喜ぶ顔が見たい

意思決定、行動規範に迷ったとき、理屈では確かにそうだと思うのだが、どうも腑に落ちないとき、そういう時に、自分はどうしたいのかと、自分に問いかける。その問いかけのキーワードが、「喜ぶ顔が見たい」

自分が、お金や名誉や権力のためでなく、誰かを不幸にするためでもなく、喜ぶ顔が見たいと願っている。そう思えれば、あなた自身も幸せになれる。

子供を偏差値の高い学校に押し込めることが、その子の幸せに繋がると、たとえ確信していても(かつエビデンスなんか要らないと思っていても)、子供の寂しそうな顔を見ると、あなたが不安でたまらなくなるのは、そういう理由による。

「あなたのためを思って言っているのよ」=「私の言う通りにしなさい。さもないと・・・」:これは、紛れもない脅迫である。脅迫を受けて喜ぶ人間はいない。だから相手の喜ぶ顔が見たいと思えば、「あなたのためを思って言っているのよ」とは言わない。

ではその代わりにどうするのかって、やだなあ、そんな簡単なことまで訊いてくるの?

「相手の喜ぶ顔を見るために、自分は何ができるか?」を考えて、自分が行動すること。それしかないでしょ。

いつも言ってるでしょうが。他人の考えと行動は変えられない。変えられるのは自分だけ。他人の行動変容が起こる唯一の可能性は、自分の行動変容を見た相手が影響されて自らの行動を変容させること。

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