抱きしめられて

98年夏,6年ぶりにスコットランドを訪れ,ハイランドを旅行した時のことだ.Eilean Donnan Castleで有名なDornieとKyle of Lochalshの間にBalmacaraという小さな村がある.グラスゴーからはA82経由で車で5時間以上かかるだろう,立派な田舎である.ここのガソリンスタンドは,直線で見通しの良い道路に面している上,スーパーマーケットのSPARと隣接していてとても便利なので,今回(98年夏)の旅行中,二日続けてここでガソリンを入れた.Skye巡りで走り回り,ガソリン消費も多かったのだ.

一日目は,領収書をくれと言ったら,レジスターの操作に慣れないとかで領収書がなかなか出てこなかった.そこの店番のおばちゃんは,肉体的,性格的の両面で太っ腹で気っ風がよく,浪曲師にしたいようなだみ声の,いかにも東京の下町のおばちゃんという感じだった.彼女の訛はやたらときつかったのだが,そんなやりとりでも,話が不思議とよく聞き取れた.自分のスコットランド訛の聞き取り能力も捨てたもんじゃないなと思っていた.

二日目の朝,やはりガソリンを入れた時,カウンターへ勘定を払いに行くと,前日の領収書の件のこともあり,また,そんな所に立ち寄る東洋人など滅多にいないから,当然僕のことを覚えておいてくれた.

おや,まあ,おはよう,今日は何処へ行くんだね.

今日は残念ながらグラスゴーに帰らなくちゃならないのさ

どうして残念ながらなんて言うんだい

だってハイランドの方が景色も美しいし,静かだし.

何言ってんだい.グラスゴーだっていい町だよ.グラスゴーのどこに帰るのさ

West Endだけど,それがどうかした?

West Endならなおさらいいところだよ.何しろ私が生まれて育ったところだから

(そうか,このひどい訛が聞き取れた理由がそうだったのか,グラスゴー訛だったんだ.グラスゴー,それもWest End出身と聞いて私はこのおばちゃんに俄然興味を持った)

West Endのどこなんだよ.

Crow Roadを知ってるかい.

知っているも何も,あそこは俺の縄張り(stamping ground)だ.

(その言葉には嘘はなかった.仕事場と住まいを行き来するのに,Crow Roadは避けようとしても避けられない重要な通勤路だったのだ.往来の建物は全て頭にたたき込まれていた.おばちゃんは,この村にはるばるやって来た東洋人がグラスゴーのCrow Roadというローカルな地名を知っていたことと,stamping groundという表現がいたく気に入ったと見えてご機嫌だった.)

へえそうかい,お前さんの縄張りだったのかい.なら,Crow Roadの始まるDumbarton Rdとの交差点は知ってるだろ.

もちろんさ,あのうるさいRosevale(Glasgow Rangersのサポーターのたまり場になっているパブで,リーグ優勝の日など大騒ぎだ)が角にあるところだろ

おんやまあ,Rosevaleも知っているとはね.そこから少し行くと左手に劇場があって・・

あそこはBingo Theatreになったけど,それも最近取り壊されたよ.

ああ,そうだったのかい.その前にはBPのガソリンスタンドがあるね.

あそこも回りの空き地も含めてセンズベリーのショッピングセンターに変わった.

おやまあ,ちきしょう,みんな変わっちまって.あたしの生まれたところが.

どこだい.

ほら,Crow Roadが左に曲がるところに小さな公園があるのを知っているかい.

あの,犬の糞だらけの公園だな.もちろんだとも,俺はその目と鼻の先に住んでいたんだから.

あんたどこにいたのさ.

ローレルプレイス5番.

おばちゃんが大きく目を見張って叫んでカウンター越しに私を抱きしめる.

なんてまあ,あたしゃローレルプレイス12番で生まれて育ったのさ, my son.

なんてこったい.グラスゴーから数百キロも離れたこの田舎町の小さなガソリンスタンドの店先で,ホリデーではるばる6年ぶりにスコットランドにやってきて立ち寄った日本人のかつての住まいと,ちゃきちゃきのGlaswegianの生家が向こう三軒の近さだったなんて.my sonというのは,スコットランドで,女性が(年下の)男性に呼びかける時の愛称だが,その場面では実によく似合う言葉だった.

それから二人の話のはずむことといったら,僕の商売が医者だとわかって,やはりCrow Road沿いに家を構えている看護婦の妹のことやWestern Infirmaryで静脈瘤の手術を受けた時,麻酔が下手で痛かったこと,Southern General hospitalの悪口やら,ローレルプレイスの坂の下にある床屋の腕前,Crow Roadの曲がり角にある保育園のこと,Bradfordsのスコーンの味,Dumbarton Rdにある魚屋,と,思い出話にさんざん花を咲かせた.もしここで高校時代の同級生と出会って向島の話をしたってあんなに懐かしい想いにはならなかっただろう.気が付くと僕の後ろには立派なqueが出来ていた.

女性に抱きしめられるという,生まれて初めての経験をおみやげにもらって,ハイランドを後にした.

スコットランドのホームページへ