重度精神遅滞者の診療のむずかしさ

1993から99年まで私の勤務していた埼玉県の施設は,重度精神発達遅滞者300人の入所施設と,重症心身障害児の60ベッドの入院施設から成っていました.ほとんどの人にとってこの施設はつひの住みかでした.20年前にできてから,年に数人亡くなる以外には入所者の入れ替えはありません.平均年齢は50才近くとなりました.精神発達遅滞者の身体年齢は健常者より10才以上上とされていますから,一般社会以上に高齢化が大きな問題となっています.下記は診療を通して私が感じたむずかしさです.

声なき声を聞く
まず第一に訴え,現病歴が本人から聞き取れないことが最大の障害です.赴任前の10余年間,私は内科医として,患者さんの訴え,病歴を最大のよりどころに診療してきました.当施設では,行動,食欲など,常に職員が細かく観察して報告してはくれますが,もの言えぬ人たちの,声にならない訴えを聞くのは至難の業です.髄膜炎や胆嚢炎,イレウスなどの重篤な疾患の診断が遅れ,随分恐い思いもしました.頭が痛い,おなかが痛いと一言あれば随分違うのにと,愚痴にしかならない思いも湧いてきます.

採血一つでプロレス騒ぎ
第二に,診察,処置の協力が得られないことも問題です.おとなしく聴診器を当てさせてくれる人は5人に1人もいるでしょうか.拒否,体動,絶え間ない発声で,満足な診察なぞ出来ません.採血一つにしてもプロレスのリングさながらの光景が繰り広げられます.

切った貼ったのやくざな稼業
第三に,精神発達遅滞者特有の病態,疾患があります.自傷,他害,てんかん発作による転倒と,外傷が絶えません.ここに来るまでは診察の時は必ずハンマーを持っていましたが,今はハンマーを持つよりも持針器を持つ回数の方がはるかに多いのです.また,免疫系の異常を合併している例や,胸腹部の臓器の先天異常例が多いのも特徴です.繰り返す肺炎やイレウス,手術不能の先天性心疾患による心不全など,常に緊張を強いられる病態も数多くあります

施設内での地域医療,高齢化社会
このように,様々な困難に突き当たる毎日ですが,生活区に常駐して1人1人を継続してじっくり診療していけるのは大きな利点です.情報を積み重ねられますし,経過を最後まで追えるからです.究極の地域医療とでも申しましょうか.近年では,重度精神発達遅滞者の施設でも高齢化が問題となっており,悪性腫瘍,骨粗鬆症など,加齢に伴って増加する疾患にも気をつけなくてはなりません.親(保護者)の高齢化も大きな問題になります.いずれにせよ,医学に限らない幅広い知識と技術を要求される診療なので,多くの方のご助言を賜りたいと存じます.→重症心身障害者の内科臨床ノート

在宅の重度精神発達遅滞者の掘り起こし
当施設のような入所の施設はまだいいのですが,問題は在宅の重度精神発達遅滞者の健康管理です.上にも述べました通り,重度精神発達遅滞者には身体的合併症が数多くあります.したがって,健康管理の必要性も高いのですが,移動困難,保護者の病気や高齢化,本人の医療行為に対する拒否や恐怖感,医療機関の側からの拒否など,様々の理由で適切な健康管理が受けられません.また昔に比べて在宅の障害者を隠す傾向は大分少なくなったとはいえ,その実態の正確な把握はまだまだ困難です.今後は私のような施設の医師も,地域社会に出ていって,在宅の重度精神発達遅滞者を掘り起こし,適切なサービスを受けられるように努力していかなくてはなりません.


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