ベルリン漂泊を求めて:あるいは如何にして私は心配し続けたか

”ベルリン漂泊”は柏原兵三の遺作である.1972年2月に,彼が39才の若さで急死したすぐ後に,追悼の意味を込めて文藝春秋から出版された.彼の作品はこれしか読んでいない.柏原は私にとって特に興味がある作家というわけではなかった.ではなぜこの本を手に取ったのか.それは,いつか日本が戦争に巻き込まれ,自分が徴兵されて戦場で殺されるのではないかという,小学生時代以来の固定化した恐怖と,当時の時代背景ゆえだった.

1972年というのは佐藤栄作がようやく退陣し,第一次田中角栄内閣発足した年である.この年は日中国交正常化,沖縄返還,浅間山荘事件と時代を象徴する事件が相次いだ.

歴史的な長期政権を誇った佐藤栄作がいよいよ総理大臣をやめる時の記者会見だった.もう辞めるという会見の場で,積年の恨み辛みが爆発したのだろう,”新聞は嘘ばかり書く.真実を報道するのはテレビだけだ”と子供じみたことを彼が言ったとたん,居合わせた新聞記者たちは,面白くないとばかりに全員退席してしまい,誰も座っていない多数の椅子とテレビカメラに向かって首相が辞任の会見をするという結果になった.幼稚園児の総理大臣と同じレベルの行動しかできない新聞記者たちに私は愕然とした.総理大臣の方は仕方がない.しかし,なぜ,その幼稚園児の最後の醜態を,それこそ真実として報道してやろうというまっとうな新聞記者が一人もいないのか.私は呆然となった.そして,佐藤栄作の後,総理大臣の椅子を露骨に金で買った田中角栄を,メディアはこともあろうに”平民宰相”ともてはやした.16才という,人生で最も多感な時代のただ中にいた私は,日本のジャーナリストはもう絶対に信用しないと誓った.そして,時を同じくして,ライザ・ミネリの”キャバレー”が封切られた.

当然,私には当時の日本がワイマールのように思え,ワイマールならば将来ナチが待っているはずだと思った.ナチはいつ,どうやって,どこから,どんな姿をしてやってくるのか.いち早く察知して,逃亡の準備をしなくてはならない.ワイマールやナチに直接関係ある本ばかりでなく,ベルリンと名がつくだけで,当時の私の興味を惹くには十分だったのだ.

一介の貧乏学者が留学生活で妻子を呼び寄せるための住まいをひたすら探し回るが,経済的事情と幼子を嫌う多くの貸し主のために,なかなか望み通りの物件にたどり着かない.ただそれだけの話だった.だから,この本を読んでもワイマールの崩壊過程についての知識はまったく得られなかった.海の向こうの国々へのあこがれは,私も人並みに持ってはいたが,臆病な私には,言葉の通じないところでの生活に敢えて挑むのは無謀としか思えなかった.また”留学”という甘い響きに縁のあるような人生が送れると考えるほど,私は楽観的でもなかった.だから,この作品を読んで,留学の実態の一側面を知り,留学に憧れて苦しむ必要はないと判断し,ほっとしたものだった.そう,留学なんてバラ色の響きを持つ言葉は,徴兵されるかもしれない自分には似つかわしくなかったのだ.

それから,18年たって,自分が留学する羽目になった時,長い間忘れていたこの作品の記憶が,留学に対する恐怖感とともに蘇った.私は,柏原と違って,幸運にも2週間もたたないうちにアパートを決めてしまったし,スコットランドでの生活も,タコ部屋労働同然の日本での臨床勤務とは別天地の,非常に楽しいものだった.しかし,渡英直後,訛の強い英語が全くわからず,知り合いの日本人もいないまま,ベルリンと同じ様な灰色の空に覆われたグラスゴーでのアパート探しが,たった2週間だけだったとしても,柏原との実体験の共有は,再びあの作品に対する渇望を呼び起こすのに十分だった.しかし,肝心の本は疾うに絶版になっていて,全集が出るほど人気のある作家でもなく,神保町の古本屋から時折送ってもらうリストが届く度,半ばあきらめながらも舐めるように目でたどる虚しい作業を繰り返すばかりだった.

1972年当時,21世紀とか想像しても,空飛ぶ自動車とか,家事ロボットとか,滑稽な想像しかできなかった.未来はそんな陳腐な方向にはなかった.もう,空飛ぶ自動車なんて滑稽な乗り物のことを考えたなんて,誰も覚えていやしない.安保条約とか,安田講堂の攻防戦がどうだったかなんて,誰もが忘れてしまったのと同じように.

ベルリン漂泊と出会って留学まで18年,その作品を追い求めながら更に10年たった現実は,空飛ぶ自動車など足元にも及ばない,誰もが想像しなかったとんでもないことになっていた.その日も,いつものように午前中の外来診療が長引いた後の昼休み.貴重な休み時間だ.休み時間にしかできないことをやろう,そう思って仕事机の上でモニターをのぞき込みながら,日本の古本屋のサイトをさぐっていた.それまでも類似のサイトはいくつか試していたが,さすがに28年前に死んでしまったさして有名でもない作家の絶版本など,容易には見つからなかった.今日も同じだろうと,インターネットと大騒ぎしても,しょせんは肝心の時には役立たずだと心の中で悪態をつきながら,検索したが,その日は特別だった.あった.茨城はひたちなか市の古本屋だ.即座に電話に飛びつき在庫を確認し,目的の物を押さえ発送依頼した.実際に物が来るまで半信半疑だったが,翌日,荷を解いて中身と対面し,28年間の彷徨が終わった.

一人のさえない中年男が,新潟の片田舎の病院で,昼休みにカップラーメンをすすりながら,見たことも聞いたこともない茨城の古本屋の在庫の中から28年間探し求めていた本を見つけだしてしまったのだ.このとんでもないことを当たり前だと思っているのが今の我々の姿である.

しかし,もっととんでもないことは,この本に出逢ってから28年間,私が生きていたということだ.幸いなことに徴兵もなく,ニューギニアの泥沼で野垂れ死にもせずに済んで,39歳で急逝した柏原よりも更に5年も長生きして,こうしてタイムカプセルを開けるような体験ができた.これ以上の僥倖をどうして望もうか.この僥倖はどこから来たのだろうか?日本は悪徳政治家と無能なジャーナリストのためにナチが再来するはずではなかったのか?なぜ私が生き延びられたのか?歴史家にとっては大切な問いだが,医者にとっては不可知な問題である.

ただし一つだけ思い当たることがある.それは私が心配し続けてきたことだ.柏原の作品を忘れなかったように,28年たってもまだ,日本は長いワイマールの時期,Pax Japonicaとも言うべき時代にあると信じて心配し続けている.

スタンリー・キューブリックの作品,”博士の異常な愛情”の原題は,”Dr Strangelove, or how I learned to stop worrying and love the bomb”である.心配し続けたからこそ,爆弾から逃れられたのだ.心配するのを止めてはいけないのである.

(この文の執筆は2000年)
 

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