「お祈りしたのに 嵐がくるなんて!」と昔の人が嘆いたのは、自分が天気に影響すると思っていたからですね。
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怒られる・嫌われる・にらまれる・ため息をつかれる …※
※の時点で嫌な気持ちになっているのは相手だけなのに、自分まで嫌な気持ちになるなんて、謎ですよね。
もう21世紀ですから いいかげん、この謎は解明しましょう。
ある現象に対して 「それは自分の影響で起きる(それが起きるかは自分しだいだ)」 と感じる――この感覚を自因感と呼びましょう。
・数学的に言えば、「それは自分の関数だ(自分が独立変数で それが従属変数だ)」という感覚です。 ・自因感は 自因 という語とは無関係です(意味の関連はありません)。補足
ある現象に対して 「それは自分とは独立して(自分がどうかに関係なく)起きる」と感じる状態です。
「お祈りしたのに嵐がくるなんて!」と嘆くのは、天気に対する自因感があるからです。現代のように天気に対する自因感がなければ 「自分は○○なのに!」なんて思わないですよね。
自分と現象が順接の関係だと感じています。
自分と現象が逆接の関係だと感じています。自因感がなければ、自分と現象が逆接の関係だとは思えません。「その現象は自分の影響で起きる(因果関係がある)」と思っているからこその逆接ですよね (天気の例でご確認ください)。
また、自因感がなければ 「納得できない」とは思わないでしょう。「その現象は 自分とは独立した何らかの仕組みで起きるのだな。だったら ありうることだ」と まあ納得できますからね。
・自因感がなくても 「自分は○○なのに 相手は△△だ」などと冷静に思うことはあります。これは、逆接ではなく対比の「なのに」(「一方」と同義)ですね。 ・逆接タイプの思いは他責的な言動を伴いがちですよね。補足
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以下では 相手に対してネガティブな感情をいだいている(嫌な気持ちになっている/ストレスを感じている)状態を 😠 とあらわします。相手の😠・相手が😠 とは、相手がこちら(自分)に対してネガティブな感情をいだいている(嫌な気持ちになっている/ストレスを感じている)ことを意味します。
プロローグの謎を解明します。
相手の😠に対して😠になる を正確に言い直すと、「相手は😠だ」と思って😠になる です。相手が実際には😠でないのに 自分が「相手は😠だ」と思うこともありますからね。
「相手は😠だ」と思っても、「自分の影響でそうなったわけではない」と感じたら、「相手は嫌な気持ちになって かわいそうだ」と思うか 何とも思わないか のどちらかでしょう (嫌な気持ちにはなりませんよね)。ゆえに、相手の😠に対して嫌な気持ちになるときには必ず自因感があります。
相手の😠に納得しているか で場合分けします。 ・相手の😠に納得していない場合 ・相手の😠に納得している場合 以上より、相手の😠に対して😠になるとしたら必ず自因感があることが分かります([自因感が存在する証]の章を参照)。自因感の有無をたしかめましょう
😠になりえますよね。
😠になることはなさそうですが、唯一の例外は 「自分のせいだ」と納得しているときでしょう。このときは😠になりえますね。
「自分の影響で相手が😠になった」と感じても、「まあいいか」とか 「しめしめ」と思ったら😠になりませんよね。ゆえに、相手の😠に対して😠になるときには必ず 「自分は相手を😠にさせたくない」と思っています。
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A&B&C(A,B,Cがそろう)ならば😠になる (A&B&Cは十分条件である)ことをご確認ください。
A,B,Cの1つでも欠けると😠にならない (A&B&Cは必要条件である)ことをご確認ください。
以上より、A&B&Cは必要十分条件なので、相手の😠に対して😠になるという現象の実体(仕組み)はA&B&Cです。
わたしたちが [相手が😠になること]を恐れて 相手に「😠になるんじゃないぞ!」と圧をかけたりするのは、BとCがあるからこそです。Aが加わると最後、A&B&Cが完成してしまいますからね。補足
・○○されると △△になる (○○と△△ に入るのは… 嫌う・不快に思う・怒る・にらむ・舌打ち・ため息・失望・冷たい態度・無視・落ち込む・泣く などなど)
・「もっと こうした方がいいよ」(ア) → 「わかってるよ!」(イ) → 「何で怒るの!」(ウ)。この会話の(イ)と(ウ)では、「相手は😠だ」と感じて(A)、BとCと合わさり😠になっていますね。また、(ア)も😠になっている可能性があります([人が😠になる仕組み あれこれ]の章の「何でできないんだ!」を参照)。
・待ち合わせに外的要因で遅刻して 怒られたときに、「自分は悪くないのに!怒られる筋合いはない」と思ったら(相手の怒りに対する自因感が強ければ)、口がさけても謝りません。自分がどうこうではなく、待たされた相手の気持ちを思いやると、謝りたくなりますよね。
・失礼な態度をとられたり見下されたりバカにされたときに 腹が立つとしたら自因感があります。自因感がなければ、「相手は見下したいのだな」と思うだけなので ストレスにはなりませんよね。見下されたりバカにされると 「相手はこちら(自分)に対してネガティブな感情をいだいている」と感じますので、腹が立つ仕組みはA&B&Cです。
・「頑張って!」と言われて嫌な気持ちになるとしたら自因感があります(「自分は頑張っているのに!」 「自分は頑張れる体調ではないのに!」など)。相手の期待に応えられないと相手が落胆する(A)ことに対する自因感(B)ですね。
・人の感情(相手の😠)に過敏・人からどう思われるか(相手の😠)を恐れる・過剰な承認欲求([相手が😠でないこと]を求め過ぎる)。
・「相手は😠だ」と思ったときに、「ひどいじゃないか!」と攻撃的になる。(仮説) こうして虐待や一部のいじめが発生します。
・(仮説) 自己肯定感が低い (←相手の😠に対する自責の念が積み重なった結果)。
・(仮説) 自分が苦しむほどの完璧主義 (←絶対に相手が😠にならないように という思いから)。
・(仮説) 死にたくなる (←生きている限り 相手が😠になる可能性から逃れられないから)。
① 親切にしたら 相手が😠になった。
② ただ相手が😠になった。
多くの人にとって ストレスが ①>② となるのはなぜか、考えてみましょう。
相手の😠に対してストレスが生じるためには B&Cが必要です(前章より)。B&Cがあると、②では 「親切にしても 相手を😠にさせてしまうということは、自分の存在自体がよほど悪い影響を及ぼしている」ように感じられます。これは絶望的ですよね。そのためストレスは ①>② となります。BかCがなければ ストレスは ①=②=0 であることをご確認ください。以上より、ストレスが ①>② になる仕組みはA&B&Cです。
①′ 親切にしたら 意地悪された。
②′ ただ意地悪された。
わたしたちは「意地悪してくる相手は😠だ」と感じますので、先ほどと同じく、ストレスが ①′>②′ になる(自分と相手の行動の"利他度"の差が大きいほどストレスになる)仕組みはA&B&Cです。
利他的な行動が空振りに終わると強いストレスになる人(B&Cのある人)は、相手も利他的に行動してくれるか不明な場合、利他的に行動することを恐れますよね。
利他的に行動することを恐れる例
・人とすれ違うときに 自分からは道をゆずりたくない。
・進路をふさいでいる人の背中に 「すみません」と声をかけたくない (ため息をつかれたり嫌な顔をされたら…)。
前章の①の相手のように [親切にされて😠になる]ことは珍しくありません。親切にされて ありがとうと言わない・会釈もしない どころか、😠になるなるなんて…。実はこの [親切にされて😠になる]仕組みもA&B&Cです。
・この場合のAは、「利他的に行動してくる相手は😠だ」と思うことです。「自分だったら利他的に行動するのは(①と①′のリスクゆえ)嫌だ」と思うからですね。
・利他的な行動をされたときに 「気を遣わせてしまった」とか「自分は頼んでない!」と思うのは、Bがある証ですね。
利他的にされると 「利他的に行動しない自分に対する当てつけだ!」と感じるから😠になる、という人もいると思いますが、この仕組みもA&B&Cです。「当てつけをしてくる相手はこちらをとがめている (相手は😠だ)」と感じますので、それで😠になるなら仕組みはA&B&Cですね。補足
利他的な思い(C)があるのに利他的に行動できない(怒るなど)という逆転現象は、自因感(B)なしには起きないことをご確認ください。相手の😠や利他的でない行動に対する自因感がなければ、穏やかでいられるので 相手をとがめず(寛容)、利他的に行動できますよね。
よく言われる 「利他的に行動しましょう」 「利他的に行動すると気持ちいいですよ」 「皆が利他的に行動すれば 良い世の中になるのに…」などの言葉が 絵に描いた餅 なのは、前々章と前章の仕組み(要は自因感)があるからですね。
・よくあるのは A&B&Cでしょう。
・親が子に「何でできないんだ!」と怒るときにも自因感があります(「何度も言ったのに!」 「自分の子なのに」など)。
・自因感がなくても、相手からの危害を恐れて😠になる人もいます。
このように 「相手の性質によって相手は😠になっている」と感じるのは、自因感(B)がない状態ですね。Bがなければ、A&B&Cが成立しないので😠にならず、Cに沿って利他的に行動しやすくなります(相手の😠をとがめずに そっとしておくなど)。
逆に、相手の😠の仕組みを知らないと、「相手の😠は相手の課題だから、背負わなくていいよ」と助言されてもピンときませんよね。これは、天気の仕組みを知らない昔の人に 「お祈りをしても天気に影響しないよ」と助言してもポカンとされるのと同じです。
わたしたちは、自分が怒ったり嫌っているときには 「嫌な気持ちになっているのは こっちの方だ!」と思っています(そういう思いがあふれ出たのが 怒りや嫌悪ですよね)。したがって、怒られたり嫌われた時点で発生している現象は、[相手がこちらに対して嫌な気持ちになっている] と [それを自分が認識した] の2つだけですね。つまり、[怒られたり嫌われた時点で 嫌な気持ちになっているのは相手だけ]というのは純然たる事実です。 なお、一般的に 叱責は嫌悪刺激である(叱責させると反射的に嫌悪感が生じる)とされていますが、これはほとんどの人がB&Cをもっているからこそ ですね。Q1. プロローグの [怒られたり嫌われた時点で 嫌な気持ちになっているのは相手だけ]って、ずいぶん変わった捉え方ですね。その捉え方に基づいて導き出されたA&B&Cは、数ある捉え方の1つに過ぎないですよね?
そのような人もいますが、同時にA&B&Cにもさいなまれていることが多いと思われます。危害が怖いだけなら、「自分のせいだ」とか「自分は悪くないのに!」という思いはわきあがらないでしょう。Q2. 怒られると嫌な気持ちになるのは、危害が想起されて怖いからではないですか?
嫌われたときに 「孤立したらまずいな」と思ったとしても、感情的にならずに冷静に対処を考えられそうです。Q3. 嫌われるとストレスになるのは、嫌われると社会的に孤立して困るからではないですか?
多くの場合、利他的に行動しても時間や労力のコスト(損)など ほとんど生じないでしょう。Q4. 利他的な行動が空振りに終わると強いストレスになるのは、自分だけ利他的に行動すると損をするからではないですか?
[相手が😠にならないこと]を期待し過ぎてしまうのは、相手の😠がストレスになるからですよね。つまり、相手に期待し過ぎるのは、A&B&Cの結果として生じる状態の1つです。Q5. 相手の😠に対して😠になるのは、相手に期待し過ぎているからではないですか?
過敏だとかストレスに脆弱だというのは、「平均的な人に比べて反応が大きい(小さい刺激でも反応する)」と言っているだけで、具体的な仕組みについては全く言及していませんよね。Q6. 相手の😠に対して😠になるのは、過敏だからではないですか?
自尊心や自己肯定感は、[自分が自分をどう思うか]というものです。相手が😠である、というだけでは(BもCもなければ)、[自分が自分をどう思うか]は何も変わりませんよね。自尊心が傷つく(自分はダメな人間だなどと思う)のは、A&B&Cの結果として生じる状態の1つです。Q7. 相手の😠に対して😠になるのは、自尊心が傷つくからではないですか?
結論から言うと、この場合の自尊心が傷つく仕組みもA&B&Cです。相手の発言内容や声のトーンや表情などから 「相手は😠だ」と感じ取り(A)、B&Cと合わさって、「相手を嫌な気持ちにさせてしまう自分が嫌だ(自分はダメだ)」と感じている状態を、わたしたちは自尊心が傷ついたと捉えています。 まず、自分には至らない点がある、と思ったからといって自尊心は傷つかないですよね。至らない点があることを淡々と自認するだけでしょう (自分には至らない点などない!と思う方が無理をしていますよね)。ということは、「あなた ダメだね」と言われて 「相手は『あなたには至らない点がある』と伝えたいのだな」と受け止めたただけならば、「自分もそう思う」にせよ 「自分はそうは思わない」にせよ、自尊心は傷つきませんよね。 ゆえに、もし自尊心が傷つくとしたら、『あなたには至らない点があります』以外の[何か]を相手から感じ取っていることになります。その[何か]は 相手の😠でしょう。 なお、「成績下がったね」のように事実を述べただけのような発言をされた場合でも、わたしたちは 「相手は😠だ」と感じ(A)がちです。これは被害的というわけではなく、実際に多少なりとも相手が😠になっている可能性は十分にあるでしょう。もし相手が😠でなければ、相手はわざわざ「成績下がったね」と言わないか、言うとしても配慮した言い方をするでしょうからね。 何はともあれ、ネガティブなことを言われても A&B&Cがそろわなければ ストレスは生まれず 自尊心が傷つくこともありません。Q8. 「あなた ダメだね」と言われて 「自分はダメだ」と自尊心が傷つくのは、言われたことを真に受けるから、ですよね?
相手の😠に対する自因感はなくても、相手の(感情を除いた)意見や要望は受け止めて反省もできますよね。むしろ、相手の😠に対する自因感がない方が、怒ったり落ち込んだりしないので 適度に反省できます(怒ったら反省できないでしょうし、落ち込んだら過剰に反省し続けてしまうでしょう)。Q9. 相手の😠に対して自因感がないのは 無反省すぎませんか?
自分が😠になっているなら自因感があります([相手の😠に対して😠になる仕組み]の章を参照)。その場合に「相手はバカだ」と思うのは、怒りのはけ口か、自因感に抗っているのでしょう。Q10. 相手の😠に対して 「相手はバカだ」と思うときには 自因感はないですよね?
そのとおりです。相手の😠に対して平気な人は 「相手の😠は相手の性質(性格・機嫌など)によるものだ」とか 「相手が😠になっているのは 蒸し暑いからだ」などと思っていることでしょう(→いずれも 相手の😠に対する自因感はないですね)。他にも、相手の😠に対する自因感(B)はあるけど Cがないから平気、という人もいると考えられます。Q11. [相手が😠になる仕組み]なんて知らなくても 相手の😠に対して平気、という人はいますよね?
相手に喜ばれたときや、知らずに迷惑をかけてしまい相手が困っているときには、自因感がないのは望ましくないですよね。自因感は、現象の仕組みを知ることによって自然に調整されるのがよいでしょう。Q12. 相手のどんな感情や言動に対しても 自因感はない方がいいのですか?
「相手しだいでそういうことも起こりうる」と納得できます。殴られそうなときに逃げたりするのは 「危ない!」と感じるからであって、納得うんぬんではないでしょう。Q13. 例えば 殴られそうになっても 自因感がなければ納得できると言うのですか? それで納得したら危ないですよね?
自因感 = 「それは自分の影響で起きる」 = 「それは自分を反映している」 = 「それは自分を映す鏡だ」 と言いかえられます。すると 相手の自因感は、相手がこちらを鏡だと思って 「自分の何が!」とのぞきこんでいる状態です。相手はこちらではなく相手自身(の鏡像)にフォーカスしていますね。 このような相手を 「自分を映す鏡だ」なんて思えないですよね。 ところで、[自分が相手にいだく自因感]は自然なものと感じてしまいますが、[相手からいだかれる自因感]には違和感をおぼえることができます。例えば、疲れて口数の少ない自分に対して 相手が「わたしの何が不満なのだ!」と怒ったとしたら、「自分は相手を映す鏡ではない。相手によらない独立性をもっているんだ。そんなあたりまえのことに 相手は気づかないのか…」と感じますよね。Q14. [相手がこちらに対していだく自因感]がピンときません。どうイメージするといいですか?
以下の要因が考えられます。Q15. わが子に対して😠になりやすいのはなぜですか?
・わが子の言動や感情に対しては 自因感をいだきやすい。
・わが子に対しては Cも強い。
・[何かをできないわが子に対して他者(学校の先生など)が😠になること]を恐れるがゆえに、「何でできないの!」と子供を責める。
自因感がなくても嫉妬は生じるでしょう(本能的に?)。とはいえ、[相手との埋めがたい差]に対する自因感によって嫉妬は増強します。自因感がなければ 「相手がすごい」とか「相手は恵まれている」などと捉えますが、自因感が強いと 「自分は何で!」とイライラしたり落ち込みますよね。[埋めがたい差]なのに その原因を自分に帰するわけですから、強いストレスになるのは当然でしょう。Q16. 嫉妬も対人ストレスの一種と思いますが、嫉妬は自因感とは無関係ですよね?
「いったい自分の何が悪いというのだ!(絶対に自分は悪くない)」 「自分は○○なのに、おかしい・ありえない!」――これらの思いは自因感のあらわれですね([自因感が存在する証]の章を参照)。これらの言葉が意味するのは 「自分の影響でその現象が起きると仮定すると矛盾が生じる」ということです。 「自分は○○したにもかかわらず、相手は!」 「理不尽だ! △△される筋合いはない!」――これらの思いも自因感のあらわれですね([自因感が存在する証]の章を参照)。これらの言葉の元来の意味は 「自分とその現象の間に因果関係はない」だったことでしょう。 以上のように、「自分の影響だとすると矛盾」 「因果関係はない」と言っておきながら、それでもなお 「自分の影響によるものだ」と感じてしまう――[自分しだい]が不動の大前提になっている――自因感というものの頑強さ(決して消えない!?)をお分かりいただけたかと思います。こんなことになってしまうのは、自因感を自覚していないからです (自因感の概念を知らなければ、自覚しようもありませんね…)。これからは、「ありえない!…ということは、自分の影響によるものではないんだ」と自因感が消え、穏やかになれるでしょう。ありえないと言っておきながら…
主語とは動作をした人や物のことだ と習ったような気がします。でも、自分は相手から嫌われた、という文の主語は何と [自分]なのです。これは、嫌うという動作を受ける という動作をしたのは自分だから、という理屈(ヘリクツ?)によるものです。この文法(受動態)は多くの言語に存在して日常的に使われていることでしょう(本サイトにもたくさん…)。この世界の主人公は自分ですから、わたしたちは周りで起きた現象さえも自分を主体に考えたいのかもしれません。ともあれ、「自分は嫌われた」と思うと 次に浮かぶ思いも[自分]が主語になりがちです――「自分がなぜ?」 「自分は○○なのに!」。このように自因感が過剰にならないためには、動作をした人を主語にして 「相手は嫌っている」ととらえる習慣をつけたいところです。そうすれば 「相手が嫌な気持ちになる仕組みは…」と考えられるでしょう。受動態のワナ
・怒られるのが怖くて(A&B&C) 上司に相談できずに仕事をかかえこんだ結果 過労になり うつ病を発症――このように A&B&Cがなければ そもそも発病しない、というケースは多々あります。 ・統合失調症の妄想や幻聴のほとんどは 人から悪く思われる(相手が😠である)内容です。相手の😠がストレスにならなければ、統合失調症の発病率や予後は改善するでしょう。 ・双極性障害では 対人の傷つきをきっかけに うつになったり、対人の怒りをきっかけに躁になることがあります。相手の😠に対して傷ついたり怒ることがなければ、双極性障害の発病率や予後は改善するでしょう。 ・適応障害のストレスのほとんどは相手の😠でしょう。 ・相手の😠がストレスにならなければ、不安症・強迫症・依存症・摂食障害・パーソナリティ障害の発病率や予後は改善するでしょう。 A&B&Cが続いた結果 精神疾患を発病するか否か・どの疾患を発病するか には遺伝や環境が関与しますが、そもそもA&B&Cがなければ 精神疾患の発生はかなり減るでしょう。(仮説) A&B&Cは精神疾患の発病や予後に影響する
・不注意が多くない人でも、不注意のたびに親や教師や上司が😠になり、それに対して本人が😠になれば、「不注意による支障や苦痛が大きい」と訴えて受診します。このようなケースでも質問紙の回答は高得点となり、ADHDと診断されがちです。 ・自閉症傾向の少ない人でも、「あなたは人の気持ちが分からず いつも私を怒らせる」などと親や上司から責められて😠になれば、「自分は自閉スペクトラム症ではないか」と受診します。このようなケースでも質問紙の回答は高得点となり、自閉スペクトラム症と診断されがちです。 これらのケースの本質は A&B&C(怒られて落ち込むなど)です。しかし、「怒られると嫌な気持ちになるのは あたりまえ だから、怒られないようになりましょう」という治療方針になりがちなのが現状です。A&B&Cから発達障害と診断されがち
互いに相手の😠に対して😠になるという連鎖に人類はさいなまれてきました。
「昔はよく😠になったなぁ。😠になる仕組みを知らなかったから」――そう言える日がいつかくるでしょう。天気に自因感をもたなくなったように。
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最後に、自因感の定義から論理的に導き出された定理をまとめておきます。
相手の😠に対して😠になる仕組みはA&B&Cである。
利他的な行動が空振りに終わると強いストレスになる仕組みはA&B&Cである。
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