まともな鑑定ができなかった理由

ベクロニウムの検出法ですが、今、世界標準となっている方法は、2002-2003年に確立したと考えられています。
J Anal Toxicol. 2002 Jan-Feb;26(1):29-34.(弁護側意見書で引用)
J Chromatogr B Analyt Technol Biomed Life Sci. 2003 Jun5;789(1):107-13.(検察側意見書で引用)

鑑定が行われたのが2000年でしたから、世界標準法によるまともな鑑定は不可能だったのです。

上記の世界標準法は、下記の報告での原法を改善したもので、やはり検察側、弁護側双方の意見書でも引用されています。下記の文献は2000年の9月publishですから、大阪科捜研に一番好意的(?)に考えれば、下記の原法は使えたはずということになるかもしれませんが、実際にはそれも不可能だったことは、実験室での測定系のセットアップに関わったことのある人ならすぐわかります。だからこそ、大阪科捜研は世界標準の方法は諦めて、他の研究室ではとても採用してもらえないような方法で鑑定せざるを得なかったのです。

Gutteck-Amsler U, Rentsch KM. Quantification of the aminosteroidal non-depolarizing neuromuscular blocking agents rocuronium and vecuronium in plasma with liquid chromatography-tandem mass spectroscopy.Clin Chem. 2000 Sep;46(9):1413-4. 

論文が出た直後から、この測定系を自分の研究室で大至急セットアップを開始というのは現実には不可能です。まず、この論文自体がたった2ページの短報です。液体クロマトグラフィーにタンデムのMSを組み合わせる測定系を実際に組み立てるときの詳細は、論文にはすべて書き込めません。ですから別のラボでこの測定系をセットアップするには、試行錯誤の連続で、最低半年はかかります。

実際的な問題として、公的研究機関の予算の問題もあります。年度途中でいきなり新しい機械を購入するための予算などありません。どんなに研究熱心なラボでも、「来年度の研究費申請に」と考えるのが精一杯です。

もし、機器装置が揃ってもそれからが大変です。培養上清のようなin vitroの試料ならば、測定系の邪魔をする物質が少なく、同定しやすいのですが、生体試料となりますと、何が入っているのかわかりません。ですから、測定系のバリデーションは本当に苦労します。特にヒトは、ラットやマウスのように一様ではなく、個人差が大きいので、大変苦労します。

私は大学院生時代に、マウスの脳内のアミンを高速液体クロマトグラフィー(HPLC)で定量していました。ある時、研究室長と話をしていて、軽い気持ちでヒトの血中のアミンを定量したいと話したら、「ヒト試料専用に機械をもう一台余計に購入して、測定条件をゼロから設定し直して、安定して測定できるようにセットアップが完了するまで1年を棒に振る覚悟があるか?」と言われ、すぐ提案を引っ込めました。

実際マウスの脳を用いた時でさえ、しばしば原因不明の妨害ピークが出たり、基線が安定しなかったりで、HPLCの御機嫌を取るのに随分と苦労したものです。

さらに、法医学の測定の場合には、特有の悪条件があります。試料の保存条件が劣悪なのです。室温や普通の冷蔵庫で長時間放置されているのはまだ良い方で、夏のかんかん照りの下で野ざらしになった試料を測定しなければならないなんてこともざらにある。そうなると目的とする物質が分解変性していないなんて誰も保証できないのです。今回だって、ゴミ箱に捨てられた点滴チューブや瓶の中にあった液体を採取して(きたことになって)いるわけです。

その上、今回は患者さんです。持っている病気によって、血液中や尿中に出現する未知の内因性物質や、飲んでいる薬の代謝産物が、思わぬ形で測定を妨害する可能性だってあるのです。

そういった何重にも重なる悪条件下で、結局彼らは、それまでに自分たちで手探りで組み立てた「独自の方法」(1999年に日本法医中毒学会で発表はしているが結局論文にはなっていない。しかも、他のどこのラボでも採用されていない方法)しかなく、自分たちの方法でも実験条件を検討する十分な時間さえ与えられずに、とにかく結果を出さざるを得ない立場に追い込まれて、パニックになり、後でどうにも説明できない報告を出してしまったのです。

司法事故を考える