「あだ討ち」には科学も医学も無用
 あと半年足らずで発足する医療事故調査制度(事故調)により医事裁判が減る。そんな主張を聞くたびに思い出すできごとがあります。

  私が関わっていた医療事故関連市民団体の活動の一つに、患者・家族のための相談会がありました。医師の意見書や証拠保全した診療録などの資料を持参しても らい、医療過誤の可能性について弁護士と医師がペアになって相談を受けるのです。その活動に参加した時のことです。「亡き夫のあだ討ちをしたい」と、涙な がらに訴える御婦人がいらっしゃいましたが、持参した資料は診療報酬明細書だけでした。それだけでは相談には乗れない旨を相方の弁護士と共に丁寧に説明し たのですが、お引き取りいただく時も、ひどくがっかりなさった様子でした。今から10年以上も前の話ですが、「あだ討ち」という言葉に強烈な印象を受けま した。事故調が発足したあかつきには、あの診療報酬明細書が事故調査報告書になり、裁判への道が開かれることを誰が否定できましょうか。

  『サルの正義』(呉 智英、双葉社)の中で、個人感情の発露に国家権力が介入することを嫌う著者は、死刑制度の廃止とあだ討ちの復活を主張しています。私闘の禁止による治安維 持を至上命題とする国家権力にとって、ハンムラビ法典の時代からあだ討ちは最も優先度の高い規制対象でした。わが国でも既に御成敗式目にあだ討ちの禁止規 定があります。錬金術が出現する何百年も前から、裁判は国家権力によるあだ討ち代行業として存在していたのですから、錬金術師よりもさらに新参者である科 学者や医者の戯言など、聞く耳持たぬというのが多くの裁判官の偽らざる気持ちなのです。

裁判真理教〜現代に息づく天動説〜
 「鑑定合戦が避けられる」と事故調を大いに歓迎している検察が仕切る刑事訴追よりも、はるかにハードルの低い民事訴訟が事故調発足で減少するというエビデンスはどこにもありません。北陵クリニック事件の例を出すまでもなく、真相究明の場ではない裁判が医療安全に何の役にも立たないことは今やだれの目にも明らかなのですから、医事裁判が減るとの根拠なき楽観論は、リスクマネジメントの観点からも有害です。

 押田茂實(しげみ)日本大学名誉教授(法医学)は、「刑事裁判の目的は真相究明ではなく、公判に提出された証拠に基づいて有罪・無罪を判断することです」と述べています(関連リンク)。民事もまた真相究明の場ではないことは、既に8年前、 2007年に開催された日本救急医学会のシンポジウムで 明らかにされています。このシンポジウムでは現役の裁判官が「医療上の損害を金銭に換算するための線引きをするのが民事裁判であり、真実を知りたいという 思いから訴訟を起こすのは止めていただきたい」と明確に呼びかけているのです。医学常識を無視したトンデモ民事裁判のエビデンスも無数にありますが、ここ では一つだけ、正に江戸時代のお白州の典型例を紹介しておきます。「患者の死亡という重大な結果を謙虚に受け止め、事実を究明していくという姿勢が明らかに欠如している」という文言を、葵の御紋の印籠(あるいは背中の桜吹雪の入れ墨)のように使って、無垢な裁判官をミスリードする手法が鮮やかに描かれています。

  裁判の運営主体である裁判官・検察官・弁護士は、いずれも医学・医療の素人です。主権者であり検察・裁判所両組織のスポンサー(納税者)でもある国民の皆 さまは、このような致命的な欠陥を意識するどころか、逆に検察官や裁判官を無謬(むびゅう)の神とあがめています。そして素人ばかりの3人の裁判官の多数 決(合議制)で判決文が作成され、しかもその評議内容は一切公開されません(裁判所法75条2項)。この宗教裁判同然のシステムに、正義と科学性と真相究 明能力が全て備わっていると堅く信じる。そんなおめでたい信仰が、裁判真理教という思考停止病の本態です。その罹患率には明確な地域差があり、日本は世界 中で群を抜いています。自国のさまざまな組織や制度への信頼度の国際比較で、裁判所への信頼度と順位を見ると、日本では57.8%(1位)なのに対し、米国9.7%(6位)、オーストラリア18.4%(6位)、韓国34.0%(3位)、中国53.5%(7位)となっています。

愚民司法とそれに対抗する法的リテラシー
  医療者と患者・家族・一般市民、その間を取り持つ厚生労働省。何とか医療を市民の幸せに貢献する仕組みにしようと、我々は苦悩しながらも相互に協力してい ます。しかし、裁判所・検察・そして大手メディアが三位一体となって展開する愚民司法は、裁判真理教というデマを拡散させ、常に我々を分断し対立させよう としています。これは第三帝国総統に対する信仰を広めることによって、お互いの幸せのために本来協力しあうべき市民の間に、対立構造、密告、そして特定の 民族への攻撃を創り出した手法に酷似しています。ただし、ここで陰謀論を振りかざして犯人捜しを始めれば、さらなる不毛な対立・葛藤を生み出すことにな り、大手メディアの思うつぼです。

 前回コラムで紹介した北陵クリニック事件の再審請求棄却決定は、 「裁判所もまた検察同様、トンデモ医事裁判の教訓から一切学ぶつもりはない。北陵クリニック事件の科学なき科学捜査や神経難病患者の人権蹂躙(じゅうり ん)といった真相は今後も隠ぺいし続ける」と高らかに宣言しているように見えます。しかしその裏には「裁判は真相究明の場ではないし、大手メディアは真実 を隠ぺいするばかりだ。全ての市民は愚民司法のワナを見破り裁判真理教から離脱せよ」という真摯な反語的助言が読み取れるのです。この読解力を養うのが法的リテラシーです。

  裁判は真相究明の場ではないというエビデンスが山のように堆積していく一方で、訴訟・裁判が医療安全に役立つというエビデンスは決して出てきません。そし て、(真相究明の場ではないにしても)裁判は個人の尊厳だけは守る、そんな社会的合意すらも完全に反故にされました(瀬木比路志『ニッポンの裁判』講談 社)。事故調発足後、もし医事裁判が増えるとしたら,それは法曹界の収益、雇用、自己保身、組織防衛といった、人間の幸せや尊厳を破壊する要素によるもの でしょう。あと半年を切った事故調発足に向け、医事裁判を巡る関係者の発言・行動から今後も目が離せない理由は正にそこにあります。