賞味期限


Choudhry NK, Fletcher RH, Soumerai SB. Systematic review: the relationship between clinical experience and quality of health care. Ann Intern Med. 2005 ;142:260-73

上記は,システマティックレビューから医師の経験年数が多いほど医療ケアの質は逆に低下するとの結論を下した話題の論文である.お読みになった方も多いだろう.案の定,同誌のLetters to the editorには,システマティックレビューではないだの,中堅以降の医者は勉強する時間がないから当然だの,様々の反論が寄せられた.それはそれとして面白い議論なのだが,一つ不思議なことがある.

この論文の結論は,当初,非常にセンセーショナルのように思えた.その点では,ホルモン補充療法が実は心血管死のリスクを増大させるとか,高価な降圧剤も降圧利尿剤もアウトカムは変わらないといった,ここ数年で最も話題になった他のシステマティックレビュー以上だろう.何しろ一部の薬の問題ではなく,医者の経験年数と技量という,きわめて普遍的な問題を扱い,経験信仰を真っ向から否定しているからだ.にもかかわらず,少なくとも今までのところ,現実世界に及ぼす影響が驚くほど少ないのはどういうわけだろうか.

たとえば医者の免許取得後の定期的な再評価の動きはどうだろうか.この論文が掲載された号のAnn Intern MedのEditorialでは,医者の卒後教育・再評価制度を強化しなければならないとのたもうているが,はてさて現実に実行されるかどうか怪しいものだ.この論文とは関係なく,医師免許取得後の再評価制度の必要性はどこの国でも叫ばれているが,なかなか実現されない.

医者の雇用問題にも変化はない.医者不足がひどい日本はともかく,医者があり余っているイタリアあたりでも,この研究が公になってからも,年寄りの医者が大量解雇されたという話も聞かない.そこまでいかなくても,日本でも,この論文を受けて年棒制を導入する病院が増えてもいいはずだが,まだごく一部に留まっている.

常識を覆すと思われたニュースを聞いても,人々の行動が変わらないとしたら,そのニュースが実は常識だったと考えるべきだろう.ただし,このシステマティックレビューが示した”常識”から,勝手に自分だけを例外扱いしてしまうから,医者自身の行動も変わらない.

”医者の腕は年数を経るほど落ちる?まあ,そういうこともあるだろう.ウチの職場のあいつとあいつなんか,その典型例だろう.そこへ行くと自分は違う,こんなに一生懸命仕事をして,こんなに勉強しているから,自分だけは別だ” と考えてしまうというわけだ.

自分が所属する集団の致命的な欠点が指摘されても,あれこれ理由を探して,悪評高いその他大勢と自分とは別であり,悪評と自分は関係ないと思いたいのは人の常だ.しかし,その理由付けは第三者から見て妥当だろうか?単なる独り善がりで,第三者から見たら,あなたも同じ穴の狢である危険性を常に意識して行動するのが,危機管理の基本ではないか.

命長ければ辱(ハヂ)多し。長くとも、四十(ヨソヂ) に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

馬齢を重ねるほど,人間は使い物にならなくなることは何百年以上も前からわかっていたことだが,いつの世も兼好の見識が新鮮に感じられるのは,どんなに老いぼれても自分の賞味期限が切れたとは決して思いたくない人間の性が永遠に変わらないからだろう.

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