嫌われる勇気
ーところで、嫌われるのに「勇気」なんて要るのか?ー
(ある若手と、教授という職業についてやりとりした手紙から)

そうなんだよ。若い頃はね、自分が歳をとるとどうなるかってことを考えない(考えたくない)もんだから、みんな歳を取ってから初めて、こんなはずじゃなかったと思う。

人は変わる.いろいろな意味で.問題はその変身のアウトカムだ.特に他者評価が必要なのは,もちろん本人に自覚がない変身.つまり加齢.ビート たけしだったか,野村克也だったか(随分と違うが),「歳と時代の流れには勝てない」。

裏を返せば、歳に、時代に抗うとする人間がいる。自分は違うと思っている 人間がいる。そういう奴こそ他者評価が必要。ただし、評価結果をその場で直接返す必要はない。再審請求と同じでね。評価する側にとってのベネフィットが最大化するタイミングってあるもんさ。何ヶ月か何年か後にフィードバックするもよし、ずっと黙っていて、自分がそいつの前から立ち去るときのエビデンスにするもよし。

教授になった連中を見てると,昔は個人商店でやっていたのが→一代である程度の店構えになると,程度の差はあれ→今太閤→隠居気分)になって という陳腐なパターンに陥ってしまっているように見える.彼ら自身もそういう事例をたくさん見てきているに違いないとは思うのだけれど.

そういう意味で,やはり教授というポジションはやっかいだ.通常は教室員、つまり契約書が存在しない無限責任(簡単にインフレになる)を負う相手の数が膨大だ.特に教授の椅子の契約期間が明確でない場合、当の本人が,その教授の椅子が,「やっかいだ」と思い続けられるかどうかが問題.

では教授という商売が具体的にどんな点でやっかいかというと、上中下全ての方向に対して(!)「頭を下げる」・「ご機嫌 を取る」・「相手の顔を潰さない」って点だ。

「そんなの簡単だ」と思う人間は絶対に教授になれない。なぜなら、「あちら立てればこちらが経たず」という、人類始まって以来、全世界共通の原則からは、何人たりとも逃れられないからだ。いつ、誰に向かって、どの程度頭を下げれば、誰のご機嫌がどのくらい斜めになって、誰の顔がどの程度潰れるか?このパズルを煩わしいと思わずに辛抱強く繰り返すのが教授という商売である。

そういうやっかいなポジションに何年もいると、当然誰でもくたびれてくる。くたびれる期間が長くなればなるほど、くたびれることに麻痺し、くたびれ依存症に陥る。ほとんどの教授は、かすかに不条理感を感じながらも、教授というのはそういう宿命なのだと 自分に言い訳しながら、くたびれ依存症の病識を欠いたまま、職業人生を終える。

でも、時たま、そういう運命に抗おうとする人がいる。その場合には、本人から契約終了を穏当に申し出る必要がある。これが実は教授を続けるよりもやっかいな工程なのだが、時たまやってのける人が いる。でも『嫌われる勇気』ってのは、ひどく勇ましい命名ではある。人によってはたしかに「嫌われる」ためには「勇気」が必要だろう.

私の場合には「苦手だ・よくわからない・変人 と思わせる(実際そうだし)」→結果として嫌われるのに勇気なんかこれっぽっちも必要なかった.

いずれにせよ,嫌われれば,誰も寄りつかなくなる.雑音が入らず,競争もないから,じっくり仕事ができる.そうやって自動的に独創性が確保できる.私を利用してやろうなんてバカなことを考える奴ももちろんいなくなるから,余計な仕事も減って効率化する.その一方で,多数のサイレントサポーター(多くの人が苦手と している分野を担当する人間は,あこがれの対象になりやすい)を確保できる.職場外に多数のサポーターを確保できれば,転職もしやすい.ただし、まれに「藪医者」のラベルを貼られて、塀の外に次の職場を確保できなくなる事態に陥った事例もあるので、ご用心。

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