ベティの来た訳

3月前半のある寒い夜の日,9時半ころだったろうか,ビールを一杯やったあと(ウィスキーは高いので滅多に飲めないのだ)こたつにあたって所在なくテレビのニュースを見ているとドアをノックする音がする.今ごろ誰だろうといぶかしく思いながらおそるおそるドアを開けると階下のベティだった.

”こんばんわ,ベティ.どうしたの?”
”マシー,私気分がとても沈んでいるの.私の話を聞いてくれないかしら”
”ええ,どうぞ.さあ,中に入って”
”お邪魔じゃないかしら”
”そんなことはないよ.なんとなくテレビ見ていただけだから.どうぞ中へ入って”
”ありがとう”

ベティは年の頃はそう,50代後半だろうか,小柄でやせぎすで,ハスキーボイス.階下に夫婦で住んでいるが,顔を合わせた時はお決りの天気のことを交えたあいさつをかわす程度の,スコットランドではごく普通のアパートの隣人の関係だった.旦那さんのトーマスがアル中らしく,昼間から酒瓶を手にうつろな目をして歩いていたのを目撃したことがある.今回の突然の訪問もそんなことが関係しているだろうと大体の見当はついた.

それにしても夜の9時半に何の連絡もなしに突然訪問するなんて,それもよりによって挨拶を交わすだけの関係の,得体も知れない(?)東洋人のところにわざわざ来るなんて,余程のことなんだろう,そう思ったから,今大切な夕食後のプライヴェートな時間だからと言って体よく断ることもしなかった.もしそうしたとしても彼女は決して気を悪くしなかったと思うが.

突然の訪問だったから,ティーバッグの紅茶とひどくしけったビスケット以外何もありゃしない.でもその時,テーブルの上に何が並べてあるかなんてどうでもいいことだった.ベティは静かにお茶を飲んでから一枚の紙切れを差し出した.

”マシー,この手紙を読んでもらいたいの.あした娘のイザベルのところへ行くの.それでイザベルがもし家にいなかったらこの手紙を置いてくるの.あたしの気持を伝えるためにね.この手紙でいいかしら.あたしの気持が伝わるかしら”

手紙は丁寧な文字で綴られていて日本人の僕にも読みやすかった.内容は精神的に苦境に陥っている娘を思いやる母の気持が良く表れた文章だったが,今一つ状況がよく飲みこめなかった.

”あんたが娘のことを心配しているってことはよくわかるけど,どうしてこんなに心配しなくちゃならないんだい”

”イザベルは今年で25才になるのよ.18の時トーマスが彼女をなぐったの.なぐったのよ,それは男友達のデイヴィッドのことが原因だったんだけど,どんな理由があるにせよ,父親が自分の娘を殴るなんてひどいこと,許されないことだわ.それでイザベルは家を出たの.それからデイヴィッドと結婚して子供も出来たけど2年前に別れてしまったの.でもイザベルは別れてからもデイヴィッドを愛していたわ.そのデイヴィッドがおととい交通事故で亡くなったの.わたしもショックだけど,イザベルはもっとひどいショックを受けているから,あたしが行って慰めてあげなくちゃならないの.トーマスは会いになんか行くなって言うけどあたしは行くわ”.

それから彼女は娘の自慢から始まって,自分はインバネス出身で言葉が綺麗なこと,カトリックであることを誇りに思うことを滔々と話し,息子の嫁がイングランド人で,ハローをハラウってしか発音できないことを非難し,自分の若い頃の水着姿の写真まで見せてくれた.なかなかのグラマーな美女だった.ベティも誇り高いスコットランド人なのだった.言葉の中にその自尊心が満ち溢れていたのだが,そのベティが最後に言ったのはあまりにも唐突で意外な言葉だった.

”マシー.お金を貸して頂戴.3ポンドだけ.あさって郵便局から年金が入るからその時返すわ”

何故か何に使うかは言わなかった.
3ポンド.当時日本円にしても700円に満たない額だった.それほど大きな額ではない.彼女が好きなタバコを二箱分の値段だ.どうしてこんな額の借金をわざわざ僕のところに来て無心するのだろう.少額の借金を方々からしまくっていて,ついには僕のところへやってきたのだろうか.

いずれにしろ”貸す”お金ではない.”あげる”か”あげない”かだ.僕も当時金持ではなかったが,他人に3ポンド恵んでやる余裕ぐらいはあった.しかし”あげる”と言って彼女の最後の自尊心が傷つきやしないだろうか.彼女が娘の話をだしにして方々に寸借を重ねて知らんふりをしている厚顔無恥な人間とは,僕にはどうしても思えないのだった.一瞬迷ってその後の僕の答えはNOだった.

”ベティ,済まないけどお金は貸せない.なぜならお金の貸し借りは友情を壊すから.僕は今夜君の話してくれたことが僕の同情を呼ぶための話だと思いたくない.今日の話はとても楽しかった.いつでも僕のところへ尋ねてきてくれ.夕食なんかもどうだい.ごちそうするよ.日本食は健康食だから一度試したらいい.トーマスと一緒に来てくれよ.トーマスの話も聞きたいから.でもお金の貸し借りだけは嫌なんだ.お金を貸し借りするとお互にいい隣人でいられなくなってしまう”

僕の真意が通じたかどうかわからないが,ベティは特に恨みがましい表情一つ見せず即座に答えた.

”わかったわ,マシー.今夜は私の話を聞いてくれてありがとう.おやすみなさい”

2,3日していつものように小雨のそぼ降る中,フラットの近所で会ったベティの様子も,僕たちの会話も,いつもとなんら変ることがなく,典型的なスコットランドの天気の中での典型的な挨拶だった.少なくとも自分の持っている洋服を全部売払ってしまったり,栄養失調で痩せこけている様子はなかったので僕はひとまず安心した.

”こんにちはマシー,みじめな天気ね”
”そうだね.でもあしたはよくなるって予報だよ”
”そうだといいんだけど.ではまたね.my son”
”じゃあね”

3ポンドぽっち出し惜しみしやがって.そんな素振りは微塵もなかった.その態度はむしろ,3ポンド惜しんだ僕が恥じ入らないように,やさしく思いやってくれているようにさえ見えた.もしあの時3ポンド貸していたら,今日の挨拶はいつもの天気の話題ではなくて,今返すとかいつ返すか,いやあれはあげたのだから返さなくていい,そんなことだめよ,必ず返すからなんて寂しい話題になっていただろう.

あの時どうしてベティが3ポンド貸してくれと言ったのか今でもよく判らない.ちょっとタバコ銭が欲しかったのかもしれない.あるいはもう少し深刻で,3ポンドなかったことで1日みじめな食事を堪え忍ばなくてはならかったかも知れない.

いずれにせよ,お互い会う度にあのぼろぼろのスコットランドの1ポンド紙幣3枚が,二人の間にひらひらしているのを思い出すみじめさよりはずっとましだ,ベティならきっとそう思ってくれただろう.

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