そして今・・・

水田 祥代 九州大学医学部小児外科教授

 英国初の女性外科医Dr.J. Barryはいつも男装し、その生涯を男性として送った。彼女は1812年にエジンバラ大学を卒業後一八五九年まで陸軍軍医として勤務したが、死後に初めて女性であったことが判明している。女医を認めなかった社会で苦難の生涯を孤独に送り、本名も判らないままであるという。それから約二世紀後の今日、医の神、アスクレピオスの娘達は、髪をなびかせ、スカートをひるがえし、メスさえも自由に持てるようになった。昭和22年、博多の街に青い目の進駐軍の兵隊さんや戦災孤児があふれていた頃、麻疹から中耳炎になった数えの六歳の私は九州大学医学部附属病院耳鼻科に入院したが、戦後の何もなかったこの時代、食事時になると患者や其の家族が中庭に七輪を持ち出して炊き出しをしていたという時代であってみれば、抗生物質などのあろうはずもなく、リバーガーゼの交換のみが治療であった。日に何度もガーゼ交換をしてくれた主治医の安田先生に、「痛いよ!痛いよ!先生大嫌い!」と悪態をつきながらも、それでも隣の処置台の人の耳の後ろからガーゼが次々と手品のように出てくるのをしっかり見つめていた毎日であった。その頃から、「大きくなったらお医者さんになるの」と言いながら、糸巻きに黒いゴム紐を付けた聴診器でお人形相手にお医者さんごっこに明け暮れた私は、中学生、高校生になってもその気持ちは変わらず、「女の子の一人は宝塚に・・・!」との父の夢も無惨に砕き、ただひたすらに大きくなったらお医者さんであり、それも九州大学で学ぶことであった。

 こどもが好きなことから、何を専攻するにしてもこどもに関することをと思っていたが、立川米空軍病院でのインターン時代、腸閉塞症による腹痛に身をよじらせていた若い兵士が術後に見せた笑顔の素晴らしさに惹かれて外科、特に小児外科を勉強したいと思った。「バカな!何を好んで外科医などに!」「女性に手術してもらいたいなんて人はいない」と言う多くの反対の中で、「本当に自分がやりたいことを力一杯やんなさい」と言ってくれた母や、「やってみなければダメかどうか分からないじゃないか。やってみてどうしても無理なら、その時また一緒に考えよう」と言って下さった当時の九州大学第二外科学教室の井口潔教授と当時講師で小児外科グループのチーフの池田恵一先生に励まされて、九州大学第二外科学教室に入局させていただいた。その後、多くの良き師、先輩、同僚に恵まれ、30年が過ぎた。第二外科学教室の一グループとして出発した小児外科も多くの方々のお力によって1980年にわが国の国立大学で初めての講座として独立し(池田恵一教授)、1989年9月より二代目として教室を主宰させていただいている。

 一人前のお医者さんになったら、船の形をした病院でコロコロしたこども達と大好きな犬に囲まれて暮らしたいと考えていた生活と現実とはずいぶん違っているが、ピーピー泣いていた赤ちゃんがいつの間にか小学生になり、鉛筆書きの手紙が来たりするとついニターとなってしまう。そしてまた、街の中で「先生!ボク...デス」と声をかけられると、付け替えや注射のたびに悪態をつかれていたことなどすっかり忘れ、それだけで一日がハッピーになる。しかしまた、元気になった子供よりも、全力を尽くしてもなお救うことの出来なかったこどものほうが何時までも心に残っているのは、医師である人すべてがもっている気持ちであろう。一つの命が消えるたびにどうしようもなく気分が落ち込むが、その落ち込みから自分自身が立ち直るに要する時間が一ヶ月から、二週間、一週間、五日、三日と年齢を重ねる毎に短くなって行くことに何かしらうしろめたさを感じ、そしてさらに落ち込むという悪循環を繰り返している。

 「こどもの医療に携わる人は、そのご両親の気持もよく理解できるようになって下さい」と教室の若い方や学生にいつも言っていることであるが、手術以外に治療法が無い病気であると口を酸っぱくして説明しても、それでも手術しないで治して下さいと泣く母親や、傷が残らないように手術をしてくれと言う父親に、魔法使いじゃないのに・・と想いながらも、五十年前に中耳炎の手術をすれば脳膜炎になると固く信じていた私の両親が絶対に手術しないで治して下さいと主治医の安田先生にお願いしたことを思えば、親ならばこそという気持ちになってくる。
 今朝も 生きていた
   わたしの 子供が生きていた
  今朝も 生きていた
    今日も 生きていた
   今朝も 生きている
     ありがとう

 クリスマスの朝、ある患児のお母さまから戴いた手紙である。なによりのクリスマスプレゼントであった。

 小児外科学はまだ新しい領域であり、これからの益々の発展を目指している。少子高齢社会においては小児医療全体が大きく変わりつつあり、病気のこどもの治療だけではなく、こどもが健康で生まれ、健康に育つ様に出生前からの母児の健康管理を行うことや、治療に際してはintact survival をめざし、常にその児のQOLを考えるようになった。Radvinが外科は内科+somethingと言っているが、小児外科はその上にさらにsomethingである。この魅力ある小児外科をさらに発展させるためにheart of lion, hands of lady, eyes of eagleの精神で日々努力する事は愉しいことである。