幻の事件と誤診・誤判の背景にある二つの信仰(あるいは妄想)

幻の仙台筋弛緩剤点滴事件の背景と信じがたい幼稚な誤診の背景には、次のような、二つの「信仰」があります。これらの信仰は、誰の心の中にも多少なりとも存在します。やはり、誰の心の中にも多少なりとも存在する「犯罪を見逃さない正義の味方」願望と、これらの信仰の相乗作用で、とんでもない悲劇が起こり、それが10年間放置される結果となりました。

1.専門家・国立大学・教授信仰
専門家信仰:「筋弛緩剤を使った犯罪」だという思い込みに関係者が囚われてしまい、筋弛緩剤ならば麻酔科医が「専門家」だから、麻酔科医だけに意見を聴けばよい。たとえ内科や小児科の診療で生じた出来事でも、国立大学の麻酔科教授ならば絶対に間違うことはない。

国立大学・教授信仰・思考停止:11歳女児例について、筋弛緩剤中毒を主張した故橋本保彦氏(当時東北大学医学部麻酔科教授)の証言を全面的に採用し、筋弛緩剤中毒などありえない、急性脳症であると主張した小川龍氏(当時日本医科大学麻酔科教授)の証言が全面的に否定したのは、「発症当日のX線CTに異常がないから急性脳症は否定される」「発熱がないから脳症は否定される」といった、医学常識を完全に無視した検察の主張を無条件で受け入れた判決です。

医学常識を弁えない判断は、医学常識とは対極にある無縁の信仰・思考停止から生じました。それは、同じ麻酔科教授でも、国立大学と私立大学で言うことが違えば、国立大学教授の言うことが全て正しい。そういう信仰・思考停止です。そして、その信仰の対象となった東北大学医学部麻酔科教授が、残りの4名についても、臨床の基本中の基本である診療録の記載・診断を全否定して、筋弛緩剤中毒の御託宣を下したのです。

2.病歴・症状経過・身体所見否定&警察・検察原理主義&検査・機械信仰
まともな臨床医は、病歴・身体所見・症状経過を大切にします。検査結果が病歴・身体所見・症状経過を説明できればいいのですが、そうではない時、自分の思考プロセスがおかしいのか、検査結果がおかしいのか、そのどちらかだと考えるのが臨床医です。決して病歴・身体所見・症状経過の方がおかしいと考えません。それが真の意味での患者中心主義です。
ところが、幻の筋弛緩剤中毒事件で起こったことは、全く逆でした。警察や検察の考え方も絶対に間違わない。誤診・誤判を行った人々は、科捜研鑑定も絶対に間違っていない。だから、診療録に記載された患者の病歴・身体所見・症状経過の方がおかしいと考え、診療録とそれを書いた担当医を全否定しました。

下記の全ての妄想が成立しないと、検察側の主張も判決も成り立ちません。

○血液や尿からベクロニウムが検出されさえすれば、病歴・症状経過・身体所見が、筋弛緩剤中毒説とどんなに矛盾していようと構わない。
○血液や尿からベクロニウムが検出されさえすれば、ベクロニウムの薬物代謝とどんなに矛盾していても構わない。
○病歴・症状経過・身体所見に基づく判断が正しく、高速液体クロマトグラフィーと質量分析を組み合わせた最新の機械・最新の方法が出す結果が間違っているなんてありえない。
○最新の機械による測定結果ならば、何らのバリデーションなしでも、初めから感度も特異度も全て100%である。
○科捜研の鑑定は完璧である。鑑定資料の受け渡し記録なんか残っていなくても構わない
○科捜研の鑑定は完璧である。鑑定資料の保存状況が記録に残っていなくても構わない
○科捜研の鑑定は完璧である。鑑定資料の保存状況がめちゃくちゃでも、ベクロニウムとは異なるが、ベクロニウムと取り違えるようなピークを持つ物質が発生する可能性は絶対にない。
○科捜研の鑑定は完璧である。ファイティングを抑えるために治療の一環として使った筋弛緩剤を、殺人目的で投与したベクロニウムと取り違えることなど絶対にありえない。
○科捜研は最上位に位置する神である。科捜研鑑定は絶対に間違うことはない。他の機関の研究者が異議を唱えるのは神への冒涜行為である。

以上は、どんな臨床医にとっても、どんな研究者にとっても、信仰ではなく、妄想と呼ぶに相応しい思い込みです。判決を支えているのは、そういう妄想です。

下記は、およそ研究というものを少しでも行ったことのある人間には到底信じ難い判決文です。鑑定では、実験ノートを含めて実験記録が一切残っていなくても構わないのです。ただ、法廷で「我は神である。決して間違えはしない。ましてや不正などするはずがない。我を信じない者には冤罪という天罰が下るであろう」と宣言するだけでいいのです。これまで捏造で追求された数多の研究者達は、大阪府警科捜研に就職すればよかったと地団駄踏んでいることでしょう。
-------------------------------------------
判決文P72 エ 鑑定経過の記録化について
 弁護人は、本件各鑑定(注1)において、鑑定の経過を記録した実験ノートが作成されていない上(注2)、LC/MS/MSに注入した資料の自動記録化もされず、ブランクテストの結果を示す資料も残されていないため、鑑定の正確性や各分析による資料の消費量等を事後的に検証する余地が失われており、鑑定の信用性に疑問がある旨主張する。
 しかし、本件各鑑定の経過については、土橋吏員が、弁護人側の要望に応じて当公判廷に持参した鑑定当時のメモ及びデータの記載(注3)も踏まえた上で、相当具体的かつ詳細に、明確で一貫した証言をしており、その信用性を疑わせる事情は認められないのであるから、上記のような記録化がされていないことをもって、本件各鑑定の信用性が失われるものとはいえない。
-------------------------------------------

検査に依存する心理と誤判

司法事故を考える