2014年10月3日、ある自治体病院に入院中の80歳代の女性に、アンプル型高濃度カリウム製剤が希釈されずにワンショット静注投与され、この女性は 死亡しました。静注を行った20歳代男性の看護師は、翌月に停職6カ月の懲戒処分を受け、その直後に依願退職しました。

  事故当日に病院管理者から通報を受けた警察は、捜査の結果、今年3月にこの看護師を業務上過失致死容疑で管轄地検支部に書類送検しました。病院幹部からは 「今回の事件を受け、看護師への研修を実施するなどして再発防止に努めている」(病院管理課長)、「患者と家族の皆様に改めて深くおわびする。安全で安心 な医療が提供できるよう、さらなる医療技術の向上に努めている」(院長)とのコメントが発表されています。

12年遅れた対応の犠牲者
  病院側は、院内事故調査委員会の報告に基づき、(1)病棟で管理していたカリウム製剤を薬剤部で一括管理(2)誤投与防止対策のあるカリウム製剤に変更 (3)指示文書に静脈注射禁止を意味する「禁ワンショット薬」と表示(4)看護部での研修実施――といった事故防止策を、2014年11月6日より初めて 実施したとあります(関連記事)。裏を返せば、この病院は長年にわたって、これらの基本的な医療安全管理さえも怠ってきたことになります。

 2000年から2004年6月までに看護師が関わった高濃度カリウム製剤の事故は 6件報道されています。一方、事故原因となったアンプル型高濃度カリウム製剤を医療機関から駆逐するように緊急提言が出たのが2003年。この年には同製剤ワンショット静注事故が2件発生しています。その後も、様々な方面から同様の注意喚起がなされましたが、2005年には同じ事故が再び2件発生しました。この4件にはいずれも有罪判決が出ており、2006年12月に誤投与防止対策製剤が発売されました。そして今回の事故です。

  この病院でも2003年の緊急提言を受けて必要な安全対策を取り入れていれば、誤投与防止対策製剤も2006年に導入され、患者さんの命も、若き看護師の 前途も失わずに済みました。この事故が露呈した問題は、高濃度カリウム製剤の扱いだけはありません。リスクの高い注射剤を処方する際の医師による説明責任 のあり方、医師、薬剤師、看護師の間での注射剤のリスクに対する理解と知識の共有、オーダリングシステムによる警告の必要性等々。この事故の主犯は、「組 織ぐるみの医療安全体制の欠如」なのです。

 これらの問題は、患者さんの死の責任を一身に背負って口封じされた看護師が入職する前から存 在していました。入職してからも、若い彼一人の力ではどうにもならなかった問題です。それどころか、これらの問題が事故の前に管理者から提示されていれ ば、この看護師も仲間と一緒になって医療安全管理に取り組んでいたに違いないのです。それにもかかわらず、彼だけが書類送検されました。その後の消息は一 切報道されていません。患者さんが亡くなった原因は長年にわたる病院の杜撰な安全管理体制だった事実が、この看護師に開示されたのかどうか。そんなこと は、「強気を助け弱きを挫く責任追及」を社説に掲げるメディアにとってはどうでもいいことなのでしょう。

業務上過失が真相を隠ぺいする
 発足まであと2カ月余りとなった医療事故調査制度に対して、医師でさえ不安を抱いています(関連記事)。まして医師よりもはるかに弱い立場にある医療者の不安は、いかばかりでしょうか。「医師法第21条は、原則として無視する。過失があったとしても、犯罪ではないから、全力で国家権力から職員を守る」そう公言する松村理司氏(洛和会音羽病院総長)のような高い見識を持った指導者がいる一方で、一般大手メディアの大好物である「責任追及」に怯え、真相の隠蔽と責任転嫁のために、末端の職員を警察に人身御供として差し出す卑劣な管理者は、「看護師一人に責任押しつけなの?」と、市民からも強く批判されています。かといって医師法第21条をいじる必要はありません。なぜなら問題の本質は、法令そのものにではなく、その法令を自己保身のために使う人間にあるからです。

  記者会見で薄くなった頭頂部をカメラの前に晒して謝罪すれば、「バカなマスコミ」と「国民の皆様」はそこで思考を止めてくれる。一連の謝罪儀式が終わっ て、おごそかに「真相究明は警察の捜査に委ねる」と宣言すれば一連の報道は終了する。脈の取り方一つ知らないブン屋どもに調査報道なんぞできるわけがな い。肋骨の本数さえ知らないポリ公どもに真相究明なんぞできるわけがない。あいつらが思考停止してくれるなら、頭なんて何百回でも下げてやるぜ。北陵クリ ニック事件を含め、大切な仲間の首をいとも簡単に警察に差し出すようなお医者様たちは、そうやって業務上過失という「法の抜け穴」を上手に利用してきたの です。

 これまでのアンプル型高濃度カリウム製剤誤投与事故の裁判では、この事件同様、末端の看護師が業務上過失致死に問われただけで、 病院幹部を含めて医師は一切責任を問われていません。責任追及を恐れる病院幹部にとって、真相究明能力の欠けた裁判の「魅力」は、時に彼らを不正な行為に 走らせます。北陵クリニック事件では、医療体制の不備による事故頻発の責任追及を恐れた同クリック経営者夫妻が、東北大学医学部・宮城県警、そして大阪府 警科捜研まで利用して、守大助氏を「毒殺魔」に仕立て上げました。

 医師もまた冤罪(えんざい)被害者になります。東京女子医大事件では、「腕利き」ヤメ検の弁護士の協力を 得て、病院幹部らによって捏造された内部報告書が、当時心臓血管外科助手だった佐藤一樹氏を起訴する証拠として使われました。彼らは、佐藤氏個人に全ての 責任をなすりつけ、冤罪に陥れることによって、自分たちの責任を逃れると同時に、収益を第一に考え特定機能病院取り消し回避をも目論んだのです。

  医師が被告人となった場合にはまだわずかの救いがありますが、今回の事故のように、医師よりも弱い立場にある医療者が被告人の場合には、例外なく犯罪者の ラベルを貼られて完全に口封じされてしまいます。しかし裁判の犠牲者は被告人だけではありません。事故の再発防止を心から願っている患者家族もまた、裁判真理教に騙された犠牲者です。

  裁判により真相究明が個人の責任追及にすり替えられた結果、真の事故原因が放置されたまま、患者の命が繰り返し失われてきた典型例が、このアンプル型高濃 度カリウム製剤事故です。多数のシステムエラーと多数のヒューマンエラーが複雑に絡み合って生じるのが医療事故の本質なのに、末端医療者個人のヒューマン エラーという「氷山の一角」のみに事故原因を求め、本質的な原因をすべて隠蔽する業務上過失。この法の抜け穴こそが、医療事故再生産の元凶なのです。