コラム: 池田正行の「氾濫する思考停止のワナ」

医事裁判における天動説−トンデモ判決が生まれる構造

2011/10/28

 現在、「医師の判断が常に100%正しい」と信じている人はいないでしょう。しかしかつて、この種の信仰が、あたかも真実のように取り扱われていた時代がありました。

  「命を預けているお医者様に逆らうとひどい仕返しをされる。だから、お医者様の無謬性を信じていた方が幸せに生きていける」。かつて多くの人がそう信じて いたのです。それは、地動説を声高に主張して教会とあえて事を構えずとも、天動説を信じて(いるふりをして)幸せに生きていこうとしていた人々の姿とも重 なります。

 診療における医師の無謬性が幻なのと同様、裁判一般における裁判官の無謬性も“信仰の力”なしでは維持できません。ましてや診療の適否に対する裁判官の無謬性を心底から信じられる人はいないでしょう。

  私は若い頃、大学医局の症例検討会で、教授と助教授との間で診断に関する見解が大きく対立する光景をしばしば見てきました。二人とも当代きっての臨床家と いわれていたぐらいですから、当時の私にはどちらが正しいか全く分かりませんでしたし、後になってみるとどちらも間違っていたなんてこともありました。同 様の経験をお持ちの方も多いと思います。

 医事裁判においては、対立する双方の陣営からそれぞれの鑑定医が意見を提出します。そもそも双方が真っ向から対立しているが故に裁判になるのですから、当然鑑定も真っ向から対立します。その鑑定結果を参考としながら、裁判官はどちらが正しいか判断を強いられるのです。

  医師が医療に関してのみ―それも多くの場合、自分の専門領域で−判断を下せばいいのに比べると、裁判官は辛い立場にあるといわざるを得ません。決して裁判 官個人を責めるわけにはいきませんが、このような構造的な問題を抱えている以上、“トンデモ判決”といわれる誤判が医事裁判で多発するのは当然です。
 
 近年、「医学鑑定を医療側が十分検証すべき」という議論が活発になっていますが1)、個人的には今後、医療が関わる刑事裁判でも利益相反問題のない複数の医師による検証が必須だと考えています。実際、民事医療訴訟においては、既に千葉地方裁判所では複数鑑定が、東京地方裁判所ではカンファレンス方式の鑑定が行われています2)

医師が声を上げなかった仙台筋弛緩剤中毒“事件”
 私は2011年1月5日付けの本サイト上で、いわゆる「仙台筋弛緩剤中毒“事件”」には事件性がなく、診断が誤っていると指摘しました(関連記事:2011.1.5「『筋弛緩剤中毒事件』は無罪だと断言できる根拠」)。上記の構造的問題を抱えていたのは、この裁判も同じです。真っ向から対立する検察と弁護側双方の麻酔科医(ともに大学教授)のどちらの診断が正しいか、臨床を全く知らない裁判官が判断を強いられたのです。

 さらに、この裁判には特有の問題がありました。どういうわけか医学鑑定が行われなかったのです。そもそも説明責任を果たすための鑑定が行われず、文書が残されていなければ、どんないい加減な主張でもその検証は困難です。

  判決の中で診断に関わる部分の根拠となっているのは、当該患者を直接診療していない2人の麻酔科教授の法廷での証言記録、つまり検察官や弁護人との問答の 口述筆記のみでした。証言は鑑定とは異なり、一般市民向けの解説に過ぎませんから、証拠保全した診療録を二人がそれぞれどこまで読み込んで、どこをどう解 釈して証言したのかも分かりません。証言のみでは後からの検証に耐えられないのです。私は以上のような問題点を踏まえて、証言記録と併せて、最も重要な原 資料である診療録を検証しました。そして誤診を確信したのです。

大野病院“事件”であれほど多くの医師が声を上げたにも関わらず、同じ医事刑事裁判である仙台筋弛緩剤中毒“事件”では、利益相反のないはずの医師までもが皆沈黙を守っています。ケアネットのサイト上で、多くの医師が私と同じ診断をしたと回答したアンケートがあるにも関わらず、です。これは警察、もしくは検察・裁判所といった司法への恐怖感ゆえと考えるのは的外れでしょうか。

  私たち医師は現行の医事裁判の欠陥についても、明日はわが身のこととしてよく理解しています。自分もいつ訴えられ、法廷に引きずり出されるかわからない。 もし、司法に刃向かうようなことをしていたら、その時に自分もひどい仕返しをされるに違いない。そう思っているのです。かつて多くの患者が、「医師に刃向 かうとひどい仕返しをされる」と思っていたように。

 それでも大野病院“事件”の時は、被告が自分と同じ医師だったため当事者意識が生まれ、声を上げる医師がどんどん増えていきました。しかし、仙台の“事件”は違います。“犯人”とされたのは准看護師です。医師の心の中に同情は起きても共感は生じません。

  私が誤診と確信したのは無期懲役の判決が確定した後、収監されてからのことでした。つまり、改めて事実関係を争うなら大野病院“事件”とは比べものになら ないほど厚い再審の壁を突き破らなくてはなりません。誤診を認めても動いていない医師は、たった1人で警察・検察・裁判所を向こうに回している私のお手並 みを拝見しようと考えているのかもしれません。

患者の犠牲の上に成り立つ司法の無謬性信仰
 もっとも、この“事件”について自分の意見書をホームページ上で公開し3)、英文の症例報告4)まで発表してきた私の関心は、既に冤罪問題とは別のところに移っています。それは筋弛緩剤中毒と誤診されたままの患者さんたちのことです。

 本来の診断が否定され、全て筋弛緩剤中毒後遺症とされてしまったのですから、適切な治療が受けられません。“事件”とされてから10年以上が経過しても、裁判の無謬性信仰を維持するためにいまだに患者さんたちが犠牲になっているのです。
そ の中の一人の患者さんについて、私はミトコンドリア病だと考えています。ミトコンドリア病は難病とはいえ、新薬候補が次々と出現しています。しかし、筋弛 緩剤中毒と診断されたままの患者さんは治験に参加することはできませんし、未承認薬の個人輸入さえもできないまま、苦しんでおられます。仲間の身を守るた めには声をあげても、苦しむ患者さんのためには声をあげない。医師のプロフェッショナリズムとは何か、疑問に感じてしまうのは私だけでしょうか?

<参考文献>
1.「医学鑑定はどこまで検証されているのか」CBNews 2011.8.5 http://www.cabrain.net/news/article/newsId/35265.html
2.森田茂穂 医事裁判と鑑定 日本麻酔科学会 第53回学術集会 http://nsa.kpu-m.ac.jp/kako/masui53/docs/session/B03.html
3.司法事故を考える http://square.umin.ac.jp/massie-tmd/morienzai.html
4. Ikeda M. Fulminant form of mitochondrial myopathy, encephalopathy, lactic acidosis, and stroke-like episodes: A diagnostic challenge. J Med Cases 2011;2:87-90.

【補足】
2011.11.1に以下の変更をしました。
・第7パラグラフ に「個人的には今後、利益相反問題のない複数の医師による検証が必須だと考えています。実際、医事裁判においては、…」との文章がありましたが、現在、医 療鑑定は民事裁判でのみ行われています。「誤解を生じる」との指摘がありましたので、下記のように変更いたしました。「個人的には今後、医療が関わる刑事 裁判でも利益相反問題のない複数の医師による検証が必須だと考えています。実際、民事医療訴訟においては、…」

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