行政パターナリズムへの両価性

(ある大学先輩とのやりとりから)

7月から勤めるところは、重度知的障害者施設であり、新薬開発とは全く関係ありません。創設以来、おそらく治験は一度もやっていないと思います。また、機構の専門委員として残ることもありません。薬事・開発からは足を洗えますので、今より発言はずっと自由にできます。

> 小生が医学部へいこうと方向転換したとき、ライシャワーさんに会う機会がありましたが、どうして個々の患者の治療に携わるのか、きり
> がないのではないか、もっと社会的な仕事をするほうが意義が大きいのではないかといわれたことがあります。今でも結論は出ていません
> 。だから週1回診療しているのかもしれません。

”きりがない”ところには自分の存在価値を見いだしやすいし、安住できます。一方、社会的な仕事は、より厳しいNobles obligeを求められる。そしてハードエンドポイントは、自分をお払い箱にすることです。つまり、教育して人を育て、社会的な仕事をする組織を、より頑健にして、自分がいなくなっても組織が動くようにしていかねばならない。さらに、その組織が誤った方向に行かないように常に監視していかねばならない。そういう崇高な仕事・組織と、平凡な自分との折り合いをどうつけるか。短時間で答えの出るような問題ではないので、戻った現場でゆっくり考えます。

上記の問題の手前に、行政のパターナリズムと職業人の自律性との折り合いの問題も残っています。具体的には、次のような問題です。

現場を知らない当局の規制に対して、臨床医は、なぜそんなくだらないことをやかましく言うのか、自分達の自律性に任せろと言う一方、何か問題が起こると、厚労省の不作為だ怠慢だと役所を非難するばかりで、自分達がプロフェッショナルとしてその問題を引き起こしてしまった責任とか、あるいは、その問題を解決するために自分達に何ができるかを全く議論しない。薬害問題のほとんどがこういう形をとっている

一方で、自分達のおもちゃを使いたい時はパターナリズムを拒否し、もう一方でおもちゃが故障したり暴走したりするとパターナリズムを期待する。極めて子供じみた行動なのですが、その滑稽さに職業人集団が気づかないふりをしているばかりか、役所の方もその滑稽さを指摘して反撃せずに叩かれ続けている不思議。この不思議の解明も、大分労力を必要とするでしょうから、PMDAを離れてからゆっくり考えます。

目次へ戻る