今は少数派

宇宙に長い間いると重力がないために骨粗鬆症が進む。体を動かすのも力が要らないので、筋肉もしぼんでいく。宇宙船は中にいる人間が重力のある環境で生きていく力を奪う.

形の上では会社を守っているように見える新聞の宅配制度は、お金を払ってくれるお客さんは誰なのかを社員の誰もが意識しなくなるという意味で、会社の屋台骨を骨抜きにしている。さらに再販制度と軽減税率適用を生命維持装置と考えてる新聞社は,宇宙船同様に,社員から自活していく能力を奪い続ける.

当然,そんな会社にいたら、飼い殺し/ゆでガエルになるだけだと感じる.では新聞記者がフリーランスで生きていけるかというと、上記の理由で不可能である。読み手が何を求めているかを考えたことのない人間が、フリーランスなんてできるわけがない。新聞社の外で生きていけない人間が,新聞社の外の人間に向けて書いた記事が,どれほどの影響を持つだろうか.

新聞社が年末に「激動の○○年」と報じない年はない.新聞の影響力だけはその激動の影響を受けないのだろうか.新聞の影響力の減弱は発行部数の減少スピードと同じなのだろうか.

フリーランスでやっていけるのは、前田恒彦さんのような、独創的なコンテンツの持ち主だけだろうが、彼の発信するメッセージを味わえるだけのリテラシーを持っている集団が、まだまだマイノリティなところが問題のように見える。前田さんの発言と全国紙の三面記事では後者の方が,まだまだ圧倒的に影響力を持っているように見える.しかし,本当にそうだろうか?そもそも影響力を定量する方法がない以上,比較は無意味ではないのか?前田さんのメルマガの購読者数と,朝日新聞の発行部数を比較して何がわかるというのだろうか?

この点に関しては、堀江貴文/高城剛の対談で、どの階層に働きかけるかという問題が論じられている。堀江さんは「マス志向で(行きたい)」、高城さんは「マスを切っていかないと、面白くならない」と主張して、一見対立しているように見えるが、実は高木さんもマス志向ではないかと思う。というのは、高城さんも「ピラミッドの上位3%に尖った話をすれば→(その上位3%が自分たちで面白い仕事をすることによって結果的にマスが影響され動いていく)」と行間で語っているように感じられるからだ。

一方、堀江さんが始めからマスを対象にして情報発信をしていたかというと必ずしもそうではない.彼は塀の中というマイノリティの極みの環境から、『刑務所なう』を出していた。塀の外に出てからは,代議士の質問に対して「検察は焼け太り」と明言した。いずれの行動も「ピラミッドの上位3%に向けた尖った話」に他ならない.堀江・高城は,ともにマスを志向している.ただ,その手法が表面的に異なっているに過ぎない.そう考えると前田恒彦さんが堀江さんなみのサロンの主になる日もそんなに遠くない。いや,塀の中に「入れる立場」と「入れられる立場」の両方を経験している点を考えただけでも,もし前田さんがサロンを持てば,堀江さんを凌ぐ影響力を持つのではないかとさえ思える.

私自身、北陵クリニック事件の情宣活動で試行錯誤を繰り返す中でいろいろ考えた。「マス」と「ピラミッドの上位3%」って、決して固定した境界線のあるものではないし、見えないチャネル・風向きの変化を通して両者間の対話はいくらでも行われうる。少なくとも自分はそう考えて楽しく仕事がしたい。

たとえば、「ピラミッドの上位3%」向けの媒体である日経メディカルオンラインの記事を執筆しながら、マスの底辺によどんでいる(^^;)、国民救援会の爺様・おばさま方向けのパワーポイントを作成するというように。

実際、彼等の前で、「検察首脳が三木武夫の尻を嘗めた結果がロッキード事件」と大見得を切った時の彼等の呆然とした顔を見るのは楽しいし、一番手強い彼等が変われば、あとの人達は自然と変わって行くと考えるのも楽しい。

今からそうやって、複数のベクトルと、各ベクトルの先にある各集団を意識しながら、検察官と裁判官の医学教育を進めていけば、来るべき転換点の時に、自分でも驚くほどあっさりと,検察官・裁判官の医学教育の業績が評価されて,検事総長と最高裁長官の両方から菓子折が届くんじゃないか。そう夢想するのも、これまたとっても楽しい作業である。

一般市民としての医師と法

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