ある非論理的な言語についての考察(あるいは根拠に基づいた原爆投下という妄想)

人の病気を治す手段にさえ、根拠が求めらるのだから、何万、何十万の人の命を奪うために根拠が求められるのは当然だと、日本人は思うのだが、米国人はそう思わない。

なぜ、原爆を投下する必要があったのか、そんな素朴な疑問に対して、太平洋の向こう側からは、たった一つの答えしか返ってこない。「戦争を早く終わらせるため」

もちろん、この主張には何の根拠はない。対照を置いた比較試験がないのはもちろんだが、これまでの2例経験は、同じ戦争の中で、わずか2日間の間隔しかなかったわけだから、retrospectiveな推測さえ成り立たない。

根拠のない主張を妄想という。「訂正不可能な誤った判断」とは、カール・ヤスパースによる妄想の定義だが、それはそのまま原爆投下の定義にもなるというわけだ。なお、ヤスパースの妄想の定義を、結婚の定義にも応用したいという向きがあるかもしれない。

ヤスパースが亡くなってからもう五十年以上経つので、わざわざヤスパースの子孫に断る必要はないだろうが、念のため、あなたの配偶者の了解は得ておいた方がいいだろう。もちろん、即座に賛成してはもらえるとは思うが。

以上より(何が?)、日本語よりも英語が論理的という主張も、もちろん根拠のない妄想であることがわかる。言語の論理性は言語にあるのではない。言語を使う人にある。

そう言えば、大量破壊兵器とやらにも根拠がなかったっけな。

自分達が選んだ大統領が、根拠のない大量殺戮を平気でやっても、戦争犯罪人として断罪されないどころか、引退後も年金をたっぷりもらって広いお屋敷で安閑と暮らせる。そんな非道が大手を振ってまかり通る非合理極まりない国に住む奴らの使う言葉が論理的なはずねえだろうが。

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