裁判真理教を支えるもの

「判決を不当だと言っても始まりませんよ。所詮裁判は真相究明の場じゃないんですから」

そう目の前で言い放った私に対して、いつも穏やかな村中訟務部付検事(判事補)が気色ばんだのは、それでも一瞬だったので、私以外には誰も気づかなかっただろう。

原告側医師意見書の不備を徹底的に突いた私の意見書が、一見すると裁判体の受け入れるところとはならず、国の注意義務違反が認定され、それなりの額の国家賠償金を支払えとの一審判決に対し、どう対応するか、訟務部付の村中検事を交えて訟務担当者会議の席でのことだった。

他の集会ならいざ知らず、さすがに専門家の集まりだったので、私の発言は各メンバーの間で即座に共有され、その後も議論が進められた後、「裁判体は池田意見書を実は理解している。それを踏まえた上で、原告被告ともに満足はしないだろうが、上訴するまでには至らないように、絶妙な落としどころの判決だ」との村中検事の見解が受け入れられて、被告からは進んで控訴しないこととなった。数日後、原告も控訴しないことが判明し、村中検事の見解が正しいことが証明され、私が初めて担当した国家賠償訴訟も終わった。

村中検事は私の発言に対し反論できなかった。それはもちろん、彼を含めた会議メンバーの誰もが、裁判が真相究明の場ではないことを知り抜いているからこそだった。何も私の参加した会議のメンバーが特別に精鋭揃いだったという訳でもないし,村中検事が酸いも甘いも噛み分けてきたベテランだったというわけでもない.むしろ訟務部付検事の多くは任官してから5年以下の若手(検察官と裁判官が半々)がほとんどである。

わが国では様々な組織の中で、信頼している人の比率が57.8%と高い比率を誇っているのが「裁判所」である(2位自衛隊(45.9%)、3位新聞・雑誌(45.4%)、4位警察(42.3%)、5位テレビ27.5%、6位銀行27.5%)。わが国では事程左様に裁判真理教は絶大的な人気を誇っている。では、裁判真理教信者は一体どこにいるのだろうか?

一度でも裁判を経験すれば、必然的に裁判真理教を棄てる。取りも直さず、裁判真理教とは裁判に対する無知・無関心、法的リテラシー欠如の代名詞に他ならない。だから、刑務所はもちろんのこと、法務省にも、裁判所にも、裁判真理教信者は一人もいない。そういう場所で、「裁判は真相究明の場である」なんて言おうものなら、途端に相手にされなくなる。一方で、前世紀までは恫喝の文句として使えた決め台詞「法的手段に訴える」を今でも使う人間がいる。それが、裁判真理教信者=法的リテラシーの欠如した人間の紛れもない証拠である。

裁判の何たるかを知りぬいている法曹三者(弁護士、検察官、裁判官)にとって、裁判真理教信者は絶好のカモである。何となれば、彼らが提供する裁判というサービスの質がどんなに劣悪であろうとも、決して文句を言わないからだ。しかしそのカモも、一度裁判を経験したら、二度とカモにはならない。一旦裁判の何たるか、すなわち「裁判は真相究明の場ではない」ことを知ってしまったら、即座にして信仰からおさらばしてしまう。背教者が増えれば裁判真理教は維持できなくなる。

裁判官は誰もが非常に忙しいそうである。だったら裁判を減らせばよさそうなものだが、誰も減らそうとはしない。なぜだろうか?そんな方法がないとでも言うのか?それは真っ赤な嘘だ!裁判を減らす方法は誰でも知っている。「裁判は真相究明の場ではない」と最高裁が宣言すればいいだけだ。労働基準監督署のガサ入れが絶対に入らない裁判所の労務管理に対する何よりの改善策になるはずだが、そうならないのは、裁判所が裁判真理教会そのものだからだ。カトリック教会が天動説支持を取り下げるようなわけには絶対に行かないのである。

公務員宿舎でのサービス残業を裁判官に強いて、決して裁判官の数を増やそうとしないのにはわけがある。裁判官の数が増えれば裁判の数も増える。だから裁判官のサービス残業も減らないというのは、あくまでも表向きの理由である。裁判の数が増えれば、裁判が真相究明の場ではないことを知る市民の数も増える。すなわち裁判真理教が維持できなくなる。

一方で、いくら最高裁が裁判真理教を守ろうとしても、御利益がなければ、信者をつなぎ止めておくことはできないはずだ。一体なぜ裁判真理教はどんな宗教よりも信者が多いのだろうか?
裁判真理教には実態がない。最高裁判所長官が教祖様をやって有難いお札を売って金を集めているわけではない。そして入信も背信一切自由である。背教者が追求されるわけでもなく、裁判真理教は裁判に対する思考停止の結果だと公言して憚らない私のような人間が磔・火炙りに遭うわけでもない。事程左様に裁判真理教はおおらかな教えである。裁判真理教とは裁判に無関心な人間だけが信仰できる宗教である、裁判のことなんかどうでもいい、裁判の何たるかなんて全く関心が無い。そのお目出度さがそのまま裁判真理教信者の資格となる。

人間とて動物である。考えるなんて余分な機能は苦悩を生むだけ、時間の浪費である。だから思考停止が続けられるのなら、必ずそちらへ流れる。裁判に無関心であり、裁判を受ける立場に追い込まれさえしなければ、裁判真理教信者の地位を保てるのだったら、一生そうするに決まっている。思考停止の魅力こそが、裁判真理教を維持しているのである

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