司法の無謬性信仰:天動説との類似性において

「自分は正しい」という主張の扱いについて、法曹者と科学者(そして科学者の立場を理解する医療者)の間には千里の逕庭があります。その「千里の逕庭」とは、自分たちの主張が正しいかどうかを検証するために審査(peer reviewとaudit外部審査の両方を含む)を受ける用意があるかどうかです。

当事者意識を踏まえた表現で言い換えると、自分は神であるとの妄想に一生どっぷり浸かったまま棺桶に入るのが正統派の警察官・検察官・裁判官、いつ如何なる場面でも過ちを犯すリスクを抱えた人間であると自覚できるのが(真の意味での)科学者というわけです。

北陵クリニック「事件」の判決文を読んでみると、裁判は科学ではなく、信仰だとわかります。具体的な点については、これまで散々説明してきましたから、ここでは述べません。

コペルニクスは地動説を主張する自著『天体の回転について』の販売を、1543年に死期を迎えるまで許しませんでした。大変なことになるとわかっていたからです。彼自身は完成した自著を見られなかったと言われるほどです。それほどローマ教皇庁の権力と迫害を恐れていたのです。

一方、コペルニクスと同時代人のマルチン・ルターが1517年に、ヴィッテンベルク大学教会の扉(掲示板)に張り出した、『95ヶ条の論題』は、たった一枚のビラでした。今で言えばツイッターみたいなもので、それがあとで自分の命を危うくするどころか、何世紀にもわたって、世界各地で、「炎上」し、血で血を洗う争いの原因になるとは思ってもいなかったのです。

今回の再審申し立ては単に冤罪を晴らすだけに到底留まらないでしょう。司法の無謬性信仰が崩壊し、医療と同様に、神として医療を裁いていた司法も、逆に医療側から、そして一般市民からも審査を受けるようにならざるを得ないでしょう。ただ、その改革活動が、地動説の普及になるのか、宗教闘争になるのか、また、何十年、あるいは何百年かかるのかわかりません。

医療に対する無謬性信仰が、たった数十年で崩壊したのには訳があります。医学は自らが「発達・進歩した」と誇り、あたかも不老不死を実現するかのような幻影をまき散らしたからです。その、根拠無き傲慢さが自分の首を絞めました。しかし、司法は違います。司法は自らを「発達・進歩した」とは誇りません。逆に旧態依然であることに自己の存在意義を認めます。人々の幸せに貢献するなどという嘘八百を並べたりもしません。原罪を負った罪深き人間に対し、常に贖罪を要求する唯一無二の絶対神として君臨します。

さらに、世の中のほとんどの人は、裁判所とも刑務所とも縁がなくて死んでいくのです。冤罪など、一生他人事です。司法の無謬性信仰を守っていた方が、心穏やかに暮らせるのです。

コペルニクスが地動説を発表してから470年が経っても、地動説を自覚しないと飯を食っていけない人は世界中でもほんの一握りです。ほとんどの人々は一生天動説を信奉して生きても、何の不自由もありません。司法の無謬性信仰も、天動説と全く同じ運命を辿らないと、誰が断言できましょう。

司法事故を考える