快刀乱麻の生まれた背景

神経内科快刀乱麻は、神経内科専門医の視点だけでは、決してできませんでした。専門医は、問診・診察の知識・技術は暗黙知のままで、何も不自由しないからです。教育をやってはじめて、学生や、研修医や、開業医の”不自由さ”に気づくのです。

非専門医が訴える不自由さに対して、”それは君たちが素人だからだよ、僕みたいに長く修行をすればできるようになるさ、はっはっは”と言えば、”こいつ馬鹿か”と思われて、レッドカードを出されて退場処分と相成ります。それが、これからの時代、教壇に立つ専門家の運命なのです。でも、そんな簡単なことにさえ気づいていない専門家、教育者がまだまだ多い。

私にとっての最初の試練は、2003年7月、田坂佳千(たさかよしかず)に呼ばれて広島に行った時でした。苦手な神経内科を学びたいという素朴な気持ちで、土日を潰して来てくれた60人以上の臨床家達(学生、研修医、勤務医、開業医)は、すべて試験官でした。”自分達が感じている不自由さを解決できなければ、君を専門家として認めないよ”。そう申し渡されたと、私は感じました。もちろん、一度の面接で合格できるわけがありません。それから、週末を利用して各地を回って教育者・専門家として自分を鍛える訓練が始まりました。こうして、神経内科快刀乱麻が出来上がっていきました。

専門の外からpeer reviewが入って、自分でbrain stormingを繰り返して、自分達の専門診療の説明責任を果たす。それができる専門医は、専門医集団の間での評価も高まるし、刺激を受けた専門医集団の診療レベルも上がります。この現象が実際に私の周囲で起こりつつあります。

一方、専門医は、オタク知識・技術の習得に執着するあまり、EBM、臨床試験吟味、コミュニケーション・プレゼンテーション技術、医療面接技術、行動科学・心理学といった、専門分野にかかわらず、どんな医者でも必須の知識・技術の習得がおろそかになってしまいがちです。専門外の人達と交流することによって、こういった普遍的な知識・技術が身に付き、それがまた専門医集団の中で高い評価を受けるのです。私の場合、日本でもトップレベルのジェネラリスト達と交流することによって、知識が身に付き、技術が上達して、それがまた神経学教育に大いに役立ちました。

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