自因感――対人ストレスの要――

このサイトでは、
● 互いに危害も損失もない状況だけをあつかいます。
● 相手に対して嫌な気持ちになっている(ストレスを感じている)状態を ☹ とあらわします。[相手が☹]とは、相手がこちら(自分)に対して嫌な気持ちになっていることを意味します。

以下で わたしたちが 相手の☹に対して☹になる しくみを論理的に考えていきましょう。

自因感

ヒトなどの動物は、さまざまな現象に対して 「それが自分の影響で起きたのかどうか」 を感じとりながら生きています。
例1 ある日、リスが木の周りを走っていると木の実が落ちてきました。リスは 「自分が走ったから木の実が落ちたのだ」と思いました。そこで翌日も木の周りを走ってみましたが、木の実は落ちてきません。リスは 「こんなに走ったのに、何でだ!!」と嘆きました。走るのをやめてしばらくすると風が吹き、木の実が落ちてきました。そこでリスは気づきました。「そういえば前に木の実が落ちたときも風が吹いていたな。どうやら木の実は風で落ちることが多いようだ。自分の行動は関係なかったのだ」と。
例2 昔の人たちは、「お供えをしたから 嵐がこなかった」とか 「お供えをしたのに 嵐がくるなんて!! 何が足りないのだろう」などと考えました。つまり、自分(たち)の影響で天気が変わると感じ(信じ)ていたわけです。天気の科学的な原因を知った わたしたちは、そのように感じることは少ないですよね。

● ある現象に対して 「それは自分の影響で起きる現象だ (だから それが起きるかは自分しだいだ)」と感じる――この感覚を 自因感 と呼ぶことにしましょう。
自因感がない とは、「それは自分によらず独立して起きる現象だ (自分がどうであるかに関係なくそれは起きるのだ)」と感じる状態です。

自因感がある証 (自因感のあらわれ)

証1 「自分のせいだ」・「自分の何が?」
証2 「自分は○○なのに!!
証3 「△△される筋合いはない!! 理不尽だ!!

3は 2がなければ生じませんよね。
自因感がなければ(例えば 天気に対しては) 1・2・3は生じないことをご確認ください。

ここで、自因感の証2・3について考えてみましょう。
 (1) 「自分の影響でその現象が起きたのだとすると、つじつまが合わないぞ」
 (2) 「自分がどうであるかに関係なく その現象は起きるのだな」
論理的に考えると、(1)と判断したならば(2)と結論づける以外ないですよね。
ところが わたしたちは しばしば、(1)と判断したのに(2)にたどりつけません: 自因感の証2・3がこれにあたります。
こうなってしまうのは、「自分の影響でその現象は起きる」という前提に立っていること(自因感)を自覚できていないからですね。自因感について知ると、証2・3のタイプの自因感はなくなっていくでしょう。

相手の☹に対して☹になる しくみ:A&B&C

● 相手の☹に対して 自因感の証1・2・3の思いが1つもなければ ☹になりませんよね。このことから、相手の☹に対して☹になるときには必ず自因感があることがわかります。
● とはいえ、相手の☹に対する自因感だけでは ☹になりません。「自分が相手を☹にさせた」と感じても、「それでいい」とか「しめしめ」と思ったら、☹になりませんからね。☹になるためには 「自分は相手を☹にさせたくない」という思いも必ず存在します。
● [☹な相手に対して☹になる]を正確に言いなおすと、[「相手は☹だ」と思って☹になる]です。相手が実際には☹でないときに 自分が「相手は☹だ」と思うこともあれば、相手が実際には☹なのに 自分がそれに気づかないこともありますからね。

以上より、(相手の☹に対して)☹になるには、次のA,B,Cがそろうこと(A&B&C)が必要です。
 A = 「相手は☹だ」
 B = 相手の☹に対する自因感
 C = 「自分は相手を☹にさせたくない」

一方、A&B&Cならば 嫌な気持ち(ストレス)になりますよね。

よって、A&B&Cは (相手の☹に対して)☹になるための必要十分条件です。
つまり、(相手の☹に対して)☹になる という現象の実体(しくみ)は A&B&Cです。

自因感がなければ起きない現象

わたしたちは たいていBとCをもっていますが、BとCがあると 相手の☹が脅威となります。Aが加わるとA&B&Cが完成して☹になってしまうからです。

【相手の☹に対して(相手の☹を警戒して)☹になる例】
・怒られて怒る・怒られて傷つく・嫌われて落ち込む・泣かれて怒る・ため息や舌打ちをされると嫌な気持ちになる。自因感がなければ、相手からどんな感情を向けられても おだやかですよね。
・期待した反応が返ってこなくて 嫌われたように感じたときに、傷ついたり怒る。その結果 暴言をはいたり無視をするというのが、虐待や 一部のいじめの しくみだと考えられます。
・見下される・バカにされる・邪険にされると、傷ついたり怒る。自因感がなければ、「見下したいのだな」と思うだけです。
・意見を言われて 批判された(嫌われた・怒られた)ように感じたときに、怒って反発する(自分が正しいと主張したがる)。
・会話で聞き返されて、自分の伝え方が悪いのだと責められたように感じたときに、傷ついたり怒る。
・失望されたり怒られるのを恐れて 人に相談やお願いをできない。

【おだやかでない人が苦手な人は、おだやかでない人だと思われやすい】
相手の☹が脅威だと、「相手が☹になったら嫌だな」と警戒・緊張して表情がこわばったり、「☹になるんじゃないぞ」と相手を威圧したり、相手の☹に対して 「ひどい」と抗議したり しがちです。
このような人は、相手からは「おだやかでない人だ (嫌だなあ)」と思われがちですよね。
要は、BとCがある限り、人は互いに 相手の☹を警戒して☹になるわけです。

【相手の☹に対して(相手の☹を警戒して)☹になるのを繰り返すことで形成される性質】
・人からどう思われるかを恐れる・人(評価)に依存する・過剰な承認欲求・人に○○すべきだと求める・人をコントロールしようとする。
・自己肯定感が低い: 相手の☹に対して自責の念にかられるのをくりかえした結果です。
・自分で苦しむほどの完璧主義 (絶対に相手が☹にならないように)
・死にたくなる。

利他性の観点から

道ですれ違うときに自分からは道をゆずりたくない、という人は多いのではないでしょうか。なぜ ゆずりたくないのか、論理的に考えてみましょう。

まず、次の3つを嫌な気持ちになる順に並べてみてください。
 ① 意地悪したら にらまれた。
 ② 何もしなくて にらまれた。
 ③ 親切にしたら にらまれた。

③は いかにも相手の性質や機嫌に原因がありそうですよね。そう感じられたら(自因感がなければ)気楽です。
しかし BとCがあると、③のときに 「最善を尽くしても自分は人を嫌な気持ちにさせてしまう」と感じられて絶望します。そのため、「自分は親切にしたのに 何でだ!!」と激怒したり、③を恐れて親切にふるまえなくなりますよね。②でさえ 「自分は何もしてないのに 何でだ!!」と苦しむので、そうならないために意地悪をするようになります。BとCがあると、にらまれた場合の傷つきや怒りは ①<②<③の順に大きくなりますからね。

以上が、わたしたちが(損失はないのに)利他的に行動したがらない からくりです。返礼など期待せずに親切にしましょう・利他的に行動すると気持ちいいですよ などと勧められても、どうりで実行するのは難しいわけですね。

ところで、上記③の [親切にされるのを嫌がる]原因もA&B&Cです。
・この場合のAは 「親切にしてくる相手は 内心 嫌そうだ」と感じることです。そう感じる理由は、「人に親切にすることは (③のリスクがある)苦行だ」と思うからです。
・親切にされたときに 「自分が気を遣わせてしまった」とか 「自分は頼んでないのに!!」と思うのは、Bがある証ですね。

なお、[相手におだやか(寛容)であること]も利他的な行動に含めて考えると 次のことが言えます:
利他的な思い(C)はあるのに、「相手が☹になるかも」(A)という不安と自因感(B) と合わさると ☹になってしまう(おだやかでない・寛容でない = 利他的に行動できない)。

人が☹になるときには たいてい自因感がある

人が☹になる状況にはどんなものがあるか考えてみましょう。
一番多いのは、相手の☹に対して(相手の☹を想定して) でしょう。この しくみは前述のとおりA&B&Cで、自因感が関与しています。
次いで多いのは、自分の言う通りにできない相手に対して ではないでしょうか。親が子に・教師が生徒に・上司が部下に、などがあります。自分の言う通りにできない相手に対して 自因感がなければ☹にならないですよね。自分の言う通りにできない相手に対して怒ったり嘆くのは、「自分は何度も言ったのに!! 何でだ!!」(自因感の証2)という思いがあるからです。
一方で、わたしたちは自因感がなくても☹になることがあります。迷惑だ とか 生理的に嫌だ という場合は自因感が関与せずに☹になりますよね。

以上をふまえると、わたしたちは 相手の☹に対して 次のように考えてよいのではないでしょうか。
(自分が相手に迷惑をかけてしまっている可能性も検討した上で) 「(たいていの場合) 相手は自因感があるのだから、相手が☹になるのは もっともだ
このように相手の自因感を思いやると 自因感が弱まりますので、相手の☹に心を痛めずにいられます。

よくある質問

☆ 相手のどんな感情や言動に対しても 自因感はない方がいいの?
次のような場合に自因感がないのは、望ましくないですよね。
・何かをして相手に喜ばれたとき
・知らずに迷惑をかけてしまい相手が困っているとき
自因感は、現象の原因を知ることによって自然に調整されるのがよいでしょう。

☆ 相手の☹に対する自因感(B)は、弱まっても問題ないの?
Bが弱まると、
・A&B&Cが成立しなくなるので、相手の☹に対して☹にならなくなります。
・相手の☹に対して、Cに沿って そっとしておく・やさしくするなど利他的に行動しやすくなります。
・怒られたり嫌われても、相手の☹を背負うことなく、相手の意見だけを冷静に受け止めることができます。

☆ 自因感がなくても 人は☹になるのでは?
「人が☹になる原因はXだ」(Xは任意)と考えてもよいと思います。それならそれで、相手の☹に対しても 「Xが原因なのだな」と考えましょう。すると、相手の☹に対して☹になりにくくなりますよね。このことからも、相手の☹に対して☹になる原因には自因感が含まれることがわかります。

☆ 相手の☹に対して 「相手がバカだ」と思うのは、自因感がない状態なの?
そもそも、人が☹になるのは バカだからではありませんよね。「相手がバカだ」などと思うのは、相手の☹に対する怒り(自因感がなければ生じない)のはけ口であるとともに、自因感に対抗すべく 「自分の影響ではない」と自分に言い聞かせているのだと思われます。

精神疾患との関係 (仮説)

☆ A&B&Cは 精神疾患の発病や経過に関係がありそうです。
・怒られるのが怖くて上司に相談できずに仕事をかかえこんだ結果 過労になり うつ病になるなど、A&B&Cに起因するケースは多々あります。
・統合失調症の妄想や幻聴のほとんどは 人から悪く思われる(相手が☹である)内容です。
・双極性障害では 対人の傷つきをきっかけに うつになったり、怒りをきっかけに躁になる人もいます。
・強迫症の「自分が念じないと人に不幸が起きてしまう」などの観念は自因感そのものですね。
・摂食障害・依存症・不安症・パーソナリティ障害の症状もA&B&Cがなければ生じないように思われます。

A&B&Cが続いた結果 発病するかしないか・何を発病するか には遺伝や環境が関係しますが、そもそもA&B&Cがなければ 精神疾患はほとんど生じないのかもしれません。

☆ 発達障害と思われがちなケースでも…
・不注意が多くない子でも、そのたびに親や教師が☹になり、それに対して本人が☹になれば、「不注意で支障や苦痛が大きい」と訴えて受診することがあります。
・「あなたは人の気持ちがわからず いつも私を怒らせる」と親から責められるのがつらくて受診するも、自閉症傾向はみられず、というケースの本質は、親(BとCあり)が 子に察してもらえないと冷たくされた(嫌われた)と感じ(A)て ☹になり、それに対して子(BとCあり)が☹になる、という双方のA&B&Cです。

おわりに

わたしたちは ☹の しくみを知らずに、互いに☹になることをくりかえしてきました。

☹の しくみを知らない限り、「相手の☹は相手の問題ですよ」と言われても自因感は弱まりませんよね。
これは、雨ごいをしている昔の人に 「あなたの行動は天気に影響しませんよ」と伝えても全く響かないのと同じです。

☹の しくみを思いやることによって、人は互いに☹にならなくなっていくでしょう。