神様は恐喝犯

あある総合内科の後期研修医との最近のやりとりから

>いい医者になりたい、と思うたびに「これしきのこともできないくせにかっこつけるんじゃねーよ」「お前ごときが名医だなんて。寝言もたいがいにしろよな」なんて声が聞こえてくることがあります。

名医になれない自分を攻撃する声だね。そんな声は無視できない。でも一々まともに受け止めていたら大変なことになる。では、実際どうしたらいいんだろう?

名医になりたい自分を否定しないことだ。一方で、名医になれない自分を攻撃しないことだ。そうやって万年研修医としてゆっくり歩み続ける自分を認めることだ。一方で、ひたすら名医の水準を切り上げていく恐喝犯には屈しないことだ。

この恐喝犯の狡猾なところは、自分に内在するってこと。さらに、恐喝のネタも尽きない。浜の真砂は尽きるとも、名医になれない自分の攻撃材料は尽きないってことだ。

中心静脈が入らない、医療面接がうまくない、スタッフとのコミュニケーションが下手、挿管ができない、英文の論文を書いたことがない、留学したことがない、医療経済のことを知らない、教授になれない・・・・恐喝のネタはいくらでもある。

> こんな僕でも、臨床医を続けていけるものでしょうか。その次元で疑問が生じてしまいました。

臨床をやるやらないは、あなたが自分で決めることで、他人がどうこう言えることじゃない。ましてや、自分で勝手にでっち上げた神様が決めることでは決してない。何しろそいつは神様なんかじゃない。

どこかに神様がいて、その審判を受けているという信仰の下で、「こんな僕でも、臨床医を続けていけるものでしょうか。」という、勝手にでっち上げた神様への依存べったりの問いかけが生まれる。

冗談じゃない、そいつは神様でも何でもない。恐喝犯そのものじゃないか!

アウトカムが良ければ神様のおかげと考えて神への依存がますます強まり、アウトカムが悪ければ神様が間違うはずはないからと、自分への攻撃を一層強化する。恐喝犯の言いなりじゃないの。そりゃ苦しいはずだよ。(そもそもそのアウトカムの善悪の判断基準自体が問題なのだが、それはまたそれだけで大問題なので、別途取り上げる)

名医になりたい自分を否定しない。名医になれない自分を攻撃しない=名医願望・救世主願望の奴隷になるのではなく、その願望を「使う」
という発想=万年研修医という発想
で、もっと楽になれるのに。楽になるどころじゃない。余計な力が抜けて、素晴らしいプレーができるようになるんだ。

おあいにくさま。それは僕の発案じゃないよ。。さる高名な広島の開業医がとっくの昔からやっていたことさ。
 

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