やりがいの在り場所

電子カルテからのデータ取得ができて、統計ソフトウェアの値段が手に届く(そもそも「R」は無料ですが)ようになってから、優秀な人ほど、臨床研究の本当に面白いところをすっ飛ばして、さっさと論文を書いてしまいます。それは、いろいろな意味で、とてももったいないことです。先日も、ある優秀な若手が論文原稿を書いて送ってくれました。下記はその返信です。
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せっかく書いて頂いた原稿ですが、英語云々以前に、臨床研究論文として受理されません。最大の問題は研究仮説を立ててそれを検証するという基本構造が欠けている点です。実は生物統計の根本は数学ではなく、この仮説設定、検証と、その検証のためにはどういう研究デザインにするかという点にあります。ところが、ほとんどの臨床医はこの点を誤解しています。「生物統計を知らない」という文字面は正しいのですが、どういう意味で「知らない」というのかを理解できていないので す。

と言うと、なにやらまた難しいことを言っているように聞こえてしまうかもしれませんが、そうではありません。要は読み手の立場になって考える。どういう論文だったら、標的とする読者に「面白そうだ」と思って読んでもらえるか?ということを常に念頭に置きながら研究をする。ということです。

もしこの論文がどこかの雑誌に載ったとしても、私だったら、タイトルを見ただけで、「こんなつまらねえもの、誰が読むもんか」と思います。だって「めまいの診療ではお作法をきちんと守りましょうね」というスローガンを掲げた「論文」にしか思えないからです。

「こいつは救急外来で働く医者の気持ちを考えたことがないのか?俺たちが欲しいのは、こんなお説教じゃない。めまいの診断に本当に役立つかどうかもわからない、あのクソ面倒な診察を手抜きできるような素敵なアイディアだ」そういう声が聞こえてきませんか?

「それがどうした?」「だからどうした?」「それが一分一秒も惜しい自分の日常診療にどう役立つのか?」「それが患者の笑顔にどうつながるのか?」そういう臨床医の厳しいツッコミに応える。それが臨床研究の意義であり、やりがいです。裏を返せば、そういうやりがい(=研究・論文そのもののアウトカム)を見いだせなければ、無理に研究したり、論文を書いたりする必要はないのです。臨床をエンターテイメントとして楽しみながらキャリアを歩むための手段はたくさんあります。研究・論文は、その中の一つに過ぎません。なのにその研究・論文が目的化していませんか?

せっかく集めたデータです。上記の主旨に沿って見直してみて、臨床疑問・研究仮説を明確にしてみてください。論文を書くのはそれからです。

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