伊藤穰一の対エルゼビア戦略

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科学の未来のために、論文を「購読料の壁」から救い出せ:伊藤穰一 Wired 2019.03.31

科学はオープンなシステムによって知識を共有することによって、育まれ、発展していく。しかし、一部の学術誌の購読料が大幅に高騰しており、資金的に恵まれた大学の図書館ですら定期購読を続けるのが難しくなっているという。わたしたちはこの状況にどう対処していくべきなのだろうか──。マサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボ所長・伊藤穰一による『WIRED』US版への寄稿。[編註:記事は英語による『WIRED』US版への寄稿の日本語訳]

科学はオープンなシステムによって知識を共有することによって、育まれ、発展していく。しかし、一部の学術誌の購読料が大幅に高騰しており、ハーヴァード大学のように資金的に恵まれた大学の図書館ですら定期購読を続けるのが難しくなっているという。学術出版社の利益率はかなり高水準にある。これは、出版社は論文の著者や査読者に報酬を支払わないためだ。学術分野には一般的に政府から助成金が出ているが、こんな不自然な構造が持続可能なはずがない。わたしたちはこの状況にどう対処していくべきなのだろう。ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)が広まった1990年代、人々は新しい学問の時代がやって来ると考えるようになった。知識への自由なアクセスに支えられた力強い学びの時代だ。

インターネットは研究教育機関が利用するネットワークとして始まったが、インターフェースやプロトコルの改良を経て、いまでは何回かクリックすれば公開されている論文はすべて読むことができる。少なくとも、理論的にはそうであるはずだ。ところが、学術出版社は自分たちを守るために固まるようになった。著名な学術誌へのアクセスを有料化し、大学図書館や企業から多額の購読料を徴収し始めたのだ。このため、世界の大半で科学論文を読めないという状況が生まれた。同時に、一部の出版社が不当に高い利益率を出せるという構造ができ上がった。例えば、情報サーヴィス大手レレックスの医学・科学技術出版部門エルゼビアの2017年の利益率は、36.7パーセントだった。これはアップルやアルファベット、マイクロソフトといったテック大手を上回っている

壁に囲まれた「知」
学問の世界では、最も重要かつ権威のある学術誌の大半が、この購読料という壁(ペイウォール)で守られている。ペイウォールは情報の自由な拡散を阻むだけでなく、研究者の採用や人事にも影響を及ぼす。こうした学術誌に関しては、その雑誌に掲載された論文がどれだけ頻繁に引用されたかの平均値を示す指標が算出される。この「インパクトファクター」と呼ばれる指標が、大きくかかわってくるからだ。研究職など学術業界の人員採用では、応募者が過去に書いて学術誌に掲載された論文の評価が重要な位置を占める。インパクトファクターは、ここで意味をもつ。

応募者を評価する側は大学委員会や他の研究者だが、こうした人々は自身が多忙なだけでなく、応募者の専門分野についてそれほどの知識をもっていない場合もある。このため、過去の論文の合計数とそれが掲載された学術誌の影響度を示すとされるインパクトファクターによって、研究者の能力を判断しようとするのが一般的になっている。必然的に、職を得るためには研究者たちは実際の信頼性とは関係なく、インパクトファクターの高い学術誌に優先して論文を送らざるを得ない。結果として、重要な論文はペイウォールに囲まれ、金銭的に恵まれた研究機関や大学に籍を置いていなければ基本的にはアクセスできないことになる。学術の世界を支える助成金の財源である税金を支払っている一般市民、発展途上国の人々、スタートアップ、急速に増えている独立系研究者などは、ここには含まれない。

壁を迂回するサイトの意義
プログラマーのアレクサンドリア・エルバキアンは2011年、購読料という壁を迂回するために「Sci-Hub」という科学論文を提供する海賊版サイトを始めた。エルバキアンはカザフスタン在住だが、この国は大手学術出版社が法的措置をとることのできる範囲のはるか外にある。彼女はドキュメンタリー映画『Paywall』のなかで、こんな冗談を言っている。エルゼビアは自らの使命を「専門知識を一般に広めること」だとしているが、どうやらうまくいっていないようなので、自分はその手助けをしているだけなのだ、と。エルバキアンのサイトは著作権侵害だと非難を受ける一方で、研究者には人気のあるツールだ。壁が取り除かれれば協力の機会も増えるため、有名大学の研究者にもSci-Hubの利用者は多い。エルバキアンは、わたしの同僚で友人でもあった故アーロン・スワーツが心に描きながらも、その短い生涯では成し遂げられなかったことをやろうとしているのだ。

論文掲載料によるアクセス無料化の試み
学術誌のペイウォールは将来的にベルリンの壁のように崩壊する可能性があり、その構造の弱体化に向けた努力も進められている。20年近く前には、学術情報の無償公開を呼びかけるオープンアクセス(OA)運動がはじまった。OAでは基本的には、研究者が論文の査読や校閲を経ていないヴァージョンを学術機関のリポジトリなどにアップロードする。この運動はアーカイヴ先となる「arXiv.org」といったサイトが用意されたことで盛んになった(arXiv.orgは1991年に始まり、現在はコーネル大学が運営する)。また、2008年にはハーヴァード大学がセルフアーカイヴの方針を打ち出したために、世界中の大学がこれに追随した。一部の出版社はこれに対し、論文の掲載者の側に「論文掲載料(APC)」を課すことで購読料を廃止するという手段に出た。APCは著者である研究者や研究機関が支払うもので、論文1本当たり数百ドルから数千ドルと非常に高額だ。Public Library of Science(PLOS)のような出版社は購読を無料にするためにAPCを採用しており、実質的にはペイウォールが存在する場合でも、このシステムの下では論文の閲覧は無料になる。

ある意味で「勝利」と言えるかもしれないが…
わたしは学術界にOAという考え方が広まり始めた10年前に、クリエイティブ・コモンズの代表に就任した。仕事を始めたばかりのころ、学術出版社の人たちを相手に講演する機会があり、著作物の再利用ライセンスを著作権者自らが決めるようにするというクリエイティブ・コモンズの趣旨を説明しようとした。これには著作物の帰属を記載するだけで著作権料を課さないという選択肢も含まれるのだが、出版社側の反応は「そんなことはとんでもない」というものだった。あの当時と比べれば状況ははるかに進歩したと思う。レレックスですら一部の雑誌は無料化し、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスも採用している。ほかにも多くの出版社が科学論文への自由なアクセスの実現に向けた準備を進めており、前述のAPCはこうした試みのひとつでもある。

つまり、ある意味では「勝利」と言えるかもしれない。しかし、学術研究における情報へのアクセスの変革は真の意味で達成されたのだろうか。わたしはそうは思わない。現行のオープンアクセスは支払う人が誰であれ何らかの課金を伴っており、それが少数の学術出版社に利益をもたらし続けている現状では、特に強くそう感じてしまう。また、OAをうたう一方で、査読など品質管理のために必要な努力を放棄した学術誌も出てきている。こうしたことが起こると、OA運動そのものの信頼性が失われてしまう。出版社にAPCを引き下げるよう求めることはできるが、主要学術誌とプラットフォームを抱える出版社がそれに応じる可能性は低いだろう。これまでのところ、出版社は機密保持契約やその他の法的手段を駆使して、値下げに向けた集団交渉を回避している。

新しい知のエコシステムの創造に向けて
メディアラボは先に、エイミー・ブランド率いるマサチューセッツ工科大学出版局(MITプレス)と共同で「MIT Knowledge Future Group(KFG)」というイニシアチヴを立ち上げた(念のために、わたしはメディアラボ所長で、かつMITプレスの役員でもある)。目的は新しい知のエコシステムを創造することだ。これに向けて、正確な知識を共有するために誰もが無料でアクセスできるインフラを構築し、そのインフラを公的機関が所有するような体制を整える計画でいる。いまは学術出版社やプラットフォーマーに支配されている領域を再び取り戻すのだ。

この解決策はある意味では、オンライン出版に対するブログのようなものかもしれない。ブログは単純なスクリプトで、無料で情報発信ができる。運営するにはさまざまなサーヴィスがあるが、オープンソースで共通の標準が確率されている。ブログによって、非常に低コストで情報発信のためのプラットフォームの作成が可能になった。このプラットフォームを利用すれば、非公式ではあるものの、以前なら数百万ドルもするコンテンツ管理システムがなければやれなかったことができる。こうしてユーザー作成型のコンテンツの時代が訪れ、その後のソーシャルメディアへとつながっていったのだ。学術出版の世界はより複雑だが、ここで使われているソフトウェア、プロトコル、プロセス、ビジネスモデルを修正し再構築することで、経済的および構造的な面で革命を起こすことができるのではないだろうか。

オープンなシステムの構築が緊急の課題に
メディアラボは現在、オープンソースの出版プラットフォーム「PubPub」および公共の知を拡散していく際の標準となる「Underlay」の開発に取り組んでいる。また、研究者や研究機関を支援するためのテクノロジーやシステムをつくり上げ、それを運用していくための専門機関も設立した。将来的には、科学論文を公開し評価するためのオープンソースのツールと透明性の確保されたネットワークからなるエコシステムが確率されるだろう。同時に、査読の過程を公表することで透明性を高めたり、体系的バイアスをなくすために機械学習を活用するといった、まったく新しい手法を試すことも考えている。

現状ではひと握りの商業出版社がプラットフォームを支配しているが、これに対する別の選択肢としてオープンなシステムをつくり上げていくことが緊急の課題となっている。こうした出版社は、研究情報のマーケットだけでなく、学術評価やより一般的には科学研究の技法も管理しているのだ。学術評価では誰がその論文の主要著作者なのかということが重要になってくるが、共同研究やチームでの論文執筆が増えている昨今、この問題は複雑性を増している。研究結果や発見についての功績が誰に認められるのかは大きいが、複数の著者がいる場合の著者名の並び順には共通のルールがなく、その研究への実際の貢献度や専門知識よりも、どちらかと言えば年功序列や文化のようなものによって決まっていることが多い。結果として、評価されるべき人が評価されていないのだ。

わたしたちの惑星の未来のために
これに対して、オンラインでの情報発信なら、著者名の「公平な」羅列から一歩前進することができる。映画のクレジットのようなものを想像してもらえばいい。論文のオンライン版は現状ではこうした形式になっていないが、これはいまだに印刷物の制約に従っているだけの話だ。また査読についても、プロセスの透明化、対価の提供、公平性のさらなる向上といった点で、改良の余地があると考えている。知の表現と普及、保存のためのシステムについて、大学はよりよい管理が行われるよう主張していく必要がある。それは、大学の中核となる使命とも重なる。人類の叡智とそれをどう活用し、また支援していくかということは、わたしたちの惑星の未来に直結している。知識は歪んだ市場原理やその他の腐敗要因から保護されなければならないのだ。そのための変革には世界規模での協力が必要不可欠であり、わたしたちはその促進に貢献したいと考えている。

伊藤穰一|JOI ITO
1966年生まれ。起業家、ヴェンチャーキャピタリスト。『WIRED』US版アイデアズ・コントリビューターも務める。2011年よりマサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボ所長。著書にジェフ・ハフとの共著『9プリンシプルズ』〈早川書房〉、『教養としてのテクノロジー』〈NHK出版〉など
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