国家が正義の仮面を被る時:「常在戦場」だった厚労省
癩・結核・そして新型コロナ 「戦い」をプロデュースして八十年
キーワード:コロナとの戦い、15年戦争、亡国病・国民病、癩病、結核、国民皆保険、国民皆兵、富国強兵、内務省、厚生省

はじめに:新型コロナワクチン薬害事件理解の一助として

こんなとんでもないことがなぜ起こったのか?さらに、そんなとんでもないことが、なぜ今も白日の下で現在進行形なのか?(2021年12月現在) それが新型コロナワクチン薬害事件に関心のある全ての方々が抱いていらっしゃる疑問でしょう。私もその一人です。疑問を抱いている人間は答えを持ち合わせていません。もちろん私もその一人です。答えを持ち合わせていない人間は、答えを見つける難しさを知っています。けれど、せめてその手がかりが欲しいと思います。以下は私がその手がかりを求めた途中経過です。あくまで手がかりですから、そこを辿っても納得のいく答えが得られるかどうか、何の保証もありません。ましてや御覧の通り、軍事史ヲタクのバイアスてんこ盛り。あくまで私の趣味の押しつけと割り切って御覧あれ。

国民の健康と戦争遂行は表裏一体:健兵健民・国民皆兵・国民皆保険
●兵力の衰弱は国の衰退です。そのため、貧しいものにも医療を受けさせる政策が取られたのです。これは、健兵健民政策の一環でした。(国民皆保険制度の歴史とは?
●軍事政権まっただ中の日本において兵力が衰退することは、国の衰退を意味します。そのため、貧しいものでも医療が受けられる政策が施行されました。これが、国民全体を対象とした国民健康保険法です。つまり、国民皆保険制度のはじまりのきっかけは、富国強兵政策だったのです。(国民皆保険制度とは?公的医療保険の歴史と仕組み・種類
● 1941年日本は太平洋戦争に突入します。「国民皆保険」というおなじみの言葉は、「国民皆兵」をもじってこの頃に使用されはじめました。1942年、国民健康保険法の改正があり、国民健康保険組合の強制設立が定められ、医療保険の適応人口が拡大し、全市町村の95%程度に国保制度が実施され、加入者も2000万人を超えました。(意外と知られていない国民皆保険の歴史

無癩国運動とゼロコロナ結核・癩病は富国強兵の敵
「亡国の病」だった結核:国民の多数に蔓延(まんえん)して体位・体力を低下させ、生産性を減退させるなど、社会に悪影響を及ぼすような病気をいう。日本においては、結核が1935年(昭和10)から死因の第1位となり、富国強兵を最優先の目標とした当時にあっては、結核がまさに国民病であり、その対策として現在の保健所や厚生労働省にあたる機関が発足したわけである(国民病 コトバンク)。
帝国陸軍が恐れた「敵」:昭和 11 (1936)年から、内務省情報局から「官報」付録として「週報」を週刊で刊行した。昭和 14 (1939)年 11 月刊行の特集号は、「結核絶滅の方途」を掲載した。陸軍省は、感染源の排除として、徴兵身体検査、入営時及び在隊間毎月の定期あるいは臨時身体検査、一般的臨床的検査・レントゲン・喀痰検査(塗抹及培養)・赤血球沈降速度・マントー氏反応検査を実施して、早期に摘発することを挙げた。 (全衛連創立50周年記念事業 健康診断関連年表 小池慎也編 全国労働衛生団体連合会
徴兵検査で癩病を「水際摘発」:当時明治も30年代、40年代に入ってまいろうとする時期には、日本の国としては世界の列強と肩を並べる強い国に一日も早く仕上げていかなくてはならないという一番大きな前提で取り組んでいたというふうに言われておるわけでありますけれども、そのための一番大事なことは、強い軍隊を持たねばならないということだったわけであります。そこで徴兵制度をしいて、毎年日本国籍を持つ男子であって満20歳に達したならば、徴兵検査を受けなければならないという制度を作った。その徴兵検査を毎年行うときに、20歳の男子の中から多い年で600人ぐらいのハンセン病の新発患者が発見された。少ない年でも300人ぐらいが発見された。それが何年か続いたという時期があった、ということであります。これは放置できない、ハンセン病が日本を滅ぼしてしまうという「ハンセン病亡国論」というのまで出る、そういう時代があったということであります。(「患者・元患者の視点から」 曽我野一美 第1回ハンセン病問題に関するシンポジウム 厚生労働省
1923年には既に国際的に孤立していた隔離政策を強行:大正十二(1923)年にフランスのストラスブルヒで開かれた第三回国際会議でも『癩患者の離島乃至僻地取扱ひ措置は妥当ならず』との一項が決議されて居る、日本からは内務省の内野防疫官と、当時の光田全生病院長が列席して居るのである。その当時我国立癩療養所設立の計画があり、岡山県下の長島が設立地として適当だとの光田君の提唱に依って調査が進められそれに決定したが、国際癩会議から帰った光田君は、国立療養所設立地として折角長島を選んだのだが是は国際意見と一致せないものであったと、熟々話されたことがあった。
    光田健輔は、「孤島」(「一大島」)への隔離を一貫して強硬に主張しており、ハンナ・リデルの意見に反論していたことは前述したが、光田は、それが国際的な潮流に反していることを知りながら主張していたことになる。このように、日本のハンセン病患者絶対隔離政策は、戦前から国際的潮流を無視して進められてきたことに留意する必要があろう。(宮崎松記の所長就任と九州 MTL(Mission to Lepers)の活動
国防策としての無癩国運動:そして宮崎は、「結核を以て亡国病とするならば、我等は癩を以て国恥病と呼ぶ」(1936 年 6 月 26 日付九州新聞)や、先に引用した「日本国家の恥」などと、ハンセン病患者が多いことを文明国の恥とする考えを強調して、「無癩県運動」をリードしていった。(宮崎松記の所長就任と九州 MTL(Mission to Lepers)の活動
番外編元祖生物兵器→ワクチンは生物兵器である
ロシアを制覇する決心をしたナポレオンは、一八一二年六月下旬、フランス軍に同盟諸国軍を加えて総勢約六十万の大軍を率いてパリを出発した。出発して一ヶ月経ち、モスクワまで四八〇㎞のところに来たあたりから、コロモジラミが媒介する発疹チフスがフランス兵の間ではやりだした。シラミは長期間風呂に入らず、下着も替えないなど不潔な状態で大発生する。そして、発疹チフスリケッチア(病原体)をばら撒くのである。ナポレオンの大軍は敵の攻撃から身を守る為に、夜は塹壕を掘って身を寄せ合って野営する日が続いた。当然、下着の交換や入浴などは不自由な日が続く。それで、シラミが繁殖する好条件が出来上がることになる。それゆえ、当時は発疹チフスのことを塹壕熱、牢獄熱、不潔病などと呼んでいた。
    発疹チフスにかかると、三八~四十度の高熱が出て筋肉痛、意識朦朧、混迷状態になり、とても戦闘どころではない。いまは、テトラサイクリン系の抗生物質があるが、当時はそのような薬はなく、死亡率が二〇~三〇%にも達する恐ろしい感染症であった。フランスを出て二ヶ月半経った九月上旬、モスクワまで約一二〇㎞のボロディノに着いた時には、攻撃兵はわずか十三万人に減っていた。九月中旬に、ようやくモスクワに入城したが、その時の兵はわずか九万人であった。ナポレオンはわずか一ヶ月モスクワ城に居ただけでパリに向けて退却を開始せざるを得なかった。そして、パリに戻れたのはわずか四万人以下であったと記録されている。ある歴史家の推算によるとロシア軍との戦闘による死者は十万人余りで、発疹チフスそれに一部赤痢などによる死者はその二倍以上の約二十二万人であったとしている。(シラミがナポレオンのロシア侵攻を敗退させた

内務省の血を受け継いで
「本流」厚生技官、その頂点たる医系技官:厚生労働省の前身、厚生省が設置されたのは1938 年のことである。戦後、1947 年に労働省が片山内閣の意向もあって分離独立しているが(『厚生省五十年史』、p.930)、厚生省はその発足当初より労働局を省内に持っていて労働行政を所管していた。2001 年の省庁再編の際、労働省と合同して厚生労働省と名乗ることになったが、これについては、労働省が独自の省として歩んだ半世紀を尊重したということであろう。ただ、先に記したように、もとは厚生省の中にあった労働行政担当部局を切りだしたのが労働省であったので、実は元に戻ったのだということだ。(中略)厚生省というと、医療・保健・福祉を所管する行政機関という認識となろうが、医療・保健分野の衛生局と福祉分野の社会局が内務省から切り離され独立したというのが大方の理解であろう。(佐藤 満 厚生労働省はどういう省か 政策科学 2014;21(4):67-79
戦時体制と厚生省の創設:1936年6月15日,陸軍省の医務局が「衛生省」の新設に関する意見を発表した。6月19日,陸相寺内寿一が閣議で壮丁,兵士の健康状態を憂え,保健国策の樹立の必要性を提唱した。7月6日,「衛生省」の設立を促進するための全国医師会が,東京で開催された。(中略)1937年12月3日,「保健社会省」の設置が枢密院に奏請された。枢密院は,省名を書経・左伝にある「正徳利用厚生」から「厚生」という語をとって厚生省とすることを勧告した。12月29日,厚生省の設置が正式に閣議で決定された。1938年1月11日,厚生省が設置され,同時に,内務省社会局,衛生局が廃止された。(鍾 家新. 厚生省の創設と戦争遂行:日本の社会保障の政策主体の形成における戦争の役割. 社会福祉学 1995;36(2):74-90
本家お取り潰し後も生き残った分家: 非軍事化と民主化にとって邪魔になる省として陸軍省、海軍省、および内務省は整理されることになったのである。厚生省は生き残った。当初、陸海軍省から引き継いだ復員業務などが大きかったが、戦後福祉国家の建設にあたり、占領軍の力を借りてのことではあるが、戦前より蓄積した政策力量が発揮されていく(佐藤 満 厚生労働省はどういう省か 政策科学 2014;21(4):67-79

新コロワクチンは陽動作戦、真の目的はワクチン懐疑論者殲滅とHPVワクチン積極的勧奨再開だった
千代田区しか知らない田舎者達:70を超える偏差値、医師資格、ハーバード大学国費留学。それが霞ヶ関最大の省庁の中でも最強の技官集団が誇る勲章です。安月給、築40年を超えるおんぼろ官舎、政治家のお守りで泊まり込みのブラック労働が、彼らが嫌う「エリート集団」という非難を跳ね返してくれます。それどころか、市中の臨床医から同情も(そして怨みも)買えました。清貧に甘んじる我々が薬害を起こすわけがない。そういう彼らの驕りは高ぶるばかりでした。彼らも裸の王様の物語ぐらいは知っていたでしょうに。しかし結果は御覧の通り。ではなぜ彼らが裸の王様になってしまったのでしょうか?
    我々はあの三バカ大将とは違う。アビガンがイカサマだなんて申請した10年前からわかっていたんだ(治療薬に対する医系技官達の冷ややかな視線)。ワクチンはアビガンとは違う。素晴らしい武器だ。そのワクチンの素晴らしさは自分たちが誰よりもよく知っている。おまけに今回はFDAのお墨付きで、さらにイスラエルを初めとして世界中でリアルワールドでの接種が先行している。いろいろな事情で日本は大幅に立ち後れたが、それもむしろアドバンテージだ。リアルワールドでの安全性情報が先発組からどんどん入ってくるからだ。FDA/EMAの後を追っていけばリスク回避ができる。安全性について日本が圧倒的に優位に立てるのだ。ワクチンヘイトどもが付け入る隙はこれっぽっちもない。この千載一遇の好機を捉えて、日医HPVワクチンの定期接種の積極的な勧奨再開へ)・関連学会小児科学会産婦人科学会と共同戦線を張り、あのごろつきどもを一気に叩き潰し、長年の宿願であるHPVワクチンの積極的勧奨再開を果たすのだ!!MSD株式会社のステートメント

恐怖が支配する霞ヶ関
大医達のゼロコロナ:無癩県運動の悪夢再び
癩予防法の悪夢再び:n度目も悲劇として
軍人と医系技官の共通点:官僚によるファシズムの手法が招いたワクチン禍
ワクチン禍既視感の検証-大東亜戦争開戦経緯に学ぶ-
新コロバブルの物語
表紙