『金匱要略』の文献学的研究(第一報)-元・鄧珍刊『新編金匱方論』-
真柳 誠・小曽戸 洋
A bibliographical study of the “Jingui Yaolue” (the 1st.report)
-The “Xinbian Jingui Fanglun” published by Deng Zhen in the Yuan dynasty-
by Makoto MAYANAGI,Hiroshi KOSOTO
The “JinguiYaolue”(金匱要略), originally written by Zhang Zhongjing (張仲景)at the end of the Dong-Handynasty, was first edited and published in the Bei-Sung dynasty.However, the original Bei-Sung edition is long since lost, and all of the nowprevalent texts have more or less undergone further modifications, so that there is no general agreement which text most faithfully reflects the original work of the “Jungui Yaolue”.
The present authors have made research into extant editions in Japan, China and Taiwan, and have found one old edition named “Xinbian Jingui Fanglun”(新編金匱方論).This text has never been mentioned by scholars and exists, so far as we know, only in the Peking University Library. Consequently we have madea bibliographical study of this edition. From this study the following conclusions have been made:
1) This edition was first published by Deng Zhen((鄧珍)according to his preface written in 1340, and the text in question was presumably printed using woodcuts in the middle Ming dynasty, which means that it is the oldest extanttext of the “Jingui Yaolue”.
2) The book found in the Peking University Library has been transferred from one to the other among at least 5 different famous book-collectors since the early Ming dynasty.
3) This text preserves the original forms and styles of the Bei-Sung edition of the “Jingui Yaolue” in many respects.
These facts suggest that the Deng-Zhen edition is the bibliographically best extant text of the “Jingui Yaolue”.
緒言
古典籍の研究にあたって、まず正確なテキストを選定すべきことは周知に属する。とりわけ記述内容が現実の臨床に応用される漢方古典は、より厳密なテキストクリティークが必須なことはいうまでもなかろう。ところが『金匱要略』は『傷寒論』とならぶ漢方の重要古典でありながら、現在に至るもテキストの底本とすべき版本に定説がない。すなわち多紀元簡[1]・山田業広[2]は明刻「徐鎔本」を、森立之[3]は和刻「兪橋本」を底本とし、岡西為人[4]は明刻「趙開美本」、石原明[5]は明刻「兪橋本」、任応秋[6]は近代活版「徐鎔本」を底本に推奨する。さらに『経籍訪古志』[7]は「明代倣宋本」を諸版の筆頭に掲げるなど、まさに諸説紛々である。
かくも多種の版本が『金匱要略』のテキスト底本とされている現在、版本相互の異同は研究解釈のみならず臨床にも直結する問題となっている。それゆえ底本の選定に正当な結論を与えることは焦眉の課題といえよう。このためには現存版本の調査・掌握と系統の解明が不可欠であり、その結果はじめて各版の優劣を定め得ることが可能となる。本研究は以上の問題意識をふまえ、『金匱要略』諸版の文献学的考察による最善本・次善本の論定を目的とする。
『金匱要略』が現行の形態にはじめて編成された祖刻本は、北宋・治平三年(一〇六六)校刊と推知される「大字本」である[8]。これに続き、同・紹聖元年(一〇九四)には「小字本」の刊行が国子監に勅命され、同三年に刊行されただろう[9]。しかしいずれも早くに散佚したと思われ、現存本は筆者らの調査では元以後の版に限られる。それらは現代までの合刻本や後印本・影印本を含め、現時点で五九種まで数えることができた[10]。その一部は孤本や希覯本に属し、近代以降の目録類や報告に未見の版も少なくない。
筆者らは本調査研究の過程で、近代以降未報告かつ日本に現存しない善本古版二種を中国[11]および台湾[12]の図書目録中に見出し、現地調査の概略を簡報した[13]。さらに最近に至り、各々のマイクロフィルムも入手することができた。よって本報では以下に、元・鄧珍刊本の版式・現状等の調査結果を報告する。次にその出版年代・伝本経緯・特徴に考察を加え、当版の価値の論究を試みる。
一 調査結果 元・鄧珍刊本(図1右上)
〔所蔵〕
北京大学図書館、李・三五〇四[11]。
〔版式〕
上中下三巻。毎半葉匡郭・縦約一九・六cm、横約一二・六cm(巻上第三~四葉のみ縦約二〇.四cm、横約一二・八cm)。四周双辺、有界。版心は小黒口、上下黒魚尾、上魚尾下に「金方」の二字と巻次、下魚尾下に葉次を刻す。鄧珍序は行書体で二葉、毎半葉八行・行一四字、末尾に鄧珍の印四顆を刻す。宋臣序(撰者無記小文を後付)一葉、目録二〇葉、巻上二九葉、巻中二六葉、巻下二〇葉。各半葉は一三行・行二四字。
〔現状〕
分二冊。各冊、縦約二四・五cm、横約一五・七cm、四針眼装。第一冊は鄧珍序・宋臣序・目録・本文巻上、第二冊は本文巻中・下の順に綴じる。表紙は現装ではない。
両冊の各葉すべてが二度総裏打ちされ、第二冊は巻下第一一~二〇葉と後表紙の上小口から版心上部周辺にかけて破損し未修復。全書的に刷りの薄い文字や誤刻と判断を受けた文字が墨筆で直され、一部は朱筆で句読点が打たれる。
巻上末葉の余白には以下の楊守敬の自筆識語が墨書されている。
金匱要略、以明趙開美倣宋本為最佳。次則兪橋本。然皆流伝絶少。医統本則脱誤至多。此元刊本与趙本悉合。尤為希有之籍。光緒丁酉三月、得見于上海寄観閣、因記。宜都楊守敬。〔蔵書印記〕
二 考察
(一)出版年代
本書にいわゆる刊記・木記等は見えず、直接に刊年・刊者を知ることはできない。しかしそれに代わるものとして、巻頭の鄧珍序後半には次のように記されている。
僕、幼くして医書を嗜み、旁ら群隠を索む。乃ち{日+干}の丘氏に獲、遂に前の十巻と表裏相資するを得。これを学ぶ者、動(おどろ)き肘を掣くを免かる。鳴呼、張茂先が嘗て言う。神物終にはまさに合あるべしとはこの書なり。いずくんぞ知らん、待するところありて今に合い顕れざるを。故に敢て秘さず、特に諸梓に勒(きざ)み、四方とこれを共にす。(中略)後至元庚辰歳七夕日。樵川・玉佩・鄧珍、敬みて序す(原漢文)。鄧珍の事跡は未詳であるが、本自序によると姓は鄧、名を珍、樵川・玉佩はその字と号かと思われる。この序文より、鄧珍は当時久しく通行していなかった『金匱要略』を丘氏より入手。そこでふたたび世に紹介するため、元の後至元六年(一三四〇)に刊行の序を記したことが分かる。しかし本序は趙開美本に転録されていることから以前より知られており[14]、これが巻頭に付刻される点のみで本書をにわかに元の鄧珍刊本と断定はできない。
ところが本書の鄧珍序(図1下)は趙開美本のそれと異なり、字様が鄧珍の自筆かと疑われる行書そのままの写刻体である。しかも序の末尾には、趙開美本にはない「樵川鄧氏」「珍」など鄧珍自身の印記が刻入されている。さらに本書全体の版式・書体は、元代を中心に宋末から明初にかけての建安刊本の特徴をよく備えている[15]。
先に掲げたごとく、楊守敬は躊躇なく本版を元刻と鑑定している。楊守敬の書誌学的鑑識限は、本邦きっての中国書誌学者・長沢規矩也をして高く評価せしめたほどであった[16]。さらに『北京大学図書館蔵李氏書目』[11]も本版を元刻本と判定する。同書は中国版本学の雄、趙万里の指導下に成ったものである。本版を元刻とみるのは書誌学界の常識とするところである。
一方、版式の調査報告に記したごとく、本書の巻上第三・四葉の二葉だけは他葉にくらべ匡郭の縦がやや長い。かつ字様も明瞭に異なり、他のいわゆる趙松雪(孟{兆+頁})体でなくより明代中期の字様である。原因は鄧珍原刻の当該版木がその後に欠落ないし破損のため、その二丁を補刻したからに他ならない。そして補刻の後に印行されたのが本書、ということになる。本書の現状からみて、補刻部より原刻部に版木の摩滅が顕著なことも当経緯の証左といえよう。したがって補版の字様や版木の常識的な保存年数等を勘案すると、本書の印行(搨印)年は明中期頃と考えられる。
以上の検討より、この北京大学図書館蔵『新編金匱方論』は一三四○年鄧珍序刊、明中期の修印本と考定し得た。
(二)鄧珍本の伝承
後述するが、鄧珍本の際立った特徴の一つに書名に「要略」の二字を欠き、「(新編)金匱方論」とする点が挙げられる。この特徴を手掛かりに、まず鄧珍本の伝承記録を求めてみたい。
中国歴代の目録書中、書名を「金匱要略」とせず「金匱方論」と著録するものに、明政府の蔵書目録『文淵閣書目』(一四四一成)[17]と、明・葉盛の『{綠-糸+艸}竹堂書目』がある。筆者らの調査によると、鄧珍本以外に「要略」の二字を書名に欠く版本は発見されない。かつ葉盛も明初の人である[18]。とすると、両書目に記録された「金匱方論」は鄧珍本であった可能性が高い。しかしそれ以外の諸家蔵書目中には「金匱方論」の書名が見えず、したがって鄧珍本は明初以降すでに希覯本となっていたと推察される。
他方、明初の永楽六年(一四〇八)に完成した『永楽大典』の現存本中、第一三八七九巻と第一四九四七巻には「張仲景金匱方論」と明記する文章が計四回引用されている[19]。わずか四回の引用文でその底本を判別することは難しい。しかし『永楽大典』は主に明政府の蔵書を基に編纂されており、その成立年からして所引文献の大部分が宋元の刊本・写本にかかることは当然である。しかも「張仲景金匱方論」と「要略」の二字を欠く特徴もあるので、『永楽大典』所引本が鄧珍本である可能性は高いと考えられる。
一方、朝鮮李朝・成宗八年(一四七七)刊の『医方類聚』各門には、「金匱方」と明示した引用文が四三回見られる[20]。この引用底本について多紀元堅[21]・小島尚真[22]は共に宋元の刻本と推定し、尚真はさらに「文字の精善たること、殆ど通行諸本の上に在り」(原漢文)と評する。そこで『医方類聚』[23]所引「金匱方」逸文を精査したところ、それらはほぼ完全に鄧珍本の文字と一致した。すなわち「金匱方」といい「要略」の二字を欠く点からも、『医方類聚』所引本が鄧珍本であることはまず疑いない。と同時に、『医方類聚』の編纂が開始された世宗二十五年(一四四三)[24]には、鄧珍本が朝鮮に伝播していた事実も知られよう。
鄧珍本はこれ以降、趙開美が『金匱要略』を『仲景全書』(一五九九序)に編入する際の主底本としたのを最後に、その姿は近代まで表舞台より見失われてしまった。
(三)北京大学蔵鄧珍本の伝本経緯
本書すなわち北京大学蔵本自身の伝承経緯は、各部に捺された蔵書印記より手掛かりが得られる。それらを整理すると、各々二種の「李盛鐸印」「五硯楼」を含め計二二種であった。またこのうち、明確に姓名が判読できたのは袁廷檮・孫従添・楊守敬・李盛鐸・李滂の五名である。そこで各者の事跡等を調べると、各蔵書印記の所属は以下のようになる。
袁廷檮の字は寿階、呉県の出身、清初の人である。宋元本など万巻の書を蔵し、室名を五硯楼・貞節堂と称した[25-27]。すなわち、蔵書印記の調査報告に記した(1)(2)(14)(19)(21)の五顆は袁廷檮の印記と判断される。
孫従添は常熱の出身、字を慶増、石芝と号した。医を業とし、傍ら集書を好み万巻を蔵したという。蔵書室を上善堂と称し、所蔵書には皆「得者宝之」の一印が捺された。著書には『活人精論』『石芝遺話』『上善堂書目』『春秋経伝類求』[28-30]などがあり、各々の撰述年より清・乾隆年間にかけて活躍したことが知られる。すなわち本書の蔵書印記中、(5)(6)(15)(16)(20)(22)の六顆はすべて孫従添の印記と判断される。
楊守敬(一八三九~一九一五)、字は惺吾、宜都の出身である。その旧蔵医書については筆者らの報告があるが[31,32]、本書にも(7)「楊守敬印」一顆が捺され、楊守敬の旧蔵書であったことが了解される。また現状調査報告に前記した巻上末葉の識語によると、楊守敬は清の光緒丁酉二十三年(一八九七)三月に、当書を上海の寄観閣にて発見・入手している。他方、楊守敬が光緒二十七年(一九〇一)に刊行した『留真譜初編』には『金匱要略』三版種の書影が収載されているが[33]、各々についての説明がない。かつ元刊本と見られる一種(図1左上)については、『経籍訪古志』[7]や楊守敬の『日本訪書志』[34]にも該当の記述がなく、筆者らは当初その信憑性にいく分の疑念を抱いていた[35]。しかし図1右上と左上の照合から首肯されるように、本書の披見より『留真譜』所収書影の一種は鄧珍本であることが明らかとなった。
李盛鐸(一八五八~一九三七)は木斎と号し、徳化の出身。明治三十一~三十四年に来日しておびただしい善本古籍を購求、また官位を利用して多量の敦煌文書を窃取・売却したことで知られる。室名を木犀軒と称し、その厖大な蔵書のほぼすべては没後の民国二十八年(一九三九)、第一〇子・李滂(字は少微)の手を経て北京大学の購入するところとなり、現在に至っている[36,37]。すなわち(8)(10)(11)(17)(18)の計五顆は李盛鐸、(12)(13)の二顆は李滂の印記と判断される。
以上、蔵書印記および識語等の検討より、本書は袁廷檮・孫従添・寄観閣・楊守敬・李盛鐸・李滂などの手を約二百数十年にわたり流転した後、北京大学図書館の蔵に帰したことが知られた。
(四)鄧珍本の特徴
この鄧珍本には現在通行の諸版に見られぬ特徴が多い。そこで各特徴を以下に列挙し、各々に検討を加えることによって鄧珍本の価値を考察してみたい。
その一
当本書名は通行諸版と異なり「新編」の二字が多く、また「要略」の二字を欠き、『新編金匱方論』に作る。この書名の記載は林億序尾、目録首・尾、巻上首・尾、巻中首・尾、巻下首・尾にすべて共通し、林億序尾のみ「金匱方論序」と刻されている。
まず「新編」の二字であるが、当版以外にも明・無名氏刊本、明・兪橋刊本、明・徐鎔校刊本(一箇所のみ)などの書名に見られる。この理由を森立之は次のように考証している[38]。
その新編の二字を冠するは、必ずこれ宋板の面目。兪橋本も全く同。凡そ宋臣校書の例、旧本に拠り校正を加うるもの、曰く重校素問、曰く重修広韻、曰く重定開宝本草。金匱の如きは、則ち鈔本に就き校して一書と成す。又た諸家の方に散在するを採り、逐篇の末に附す。題して新編と曰う所以なり(原漢文)。林億らの序によれば、『金匱要略』北宋祖刊本の底本となった写本は、著しい混乱と欠落の生じていた節略書であった。そこで復元と称して過言ないまでの校訂・増補を加え、一変した書として刊行したのである。したがって新たに編纂した意味で、書名に「新編」を冠するのは当然といえよう。しかし書名で他書と判別する場合、「新編」の有無に大きな価値はなく、引用や書名の記録では第一に省略される運命にある。諸家目録の記載や多くの通行版本に、「新編」の二字を欠くのは、恐らくこの理由による。ともあれ、「新編」を書名に冠することは北宋祖刊本の旧態と認められよう。
次に当書名に「要略」の二字を欠く点である。林億らの序では校訂後の書名を「旧に依り名づけて金匱方論と曰う」(原漢文)といい、「要略」の二字を記さない。当該部分の字句は全版本で一致している。つまりこの序によれば、北宋祖刊本の書名に「要略」の二字はなかったように思われる。しかし先に述べたように、「要略」を書名に欠く版本は鄧珍本が唯一であり、この点は少々検討を必要とする。
北宋政府校正医書局による一連の校刊医薬書中、『金匱要略』の初刊(大字本)は治平三年(一〇六六)[8]である。そして①一〇六六年以前に刊行の『図経本草』(一〇六二)[39]は、『金匱要略』の類文を「張仲景治雑病方」などと記して引用している[40]。同じく『金匱要略』以前の一〇六五年に初刊[41]の『傷寒論』宋臣注は、類文を「仲景難方」と引用するが[42]、いずれにしても『金匱要略』と類似の書名は両書中に見えない。ところが②『金匱要略』初刊と同年に校刊された『千金方』宋臣注には「金匱要略」[44]「要略」[45]、一〇六八年に校訂[46]の『脈経』宋臣注には「要略」[47]、一〇六八年頃校刊[43]の『素問』宋臣注には「金匱要略」[48]と記して『金匱要略』の文が引用されている。③『脈経』に後付される紹聖元年(一〇九四)の国子監牒文[9]は、小字本として再刻すべき医薬書五種を挙げ、その一つを「金匱要略方」と記している。④北宋・朱肱の『(重校証)活人書』[49](一一一八年序)の本文と細字注文、また金・成無己の『傷寒明理論』[50](一一四二年序)の本文と『注解傷寒論』[51](一一四四年序)の注文中には、いずれも「金匱要略云」[52]「金匱要略曰」[53]と記す引用文が見られる。
以上、①より本書は林億らの校刊以降はじめて「金匱要略」などと通称され、②よりその祖刻版(大字本)、③より再刻版(小字本)、④より北宋末~金初間通行本は皆、書名に「要略」の二字を欠いていなかったであろうと推知される。とするならば、鄧珍本の書名に「要略」を欠く点は北宋祖版の旧態ではなく、鄧珍もしくはそれに至る間の改変と考えられる。
その二
鄧珍本の第二の特徴は、宋臣序に続け四字低書(六行・行一七字)で撰者無記の小文が付刻されている点にある。この小文は現在通行している中国・台湾・日本刊行の諸活字版には見えないが、鄧珍本以外に明・無名氏本、明・兪橋本、明・趙開美本、および後二版の和刻本も同様に宋臣序後に付刻されている。多紀元簡がすでに指摘するごとく[54]、当小文全九七文字の前半部は葛洪の「葛仙翁肘後備急方序」[55]の一部分と類似している。しかも注目すべきは、その類似部分の冒頭と末尾が葛洪の序と異なり、各々「仲景金匱録…」「…諸経の筋髄を揀選し、以て方論一編と為す」(原漢文)、と記されている点である。林億らは『金匱要略』の序に、当書校刊の底本としたのは傷寒部分も含む節略写本「仲景金匱玉函要略方三巻」であったと記している。さらに『金匱玉函経』の宋臣序では[56]、「王叔和撰次の書、仲景に金匱録のあるに縁り、故に金匱玉函を以て名づく。宝びてこれを蔵すの義を取るなり」(原漢文)、とも記している。
すなわちこの林億らの所説と当小文の符合、およびその付刻された位置・書式などを勘案すると、当小文は林億らが北宋祖版の底本とした節略写本に当初より付記されていた文章であることは疑いない。しかし、これを唐末に節略書を作成した者の所撰、とする元簡の説[57]は可能性が考えられるものの、いまだ確証に欠ける推測と評されよう。いずれにせよ、当小文が宋臣序後に付刻されている点も北宋祖版の旧態と考えられる。
その三
鄧珍本の第三の特徴は林億ら宋臣序の書式にある。宋臣序は『金匱要略』の由来・校訂経緯・内容等をただ単に紹介するためだけでなく、当書を天下に頒行することを含めて国家に上奏する目的で記されている。したがって君主・国家等に関する字句については、本来それらへの敬畏を書式上に明示していなければならない。宋臣序中には、敬畏されるべきものとして「国家」「主上」「太子」の三字句が見られるが、鄧珍本ではいずれも書式上の注意が払われている。すなわちもっとも敬畏すべき「主上(天子)」は改行して行頭に置く平擡で記され、これに次ぐ「国家」と「太子(皇子)」は各々の上一枡に文字が記されず空格となっている。つまりこの点にも北宋祖版の古態が明瞭に残されているのである。鄧珍本と同一の書式で記された宋臣序は明・無名氏本、明・徐鎔本およびその近代活字版の一種にのみ見える。しかし他の全版本は種々の混乱が生じ、宋版の旧態が大部分失われてしまっている。
その四
鄧珍本の第四の特徴には図1に示すように、本文各巻頭で書名の次に記される撰編者名を林億・王叔和・張仲景の順に配列し、通行諸版の順次と正反対とすることが挙げられる。より後代の人物が前置されているこの書式は、書物の増補・改定・再版に際し後から加えた序等を順次前置し、その歴年の編成過程を明示するのと同様である。当書式は他に明・無名氏本、明・兪橋本、和刻兪橋本およびその後修本にも見え、多紀元簡はこれを「古人の修書・経進の体式」[7](原漢文)と評し、前述した書名上の「新編」、宋臣序の書式とともに宋版の旧態と認めている。
その五
鄧珍本の第五の特徴は本文の書式にある。それらは、①論や脈・証の記述を行頭から書くものと、一字または二字下げて書くものの相違。②一文が二行以上にわたる場合、第二行目以下を行頭から書くものと、一字下げて書くものの相違。③各処方構成薬物記載の前行に記される処方名の文字が、黒地に白字と白地に黒字の二種があること、などの特徴である。
ところで『傷寒論』や『金匱玉函経』の宋臣序がただ校訂後の巻数・篇数・方数のみ記すのにくらべ、『金匱要略』の宋臣序は校訂の具体的経緯にまで言及している。書名に「新編」の二字が冠されなければならないほど、多くの増補と改定がなされたゆえんである。そしてこの増補は各篇末に加えられた「附方」のみならず、「或は証ありて方なく、或は方ありて証なし」(原漢文)、と宋臣序にいう校訂前原写本の欠落部分にも行われたはずである。
さて、種々の点より鄧珍本とは別系にある明・無名氏本にも、上述①②と同様の書式が見られる。また両版ともに、「附方」は二字落ちの書式により他条と区別されている。ならば原写本の方または証の片方の欠落を、宋臣らが校訂時に補填した部分も同様に書式上の区別がなされていた、としても不思議はない。そこで「附方」以外の部分において①~③の書式で区別された内容を見ると、一方には『千金方』[58]『外台秘要方』[59]とほぼ合致する文章が少なからず発見された。したがって①~③は多少の混乱があってそのすべては信用しかねるが、多くは北宋祖版で原文と補填文が区別されていた書式に由来すると考えられる。現在通行の全版本は、この書式差がほぼ識別不能なまで失われている。したがって、宋臣による「附方」以外の増補校訂状況の推定は、鄧珍本と明・無名氏本の書式照合によってのみ可能であるが、本報での論及は割愛したい。
以上、鄧珍本の特徴を、一、書名、二、宋臣序に後付される小文、三、宋臣序の書式、四、各巻頭における撰編者名の記載順次、五、本文の記載書式、から考察した。そして各々には、北宋祖版の古態が他版より濃厚に保持されていることが考証された。当然以上の考察結果は、鄧珍本の本文自体にも宋版の旧態が多く保たれていることを示唆しよう。事実、現存他版と比較すると、鄧珍本には明瞭な脱文・脱字・誤字と思われるものが格段に少ない。しかし北宋祖版やその忠実な覆刻本が現伝しない以上、本文字句の正確度を測るすべはなく、安易に判断は下せない。ともあれ、鄧珍本は北宋祖刊本の原型を濃厚に保持した研究利用に値する善本であることは疑いない。
総括
筆者らの調査で中国に唯一発見された元・鄧珍序刊本は、明前期に補刻・印行された現存最古の版本である。さらに当版は、かつて知られたいずれの版より濃厚に北宋祖版の旧態を保有し、研究利用に値する『金匱要略』の善本と認められた。
謝辞:本調査にあたり多大なる便宜をはかられた郭松年北京大学図書館副館長、および薛清録中国中医研究院図書館長に深謝する。また本調査研究費用の一部は当研究室の矢数寄金によった。矢数道明先生の御厚意に深甚の謝意を申し上げる。
〔本稿は第三八回日本東洋医学会学術総会(一九八六年五月二十三日、東京)における、「新出『金匱要略』元刻本の文献学的検討」と題した発表を敷衍したものである〕。
文献および注
[1]多紀元簡『金匱玉函要略方論輯義』(影印本)、『近世漢方医学書集成』四三(名著出版、東京、一九八○年)所収、二五頁。
[2]山田業広『金匱要略集注』(影印本)、北里研究所附属東洋医学総合研究所医史学研究室編『山田業広選集』(名著出版、東京、一九八四年)所収、および同書に付録の真柳誠「幕末考証学派の巨峰・椿庭山田業広」六七九頁を参照。
[3]森立之『金匱要略攷注』(影印本)、『漢方原典攷注集』八(オリエント出版、大阪、一九八六年)所収、五頁。
[4]岡西為人『中国医書本草考』三二頁、南大阪印刷センター、大阪、一九七四年。
[5]石原明「金匱要略解題」『(影印明刊)金匱要略』四頁、燎原書店、東京、一九七三年。
[6]任応秋『如何学習中医経典著作』三二頁、甘粛人民出版社、一九八一年。
[7]森立之ら『経籍訪古志』(影印本)、『近世漢方医学書集成』五二(名著出版、東京、一九八一年)所収、三九四頁。
[8]上掲文献[4]、一九五頁。
[9]国子監「牒文」『(影宋版)脈経』(影印本)一〇一頁、『東洋医学善本叢書』七(東洋医学研究会、大阪、一九八一年)所収。
[10]真柳誠「『金匱要略』和刻版の研究」第五回北里東医研医史学研究室総合研究検討会(一九八六年)にて口頭発表。『日本医史学雑誌』に投稿予定。
[11]北京大学図書館『北京大学図書館蔵李氏書目』中冊二七頁、北京大学図書館、一九五六年。
[12]国立故宮博物院『国立故宮博物院善本旧籍総目』六九五頁、国立故宮博物院、台北、一九八三年。
[13]真柳誠ら「『金匱要略』の古版二種についての新知見」『日本医史学雑誌』三〇巻二号、一〇四~一〇六頁、一九八四年。
[14](a)上掲文献[1]、一六頁。(b)多紀元胤『(中国)医籍考』(翻印本)四七六頁、人民衛生出版社、北京、一九八三年。(c)岡西為人ら『宋以前医籍考』三八三頁、古亭書屋、台北、一九六九年。
[15](a)長沢規矩也「書誌学論考」『長沢規矩也著作集』第一巻、四一七~四四〇頁、汲古書院、東京、一九八二年。(b)魏隠儒ら原著、波多野太郎ら訳『漢籍版本のてびき』(原題『古籍版本鑑定叢談』)一五六頁、東方書店、東京、一九八七年。
[16]長沢規矩也「楊惺吾日本訪書考」『書誌学』八巻四号、一二頁、一九三七年。
[17]来新夏『古典目録学浅説』一三三頁、中華書局、北京、一九八一年。
[18]張廷玉ら『明史』(翻印本)四七二一~四七二四頁、中華書局、北京、一九七四年。
[19]蕭源ら『永楽大典医薬集』(人民衛生出版社、北京、一九八六年)の八九三・九一〇・九一一・九四一頁に引用が見える。
[20]東洋医科大学「医方類聚索引」四一七~四一八頁、東洋医科大学『医方類聚』重刊委員会、ソウル、一九六五年。
[21]多紀元堅『金匱玉函要略述義』(影印本)、『近世漢方医学書集成』二〇(名著出版、東京、一九七八年)所収、二三四頁。
[22]台北・故官博物院図書館所蔵の小島尚真手沢本『新編金匱要略方論』(旧観海五〇三函)に記す尚真の識語。
[23]金礼蒙ら『医方類聚』(影印本)、東洋医科大学『医方類聚』重刊委員会、ソウル、一九六五年。
[24]三木栄『朝鮮医書誌』五二頁、学術図書刊行会、大阪、一九七三年。
[25]呉{日+含}『江浙蔵書家史略』一七頁、中華書局、北京、一九八一年。
[26]陳乃乾ら『室名別号索引(増訂本)』一七三頁、中華書局、北京、一九八二年。
[27]楊立誠ら『中国蔵書家考略』第七七葉オモテ、浙江省立図書館、一九二九年。
[28]永{王+容}ら『四庫全書総目』(影印本)二六一頁、中華書局、一九六五年。
[29]上掲文献[25]、一六九頁。
[30]上掲文献[27]、第六八葉ウラ。
[31]小曽戸洋ら「漢方文献の善本を所蔵する図書館とその利用法・二」『薬学図書館』二七巻一号、二五~三二頁、一九八二年。
[32]真柳誠「清国末期における日本漢方医学書籍の伝入とその変遷について」『矢数道明先生喜寿記念文集』六四三~六六一頁、温知会、東京、一九八三年。
[33]楊守敬『留真譜初編』(影印本)六四七~六五二頁、広文書局、台北、一九六七年。
[34]楊守敬『日本訪書志』(影印本)、広文書局、台北、一九六七年。
[35]小曽戸洋「漢方古典文献概説三・金匱要略」『現代東洋医学』四巻二号、八九~九四頁、一九八八三年。
[36]商務印書館『敦煌遺書総目索引』三一八~三二六頁、中華書局、北京、一九八三年。
[37]蘇精『近代蔵書三十家』二五~三〇頁、伝記文学出版社、台北、一九八二年。
[38]上掲文献[3]、七頁。
[39]蘇頌「本草図経序」『経史証類大観本草』(影印本)巻一第六葉ウラ、廣川書店、東京、一九六九年。
[40]真柳誠「『図経本草』所引の「張仲景医書」について」『日本医史学雑誌』三十二巻二号、九四~九六頁、一九八六年。
[41]高保衡ら「進呈剳子」(『(宋板)傷寒論』前付)第二葉オモテ、明万暦刊趙開美本『仲景全書』所収、国立公文書館内閣文庫所蔵(子四五函一三号)。
[42]林億ら「宋臣注文」、上掲文献[41]巻二第一八葉ウラ。
[43]上掲文献[4]、一九二~一九九頁。
[44]林億ら「宋臣注文」『備急千金要方』巻三第一七葉オモテほか、江戸医学影宋刊本(一八四八年)、矢数道明氏所蔵。
[45]上掲文献[44]、巻八第三九葉オモテほか。
[46]高保衡ら「進呈文」『(影宋版)脈経』(影印本)一〇〇頁、『東洋医学善本叢書』七(東洋医学研究会、大阪、一九八一年)所収。
[47]小曽戸洋「『脈経』割注所引書名人名索引」『東洋医学善本叢書』第八冊四一八頁、東洋医学研究会、大阪、一九八一年。
[48]篠原孝一ら「『素問』割注所引書名人名索引」、上掲文献[47]、一三六頁。
[49]朱肱『重校証活人書』南宋刊補写配本、静嘉堂文庫所蔵(四函一八架)。
[50]成無己『傷寒明理論』元刊影宋補写配本、台北・国立中央図書館所蔵(子部医家〇一二四七)。
[51]成無己『注解傷寒論』躋寿館影元刊本(一八三五年)、矢数道明氏所蔵。
[52]上掲文献[49]、六巻九葉ウラ・六巻一〇葉ウラ・九巻七葉ウラほか。
[53]上掲文献[50]、一巻一二葉オモテほか全九箇所。上掲文献[51]、一巻一葉ウラほか全三六箇所。
[54]上掲文献[1]、一五頁。
[55]葛洪ら『葛仙翁肘後備急方』(影印本)三頁、人民衛生出版社、北京、一九五六年。
[56]林億ら「校正金匱玉函経疏」『金匱玉函経』(影印本)六頁、人民衛生出版社、北京、一九五五年。
[57]上掲文献[1]、八頁。
[58]孫思{シンニュウ+藐-艸}『備急千金要方』江戸医学影宋刊本(一八四八年)、矢数道明氏所蔵。
[59]王燾『(宋版)外台秘要方』(影印本)、『東洋医学善本叢書』(東洋医学研究会、大阪、一九八一年)所収。
(北里研究所附属東洋医学総合研究所・医史文献研究室)