すべての新生児に可能な限りの治療を与えるべきか否か

 

1.はじめに

 

 障害新生児に対して生命維持のために可能な限りの治療を行うべきかどうか。本稿が扱うのは『ヘルスケア倫理の諸原理[1]』という論文集のなかに納められた、デイヴィス(Alison Davis)とハリス[2]John Harris)によるこの問題を巡る応酬である。同書においては、まずデイヴィスが「すべての新生児は可能な限りその生命を維持されるべきである[3]」においてこの問題に肯定的な回答を与え、ついでハリスが「すべての新生児の生命が可能な限り維持されるべきであるとは限らない[4]」においてこれと相反する結論を述べる、という形が採られている。まず両者の議論を紹介しよう。

 

2.「すべての新生児は可能な限りその生命を維持されるべきである」

 

 デイヴィスが主題的に取り扱うのは、ダウン症と二分脊椎症というよく挙げられる二つのケースであるが、これらの症状に限らず、彼女は喩え新生児がどれだけ重度の障害を持っていようとも、また仮に両親によって拒絶されたとしても、彼らには「無限の価値(infinite value and worth)」があると主張する。従って、障害そのものは新生児に対する救命等のための外科的手術を拒否する理由にはならない。とはいえ、彼女の主張はいたずらに死への時間を延ばすだけの無益な治療を求めるものでもない。死に行く新生児に対しても死に行く大人と同じような倫理的な扱い、つまり苦痛の緩和を目的としたケアを与え、尊厳のある死を迎えさせるといった扱いをすべきだ、と彼女は述べているのである。

 「人命は本来的に、無限の価値を持つ」と主張する彼女の立場は、「人命はその有用性によって値踏みされる」と考える功利主義の立場とは本質的に相容れない。功利主義は障害新生児の有用性を低く見積もり、新生児を殺すこと正当化してしまうからである。従ってデイヴィスには功利主義者に対して論陣を張る必要が生じてくる。そしてその際に彼女が採る戦略のひとつは、人命の重さを量ることなどできない、という功利計算の不可能性を指摘し、さらにそうした思想がナチのそれにつながる危険性について警鐘を鳴らす、と言う(言ってみれば古典的な)ものである。また、功利主義はパーソン論を用いて障害新生児の正当化を図る場合もある[5]。しかし、そうした議論によって「人格を持った主体」と、「単に生きているというだけの存在」を分けようとする試みに対しても彼女は抗して、「『人間』と『人格』とは同じ意味の言葉であって、人類という種に属している以外に、殺されないでいるという権利を持った個人であるための資格は何ら必要ない」と述べる。そうした識別は、実際に奴隷やユダヤ人などを否定するために用いられてきたし、今後も「滑りやすい坂(slippery slope)」の端緒となりかねないからである。デイヴィスによれば、「人格」とは望まない相手を速やかに除去するために作られた言語的な虚構に過ぎない。かくして、功利主義的な立場が退けられることになる。

 また、功利主義的な立場に限らなくても、治療の必要な障害新生児を放置することはよくある。これは、特に放置されれば死に至るようななんらかの合併症を伴ったダウン症新生児や、外科的治療によって障害を軽減することの可能な(ただし手術が行われなくても死に至るようなことはないような)二分脊椎症新生児の場合に見られる。これらの場合、単に手術をしないと言う消極的な選択肢以外に、セデーションを行い、ミルクのかわりに水しか与えず結果的に早期の死をうながすという積極的な選択肢[6]もその支持を伸ばしている。しかし、こうした決断の根拠となるのは、医師や両親といった第三者による「彼らの人生は惨めなものになるであろう」といった見通しなのだが、障害のない新生児に対してそうした見通しを立てることが不可能であるように、実際にはこうした見通しを立てることには正当性がない。また、「惨めな人生」を送ったいくつかのケースを取り上げてみてこうした見通しを正当化しようとしても、それが個別事例である以上は普遍性に欠け、そうした目論みも潰えてしまう。

 さて、デイヴィスはダウン症と二分脊椎症の新生児に関する複数の具体的事例を挙げた上で、すべての新生児の生命が無限の価値を持つと繰り返し、可能な限りの生命維持を(早期の死が避けされない場合でも、十分なケアと尊厳のある死を)与えるべきだ、と述べる。しかしこうした措置は、経済的な観点からの批判[7]に耐えうるものなのだろうか。デイヴィスによれば、答えは肯定的なものである。彼女は1977年のあるデータ[8]を引き合いに出して次のように言う「ダウン症を患ったすべてのアメリカの子ども達に最も高価なケアである施設介護を施しても、それはアメリカ人が毎年ドッグ・フードに費やす費用の1/10にしかならない。実際には障害を持った子ども達のほとんどは彼らの実の家族、ないし受け容れ先の家族の中で暮らしているのだから、そうした「最悪のシナリオ」に基づいた経済的議論は著しく誤っている。

 最後にデイヴィスは、医師が専門家であるがゆえに、人間の価値についての判断までをもわれわれが彼らに委ねてしまいがちであることを指摘している。重度の障害を持った新生児は、成長後に自殺を試みやすい、と主張する医師も散在するが、そのような判断は誤ることもあるのであって、実際には重度の障害を負いながらも、医師が言うような「惨めな」人生とは全く異なる生涯を生きているものもいる。従って、障害新生児に対して可能な限りのケアを行わないということは、彼女によれば不正であり、誤ったものであり、かつ危険なものなのである。

 

3.「すべての新生児の生命が可能な限り維持されるべきだとは限らない」

 

 ハリスによれば、デイヴィスの立場はプロライフの立場にあるが、もしプロライフの立場を引き受けるのであれば、妊娠中絶はすべて許されないことになるし、中絶ができなければ母体の死が免れないような場合でも、胎児と母体のいずれを救うべきなのかについて決定的な判断が下せなくなってしまう。また、不妊治療として行った人工授精によって複数の受精卵が形成された場合、そのうちのいくつかが致命的な遺伝病を持っていることが判明したとしても、プロライフの立場にたつ以上それらに対し減数措置を行うこともできなくなる。かくして、デイヴィスの依拠した立場は、実際にわれわれが採択すべき選択肢としては、十分に魅力のあるものとは言えない。ハリスはこのように述べ、中絶や減数措置を正当化しうるような別の立場を見いだそうとする。

 ハリスは、デイヴィスの立場へのさらなる批判を次のようにして行ってゆく。まず、受精卵から新生児までの連続的な変移のなかに、なんらかの生物学的に決定的な境界を見いだそうとする試みはうまくいかない[9]。しかし、そうした連続的な線上にあるすべての生物がいずれも人間であるということを受け容れても、人間であるものがすべて倫理的に等しい扱いを受けることを認めることにはならないとハリスは考える。むしろ、生物学的に人間であるとされるものがすべて人間としての権利を持つのだと主張したいなら、そのような立場に立つものの方が自らの主張を正当化する責務を負うべきであろう。なぜなら、「人格を持つ」等々の様々な特徴とは無関係に、ただ特定の生物種に属すると言うだけである種の権利があると主張するなら、なぜその生物種でなければ権利を持たないのか、他の生物種が権利を持たないのはなぜかが問題となるからである。従ってハリスによれば、「なぜ他の生物種に対して尊厳を守らなくてもよいのか」という問いにデイヴィスは答えなければならないことになる。

 かくしてハリスは、デイヴィスのような立場に対して、人間と人間の受精卵、胎芽、胎児、新生児のすべてを倫理的に扱い、他の生物種に属する生物をそう扱わないことへの、単なる生物学的な偏見に終始しない正当な根拠を要求する。この要求に対し、「人格」のような人間に特有の性質をその資格審査として課すことはできない。そこでデイヴィス的立場の擁護のために考えられるのは、次のような議論である。

 まず、人間の典型的なサンプルは人格を持っている。そして、その典型的なサンプルが属している種に同じく属している個体は、仮にその典型的なサンプルが持つような特徴、つまり人格を持っていなくても、その種に属している典型的なサンプルと同程度の倫理的な重要度を持つ。この議論によれば、人間という種が他の生物種に較べ倫理的に重要度が高いと結論する根拠も与えることができるし、受精卵や胎芽や胎児、新生児など、人間であるものすべてが等しく一般の人間と同程度の倫理的な価値を持つとする正当化を与えることもできる。もしもこの議論が満足のゆくものであれば、確かに胎児や新生児に一般の成人と同じだけの倫理的な扱いを与えるべきだとの主張の理由になるだろう。また、当の個体が仮にどれだけ成長しても「人格」を持たないような状態にあったとしてもこの議論は適用できるという点で、プロライフの立場の論者にとって強みもある。しかしハリスは、次のような反例を挙げてこれに異を唱える。「フレッドは耳が聞こえず、音楽的なリテラシーもないが、音楽的な才能のある一家の生まれである。[……]しかしこの議論によれば、フレッドまでもが音楽家であるとみなされなければならないことになる。なぜなら、彼自身はそうした能力を持たないものの、彼の家族の典型的なメンバーは音楽的な才能を持っているからである」[10]。そして以上の反論を通じて、ハリスは「もし『人間の権利』なるものが何らかの意味のあるものであるならば、それは人間であるものすべてに等しく与えられるものでなければならない」という主張を退ける。そうした主張を擁護しようとの試みは、上で見てきた限りの論法では不首尾に終わるからである。その上で、新生児は受精卵、胎芽、胎児と同程度の倫理的価値しかもたない、とハリスは結論づける。そして、中絶を擁護する以上、胎児殺しも認めざるを得ないと述べるのである。

 しかし、障害新生児に対して可能な限りの生命維持を行わず、それによって胎児を殺すことになったとしても、それは障害者を差別したり、彼らの人格として尊厳を否定したりすることになるのではないだろうか。デイヴィスは実際に、功利主義者にそのような見解を帰して、功利主義者は、有用性の低い人間を、より有用性の高い人間のための臓器のバンクとして用いることすら認めることになるだろうと批判している。しかしこうした見解に対してハリスは否定的である。ハリスは、「すべての人格は、障害の有無に関わらず同じ倫理的な位置にある」と述べたうえで[11]、「障害を持った新生児に対して生命維持を施さないと決断することは、障害を治療することがそうでないのと同様に、それは障害者を否定することではない。複雑骨折をした足にギプスを当てるのは、車椅子の生活を送る人を否定することではないし、除去できる障害を除去することを望むのは、障害のない人間を人格として好むということではない」[12]。と続ける。ハリスが認めるのは、あくまで人格を持たないものは人格を持つものよりも倫理的に価値が低いということなのである。とはいえ、こうしたハリスの立場は、必然的に無脳症の新生児や植物状態にある個体を臓器のドナーとして受け容れることを含意することになる。ハリスもそれを認めるが、それらを容認する自らの立場が「若い健康な母親を、生後数ヶ月しか永らえることのできない胎児を生かすために犠牲にする」ことを容認するような立場よりも不穏なものではない、と述べて稿を閉じている。

 

4.両者の議論への評価

 

 デイヴィスの議論は、彼女が依拠するプロライフ以外の立場に立つことがいかに倫理的に危険であるかを示そうと目論むものである。しかしながら、相手の立場を戯画化しすぎ、その結果そうした立場への批判そのものの効力が弱まっているように思われる。例えば、功利主義をナチと結びつけるのは単純化しすぎていると言えよう。ただ、彼女の旗幟鮮明な主張そのものは評価できるし、そうした主張を擁護しようとした彼女の姿勢も、果敢なものであったと肯定的に評価したい。

 デイヴィスのような主張を維持するために必要だったのは、対論を批判することではなく、むしろ自らの主張をより精緻化することだったのではないだろうか。人命は無条件に、無限に尊い、と述べるだけではそれは自らの信念の表明以上のものにはならない。対論の否定、というネガティヴなものではく、自説に十分な根拠を与えるというポジティヴな側面から自説を正当化することができなかったために、デイヴィスは、「人間だけを優遇する種差別主義に陥らなくともすべての人間に同じ倫理的価値を認めることができる」ことの根拠を提示できなかった。デイヴィスに対するハリスの批判は、その点を撞いている。

 しかしながら、ハリスの議論もまた問題含みである。潜在的にはハリスはパーソン論擁護の立場にあると思われるが、パーソン論に対して投げかけられた批判に対して彼はなんら回答を与えていない。また、「その典型的なサンプルが属している種に同じく属している個体は、仮にその典型的なサンプルが持つような特徴(ここでは人格)を持っていなくても、その種に属している典型的なサンプルと同程度の倫理的な重要度を持つ」と考える立場に対して彼が行った批判が適切かどうか、という点にも難点がある。彼が反論のために挙げた「音楽一家」の例は、少なくとも同じ倫理的な扱いを求める議論への反例にはなっていない。フレッドを音楽家として扱わなくても、その家族に対するのと同じだけの倫理的な扱いをフレッドに与えることはありうることだし、事実そうであろう。「音楽一家」を用いた比喩的な反例は、あくまで比喩に過ぎず、そして新生児をめぐる事例とは完全には類比的ではなく、従って反例としても成立していないと筆者は考える。ありうる批判はむしろ「なぜサンプルが(その特徴によって)得ることになる倫理的な価値を、そのサンプルに属するメンバーのすべてが等しく持つことになるのか」と正当化を求めることであろう。にも関わらず、この「音楽一家」の例示以外にまともな反論を行わないまま、ハリスは上述の立場を退けてしまっている。

 同じことは、「障害新生児を殺すことは障害者への差別にはならない」ことを示そうとする議論の中にも見られる。ここでもハリスの挙げる比喩は、係争点となっている事例と類比をなしてはいない。確かに治療可能な障害を治療によって除去しようとすることは、障害を持った人間を差別することにはなるまい。しかし、そのことは障害を持った新生児を殺すことが障害者への差別ではないことをなんら意味しない。そこに類縁性があるとすれば、「殺すこと」も「治療すること」も、それによって障害が除去されるという点だけである。だが障害を「殺す」ことによって除去することと「治療する」ことによって除去することは全く違う。前者のような除去が差別なのだ、という批判に対して、後者のような除去が差別でないことを挙げたところで、それは批判に対する答えにはならないだろう。

 かくして、これまでデイヴィスとハリスの応酬を概観してきた訳だが、先に述べた難点がハリスの議論のなかにあることを踏まえてもなお、全体の議論としてはハリスに分がある。従ってすくなくともその限りでは、「すべての新生児に可能な限りの治療を与えるべきだ」とは言えない。しかしそれは、デイヴィスが述べた主張そのものの維持可能性が否定されたわけではなく、別方向からのアプローチ(例えばある種の功利主義的なアプローチ)を用いてこれに正当化を与え、擁護するという道は残されていると思われる。従って、「すべての新生児に可能な限りの治療を与えるべきか否か」という問題に対しては、「否であるとはいえない」という暫定的な結論をここで与え、最終的な結論はさらなる議論を俟ってから与えたいと筆者は考える。

 

(須長一幸)



[1] Gillon, R.,(ed.),[1994] ,Principles of Health Care Ethics, in John Wiley&Sons, 1994

[2] マンチェスター大学応用哲学教授。

[3]All Babies Should Be Kept Alive As Far As Possible,in Gillon[1994]

[4]Not All Babies Should Be Kept Alive As Long As Possible,in Gillon[1994]

[5] デイヴィスが挙げているのは、トゥーリー、クーゼ、シンガーの三人。因みに功利主義者が必ずしもパーソン論に対して親和的であるとは限らないが、功利主義的なパーソン論に対してそれが差別的な主張につながりうることは以下が指摘している。蔵田伸雄「パーソン論――概念の説明――」、加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理を学ぶもののために』、世界思想社、1998年。

[6] だが、こうして迎えられる死は、デイヴィスによれば「尊厳のある死」ではない。尊厳のある死を迎えさせるためには、ケアが不可欠であると彼女は述べている(Davis, ibid., p.638)。

[7] 例えば出生前診断によって二分脊椎症を発見・中絶することは非常にコスト効果が高いと言う指摘もある。二分脊椎症の新生児が5歳を超えて生きられる割合は1/3に過ぎず、また4/5が重度の障害を負っている、こうした新生児へのケアを行うのに較べて、それを出生前診断によって発見するためにかかるコストは大幅に低い(Wald, N.NHS test denied to mothers,in Observer, 2 April 1989.)。

[8] Diamond, E.The deformed child’s right to life,in Horan, D.J. & Delahoyde, M.(eds.), Infanticide and the handicapped newborn, Brigham Young U.P., 1982.

[9] Harris, ibid., pp.646-647

[10] Harris, ibid., pp.651-652

[11] Harris, ibid., p.654. ここから、ハリスがパーソン論の立場にあることがうかがわれる。

[12] Harris, loc. cit.

 

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