診断基準の妥当性論議

”診断基準の評価”、実はかなり深遠で本質的な問題なのだが、これを突き詰めていくと、「物事の定義の妥当性は定義できるか?」という循環論法に行き当たる。
だからといって、最初から全く議論しない思考停止戦略ばかり繰り返していると、全く面白くないし、議論の産物も得られないし、言い出しっぺが勝ち&声の大きい連中がのさばるだけなので、多くのところで、組入基準の妥当性やら、ガイドラインが本当に妥当なのかとか、メタボリックシンドロームの診断基準って、ありゃ何だ ってな話を一生懸命しているわけだ。そんなわけで,下記は,あるメーリングリストでの,慢性便秘の診断基準論議から:

Rome III における、慢性便秘の定義を見て、ちょっと考えただけでも、以下の2点に気付きます。
1.判断基準のあいまいさ:、「踏ん張る」、「硬い便」、「塊となった便」というの受け取り方にも個人差が非常に大きい。
2.明瞭に見える数値も根拠が薄弱:ここに出てくるたくさんの数字、つまり、「6ヶ月」、「3ヶ月」といった期間、「排便4回に1回以上」、「排便が週に3回以下」とのカットオフポイントには、おそらく多くの人が納得できる根拠は無いでしょう。といのは、そもそも「慢性便秘」には組織診断のようなgold standardがなく、数値のバリデーションができないからです。

「慢性便秘」のような、gold standardのない病態の定義(診断基準)は、精神科のDSMに見られるような操作的診断基準だから、上記のような問題を本質的に内包しています。

では、操作的診断基準の妥当性(内的?外的?←それもよくわからない?多分両方?どうして多分?)はどのようにして検討すればいいのでしょうか?そもそも、操作的診断基準そのものが天から降ってきた神のような存在ですから、妥当性の検討など、やる必要がないのでしょうか?あるいは、そんなものできっこないからというネガティブな理由で、操作的診断基準の妥当性の検討など、(構造主義的立場に立って??)すんなり諦めるのが得策なのでしょうか?でも、そんなことが罷り通ったら、操作診断を先にこじつけた方が勝ちになります。複数の操作的診断基準がある場合に妥当性を比較するにはどうしたらいいのでしょうか?それに、DSMはIVまで改訂を重ねていますが、そもそも、DSM改訂の基準て何なのでしょうかね。神の声?出版社の声?

操作的診断基準の妥当性の検討が「できっこない」と直観するのは、おそらく、操作的診断基準の妥当性を評価するための指標をどうやって定めたらいいのかわからないからです。慢性便秘は、死とか、入院とか、検査値の変動とか、わかりやすく明確な指標が設定できない。だから「慢性便秘の患者さんの満足度」みたいなものを強引に設定するか?でも、慢性便秘の診断基準の妥当性を検討するのに、その診断基準で組み入れた患者群を使う???

操作的診断基準は”言語”(ソシュールが言うところの「ラング」)なのかな?言語だから、多くの人が道具として使えて、明らかな不便がなければ、それでよくて、評価なんかしなくていいのかな?何でも、「評価」しようとする評価強迫神経症はPMDAで感染した?この病?はまだ遷延する?これからもっと悪化する?

客観的指標による評価が難しければ質的研究はどうかな?「慢性便秘の定義の質的研究」、「DSM-IVの質的研究」、「操作的診断基準の質的研究」・・・・

そもそも、操作的診断基準とそうでない診断基準て、区別できるのかな?すべての診断基準は操作的である?日本語の妥当性の判断が必要でない(「なくても困らない」という表現の方が「妥当」か?)のと同じように、診断基準の妥当性の判断なんて必要ない?いろいろと疑問が出てくるが,実は,全ての診断に操作的要素,つまり,病因とは関係なく,症状群で定義する傾向が存在する.

たとえば,パーキンソン病の診断を考えてみよう.
○振戦,固縮,寡動,姿勢反射障害といった症候群は,診断基準の重要な要素である
○神経病理学的変化が一対一対応で出現するわけではない.
○症候群の重要性を越えるようなバイオマーカーがあるわけではない.
○MIBG心筋シンチグラフィーのようなバイオマーカーでも,感度・特異度の限界がある.

このように,バイオマーカーだけで診断できるわけではなく,操作的診断要素がある.他の病気の診断にも多かれ少なかれ,操作的診断要素がある.我々が相手にするのは機械や血液ではなく,人間だから,診断の中に操作的診断要素は必ず含まれる.それは決しておかしななことではないのだが,バイオマーカーを過信して,とんでもない間違いが起きることがある.その典型が,メタボリック症候群であり,検診で見つかった無症候性○○の悲劇である.

参考スライド→操作的診断と生物学的診断

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