ハローワーク再び

こんにちは,厚労省”と,”四十七歳の抵抗”から,もう4年もたってしまった.臨床医のキャリアパスが用意されていない職場で,5年以上居座ろうという気はさらさらなかったが,さりとて,霞ヶ関の後の行き場所を用意していたわけではない.だから,霞ヶ関から移る場所よりも,辞める時期を先に決めてしまってからの転職先探しは苦労の連続だった.

中高年の再就職が難しいことは,すでに47歳だった4年前にも経験済みだった.新潟を離れると決めたはいいものの,8つの製薬会社の面接を受けながら,ことごとく失敗した挙句に,医師免許を持ってさえいれば誰でも構わないと言ってくれた霞ヶ関に拾ってもらえたのは,全くの偶然だった.

それから4年たった今回は,当然のことながら,さらに悪条件が重なった.まず,年齢である.今回は五十の大台を越えている.通常,前線の実働部隊としては期待されない年齢である.五十過ぎの中途採用なんて,雇う方にとっては,悪夢以前の空想科学物語である.1980年代までならば,年功序列で頭も体も要らない管理職の椅子に据えて書類にハンコを押させていればよかったが,今時,そんな悠長なことを言っていられる組織はない.そもそも,各職場での平均在籍期間が2年と,あちらこちらを転々としてきた私には,年功序列を適用できるような継続的な経歴が皆無だった.

もちろん,国民の皆様が天下りはけしからんとおっしゃるので,製薬会社には就職できない.4年間の新薬審査の経験を民間で生かすことができないのだ.臨床試験・臨床研究のノウハウと薬事の実務については,日本の臨床医の中で5本の指に入ると自分で勝手に決めたランキング表も虚しかった.日本のFDAの臨床トップの末路がフリーターでは,治験活性化が聞いて呆れると心の中で悪態をつきながらも,

”仕事がないとしたら,そのレベルの技術しかなかったということですよ”
今野工業株式会社 取締役 今野辰裕.吉岡 忍 ”ニッポンの心意気” ちくまプリマー新書 P80より)

この言葉が何回も頭をかすめ,必死になって伝手を求めても,BMJの論文も,BSE評論家として農林水産大臣室に乗り込んだ経歴も,医薬品医療機器総合機構 新薬審査第二部審査役の名刺も,役立つどころか全て邪魔になった.池田先生のような御高名な方に相応しい職位はございませんと,面接を受けようとした先々で,体よく門前払いを喰らってしまうのだった.

病理,コンサル会社,損保会社,Phase 1ユニット・・・・ヒラでも構わない,面白く仕事をしたいだけだと食い下がって,”個人的にはお気持ちはよくわかりますが”との同情的なコメントをようやく引き出したとしても,次の瞬間に,”申し訳ありませんが,組織として池田先生にオファーできるポジションはありません”との説明の前には,すごすご引き下がらざるを得なかった.そう,そもそも会ってもらっただけでもありがたく思わねばならないのだ.

そんなわけで,一時はフリーターを覚悟したが,ぎりぎりになって,霞ヶ関以前に長くやっていた,知的障害者の生活支援の仕事を世話してくれる方が現れた時は,地獄で仏の思いだった.

再就職で苦労するのがわかっていながら,またなぜ役所を辞めようとしたのか という素朴な疑問に対する答えは,それはそれは長い話になるので,これからおいおい話していくことにする.

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