着床前診断をめぐるドイツの状況

20031215

市野川容孝

 

現在、日本では、日本産婦人科学会において、あるケースに対して着床前診断の実施を認めるか否かの審議が続いている。以下では、このような日本の現状に対して、少なからぬ意味をもつであろうと思われる、着床前診断に関するドイツの議論を簡単に紹介する。日本においても、以下のような議論の存在を十分、踏まえた上で、慎重な決定がなされることを切に願う次第である。

 

【1】胚保護法の規定

199012月に制定されたドイツの「胚保護法Emryonenschutzgesetz」(19911月施行)は、研究目的の胚の生産と利用の禁じているが、同法第2条にある「妊娠をもたらすこと以外の目的のために、ヒトの胚を体外で発育させる者」に対する処罰規定、および同法第6条にある「クローン」の禁止規定が、着床前診断をも禁じているかどうかについては、法学者ならびに医学者の間でも議論が分かれ、はっきりした結論が出されないままであった。

【2】ドイツ連邦医師会の動向

胚保護法制定から約10年後の20003月に、ドイツ連邦医師会は、「着床前診断に関するガイドラインのための討議草案」を発表し*、一定の条件の下で着床前診断の実施を容認する可能性を示した。

しかしながら、医師会内部でも、着床前診断の是非をめぐって、その後、賛否両論が出され、さらに長い議論が続く。

20025月に開催された第105回・ドイツ医師会議で、この問題については一つの結論が出されることとなったが、その内容は、着床前診断の「禁止」であった(添付資料、参照のこと)。

その理由の一つは、着床前診断の信用性がきわめて低いこと、および診断による胚の損傷の危険性であるが、もう一つには、着床前診断によって「生命の選別」にこれまで以上に拍車がかかることへの大きな懸念があった。

ここで重要なのは、医療プロフェッションが自ら、着床前診断の「容認」ではなく、その「禁止」を選択したということである。同じ医療プロフェションである日本産婦人科学会が、仮に着床前診断の容認という決定を下すとすれば、その容認の医学的根拠は何か、そのような見解の相違が(同じ専門家集団の内部で)生じてよい理由が何かについての、きちんとした検証が、同時に必要となるはずである。

【2】議会および政府の動向

着床前診断の是非については、連邦医師会での議論に並行して、ドイツ連邦議会および政府でも議論された。

2000324日、連邦議会は全会一致で、先端医療技術をめぐる倫理問題を総合的に検討する調査委員会「現代医学の法と倫理」(Enquete-Kommission "Recht und Ethik der moderner Medizin)の設置を決議した。この委員会は、20025月に「最終報告書」を提出しているが**、この委員会での着床前診断に関する結論は、委員会メンバーの16名が「禁止」、3名が「条件付き容認」であった。なお、この報告書では、着床前診断にとどまらず、出生前診断と選択的中絶についても何らかの制限が必要との意見も収められている。

一方、政府レベルでは、シュレーダー首相が20014月に、生命科学に関連する倫理問題を検討する常設の諮問機関として「国民倫理評議会Nationaler Ethikrat」を設置した。しかし、この評議会が20031月に出した着床前診断に関する見解は***、上の調査委員会とは反対に、多数派の15名が「条件付き容認」、少数派の7名が「禁止」との見解を表明した。

議会・政府レベルでは、以前から「胚保護法」を超えて、さらに包括的に生殖医療の問題を扱う新しい立法について議論されてきたが、どのような法律が制定されるのか、またそこで着床前診断について、どのような態度決定がなされるかは、まだ未確定である。

しかし、少数派とはいえ、ヨーロッパでも、着床前診断について、はっきりと「禁止」の姿勢を打ち出した国々がいくつかある。オーストリア、ポルトガル、スイスの三カ国であり、2000年の段階で、オーストリアはすでに立法によって、この「禁止」を明文化しており、ポルトガルとスイスも立法の準備中であった。

 

【資料】

 

105回・ドイツ医師会議(20025月) 決議

議事項目[=Tagesordnungspunkt (TOP)]W

着床前診断

連邦医師会理事会は、現在、検討されている法的諸規制によって、着床前診断が禁止されることを望む。

【理由】

ヨーロッパ、アメリカ合州国、およびオーストラリアにある26カ所の着床前診断センターで出された、1993年から2000年までのデータによると、着床前診断を受けたカップルは886組にのぼり、そのうち出産数は123件で、これは全体の14%に相当する。

着床前診断の実状を調べてみると、これに加えて、そのうちの132件で、妊娠3カ月目に入って出生前診断が実施されており、これによって[それ以前になされた着床前診断において]誤った診断が下されていたこと、ならびに胎児[胚Embryo]に損傷があることが確認されている。この誤診と胎児[胚Embryo]の損傷は、着床前診断の段階では事前につきとめられておらず、そのため、結果的に妊娠中絶が実施された。

遺伝的なハンディキャップをもつ両親が、健康な子どもを持ちたいと願うこと、それ自体は、もっともなことであり、考慮に値することだが、この両親の希望に照らしても、着床前診断を、問題解決のために社会的に受容すべき措置と見なすことはできない。

胚[Embryo]の子宮への移植以前に実施されるこの診断方法の主たる目的は、選別以外の何ものでもなく、その際になされる処置も常に、胚[Embryo]の段階にある人間の生命──すなわち、健康である、あるいは望ましいとは見なされなかった生命──の殺害と結びついている。他方、これまでに世界各地で、病気の兄弟姉妹の治療を目的に、着床前診断を利用して、ひき起こされた妊娠の例が、少なからず知られている。また、現在、インドでは、然るべき立法によって、着床前診断を用いた性選択を防ごうとしている。

これらの事実をふまえると、着床前診断に反対する人びとが提示してきた異議、すなわち、着床前診断によって、生殖医療の基底にある価値およびパラダイムが根本的に変化し、社会的にも重大な帰結がもたらされるという異議は、正当なものだと言える。

遺伝的なハンディキャップをもつカップルが、健康な子どもと病気の子どもを、かなりの精度をもって産み分けることは、今日すでに出生前診断によって可能である。妊娠中絶が、当該女性に対して深い心理的傷を負わせるものだとしても、その女性には、病気の子どもを産むか、産まないかを選択するチャンスが与えられている。着床前診断は、このような選択の余地を、もはや与えない。病気である、あるいは望ましくないと見なされた胚[Embryo]は、否応なく選別・廃棄されてしまうのである。

 

[出典:Deutsches Ärzteblatt. Jg. 99, Heft 24 (14. Juni 2002), A 1653](市野川・仮訳)

 

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* Deutsches Ärztebaltt. 3. März, 2000.

** Schlussbericht der Enquete-Kommision "Recht und Ethik der moderner Medizin". http://dip.bundestag.de/btd/14/090/1409020.pdf

*** Nationaler Ethikrat, Stellungnahme: Genetische Diagnostik vor und während der Schwangerschaft. http://www.ethikrat.org/stellungnahmen/pdf/Stellungnahme_Genetische_Diagnostik.pdf