社会学の文脈が不可欠
新コロバブルで世界中の「専門家」達が繰り広げた馬鹿騒ぎを読みこなすためには、文系とりわけ社会学・史学の文脈が不可欠。以下は、「大学はもう死んでいる?- 東京大学・吉見俊哉教授academist journal 編集部 2018年10月18日」より抜粋。

——そのようにして広がった大学はやがて危機を迎えるのですね。何が要因だったのでしょうか?
16世紀に起きた印刷革命が一番の要因だったと思います。それまでは写本しかないので、一冊の本を見るためには何か月も旅して、その本があるところに行かなくてはいけませんでした。それ以上に、本の知識をたくさん蓄えている大先生が各地にいて、その先生の教えを請うには、その先生がいる街まで旅していく必要があったのです。

しかし、印刷革命によって、同じ情報を持ったひとつの書物が何千部何万部と流通しうるようになってしまいました。ある種の情報爆発が起り、情報へのアクセシビリティが決定的に変わります。それまでは相当の労力を払って旅していたのが、本を買って読むようになる。(池田注:大谷 卓史 過去からのメディア論 ルネサンスの書籍:印刷という革命 情報管理 2015;58(8):643-646

——既視感があります。
そうです、これは21世紀に起こったことと非常に似ています。現在私たちが経験している情報爆発は21世紀にインターネットによって起こったのが最初ではないんです。16世紀に出版というものを通して、最初の情報爆発が起こっているんです。大学もその影響をかなり受けました。17世紀の最先端の知を支えたのは大学にとって代わった出版でした。

ちなみに、この変化を見事に活用したのがコペルニクスだといわれています。コペルニクスが地動説を唱える前に、それほど重要な天文学上の発見は起きていないそうです。ただ、コペルニクス以前とコペルニクス以降で違うことは、彼が印刷革命の洗礼を受けた最初の人だということです。

彼がそれ以前の天文学者と違ってできたことは、ヨーロッパ中から印刷という形で発行されている天文学上のデータを一箇所に買って集めることでした。いろんなデータを集めて比較参照すると、どう計算しても天動説は成り立たない。教義には反するけど、この公式でしか説明できない、というところまで行き着きます。これは比較参照するデータがたくさんあったからこそできたことです。いまのビッグデータと基本的には同じ話です。(池田注:世界史の窓 グーテンベルク

——コペルニクス的転回がこれから起こるかもしれないといった点ではわくわくしますね。出版システムが大手を振るった後は、大学には何が起こったのでしょうか?
そこで完全に死に絶えてしまったら、大学というのは残ってないわけです。19世紀になるとドイツで復活してきます。ドイツはナポレオン戦争で負けますね。ドイツは比較的大学が残っていたため、大学を核にして新しいドイツの知や学問を立て直そうという動きが、フンボルトという人を中心にして起きました。

それまでの大学はすでに確立した教義を先生から学生に教えるだけでした。しかし、フンボルトは研究と教育の一致ということを言い出します。文系の場合はゼミナール、理系の場合は実験室を主体として、学生と先生が一緒に学びながら同時に研究する新しい仕組みを整え、大学を再構築しようとし、ベルリン大学で実現していきます。これが功を奏し、新しい大学のモデルになります。これは、勃興期のプロイセンが国民国家として大学を支えていたため可能になったことです。この新しいモデルが大ヒットして、その後19世紀以降、20世紀後半までの第二世代の大学の基本モデルになります。

——ゼミに実験室、私たちは基本的にその延長線上にいるのですね。そして、またその線が切れそうだと……。
20世紀末に再び大学は世界史的な危機に至ったと思います。これには量的な危機と質的な危機と両方があると思います。量的な危機は簡単で、あまりにも大学が増えすぎてしまった。全世界で大学は1万8000くらいあるといわれています。

質的な危機でいえば、デジタル情報革命が起きて知のあり方が決定的に転換しました。16世紀に印刷革命が起こって情報のアクセシビリティがまったく変わってしまい、それまでの大学が価値下落を起こし、新しい出版システムのなかで新しい知がどんどん生まれてきた。さらにいうと、16世紀という時代は大航海時代であり、世界中が銀によって繋がっていった最初の劇的なグローバリゼーションの時代でもあります。現代を生きる私たちもデジタル情報革命とさらなるグローバリゼーションとを経験している。今の私たちの時代というのは16世紀の状況にとても似ています。

(中略)

——となると、もうひとつの有用性は何になるでしょうか? 先生が大学の歴史を俯瞰した試みも、その答えと関わってきそうです。
もうひとつの有用性は、価値を創造する、つまり目的そのものを創造するという意味になります。たとえば1960年代の日本では「より速く、より高く、より強く」のような価値がすべてだと思われていましたが、今の私たちは必ずしもそう思っていない。今は循環型社会やサステナビリティが大切だと考えるように変わってきました。時代によって価値は変わるのです。目的遂行的な有用性は、目的が決まったなかでは最高の結論を出しますが、与えられた目的に対してしか役に立つことができないんですね。

この目的を創るためには、私たちが囚われている自明性を一度壊す必要があります。既存の概念を壊していくには、私たちが当たり前だと思っている世界を「内側から」批判していくことが必要です。人類学や歴史学、社会学など人文系の学問はその批判の作業をひたすら行ってきました。この作業は新しい目的とか価値を創造するためには不可欠だと思います。

価値のドラスティックな転換は頻繁には起こりません。でも、長い期間で考えたときに、価値の転換は過去にも起こってきたし、これからも必ず起こると思います。文系は短期的には役に立たないかもしれない。しかし、長期的に社会が転換していく、価値が少しずつ変わっていくときに、その変化を捉えるために、文系的な知識は絶対必要になります。そう考えると、長期的には文系は役に立つんです。

医師免許を持った奴らがでかいツラする時代はもう終わった。もうテメーラの言うことなんざ、誰も聞きゃあしねえ。勝手に自爆しやがって。自分で自分の時代を終わらせた。馬鹿どもが。

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