遺書を書く

名郷直樹の研修センター長日記 62R(最終回) 遺書

全ての文書は遺書となりうる。理由は簡単だ。全ての人の死亡率は100%だから。では、なぜ、「遺書となる」ではなく、「遺書となりうる」なのだろうか?それは文書によって、その文書の読み手によって、「遺される」という意味が異なるからだ。そう思って、こうやって文章を書いている。

毎日遺書を書く自分。インドに行って、ガンジス川の川辺で火葬を見学しなくたって、死体が犬に食われる光景を見なくたって、いつもの職場で、自宅で、死を思える自分。

memento moriなんて、ラテン語で気取る必要は全くない。こうやって、駄文を書き連ねていることが、そのまま死を思うこと、それこそ、毎日少しずつ死んでいること。

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