜ毒鳥が蛇よけになり、蛇の毒消しになるのだろうか。大塚恭男氏はトリカブト毒とサソリ毒が相殺する記載を、東西の古文献に発見している[40]。また数年前の殺人事件で、トリカブトの毒性発現がフグ毒の併用で遅延したことも記憶に新しい。ただし鴆鳥の場合は、このような毒性の相殺作用の可能性とともに、もうひとつの可能性も想定したい。示唆はニューギニアの毒鳥、モリモズ属が与えてくれた。
モリモズ属の生態の特徴に、蛇・鷹が捕食を忌避する、という点があった。皮膚・羽毛の毒性が蛇・鷹に経口で作用するなら、当然のことである。このような外敵防御の必要上、かみつかれる体表に毒性が高まるよう、モリモズ属は選択的に進化したのであろうから。とすれば鴆鳥の羽毛の毒性も、同様の防御目的があったに相違ない。この結果、蛇は中毒を本能的に恐れ、毒蛇であろうと鴆鳥を襲わなかった。ときには中毒したり、鴆鳥につつかれたりして、逃げさる蛇が当時の人々に目撃されたかも知れない[41]。
したがって、鴆鳥のくちばしによる蛇よけ効果は、以上からの連想の産物とみるのが自然だろう。蛇の毒消し効果も、さらに連想を重ねれば考案不可能ではない。ちなみに無作用の物質でも、薬物と伝えて人に投与すると、何らかの作用を示すことが多い。これを偽薬効果という。しかし蛇が相手では、偽薬効果とて発現のしようがない。けっきょく鴆鳥の作用は毒性だけに現実性があり、『本草集注』の墨字経文や陶弘景のいう薬効は相当にあやしいのである。
では、『新修本草』はどのように注釈し、「有名無用」とする判断を下したのだろうか。図1の細字双行文、「謹案」とある以下がその注釈である。
つつしんで考えてみるに、この鳥は商州(陝西省)以南、江嶺(福建・広東・広西)の一帯に沢山棲息する。人びとはみなその肉が生臭く有毒で、食えたものでないのもよく知っているが、羽毛でひとかきした酒が人を殺すというのは、でたらめである。しらべてみると『玉篇』に引く郭璞がいう、「鴆鳥はG(ワシ)ほどの大きさで、頸が長く、くちばしが赤く、蛇を食らう」、と。また『説文』『広雅』『淮南子』は、いずれも別名を運日と呼んでいるが、{云+鳥}と運は同じである。交広の人にたずねると、みな{云+鳥}日の別名は鴆鳥・同力だという。{云+鳥}日鳥以外に別に孔雀に似た鳥がいるのではない。陶弘景が鴆鳥を孔雀に似るといっているのは、交広の人にたぶらかされたのである。『新修本草』には本来、彩色の絵図と図の解説部分があって、それらの絵図は各地の郡県に命じて送らせた実物の産出薬に基づいていた[42]。したがって、現地の人に取材したらしい以上の注釈も、かなり信憑性が高いとしていいだろう。
つまり、鴆鳥・{云+鳥}(運)日・同力は同一の鳥で、孔雀に似ていないこと[43]。当時も中国南方に棲息していること。肉に毒性があり、かつ生臭く、食べられる代物ではないこと。羽毛をすこし浸した程度の酒には、殺人可能なほどの毒性がないこと。以上は陶弘景への反論として、一定の根拠をもとに出された『新修本草』の結論といえる。また以上に従うと、かねてからの懸案も二つが解決可能となった。
ひとつは{云+鳥}日と同力の関係である。陶弘景は同力の字を、鳴き声からの擬声語としていた。あたかもカッコウの英名がcuckooで、ともに鳴き声に由来するように。『新修本草』の注はこれに加え、{云+鳥}日も同力も鴆鳥の別名という。すると{云+鳥}日の名も、音が通用する運日の別称があるので、やはり擬声語に相違ない。それぞれの出現年代から、運日・{云+鳥}日・同力の順で表記が変化した可能性すら推測できる。当時の南方音を知るすべはないが、中国では先秦時代から現代まで漢字を一字一音節で発音する。そして擬声語と思われる鴆鳥の別名は、みな二字表記である。ならば鴆鳥は鳴き鳥で、その特有な声が二音節にきこえたらしいことは確実といえよう。
いまひとつは、鴆鳥の肉にも毒性があるということに関連する。むろん鳥類の肉ならば、皮膚を含むと理解しても大差ない。しかも肉は臭気があって、食べられないという。それで肉は毒用に適さず、羽毛のみが毒殺などに使用されたのである。さらに肉は乾燥保存しても、脂肪の酸化でいっそう異臭を放つ欠点があったろう。ちなみに、羽毛でひとかきした酒に人を殺すほどの毒性がないのなら、鴆酒はかなり多量の羽毛を漬けこまねば、殺人の用をなさなかったと推定できる。
ところで『新修本草』の注は、一方で蛇の毒消し効果、蛇よけ効果に一切コメントしない。さらに鴆鳥を「有名無用」に格下げした。意味するところは明瞭だろう。鴆鳥の存在を否定したのではなく、その毒性のみを認め、薬効を認めていないのである。言いかえれば、鴆鳥は毒物になるが、薬物にならない。それで「有名無用」に分類した。ただし『新修本草』は唐政府の公定薬物書として、全国に頒布された書である。鴆鳥の薬効を認めると、『唐律疏議』にあったごとく薬品市場の取り締まりはできない。つまり「有名無用」とした背景には、鴆鳥の毒用を防止する意図もあったはずである。
以上の理由で、鴆鳥は本草の表舞台から降ろされた。のち宋政府の本草書も、明代一五〇五年に勅撰の『本草品彙精要』でも、「有名未(無)用」に分類する。記述も『新修本草』までの文章を転載するにとどめ、ひとことの注すら追加していない。唐も宋も明も、政府としては当然の対応だろう。かくして鴆鳥の実像は、ふたたび闇にかくれてしまった。
5 実像から虚像へ、そして湮滅
これまで史書・本草書を中心に検討してきたが、かつて鴆鳥なる有毒鳥が実在したのは、もはや疑問の余地がないと思う。明らかとなった諸点を、以下に列挙してみよう。
(1)鴆や酖の名称が最も古い。のち暉日・陰諧、運日、{云+鳥}日、同力の順で別称が生まれたらしい。
(2)毒用の記録は前七世紀頃に始まる。ほぼ確実な棲息記録は唐代の七世紀までである。あるいは宋代の十二世紀初まで、捕獲が統けられた可能性もある。
(3)棲息地は中国の南方、とくにベトナムから広西・広東一帯の深山であった。
(4)特徴のある声の鳴き鳥で、声は運日・同力のように二音節にきこえた可能性がある。
(5)毒性は肉(皮膚)・羽毛ともにあった。
(6)肉・羽毛ともに経口での摂取で、即座に何らかの有害反応を人体にひきおこした。
(7)肉は生臭くて毒用に適さず、もっぱら羽毛が毒物として使用された。
(8)羽毛の毒成分は酒によく溶ける。しかし毒殺用の酒には、少なからぬ羽毛が必要だったと推定される。
(9)蛇と特異な生態関係にあったらしい。おそらく蛇が鴆鳥を捕食しないか、ときに鴆鳥がくちばしで蛇を攻撃した可能性も推測される。
(10)鴆鳥には『本草集注』の墨字経文で蛇の毒消し効果、同書の陶弘景の注釈で蛇よけ効果が記載された。それらは(9)の観察にもとづいての連想による可能性が高い。
(11)唐政府の『新修本草』は(10)の薬効を無視し、鴆鳥を純然たる毒物として「有名無用」に分類を改めた。これには毒物取り締まりの側面があり、のち宋・明の政府においても踏襲された。
以上のことから、鴆鳥がかつて実在したことを筆者は確信している。もちろん(3)〜(9)が、ニューギニアのモリモズ属毒鳥の特徴と酷似することも傍証となろう。
では鴆鳥とモリモズ属毒鳥に、同属や同種の関係があるのだろうか。この問いには判断を保留するしかない。相互に隔絶していても、同様の棲息環境があれば類似した生態特徴・機能・外観を獲得する、まったく別種の動物・植物の例は数多いのである。かんじんの鴆鳥の外観すら記録は一定の範囲内になく、またモリモズ属の毒鳥と一致する例もない。したがってニューギニアの毒鳥発見により、鴆鳥の実像と虚像部分の見分けが可能となり、鴆鳥が実在したことも確証が可能となった、とのみ結論づけるべきだろう。もちろん鴆鳥がニューギニアの毒鳥と、共通点の多い鳥であったことは想定してもよいだろう。
さて鴆鳥の実像が本草の表舞台から去り、ふたたび闇にかくれてしまうと、虚像のみが独り歩きしはじめる。舞台は説話の世界である。まず『新修本草』より百年ほど後の例を挙げてみよう。八世紀前半の作と伝えられる、『朝野僉載』の話である[44]。
鴆の水飲み場には犀がいる。犀が角を洗っていないのに水中の物を食べると必ず死ぬ。鴆が蛇を食らうからである。これは鴆羽の毒を犀角が消すという『神農本草経』の説と、鴆鳥が蛇を食らうという応劭以後の伝承の結合にすぎない[45]。ただし鴆鳥の毒が、蛇に由来することを暗喩しているようである。鴆鳥の毒を蛇由来と明言する説は宋代の文献に多く[16]、宋人で福州の長渓県令もつとめた范正敏の『遯斎間覧』は、次のように記す[47]。
ある人が嶺南の役人になって、山寺を訪れ廁に行くと、にわかに異鳥が飛集してきた。廁の前の石上で跳ねまわっては鳴き、まるで呪術師のやる禹歩のような足どりだ。しばらくして石が割れ、青蛇が一匹出てくると、すぐさまくわえて飛び去った。見ていた人はびっくりしてたずねると寺の僧はいった。「あれこそ鴆鳥です。毒蛇を食らうだけで、その毒をつくりだせるのです」、と。同書にはまた、鴆鳥の毒性と異鳥ぶりを誇張した、次の話も記されている[48]。
湖北薪州の黄梅山には鴆がいて、岩山の大木の中に巣をつくる。すがたは訓狐(鳥のコノハズク)に似て、つづみを打つような声で鳴く。巣の下の数十歩以内には草が生えない。春ごとに子を生み、飛べるようになるとすぐに山へ送り出し、つがいの二羽だけで暮らす。このように奇鳥という意識のみが先行し、毒性にからめて異様ぶりを述べる話は、唐代から宋代にかけて多くあったらしい。広くそれらをまとめた書に、宋の羅願が一一七四年に著した『爾雅翼』がある。『山海経』郭璞注、『爾雅』、『淮南子』、『国語』、『離騒』、『新修本草』なども引用されるが、それらを除く説話部分は次のようである[49]。
(鴆鳥は)蝮とドングリを食う。(蝮が)巨石や大木の間にいるのをみつけると、すぐに禹歩をおこなってまじないをかける。ときには一羽ときには群れて、規則正しく進退・俯仰しつつ、石や樹のあたりをうごめいていると石が崩れたり樹が倒れたりする。それを逃れる蝮はいない。むかし、ある人が山に入ってその歩きかたを見た。帰宅して妻に教えたが、妻はちょうどはた織りをしていて、織機がひっくり返った。さて、鴆鳥はまじないで木を腐らせ倒す、という説を陶弘景が『本草集注』に記していた。以上の一連の説話には、これを敷衍したものが多い。木ばかりか、石までころがしたり、割ったり、溶かしたりするのは、その荒唐無稽さで底がみえる。さらに、新たな観察にもとづくような話でも、およそ陶弘景説の延長にある。あるひとの話では蝮をつかまえる時に同力と数十回鳴く。すると石がもちあがって、蛇が出てくる。それで南方人は同力鳥と呼ぶのだそうだ。
あるひとの話では、蛇にまじないをかける声が手でつづみを打つ音に似ている。だいたい蛇は口に入ると即座にただれる。大小便が石にかかると、石はただれて、泥のようになるという。一説には、石に小便すると雄黄や生金になるという。
およそ鴆の水飲み場では、どんな虫でも水を飲めばみな死ぬ。犀が角をその中につけると、水は無毒になるともいう。
この鳥は犀とあい従う。いま南方の山川に鴆鳥がいれば必ず犀もいる。天がこれらを用いて万物をはぐくもうとしているのだろう。
たとえば歩き方は、片足をひきずる「禹歩」と表現され、これが鴆鳥のまじないだという。禹歩は巫歩ともいい、巫の歩き方から派生した言葉で、『抱朴子』登渉篇に入山の方法として説明[50]が載る。一方、巫がまじないすると木も枯れる、という古いことわざが秦漢頃の『世本』の佚文からある。とすれば鴆鳥のもっともらしい歩き方は、以上を重ね合わせて連想した産物に相違ない。
また、鳴き声はつづみの音に似るという。その声で蛇にまじないをかける、という話もある。ところで鴆鳥の別名を南方で同力といい、これは擬声語であった。同力の発音は現在の広東語でトンリッ、標準語でもトンリー、また再構された隋唐時代の読書音は国際音標文字で〔dung liek(表記不正確)〕、先秦の音韻は〔dong liek(表記不正確)〕となり、魏晋南北朝の音韻体系は後者により近いという。すると説話の作者が鳴き声を実際にきいたのではなく、単に同力の発音から類推し、つづみの音に似ると表現したことと理解できよう。
鴆鳥は『新修本草』で葬り去られて以来、このように唐宋代の説話の中で、本草の記載などから虚像部分が膨らんでゆく。犀とペアで棲息するのも同類の伝説化。ついには鴆鳥の毒が蛇毒に由来する着想までも、蛇を食らうという一面のみ強調された結果、定説化される。にもかかわらず一連の説話には、かつての陰惨な鴆毒のイメージが片鱗もみられない。
鴆毒の対象はもはや人ではなく、蛇なのである。これらの話が記された時代は、鴆毒を用いたとされる殺人記録が史書から消える時期とほぼ前後する。その背景には政府の取り締まりや、棲息数の減少なども考えられよう。ともあれ殺人用の毒としての現実性が、唐宋代になって鴆鳥から失われたらしいことは分かる。逆に人々が恐れる毒蛇を食らい、あたかも益鳥のごときイメージが一方で鴆鳥に生まれ、その様子が面白おかしく描かれるのである。
しかし説話の世界においても、鴆鳥への言及は宋代十二世紀でほぼ終わる。のち明・清代にも鴆鳥の記述は散見されるが、いずれも前述の話の改編でしかない[51]。図2に掲げた後世に誇る明代の『本草綱目』すら、宋以後の新知見は一切ない。また明の図説百科事典『三才図会』も鴆鳥を載せるが(図3)[52]、説明は過去の記載からの作文にとどまる。そればかりか、説明文と合致しない絵図を掲げる[53]。なぜか。
理由は明らかだろう。鴆鳥は唐代の『新修本草』で薬物として否定され、宋代には毒物としてのインパクトもなくなってしまった。それで人々の関心もうせ、伝説の進化すら生じようがなかったのである。もちろん鴆鳥自体が唐宋間で、急速に姿を消していったらしいことも要因の一つに加えてよいだろう。
けっきょく鴆鳥に与えられたみちは、ただ一つだった。空想的毒鳥として、過去の記録がみな伝説的とみなされたあげく、歴史の片隅に埋められたのである。伝説にしても、鴆鳥伝説はいわば忘れられた化石であった[54]。
ところがニューギニアの毒鳥発見により、化石的鴆鳥伝承にも再検討の必要性が生じた。記録中の虚像と実像を見分ける手がかりが提供されたからである。検討の結果、鴆鳥がほぼ七世紀まで実在したことは確実である。のち伝説化が進行し、さらに一転して伝説の伝承までとだえてしまった事情も知ることができた。
物のイメージは人との距離によって変化する。その距離は、人間にとっての有用性の質と程度で認識されることが多い。鴆鳥の消長は、はからずも如実にこれらを具現していたのであった。
謝辞:モリモズ属についての資料を御教示いただいた慶應義塾大学の磯野直秀氏、および中国音韻体系を御教示いただいた東京外国語大学の平井和之氏に、深く感謝申し上げる。
注
[1]チャールズ.H.ラウォーレ(日野巌ら訳)『新訳 世界薬学史』二八頁、東京・科学書院、一九八一年。
[2]阮元『十三経注疏』六六六頁、北京・中華書局、一九八○年。
[3]司馬遷『史記』二八〇二頁、北京・中華書局、一九八二年。
[4]注3文献、三〇八八頁。
[5]『神農本草経』(森立之輯、松本一男編)影印部一五頁、東京・昭文堂、一九八四年。
[6]大塚恭男「東西古代の本草書にみられる薬物の分類法について」、『漢方の臨床』一五巻四号、一九六八年。
[7]J. P. Dumbacher et al., “Homobatrachotoxin in the genus Pitohui: Chemical defense in birds? ", Science 258, 799(1992).
[8]P. Recer, “Researchers in New Guinea jungles discover first poisonous bird", BC-US-Poison Bird, 0748, Washington(AP).
[9]竹内照夫『春秋左氏伝・上』(『全釈漢文大系』第四巻)一六六頁、東京・集英社、一九七四年。
[10]注9文献、一六八頁。
[11]大野峻『国語・下』(『新釈漢文大系』67)三九三〜三九五頁、東京・明治書院、一九七八年。
[12]大塚恭男「附子の医史学的考察(古代・中世)」、『日本東洋医学会誌』一九巻二号、一九六八年。
[13]星川清孝『楚辞』(『新釈漢丈大系』34)四九頁、東京・明治書院、一九七〇年。
[14]大野峻『国語・上』(『新釈漢文大系』66)二三七頁、東京・明治書院、一九七五年。
[15]注9文献、三二六頁。
[16]前野直彬『山海経・列仙伝』(『全釈漢文大系』第三十三巻)三一八・三二六・三三五頁、東京・集英社、一九七五年。
[17]小野沢精一『韓非子・上』(『全釈漢文大系』第二十巻)三八○頁、東京・集英社、一九七五年。小野沢精一『韓非子・下』(『全釈漢文大系』第二十一巻)七七〇頁、集英社、一九七八年。
[18]日本人に関するものでは、後醍醐天皇の皇太子とその弟宮および足利直義(太平記)、山田長政(山田長政資料集)、伊達騒動での毒味役・塩沢丹次郎(伊達顕秘録)、などの毒死は鴆毒との関連が記される。しかし彼らの死亡情況はヒ素化合物の中毒症状に類似する、と宮崎正夫(「鴆毒について」『薬史学雑誌』一八巻二号、一九八三年)は考えている。
[19]房玄齢ら『晋書』一〇〇六頁、北京・中華書局、一九七四年。
[20]注19文献、二〇三頁。なお『太平御覧』巻九二七羽族部一四(四二五四頁、台北・商務印書館、一九八○年)の鴆条に引かれる『晋中興書』にも同じ話があり、王饒は鴆鳥を「辟悪(やくよけ)」として献上したこと、これを焼いたのは殿中侍御史の孫雲臨であることが記されている。
[21]長孫無忌ら『唐律疏議』三三九頁、北京・中華書局、一九八三年。
[22]孫思{シンニュウ+貌}『備急千金要方』四三二頁、北京・人民衛生出版社、一九八二年。
[23]銭遠銘ら『経史百家医録』三六五頁、広州・広東科技出版社、一九八六年。
[24]昌彼得ら『宋人伝記資料索引』三七九七頁、北京・中華書局、一九八八年。
[25]永kら『四庫全書総目提要』一一九四頁、北京・中華書局、一九八一年。
[26]注23の文献参照。
[27]モリモズ属を今の中国では林鵙鶲属という。中国国内の鳥類の棲息分布に関して、現時点で最も完全とされる鄭作新『中国鳥類分布名録』(第二版、北京・科学出版社、一九七六年)は林鵙鶲属を載せないので、この属は今の中国で棲息が確認されていないことになる。以上は中国科学院動物研究所研究員の譚燿匡氏の御教示による。特に記して感謝申し上げたい。
[28]前注20所掲『太平御覧』巻八四九飲食部七食下(三九二六頁)に、「孫子日。鑠金洪鑪、盗隷不探。鴆肉在俎、餓徒不食」とあるが、たとえ話である。
[29]注5の文献、影印部七二〜七三頁。
[30]蘇敬ら『新修本草』(仁和寺本ほか、森立之影写)三五七頁、上海古籍出版社、一九八五年。この部分の釈文には、宋版『経史証類備急本草』(大阪・オリエント出版社、一九九二年)、蒙古版『重修政和経史証類備急本草』(北京・人民衛生出版社、一九八二年)、清・柯逢時版『経史証類大観本草』(東京・廣川書店、一九七〇年)を参照した。
[31]班固『漢書』一九八八頁、北京・中華書局、一九八三年。
[32]注16の文献参照。
[33]李建中ら『本草綱目附図』上巻二三二頁、東京・春陽堂書店・一九七九年。
[34]許慎『説文解字』八二頁、北京・中華書局、一九八一年。
[35]劉文典『淮南鴻烈集解』巻十・一四〜一五葉、台北・商務印書館一九七四年。
[36]じじつ前注20所掲の『太平御覧』は、『淮南子』を引いて「運日」に作る。また三世紀中頃の『呉氏(呉普)本草』から、「運日。一名羽鴆」の佚文を引く。
[37]注5の文献を参照。
[38]隋の巣元方ら『諸病源候論』巻二十六解諸毒候(『東洋医学善本叢書』第六冊一三〇頁、大阪・東洋医学研究会、一九八一年)は、口鼻耳目から体に入ると人を殺す毒性のある薬として、鉤吻・鴆(別名・{云+鳥}日)・陰命・海薑・鴆羽の五種を挙げる。陰命は、『本草集注』鉤吻条の陶弘景注にあげられる。また鴆({云+鳥}日)・海薑・鴆羽の三種は、その形状記載からみても同書の鴆鳥条、および張華(二三二〜三〇〇)の『博物志』巻四に引かれる『神農経』の佚文から取材したのは明らかである。しかし鴆羽と、別名が{云+鳥}日の鴆を別物とする点は、陶弘景注の不明瞭さに起因すると思われる。
[39]この説の早い記録は三一七年頃の『抱朴子』登渉篇にみえ、また雲(運)日は鴆鳥の別名という(王明『抱朴子内篇校釈』三〇五〜三〇六頁、中華書局、一九八五年)。
[40]注12の文献参照。
[41]ダンバッチャー氏らはモリモズ属にかまれた傷口をなめ、口がしびれたという(注8文献参照)。これは鳥の唾液などに毒成分の存在を示唆し、事実なら小動物の補食、ないし他動物への攻撃や防御に都合がよい。なお、一九九三年四月十七日に放送されたTBSテレビの番組では、モリモズ属が樹上でトカゲ様の小動物をくわえ、枝にたたきつけながら食べている場面が撮影されていた。このようなことが、かつて鴆鳥についても観察されていた可能性を考えてよいだろう。
[42]岡西為人『本草概説』六四頁、大阪・創元社、一九七七年。
[43]森立之(一八〇七〜八五)は『本草経攷注』(中冊四三三〜四三四頁、台北・新文豊出版公司、一九八七年)で、『体仁彙編』『嶺南雑記』『品字箋』に孔雀は羽毛に致死的毒性があるので鴆鳥だと記すこと、また陶弘景が鴆鳥は孔雀に似て色とりどりの斑紋があると記すことから、鴆鳥が孔雀であった可能性を示唆している。また宮崎正夫(前注18所引文献)は、古代インドにおける毒蛇を食う孔雀の伝説と、孔雀明王の陀羅尼を唱えると蛇毒を除くといわれることから、インドの孔雀伝説が鴆鳥のイメージ形成に関与したと推論する。筆者はそこで動物園で飼育されている雄のインドクジャクより、いわゆる斑紋のある上尾筒の羽毛を入手。筆者所属研究所の鳥居塚和生・飯島宏治両氏に協力をあおぎ、ダンバッチャー氏と同条件、および経口投与でも毒性を実験してみた。しかし孔雀の羽毛には、いずれの条件でも急性毒性が一切認められなかった。
[44]注30所引各『証類本草』、巻一七犀角条。この話は宋の九八三年頃にできた大説話集の『太平広記』にも載る。
[45]同類の話を宋代の『寰字記』は、次のように記す。「鶴、一名同力。状如鶏、高三尺、好食蛇。惟犀角可解其毒。故有鶴処、必有犀」。
[46]たとえば南宋・此山貰治子の『唐律釈文』は、「此鳥能食蛇。故聚諸毒在身」(注21文献、六四〇頁)という。
[47]陳夢雷『古今図書集成』禽虫典五〇七頁、台北・鼎文書局、一九八五年。
[48]注47の文献参照。
[49]注47の文献、五〇八頁。
[50]注39文献、三〇二〜三〇三頁。
[51]明の{廣+(都−者)}露『赤雅』は表現をより発展させ、「声如羯鼓。遇毒蛇則鳴声“邦邦”、蛇入石穴、禹歩作法、石裂蛇出」と記す(注23の文献、六一一頁)。羯鼓は肩から前につり下げ、両手のばちで両革面を打つ腰鼓の一種。“邦邦”は中国の標準語でバンバン(bang bang)と発音する。
[52]王圻『三才図会(一六〇七年版)』二二〇二頁、台北・成文出版社、一九七〇年。
[53]注47の文献も同様の鴆鳥図を載せるが、『三才図会』の図を細密画風に改めたにすぎない。
[54]鴆鳥の単なる伝説ではなく、史的博物学的検討は管見の範囲で近世以降の中国に見あたらなかった。日本では江戸後期の本草博物学の高揚で、一部研究者の注意を引いたらしい。現存の著述では栗本瑞仙院丹州(一七五六〜一八三四)が一八一九年に著した「鴆鳥拙考(鴆説)」(『蘭{田+宛}摘芳』付録所収ほか)と、増島蘭園(一七六九〜一八三九)が一八二〇年に著した「鴆志」(『蘭園叢書』所収ほか)がある。前論は陶弘景の説明を根拠として、鴆鳥の候補に黒鸛をあげ、この鳥は薩州地方にときどき飛来し、蛇を食い、当地の人は羽毛に猛毒があるといって恐れていると記す。黒鸛とはコウノトリ科のナべコウ(Ciconia nigra)かと思われる。後論は鴆鳥に三種があるとし、黒鸛はいずれの可能性もないと前論に反論する。