英語を話せて本当によかったと思うのは,非英語国民と英語で話をする時である.かつて日の沈むところはないと言われた旧大英帝国には,世界中の国々から様々な人がやってくる.アンゴラ,スーダン,レバノンの内戦,チェコとスロバキアの対立,スペイン人がポルトガル人を見下す態度,アラブ世界でのエジプト人のプライド.教科書やテレビの画像の向こうでの話でしかなかったものが目の前の語り部の口から生々しい声が出てくる.グラスゴーにいるのに,世界中を特派員として飛び回っているようだった.自分が英語が話せなければ,こいつと話ができなかったんだ,この貴重な体験談を聞けなかったんだと思うと,つくづく英語が話せてよかったと思う.
グラスゴーに着いた直後の宿は,大学の獣医学部のキャンパスにある寮だった.僕の勤める研究所の近くにあって便利だったからだ.ある日,寮の食堂で朝食を取っていると,一人の白人男性が僕の前にやって来て食事のために腰をおろした。他に空席が沢山あるにもかかわらず,わざわざ僕のそばに来てくれたのだ。話をしよう。
”おはよう”
”おはよう”
”今日初めて君に会うけど”
”そうだよ。昨日この寮に来たんだ”
”どこから”
”スイスだよ”
”君もこの獣医学部で勉強するのかい”
”そうだよ。僕は獣医だ。君は”
”僕は医者で神経内科医だよ。でもグラスゴーでは臨床はやらずに基礎の研究をやる予定だ。君はもう資格を持った獣医なのかい。”
”そうだよ”
”すると、何か研究目的がはっきりあるのかい”
”トリパノソーマ症だ.はえが媒介する原虫が人間の脳を侵す非常に恐ろしい病気だ.君も医者なら知っているだろう.その研究に来ているんだ.”
”そのトリパノソーマ症をどういう観点から研究するんだい。診断とか治療とか”
”主に診断だね.これまでの診断は血清学的な方法だったのだけれど,病気が最も流行している肝心のアフリカでは,コストが高すぎてとても使えない.僕は培地に特殊な色素を含ませてその色素の変化で見る方法を開発したんだ.これはコストが低くて簡便でアフリカでも使えそうだ.その診断方法を確立し実用化まで持って行くために、ここグラスゴーで更に研究を進めるんだ。”
”トリパノソーマ症は難病なんだろ.”
”うん,有効な薬はあるんだけれど,その薬剤は脳の中には浸透しないので,寄生虫が一旦脳に入ってしまうと治療不可能になってしまうんだ.そこが問題.”
”でもそれは薬剤の性質を工夫して血液脳関門を通過させるようにすれば何とかなるんじゃないかな.トリパノソーマ症の患者は沢山いるだろうから製薬会社は躍起になって薬を開発するだろうし.”
”いやそうではないんだ.患者の数は多いと言ってもマラリヤよりはずっと少ないし,患者は主に貧しい地域にしかいないから,苦労して開発しても高く売れないから,残念ながら製薬会社はあまり熱は入れていない.”
”そうかそれは困った事だね.君は薬を開発する気はないのかい。”
”したいのは山々だけど、そこまでやっている時間がないんだ。グラスゴーにいられるのは3ヵ月だけだし”
”3ヵ月とはまた随分短いんだね.”
”そう,お金もないし。奨学金が取れなかったんだ。スイスに女房も残してきているしね.”
”スイスに戻っても研究をつづけるのかい”
”いやスイスにはもどらない.それに,何か社会的に貢献する事をしなくちゃ.3ヵ月後には夫婦で西アフリカに行ってそこでトリパノソーマ症の治療に携わることになっている”
”研究もつづけるんだろう?”
”いや研究は出来ないよ.設備もお金も余裕もない.治療に専念するんだ”
彼の話しぶりは淡々としていたが,使命感と義務感がひしひしと感じられた.国際社会に貢献するというのはこういうことなんだろう.僕は彼のように立派な仕事はできないけれど,彼の話を聞いて,世の中にはこういう覚悟で仕事をしている奴がいるんだということがわかっただけでも大きな収穫だった.