池田先生みたいになる?

多分、本当の未来なんて、知りたくないとあなたは言う(桑田佳祐)

若い医学生や研修医から、よく、「池田先生みたいになるにはどうしたらいいんですか」と訊かれる。でも、それは私に訊いても詮無いことだ。だって、今の私は、「ああなりたい」と思ってなった存在ではないからだ。そもそも、医者になるつもりがなかった人間が、「私のような医者になるには、こうしなさい」と言ったって、誰が信用するもんか。

「僕の言うことを聞いてくれるのは、車だけだからね」 私が信州にあるリハビリテーション病院で修行していた頃、尊敬する先輩医師がくださった言葉だ。世の中で自分で完全にコントロールできることなど、何一つない。彼の愛するアルファロメオでさえ、通勤途上でよく動かなくなったものだ。

昔、でもしか教師という言葉があった。学校の先生にでもなるか and/or 学校の先生にしかなれない と考えて教師になった人物のことを、そう呼んだ。どんな仕事を選ぶにせよ、同様の、でもしか状況にしばしば追い込まれてきた。私も、そしてあなたも。働き口があればどこでも結構。仕事があれば何でもやります。○○先生みたいになりたい→○○先生がやっているような仕事でなきゃ嫌だ なあんて贅沢は申しません。若人よ、おじさん、おばさんは、みんなそうやってきたんだよ。そして若いあなたもそうやっていくんだよ。

人生の選択はすべからく、思い通りにはならない。○○先生みたいになりたい と思うことは、自分がコントロールできない未来をコントロールしようとする危険な行為だ。あなたはそんな危険を冒そうとしていないか。

もう少しわかりやすく説明しよう。「思い通りならない」と思うためには、事前に、「○○先生みたいになりたい」と思うことが必要である。「○○先生みたいになりたい」と思わず、自分ではどうにもならない現実の数々を受け入れれば、決して「思い通りならない」と思うことはない。(わかりやすくなっていないって?どうもすいません)

○○先生みたいになりたい。という願望の背景には、いくつかの重大な問題点がある

手段の目的化:あなたの本来の目的は、「○○先生みたいになりたい」ではなく、「××がやりたい」。そうでしょ.なのに,「○○先生みたいになりたい」という代用エンドポイント(手段)に拘れば、「××がやりたい」という,より大切な欲望を抑制してしまう→幸せな気分を味わう機会を失う

池田先生みたいになりたくないと思っても池田先生みたいになってしまうリスクもあれば、池田先生みたいになりたいと思っても、池田先生みたいなれないリスクもある。どちらのリスクが高いと思うだろうか?あなたはその高いほうのリスクを取ろうとしていないだろうか?(結局何がなんだかわからなくなったって?どうもすいません.でも中途半端にわかって苦しむより,まるきりわからなくなっちゃって放り出して忘れる方が苦しくなくなるんじゃないでしょうか.特に,「池田先生みたいになりたい」なんてアウトカム不確定の願望については.)

(度々出しますが)参考:未来の未知性について

(以下引用)

実際にわが身にどんなことが起きるか、そのほとんど99%は自力ではどうにもならない。繰り返し申し上げるが、自分の手で未来を切り開けるということはない。

どれほど才能があって、どれほど努力をしても、それがまったく結実しないと嘆く人間がいる一方で、まるで才能もなく、ろくに努力もしていないけれど、どうも「いいこと続き」で困ったもんだとげらげら笑っている人間がいる。

その差は、自分の将来の「こうなったらいいな状態」について「どれだけ多くの可能性」を列挙できたか、その数に比例する。

当然ながら、100種類の願望を抱いていた人間は、1種類の願望しか抱いていない人間よりも、「願望達成比率」が100倍高い。

おおかたの人は誤解しているが、願望達成の可能性は、本質的なところでは努力とも才能とも幸運とも関係がなく、自分の未来についての開放度の関数なのである。

二条河原へ戻る