内的偶像破壊

MRIを含めて,どんな検査も決して人間を越えられない.2015/11/13の若手医師セミナーの中で急性虚血性脳卒中に対するMRIの感度を論じたランセットの論文(Lancet 2007;369:293)に触れたが,その論文の中でもgold standardは臨床診断だった.MRIが患者を救うのも殺すのも,MRIの出した結果を判断する人間の判断にかかかっている。

CTでは見えないものが見えるMRIは「魅力的」かもしれない。しかし、それは誰にとってのどういう「魅力」なのか?Seldingerが大腿 動脈アプローチで初めて血管造影を行なったのが1953年。星の王子様が書かれたのはそれより10年も前であることは、「大切なものは目に見えない」という 言葉の価値が、画像診断が発達するほど高まっていることを意味する。

セミナーの趣旨は,画像診断のベネフィットばかりでなく,リスクも踏まえて,リスク・ベネフィットバランスの最適化を心がけ,画像に使われずに,画 像を使うようにしようということだった.というのも、忙しい仕事の合間を縫ってわざわざ1時間半もかけてストリーミングを聴いてくれるような聴講者は「MRI賛歌」なんかもう聞き飽きたと思っているに違いない。そう考え たからだ。それだけに、いや、まだまだ聴き足りないという要望が質問の形で寄せられたことに驚かされた。

MRI、検察、教授の椅子、トップジャーナル・・・・世の中の多数派が信仰する権威、名声を自分も信仰することの「安心感」。それは好むと好まざるとにかかわらず、社会生活を営む人間の内部に常に発生する。そうして形成された内的偶像が、しばしばいつの間にか揺るぎの無い行動規範になってしまう。この内的偶像形成はほとんどの場合、意識上にある科学的判断とは独立して、意識下で進行する。その結果、内的偶像信仰の力は、しばしば科学的判断を、時には良識をも凌駕することになる。たとえば第三帝国の興亡は、その総統を対象とした市民一人一人の内的偶像形成と破壊の過程と捉えることができる。

そこまで大規模で集団的でなくとも、内的偶像信仰は我々の人生のあらゆる場面で日常的に生じる。医療の分野ではMRIのような高価な診療機器が内的偶像信仰の対象となりやすい。私はMRIを対象とした内的偶像形成を「MR愛」と呼んできた。MR愛は信仰性ゆえに、しばしば科学的判断を超越して医師を騙し患者に悪い結果をもたらす。セミナーでは、私はそのMR愛が成せる悪行の典型例として、陳旧性の多発性小梗塞巣を意識障害の原因と取り違えて低血糖を見逃す事例を紹介したわけだが、それでも前述のように「質問」の形で私の指摘に対する疑義が寄せられたので、丁寧に回答した

内的偶像破壊作業に対する抵抗感は、人によって差がある。誰もが私のように内的偶像破壊を趣味(もう少し体の良い表現では成長への有力な手段の一つ)と捉えられるとは限らない。むしろ、それまで依存してきた内的偶像が失われる不安感や、それまで内的偶像に従属して行ってきた診療への後ろめたさを予期して、意識下にある内的偶像から「俺を破壊すると俺に依存してきたお前自身も崩壊するぞ。それでもいいのか!」と恫喝されるまま、発言し、行動する医師は普遍的な存在である。それは、医師に向かって常に「名医であれ、神の手であれ」と要求して止まない「内なる審判員」と同様に、非常に厄介な存在である。だとすれば、内的偶像に対する対処法も自ずから明らかとなってくる。→謝罪を求めてくる「奴」

自分の外で起こるパラダイムシフトなんてどうでもいい。問題は自分の内なるパラダイムシフトである。その面白さに気づかずして何の人生ぞ。

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