小 説 集

目次

1. グジラ、ダイオン

2. 京のスリーピィホロー

3.夢 語 り

 

 

小説以外の著作

1. 紳士の作法(連載中)

 

グジラ、ダイオン


堂露小路 梅隆

一、 マ リ ア の 家
 向井は京都から周山へは大抵車で行く。金閣寺・龍安寺・仁和寺・神護寺・高山寺とお寺を辿って行くと谷間の清滝川に沿った周山街道に入り、曲がりくねる上り坂を上って行くと北山杉で有名な小野郷を通り笠トンネルに入る。ここで京都市は終りになり、トンネルを出ると北桑田郡京北町になる(2005年から京都市右京区に編入)。そして栗尾峠を越えると周山に着くが、向井はこの峠道が崖っ縁の急カーブが有ったりして余り好きでなく、又元々ドライブの趣味は無いので、便数は少ないが同じ道を走っているJRバスで行くこともある。それだと時間は少し掛かるが運転に神経を使わなくてもいいし、居眠りをするか景色を眺めることができた。
 しかし今日の周山行きは其のどちらでもなかった。二日前から雪が降り続き、京都市内でもチェインを巻かないと車が走れない程の大雪となった。JRバスは運行しているかどうか分からなかったが、仮りに動いていても山間部で事故でも起れば日帰りができなくなるので、少し遠回りだが鉄道で行くことにした。国鉄時代は山陰線と言っていたがJRに成ってから嵯峨野線と銘打って保津川沿いの景色も売り込んでいた。
 今日は保津川の川原の岩石は綿帽子を被って大きく見えるなと思っているうちに亀岡を過ぎ、更に小さな駅を二つ経て八木に着いた。駅舎を出ると意外に雪は多くなく膝頭位迄だった。駅前のバス乗り場へ行ってみると有難いことに山へ入るバスも遅れ気味乍ら動いていた。向井が乗るのを待っていたかの様にバスは発車した。乗客は服装や言葉から判断して地元の人許りで余所者は彼丈らしかった。バスは徐行運転が多かった為周山に着いた時には京都から乗って来た程に感じられた。周山はバスの中継地になっていて此処で更に山に入るバスに乗り換えるのだが、今日は運行中止になっていたので彼はテクテク歩くことにした。
 雪は止んでいて空は雲一つ無く抜ける程青かった。そして辺り一面は目映い許りの銀世界で、サングラスを持って来たのは用意周到だった。可成の寒気の筈だが山道を登って行くと汗ばむ程で心地好かった。
 軽い疲労を覚えた頃小山の上に「マリアの家」の十字架が見えた。十字架が見えてから建物に辿り着くのに未だ暫く山道を登らなければならないのを彼は知っていた。「遠くて近きは男女の道、近くて遠きは田舎の道」とつぶやいて、とんだ恋路も有ったもんだと苦笑した。登るに連れて十字架の下に屋根が現われ、二階が見え、やがて生垣が見えだした。
 いつもなら音楽か子供達のさざめきが聞こえるのに今日は静まり返っていた。雪の消音効果だろうかと思い乍ら彼は門を潜り、玄関のガラス戸を押し開けて中へ入った。
「まあーこの雪の中を京都からー。」
と事務員が小走りに出て来てスリッパを出して呉れた。
「さあさ、こちらへお越し下さい。暖かい処へ。」
そう言い乍ら応接間に案内して呉れた。
「直ぐ園長先生をお呼びして参ります。」
 女子事務員は下がって行き、向井が立った侭放熱器に手をかざしていると静かに戸が開いて老修道女が入って来て張りの有る声で言った。
「ようこそいらっしゃいました。お待ち致して居りました。」
 彼女は六十歳代後半と思われたが何時もいそいそとしていて笑顔を絶やさないのに向井は好感を持っていた。
「惇がお世話になりまして本当に有難うございます。」
 彼は深々と頭を下げた。挨拶が済むと園長は話を続けた。
「如何かお掛け下さい。能くこんなお天気に来て下さいましたわね。何時も私共感心して居りますの。どの親御さんも最初は涙乍らにお子さんを預け、初めの内は週に一回、十日に一回位来られますが、段々其れが月一回になり、春夏秋冬一回ずつ位になり、其の内普段は来られなくなり、その代わりお盆やお正月の間丈連れ戻す様になるケースも結構あります。本当にお偉いと思いますわ。折角の休日もゆっくりお休みになっておられないのではありませんか? 其れに交通費もこの頃は嵩みますわね。」
「いえ、家に居ても落ち着かないんです。此処へ遠出して来ることが私のレクリエーションなんです。」
「まぁー。でも其のお蔭で惇っちゃんが一番精神状態が安定しているんですよ。」
「然うですか。ところで今日は園内がとても静かですが、何か行事でも有るのですか?」
「ええ、朝から園生達は兎狩りに行っているんですのよ。」
「えっ、この雪の中をですか?」
「職員もシスター達も大勢付いていますからご安心下さい。勿論惇っちゃんは園に残りました。朝みんなが出掛けて行く時、ちょっぴり寂しそうでしたが、お父さんがお出でになることは何となく感じていた様です・・・。」

一、 マ リ ア の 家(2)

園長が話している最中に七、八歳位の男の子がゆっくりとドアを開けて入って来た。
「惇!」
向井は身を乗り出して声を掛けた。惇は飛び付く訳でもなく園長と向井の間にある大きな肘掛け椅子にちょこんと座った。
「こんなに雪が有るのに長靴履いて来て下さったのよ。」
 園長がそう言ったが、惇は何も言わずにニコニコと笑っていた。向井は元の話題に戻った。
「遠出することは以前から有ったのですか?」
「いいえ。前はそんな事は有りませんでした。シスターや女子職員が多いのでどうしても安全第一になってたんですね。ところが昨年京大の医療短大リハビリ科の卒業生が入って来てから変わりました。男の子に相撲を取らせるのです。ご存じの様にこういう子供達は運動神経が鈍いですから骨折でもしたら大変だと言ったんですが、『折れたら接いだらいい、命に別状は無い』って平気なんです。捻挫でもする子が出たら止めて貰おうと思って暫く様子を見てましたが、誰も怪我人が出ないんです。惇っちゃんも同い年の子の中では強いんですよ、ねえ。」
園長がそう言うと、惇は床に届かない足をブラブラさせ乍ら、
「ふん。」
と丈言って大人しくしていた。
「大抵の若い職員は非番の日は山を降りて町へ出掛けて行くのに、今度来た新しい職員は山へ入って行くんです。それで今では地元の林業の人と同じ程山を能く知っているのです。秋にはこの人の提案で園生を連れて常照皇寺迄ハイキングに行って来ました。」
「えっ、あの山奥の常照皇寺ですか? 其れで皆無事に行けましたか?」
「ええ、落伍者を収容する為に後ろから車が付いたんですが、靴擦れかマメが出来た子が帰りに乗った丈でした。皆お弁当をペロッと平らげてしまって・・・…兎も角大成功でした。」
「では兎狩りも其の先生の発案ですか?」
彼は少し笑い乍ら尋ねた。
「然うなんです。これからは若い人を少しずつ入れてゆこうと思っています。」
園長は嬉しそうな顔をして答えた。
「兎狩りは今日が初めてですか?」
「いえ、雪の降る前から何回もやってます。」
「で兎は捕えたことが有るのですか?」
「其れはうちの子供達には無理です。兎を見付けて追い落とす丈で満足なんです。逃げる兎に触れでもしたら大騒ぎです。地元の小学校では捕まえる子も居て後で兎汁にするそうですけど。」
と園長は笑い乍ら眉をひそめて見せた。
「惇、兎に触ったかい?」
と向井は相変らず足をブラブラさせてニコニコ大人の話を聞いている惇に向かって言った。惇は黙って首を振った。すると其れを見ていた園長が急に気が付いた様に立ち上がり乍ら言った。
「お喋りが長くなってしまって済みませんでした。」
「いえ、いいんです。園生の日常生活が好く分かりました。」
彼も立ち上がって礼を言った。すると園長が悪戯っぽい目をして言った。
「お風呂が沸いておりますの。誰も居ない折角の機会ですから親子水入らずでお湯に入られたら如何ですか?」
 彼はよもや園長がジョークを言うとは思わなかったので笑って応える事ができず、間の悪い思いをし乍ら返事をした。
「で、ではお言葉に甘えて入れて頂きます。」
「ごゆっくりお入りになって下さい。其の間にお食事の用意をしておきます。」
そう言い乍ら園長は浴場へと案内した。勝手を知っている惇は先に駆け出して行った。

 浴場は銭湯よりも大きく設備も良く整っていて、普通より小さいポリ桶も沢山重ねて置いてあった。二人が小さい声を出しても大きく篭った様に反響した。二人が漬かると湯を満々と湛えていた湯船から湯が溢れ出た。二人は初めて向かい合った。

「惇っちゃん!」
 向井は呼んでみた。すると惇は、
「とうやん!」
と言い乍ら抱き付いて来た。
「元気にしているかい?」
「ふん。」
「大人しくしていたかい?」
「ふん。」
「惇っちゃん。もう直ぐお母さんに赤ちゃんが生まれるんだ。」
「あかやん?」
「然う。惇っちゃんはお兄さんになるんだよ。」
「にいやん?」
「然う。」

 湯船から出て洗い場で向井は惇の体を洗ってやった。惇の体は肉は余り付いていなかったが、この年齢位の少年は縦に伸びるのが急で肉が付かず痩せ気味が普通である。然しこういう子供達は一般に食欲が有る割りに運動を好まず、放っておくと肥満になる、ということを彼は知っていた。痩せてはいたが惇の体の筋肉は良く締まっていてしなやかだったので、向井は園の食事のバランスが取れていて、適度に運動しているなと思い乍ら惇の背中を流してやった。すると、
「とうやん。」
そう言って惇が向井の背後に回り背中を擦り出した。初めての経験だった。惇が背中を流して呉れる様に成った、思い切って集団生活をさせて良かった、と思った。
「惇っちゃん。背中とても気持ち良いよう。」
向井は首を半分後ろに向け乍ら言った。
「とうやん。」
惇は嬉しそうな顔をし乍らタオルを動かし続けた。
「そんなに同じ処許り擦っちゃ痛いよう。」
「とうやん。」

 洗い終わった後二人はもう一度湯船に漬かった。最初浴場に入った時は浴場内がよく見えたが、今は湯を沢山使った為か湯が好く沸いた為かすっかり湯気が立ち篭め、向井は惇の顔しか見えなくなった。一つ、二つ、と惇と一緒に数を数えているうちに惇の顔がおぼろげに成り、何時もの顔ではなく別人の様に見えた。彼は何か言おうとしたが、口が利けなかった。と突然惇がうめく様に話し出した。

「あっしゃなぁ、海で溺れたのになぁ、だーれも助けて呉れなんだんさなぁ ・ ・ ・ ぐじら、だいおん。」
向井は気が付くと湯船の縁に掴まっていた。其の手を惇の手が上から押えていた。そしてニコニコ笑い乍ら言った。
「とうやん。」

  二、 前 世 の 話

「お帰りやす。お疲れさんどした。惇如何でした?」
 妻の春子が重たそうな体を動かして食卓を整え乍ら言った。向井は着替えを済ませて食卓に着いた。
「元気だったよ。大分大きく成っていてね、今度行く時は下着は一サイズ上のを持って行ってやらなきゃ。」
「ええっ、裸になったんどすか?」
「然うなんだ。皆兎狩りに出掛けて留守だったんで大きな風呂に惇と二人丈でゆっくり入ったんだ。」
「まあー、それは宜しおしたなぁ。久し振りに親子水入らずで。」
「園長さんと同じ様なことを言うなよ。」
「誰でも然う思いますがな。」
 二人は笑った。然し彼は改まった顔に成って言った。
「実は妙な事が有ったんだ。」
「なんどす? 厭な話や怖い話はせんといとくりゃっしゃ。お腹の子に悪おすよってに。」
「いや、笑い話だと思って聞いて呉れ。ストップを掛けたら何時でも止めるから。」
「惇の話やさかいに聞くのどすえ。」
「烏の行水の僕が何時になく長風呂したので逆上せて一瞬気を失ったらしいんだ。言ってしまえば其れ丈の事なんだけど。」
「なんや然う言うたら帰って来はった時、疲れた顔してはりましたわ。」
「其の時夢か現か分からんが、惇が喋ったんだ。」
「阿呆らし。あの子が喋れますかいな。なんぼイエス様の施設に入れて貰うたかて、そんな奇跡が起りますかいな。」
「いや、本当に喋ったんだ。」
「ええ加減にしとくりゃす。あの子は十か十五位片言が言える丈どす。喋れる位なら普通学級とは言わん迄も特別学級にでも入れて貰いますわ。」
「でも・・・。」
「もう止めときまひょ。私がこんな体やさかいにあんたばっかりに負担掛けて、あんたの頭迄疲れさしてしもうて。」
 妻が涙声になり出したので彼は慌てて話題を変えた。

 数日が経ち向井夫婦は夕食の食卓に就いていた。二人は夕食には時間を掛け、其の日有った事を何でも話し合うことにしていた。今日は妻の機嫌が良かったので彼は園での出来事の話を再び持ち出した。
「今日、役所の用事で市の社会教育センターへ行ったんだ。用件が思ったより早く終わったんで隣接する中央図書館へ寄ったんだ。府のに比べると歴史が新しいので蔵書数は然う多くはないし網羅的でもないが、思わぬ本が有るんだ。其処で惇の件に関連の有る本を見付けたんだ。正確な書名は忘れたが、『前世を記憶する子供達』とか言うのだった。其れに依るとインドの田舎の確か女の子だったが、急に、私は今度初めて生まれて来たのではなくて或人の生まれ変わりだ、と言い出したんだ。そして前世に住んでいたという村の様子を詳しく説明したんだ。其の子は生まれた村から一歩も外へ出たことが無かったので、周りの人達は本気にしなかったが、余りに具体的なので、機会が有って家族の者だったか村の者だったかが其の遠い村を尋ねて行ったら、其の通りだったというんだ。其の上昔然ういう女の人が居たという事も判ったんだ。」
すると妻は今日は明るい様子で反応した。
「偶然の一致と違いますか?」
「偶然にしては余りにも符合してると思わないか?」
「ほんなら気持ち悪い程偶然の一致のお話をしますわ。私が小学校に入った時、まぶたにイボの有る子が居やはったんどす。私は町通りをお母ちゃんと歩き乍ら其の話をしました。車が往き来していて喧しかったんで大声で『目にイボが有る・・・』と言うた途端急に町角から女の人が現われたんどす。見たら何と目にイボが有ったん。大体目にイボの有る人て珍しいどっしゃろ。其れがよりによってそんな処へ出て来はるなんて物凄い確率ですえ。そして其の時其の女の人が悲しそうな顔をしやはったん今でもよう忘れまへん。其れから私はとっさに物を言わんようになりました。」
「へえー。そんな事が有ったのか。でもね、インドの田舎の話はもっと符合する事が多いんだ。」
「日本の田舎は大体何処でも似たり寄ったりですやろ。インドの田舎も似たり寄ったりやと思いますわ。其れに人口の多い国やさかいに似た境遇の人も居るのと違いますか?」
「でもね。僕は超能力の存在を否定できないと思うんだ。例えばねずみや犬は地震を予知して怯えると言うじゃないか。人間は野生を失ってしまった為、ぐらぐらっと来る迄判らないんだ。然し発展途上国の人には予知できる人も有るらしいよ。」
「未開発国でのうても有りますえ。私の高校時代のお友達に物凄う直観力の鋭い人が有りました。お天気はよう当てはったし、一緒に歩いていて道に迷うた時、其の人が『こっちや』と言わはったら大抵間違い有りまへんでした。一番気持ち悪かったんは皆で琵琶湖へ行った時、電車で行こうかバスで行こうか迷いました。電車は少し高いけど安全で快適で早い、バスは安いけど揺れるし遅い、と皆で意見が別れた時、其の子の『今日はバスで行こ』の一声でバスにしました。そしたら其の日電車と乗用車の衝突事故が起ったんどす。そやし偶然はなんぼでも有るし、気持ち悪い程物を当てる人も居やはるさかいに、惇の言うた事あんまり気にせんでもええのと違いますか?」
 日頃余り理屈を言わない妻が今日は理路整然と物を言うので彼は返す言葉が無かった。

其れから一週間か十日程経った。夕食時に今日は彼女の方から切り出した。
「あんたやっぱりこの頃如何かしたはります。大分頭が疲れたはるみたい。そんなんうち厭どす。今日はうち逆らわへんさかい何でも言うとくりゃす。そしてあんたもけりを付けとくりゃす。」
「然うか。そしたら僕の知っている事を皆言おう。といっても僅かな事なんだ。」
「何でも聞きますえ。」
「先ず惇が言ったのは『あっしゃなぁ、海で溺れたのになぁ、だーれも助けて呉れなんだんさなぁ・・・ぐじら、だいおん』なんだ。」
「たった其れ丈なら何ちゅうことあらしまへんやないの。」
「確かに字で書けばたった其れ丈だが、実際この耳で聞いたら其れでは済まないんだ。」
「へーえ?」
「先ず、最初の科白は京都弁ではない。然りとて園のシスターや先生方の使う共通語でもない。何処かの方言らしいんだ。」
「成る程ねー。」
「それと最後のグジラ、ダイオンは如何思う?」
「グジラ、ダイオン・・・。」
「君に笑われるのを承知で僕の考えを言えば、最初の科白は惇の前世の人があの子に乗り移って言っていると思うんだ。然し最後の二語はあの子の言葉だと思う。或は前世の人も子供で惇と同じ様に幼児語を話してたのかも知れない。」
「まぁー、種々と考えはったんどすなぁ。」
「此処からが大切なんだ。惇がグジラと言ったら何の事だと思う?」
「あの子やったらクジラかグシラの事どすやろうねぇ。」
「其の通り。君は親だから直観的に判ったが、実は理に適ってるんだ。一寸難しい説明をするけど、君に笑われない為にも理論的に武装しておく必要が有ったんだ。尤もこれはうちの課に大学で言語学を専攻した若い優秀な女性が居て、其の人に特訓を受けたんだけど、幼児は或音(おん)が発音しにくい時は前後の音の影響を受けるというんだ。そしてこれは日本語に限らず或程度世界共通らしいんだ。濁音という言葉は大体日本語にしか使わないが分かり易く言うと、幼児は濁音は比較的発音し易い為に或発音しにくい音が有って其の前後に濁音があれば、其の発音しにくい音は前後の濁音に引きずられ易い、という原則から彼女はクジラかグシラが起り得ると考えたんだ。然し後者は意味を成さないのでクジラと推定したんだ。」 

「そしたらダイオンはライオンでしょう?」
「如何して分かったんだ?」
「惇は童謡の『おもちゃのマーチがラッタッター』のお終いの処丈が言えて『ダッタッター』どすやろ?」
「これも君が当ってる。ラは幼児に取って発音し易い音ではないそうだ。それで後ろのタの影響を受けてダになるんだそうだ。」
「何や難しい話になりましたねぇ。」
「済まなかった。では僕の結論を言おう。惇の前世は鯨の捕れる地域の子で海で溺れて死んだと思う。」
「そんなん雲を掴む様な話やおへんか。仮令ほんまに有った話としても、其処へ辿り着き様もあらしまへん。」
「今の段階では確かに無理だが、地域はかなり狭めることができるよ。昔から捕鯨をやっていたのはよさこい節にも出てくる土佐一帯、其れに太地町を中心とする紀伊半島沿岸だろう?」
「そんなん一寸も狭まったらへん。第一前世いうても何時の時代かも分からへん。」
「其れはライオンというからには明治以降の事だろう。」
「然う断定してもええのやろか?」
 彼が何か言おうとした時、さっきから掛っていたテレビのニュースが後半になって各地の季節の話題を紹介していた。
〈二月に入りましたが、一年の厳寒期ということもあって節分会の他は全国的に行事も少ない様ですが、三重県尾鷲市に伝わるヤーヤ祭を御紹介致しましょう。〉
  画面では若者達が夜海に飛び込んで身を潔め、ヤーヤと声を掛け、もみ合い乍ら市内を練り歩いていた。
 テレビを見ていた二人は思わず顔を見合わせた。
「あれ、惇の『ヤーヤ』と一緒どすなぁ。」
「本当だ。」
  惇は小さい時から興奮したり熱中したりすると「ヤーヤ」と叫ぶ癖が有った。然し二人は其れを聞き馴れていたので気にも留めていなかった。彼は直ぐ地図を取り出した。
「尾鷲は漁港だ。捕鯨の太地町とは同じ紀伊半島沿岸だ。捕鯨をやってたかも知れない。」
「私今テレビで『ヤーヤ』見て思わず興奮しました。惇の『ヤーヤ』とあんまりよう似てたんで。」
 妻は今迄にない関心を示し乍ら言った。
「あんたの『前世探し』も五パーセントぐらい信じる気持ちになりました。」
「何だ、丸で消費税みたいじゃないか。」
  頭から相手にして呉れなかった妻が初めて関心を示したので彼は嬉しくなった。

 妻は女児を出産した。其れで彼女は新生児を、彼は施設の惇を主に分担した。赤ん坊の首が座るのを待って「マリアの家」へ連れて行って惇に見せてやった。惇は事情が好く分からない様子だったが、其れでも嬉しそうにしていた。
そんな多忙な日々を送っているうちに梅雨も過ぎ、祇園祭りが有って大文字が燃えて夏も終り、秋になった或日、役所で回覧が回って来た。回覧は重要度の低いのが多いので忙しい時は彼はろくろく目も通さず大抵サイン丈して次へ送るのだが、今日は何気無く見ると次の様に書いてあった。

〈レクリエーション旅行のお誘い ・・・ 土曜閉庁の実施に伴い、予てから念願でありました一斉二日休暇が実現致しました。就いては課内有志が下記の要領で一泊レクリエーション旅行を計画致しましたので奮って参加して下さい。〉

そして日時や費用の他に行き先は三重県鳥羽市及び答志島、目的は釣りとシーフードの料理によるレクリエーション、交通手段は各自の乗用車に分乗してドライブツアーをする等が書いてあった。向井はふと惇の前世の事を思い出した。決して忘れていた訳ではなかったが、家族が一人増えた忙しさに紛れてついつい其の侭になっていたのに気付いた。彼は暫く考えていたが思い切って参加希望者欄に記名しておいた。
すると夕方、退庁に備えて業務を片付け、書類やはんこを仕舞って施錠等をしていると係長がやって来た。
「向井はん。」
「?」
「今度の旅行の参加希望者にあんたの名前が入ってるけど間違いやないやろね?」
「間違いありません。参加します。」
「然うか。今回は初めての試みで発起人や幹事は組合の青年部や婦人部が中心になって大いに盛り上がってる様や。そらあんたが行ったら皆喜ぶやろけど、無理せんでもええのやで。休みのたんびにあんたが周山へ行ったはんのは皆知ってるし、奥さんも赤ちゃん抱えて大変やろ。家でゆっくりしたら如何や?」
 人の好い苦労性の係長は心配気だったが、向井は笑って答えた。
「有難うございます。今後は如何なるか分かりませんが、今回は第一回でもあり是非参加したいと思います。」
 帰宅して向井は妻に伊勢旅行の話をした。皆と一緒に答志島に渡り其の晩はシーフードで酒を飲み、翌日皆は釣りを楽しむが彼丈島を出て尾鷲へ向かう、これは了解を得てある、と言った。
「なんの目的で別行動取るか言わはったん?」
「そんな事言わないよ。聞かれもしなかったし。」
「其れでも、不思議に思わはったと思うわ。」
「他人の事そんなに気に掛けてないよ。其れよりも僕が行く丈で皆喜んで呉れているんだ。」
「ほんなら分かりました。一人増えたことやしあんたには今迄以上に協力して貰わんなりまへん。そやのに人間気懸かりな事が有ると気が晴れまへん。どうぞ出掛けて行って心行く迄調べて来とくりゃす。」
「有難う。じゃあ僕も今回の旅行で前世の話はお終いにするよ。」
「偉い。そして何時ものあんたに成ってね。私つらかったん。」
「御免ね。もう心配掛けないから。僕は惇の前世の有無については基準を設けたんだ。第一点はあの方言を話す地域が在るということ。尾鷲であれば理想的だが、熊野、新宮、太地迄含めてもいいと思う。第二点はこの方言を話す地域に昔溺死した子が居たということ。第三点は鯨だが、これはもう解明したも同然でこの辺りは捕鯨をしたから大して調べる必要も無い。第四点はライオンだ。この四点全てが解明されない限り偶然の一致か惇の戯言だったということにする。」
「それは一寸きつ過ぎます。何時の時代の話か分からへんのやし、溺れ死んだ子を捜し当てることは一日では無理どすえ。そやさかいに私は其の子は見付からんでもええと思います。あとの三点が証明されたら、私は惇の前世を信じます。」
彼は調査の結果に拘らず気の晴れる思いがした。

 三、 鳥 羽 へ

 一行は数台の車に分乗して朝早く京都を出た。向井は自分の車は出さず乗せて貰う側だった。五、六台で行くとなると連なって走ることは難しく、他車が割り込んで来て先達の車が見えなくなることがあるので、各車単独行ができる様に其れ其れ道路地図を用意した。少しでも早くというのであれば名神高速に入って栗東インターチェンジを出て一号線に入れば好いのだが、名神は防音壁が多くて景色が詰らないと若い女性職員達が言い出したので通行料の要らない一号線を始めから走ることにした。
  一号線で滋賀県を抜けて亀山迄行き、其処から三〇六、二三号線を南下して津を通過し松阪に向かった。自動車旅行では助手席で地図を見乍らドライバーに指示を与える役を航海・航空に準じてナビゲーターと言い、優秀なナビゲーターに乗って貰うとドライバーは運転に専念できて疲労が少なく快適な旅行になる。向井の乗った車では女子職員即ちギャル職員がナビゲーターを務めた。この役は車酔いが付きもので皆から敬遠されるが、このギャル職員は平ちゃらでてきぱきと指示を与えていた。
 松阪でランチタイムになった。折角松阪肉の本場へ来たのだからとビフテキを食うことになった。平生軽いランチに馴れている年輩組にはおっかなびっくりだったが若い連中は大喜びだった。
 休憩を十分に取り、役割を交代して出発した。ナビゲーターを向井に譲ったギャル職員は後部座席に退き、男性職員達の釣り談義もものかは、腹満ち足りて心地好さそうにぐうぐう寝出した。向井は職場においても若い女性職員達の意欲や体力のしたたかさを感じていたが、職場とは別に今改めて女性が様変りして来ているのを実感した。彼が勤めだした頃の女性職員達は大人しく努めたし周りも其れを望んだが、この頃は元気なギャルを求める様になって来た・・・彼は助手席に座り乍らそんな事を考えた。然しナビゲーターをさぼった訳ではない。殆ど国道や地方主要道を走り続けた為道路標識も整備されていて彼の出番が無い程だった。

 十分陽の高いうちに鳥羽に着き、車を預けて答志島に渡った。幹事達が自慢した丈あって活魚料理が旨かった。日本酒やウィスキーやビールをごっちゃに飲み、昼間の疲れもあってか皆気持ち好く酔ったが、ここでもギャル職員達は強さを発揮し向井を驚かせた。
 翌朝彼は早起きしたが、定期船には早過ぎたので個人の船に乗せて貰って島を出た。船が岸壁を離れ直線航行に入ると船主らしい男が操縦を若い者と交代して向井の居る船室に入って来てタバコに火を付け乍ら言った。
「お客さん。これから何方へ行かれます?」
この五十がらみの男は訛は有るが先ず先ずの共通語だった。
「尾鷲へ行こうと思ってるんです。」
「ああ尾鷲ですか。何か用事が有るんですか?」
男は突っ込んで尋ねた。然し素朴な感じで嫌みは無かった。
「大した用事が有る訳でも無いが・・・。」
向井が言い淀んでいると男は続けた。
「あそこは大体漁業で其れに林業の町だから観光で行く人は余り無いですよ。魚は旨いですが。」
「小父さん、能く知ってますねぇ。」
向井は感心した。
「いやー私は若い頃は漁師だったんで伊勢湾や熊野灘の事は大体分かりますよ。其れに各浦の漁師とも結構繋がりが有るのです。今はこうやって観光業をしてますが。」
 道理で共通語を話すと向井は思った。其れで船が鳥羽港に着く迄の間にこの話好きの男にできる丈聞いてみることにした。
「じゃ小父さん、一寸聞きたいんだけど、尾鷲でも捕鯨をやっただろうか?」
 船主は即座に答えた。
「そらやったでしょうよ。熊野灘一帯は黒潮に乗って鯨がやって来たんだから。」
「其れは確かですか?」
向井が念を押した。
「太地が一番有名だが、大なり小なり何処でもやった筈です。」
男は淀み無く答えた。向井は四つの基準の一つをクリアーしたと思った。其れで次の質問に移った。
「尾鷲の言葉って特徴有る?」
「有ります。何でも言葉の最後に『---な、---な』と付けるのです。ここらも多少は言うのですが。其れと言葉が早いのです。だから尾鷲の人は直ぐ判ります。」
 未だ聞きたかったが船が速度を落として鳥羽港に入ったので向井は其処で打ち切り、実直そうな船主に礼を言って船を降りた。

 四、 尾 鷲
鳥羽から尾鷲へ行くには参宮線で多気迄行き紀勢本線に乗り換えるのだが、向井は多気のプラットホームで嫌という程待たされた。一時間に列車が一本も無い時間帯も有るのには驚いた。やっと乗った列車の中で彼は朝船主から得た情報を反すうしてみた。クジラは解決した。方言の件だが惇の言った言葉の中に「---なぁ」が三ヶ所有った。然し尾鷲で聞いてみないと何とも言えなかった。
列車は尾鷲に着いた。彼は駅を出てから持参の尾鷲の地図を拡げた。学生時代以来の旅行好きと役所勤めをしてからの出張等で調査の方法は心得ているつもりだった。何処の地方自治体でも商工観光課と言う様なのが有って地理案内や歴史・観光の簡単なパンフを用意しているものだが、今日は日曜だから其れは望めなかった。観光地だと地元の業者と自治体とで作った観光協会という様なものが大体駅近くに在るものだが、其れも見当らなかったのでこれは困ったと思った。それで駅前の喫茶店に入ってコーヒーを飲み乍ら地図を詳しく調べてみた。すると駅から真っ直ぐ紀望大通が海迄伸びていて駅から数百米の所に「郷土館」と記してあった。これはしめたと彼は思った。然し地図に示された所へ行ってみたが其れらしいものは無かった。地図には確かに書いてあるのにと思って丁度仕舞うた屋風の家から出て来た主婦に聞いてみた。
「ああ、郷土館は公民館の郷土室に移りました。」
其の主婦ははきはきと答え、おまけに一番早く行ける近道迄教えて呉れた。然し彼は万事休すだと思った。日曜日だから公立の施設なら図書館以外は多分閉館に決まっている、本当についていないと思った。でも折角あの主婦が教えて呉れたのだからと行ってみた。すると意外や開館していた。日曜開館なのか特別催しの為かは判らなかったが、入り口に講演会の立て看板が立っていた。市が主催ではないが後援の老人向けの催しだった。待てよ、貸し館なら職員は保安係位しか居らんだろうが、共催や後援ならひょっとしたら事務職も一人位は出勤しているかも知れない、と思って彼は入って行った。講演はもう始まっているらしく、会場の扉の近くに受付けや案内の人が二、三人細長いテーブルを前にして座っている丈だった。彼は其の中の比較的若い男性に思い切って声を掛けてみた。
「あの、この中に館の職員の方は居られるでしょうか?」
「私が然うですが。」
と其の男性は答えた。向井は地獄に仏の思いがした。向井の安堵の表情から何かを察したのか其の職員は親切そうに尋ねた。
「何か御用でしょうか?」
「実は京都から来たこういう者です。」
と向井は役所の名刺を出した。すると其の職員も名刺を出した。見ると中央公民館郷土室主事Tと書いてあった。役所同士の名刺交換の効果は絶大でありたちまち双方共親近感を持った。それに両者共地方自治体の役所のメインである戸籍や税金の部局でないのも共感が有った。
「遠い所から克くお出で下さいました。」
とT氏は向井を労った。
「尾鷲の古い事をお聞きしたいのですが。」
と向井が言うと
「それじゃ、こっちへ来て下さい。」
と言ってT氏は向井を陳列室へ連れて行って、暗かった室内照明のスイッチを入れた。すると如何だろう。数々の展示物がガラス戸の中に収めてあったが、其の中の鯨打ちの大きな銛が二本妖しい光を放っているのが目に飛び込んで来た。向井は軽い興奮を覚えた。これでクジラは完全に証明できたと思った。
  向井が尋ねた。
「鯨捕りは何時頃から何時頃迄行われたのですか?」
「江戸時代丈ですよ。」
 T氏は答えたが、向井が物足りなさそうな顔をしたので、
「一寸待って下さい。」
 そう言って資料室に入って行ったかと思うと直ぐ本を開いて持って来て答えた。
「寛永頃から藩営で行われまして明和の頃に終わっています。徳川初期から中期迄ですね。」
 T氏の応対はてきぱきしていた。其の他にも資料を出して来るのが早かった。恐らく東京か関西へ出て大学で専門教育を受け、地元へ戻って来たんだろうと向井は思った。
「尾鷲の方言は語尾に『---な』が付いて、そして早口ですか?」
「其の通りです。東京で喋ったら早過ぎて何処の国の言葉かと言われました。」
「子供の言葉もやはり然うですか?」
「私達が子供の頃は尾鷲弁しか通じなかったんですが、最近の子はテレビやラジオ等の影響で可成標準語を使います。」
T氏は少し笑い乍ら答えた。向井は思い切って意地悪な質問をしてみようと思った。
「では済みませんが次の文を男の子の尾鷲弁に翻訳して下さい。」
然う言って向井は持参したノートに
 〈僕、海で溺れた。誰も助けて呉れなかった〉
と書くとT氏はたちまち喋り出した。
「『あっしゃなぁ、海で溺れたんさぁ。だーれも助けて呉れなんだんさぁ』。」
正に同時通訳だった。然し惇が言ったのとは少し違っていたので向井は尋ねてみた。
「『溺れたのになぁ』ではいけませんか?」
「ええ、其れも言いますよ。」
とT氏は首肯いた。其れでは後一つと思って向井は更に尋ねた。
「『助けて呉れなんだんさなぁ』ではいけませんか?」
「其れも尾鷲弁ですし、『助けて呉れなんだん』も言います。」
T氏は滑らかな尾鷲弁を話して呉れた。これで惇の言った言葉が尾鷲弁であることも実証された。この上は溺死した子の話を聞き出したかったが、もうこれ以上の時間を公務中のT氏から奪うのははばかられた。向井は厚く礼を言って別れた。
 向井は人気の無いロビーのソファに腰掛け乍ら頭の中を整理してみた。四点の内二点は完全に証明された。後は溺れた子とライオンが解明されれば惇の前世は確認される。然しクジラも問題が無い訳ではなかった。捕鯨が行われたことは確かだが江戸中期で終わっている。一方惇の尾鷲弁は現代である。二点共事実だが互いに繋がりが無い。溺死した子に就いては今日は無理でも時間を掛けて調査すれば行き着けるかも知れない。しかしライオンの謎は最後迄解けないのではないか、と彼は段々弱気になって来た。
 其の時、講演会場から三、四人の六十歳代の女性が出て来てソファーに腰を下ろした。外の空気を吸いに出て来たという様子で、これといって何も喋らなかったが、互いに親しそうだった。向井はもうこれが今日最後のチャンスだと思い、思い切って声を掛けてみた。そして、貴女方は尾鷲の古い事に詳しいか、特に子供の事件の記憶が無いか等を尋ねてみた。彼は自分の言葉が地元の老女達にどれ位通じるか自信が無かったし、奇異な質問でもあったので彼女達が面喰らうのではないかと予想したが、案に相違して彼女達は顔を見合わせ乍らも口々に喋り出した。自分達は老人会では若い方で古老の資格は無い、狭い町の事だからいろんな事を知ってはいるが、噂なのか事実なのか自信は無い、年寄りが好い加減な噂話をすると若いもんに嫌われるといかんのでお互いに戒め合っている、と一人が笑い乍ら言った。すると別の老女が、良源寺さんなら一番いい、元学校の先生や旧家の人達で作っている郷土史研究会の世話役でもあるし、昔あそこの寺は託児所みたいなこともしておられたから、と言った。するともう一人が、良源寺さんはもう直ぐ出て来る筈だと言った。
 暫くすると七十歳代の老女が出て来た。ソファーに座っていた彼女達は其の老女と向井を引き合わせて呉れた。彼は「良源寺さん」は和尚だと許り思っていたのが老女だったので些か当てが外れたが、もうこの人しか無いと思うとできる丈の事を聞き出そうという気になった。
「遠方からようこそお越し下さいました。ここは騒がしくなるもんで宜しかったら寺の方へお越し下さい。町なかよりは静かで景色もいいです。」
 そう言って其の老女は先に歩き出した。ゆっくりとした足取りだったが足腰はしゃんとしていた。然し向井はこの老女が先の三人の女性とは違うので本当に地元で生まれ育ったのだろうかと心配になった。というのは少しは土地の訛りが有ったが、共通語に近い言葉を話したからである。
 そんな彼の心配を知ってか知らいでか、彼女は自分の話をし出した。
「京都からと仰いましたなぁ。私も京都には少し縁が有るんで懐かしいです。」
 彼は路上で例の話を切り出す訳も行かないので、彼女に打ち解けて貰う為に専ら聞き役に回ることにした。
「私は嫁に来たんではなく寺に生まれました。うちの寺は尾鷲で一番古い寺でしてなぁ、昔は本山から住職を送り込んで来たんじゃろうが、明治・大正となるうちに何となく世襲制になりました。ところがうちには私の他に男の子が出来んかったもんで、仕方なく本山から住職を送って貰って私と夫婦に成ることが考えられました。父も京都で修業して来たハイカラさんで、私が恋愛結婚でもして好きなところへ嫁入りしたら幸せになれるのに、家付き寺付きが可哀想じゃと言うて、尾鷲に帰ってくる事を条件に京都の宗門の女学校に遣って呉れました。私も勉強が好きじゃったし、女学校を卒業ひた後も女専迄行かせて貰いました。戦争が激しなる前で、お芝居見に行ったり、音楽会聴きに行ったり、甘いもん食べに行ったり、三高や帝大の傍歩いてみたりして、夢の様に楽しい青春時代でした。面白いことになぁ、寺を継がんならん娘がクラスに三、四人は居て、おんなじ境遇の所為か仲良うなり、生きてるもん同士今でも付き合いが有ります。」
 彼女は並んで歩き乍ら時々にこやかな顔を傍らの彼の方へ向けた。道理で話振りがさっきの女性達とは違って聡明なのだと思った。川縁を歩き乍ら途中で尾鷲神社と書いてある石碑の傍を通り過ぎたがテレビで見た通りだった。
「それで尾鷲へ帰ってから女学校の先生でもしたんですか?」
と彼が聞いてみたが、彼女が答える前に寺に着いてしまった。ひんやりする土間から開け放した座敷に上がると風が木々の薫りを運んで来た。
 彼女はもう一度改めて簡単に挨拶をし直してから話を続けた。
「私は尾鷲へ帰って来て、本山から来た和尚(おっ)さんと夫婦に成りました。京都では住職が学校の先生を兼ねたりしてますが、この辺では檀家が喜びません。幸い檀家が多いもんで専業を通しました。勿論私も主婦専業でした。」
「それで和尚さんは?」
「本山の役員をしたりして頑張っとりましたが、六年前に亡くなりまして息子が跡を継いで呉れとります。」
 そう言って彼女は嬉しそうな顔をした。其の時三十代位の主婦が入って来て黙礼をしてお茶とお菓子を出して引き下がった。これが若い住職の嫁なのだろうと彼は思った。
 彼女の話が一区切りついたところで、彼は単なる質問をぶっつける丈では失礼になると思い、お茶で喉を潤してから一部始終を話した。障害児の子供が居ること、突然其の子が予期せぬ言葉を喋ったこと、其の謎を解くことが少しでも子供の保育に結び付くのではないかと思って機会を得て当地迄やって来たこと、等を一気に話した。彼女はもうにこにこはせず、時々相槌を打ち乍ら真剣な顔をして耳を傾けていたが、
「流石は親御さんですにゃ。よう其処迄考えてお上げになりました。私でお役に立つ事が有れば何でも致しましょう。」
そう言って一息吐いてから彼女は語った。
「鯨の話ですが、確かに藩営捕鯨は江戸中期で終わっとりますが、村営や個人の漁は其の後も有りました。この辺の子供は仮令尾鷲で鯨を見なんでも、熊野や太地へは連れて行て貰いますんで大抵見てると思います。仮令鯨を見たこと無い子じゃって話はよう知っとりますもんで、鯨の絵が描けん子らぁ居りません。尾鷲の子の馴れ親しんだ魚はマグロ・カツオ・クジラです。」
 其れでは前世の子は江戸時代でなく現代であっても矛盾は無いことになる。彼は愈々本題に入った。
「尾鷲で溺れて死んだ子の話は有りませんか?」
「正確な事は警察へ行って聞いて貰わんと判りませんが、私は聞いたことが有りませんにゃ。浜の子らぁは小さくても皆泳げますし、山手の林業の子らぁは一人で泳ぐことは無いじゃろしなぁ。」
 彼女は思い当たる節が無い様だった。
「何か有りませんか? これ丈の漁港で子供の水の事故が一つも無かったんですか?」
彼が重ねて尋ねると、暫く彼女は無言で考えている様だったが、ややあって独り言の様にぽつりと言った。
「あれの事じゃろうか? あれほか思いつかん。」
「ええっ、何ですって? どんな話ですか?」
彼は藁にもすがる思いで尋ねると、彼女は遠くを見る様な視線で言った。
「いや、溺れたかどうかも判らんが、子供が居らん様になった話なんです。」
「其れでも好いですから是非聞かせて下さい。」
彼はノートを取り出し乍ら言った。
「いや、元々よう判らん話で、其れも長い間忘れてた話じゃもんで、旨く話せるか如何か・・・。」
彼女はためらっていたが、彼にせがまれて話が前後し乍らぽつりぽつりと話し始めた。

「戦争中の事じゃもんで今から六十年以上も前の事です。私は寺の若奥さんで、私なりに「銃後」で何か出来る事ないか如何か考えてました。寺の境内は昔から年寄りや子供があすびに来る所じゃったんで、何日とは無しに近所の子供らの面倒を見る様になりました。春は潅仏会をしたり、夏は本堂の縁側で昼寝をさせたり、又私は絵を描くことが好きじゃったんで自作の紙芝居をしたりしました。男らぁは漁に出て留守で、女らぁは浜に出て魚を干したりして働くもんで子供は放ったらかしです。学校へ上がった子や兄姉の居る子はあすび相手が有るんでここへは来ません。そいじゃよってここへあすびに来るんは其れ以外の子です。そん中にあの子が居ました。」
「名前は覚えておられますか?」
彼が口を挟んだ。
「名前は覚えとりません。苗字はここらによう有る姓じゃで知っとりますが、その子の父親ゆうんが又不幸な人で、私と小学校は一緒で清一といいましたが、両親を亡くして親類に育てられた大人しい人でした。親類一統が漁師なんで自分も漁師に成りましたが、色白の優男であんまり漁師らしうありませんじゃった。じゃって小さい頃から漁を手伝ってましたもんで腕は一人前の漁師じゃったと思います。
 この清一っぁんがどっからか嫁さんを連れて来たんです。漁師は方々の浦に寄りますんで其処で知り合ったんか、誰か引き合わせる人が居たんか判りません。私が京都の学校に行ってた時ですもんで。親類のもんもちょびっと早いと思うたそうですが、嫁取りをしてやる手間が省けたという感じで、別に反対は無かったようです。ここらの嫁さんは大抵尾鷲九ヶ在の何処かから来た人か、他郷といっても近くの名前の知れた在の人で、風習も考え方も大体似たり寄ったりなんでじっきに尾鷲に馴染みますけど、この嫁さんは何となく異和感が有りました。其れに京都か如何か判りませんが関西訛りが有りました。そひて何よりもこの嫁さんは垢抜けしていて、如何見ても百姓や漁師の娘ではありませんでした。
 けど漁師の妻になり戦時中のことですから地元の女らぁに交じって働いてました。自分から口を利くことは無かった様じゃが、受け応えはちゃんとするんで除けもんにされることはありませんでした。元々ここの女らぁは陽気でよう働きますんで、今で言う苛めみたいなのんは無かったと思います。
 そうこうするうちに男の子が生まれました。実家へも帰らず姑も小姑も無かったんで働き乍らの子育ては大変じゃったと思いますが、少し大きく成って其の男の子は寺の境内へ来る様になったんです。夫婦仲は睦まじい様でした。清一っぁんもこの子が可愛いい様で、漁から戻ると子供を肩車に乗せたり手を引いたりして浜を歩いてるのを見ましたし、漁の無い時は親子三人連れで汽車に乗って遠出もしていた様でした。
 然し戦争が激しくなって来て、尾鷲からも若いもんが大勢出征して行きました。其の為漁師は年行き許りになって漁業も段々寂れました。うちの和尚(おっ)さんも召集が来るか従軍僧に成るかと覚悟した位です。其の内あの子のとっさんにも召集が来ました。」
「海軍ですか?」
 彼は咄嗟に尋ねたものの話の腰を折った様でしまったと思った。
「其れは覚えてませんけど、陸軍が殆どでした。確か自分で海軍を志願すればそっちゃへ回して貰えるけど普通は陸軍じゃった様です。漁師は海の怖さを一番よう知ってますし、海軍は陸軍ほど人数は要らなんだと聞いてますよって。
 戦争が終わってから復員が始まりましたが、無事で帰って来た人も有りますけど、外地に抑留されて帰りが遅れた人や、帰って来たもののもう漁師は務まらん体に成った人も居りました。そひて其の子のとっさんは戦死でした。お葬式はどれでも悲しいもんですが、一家の働き手である息子や夫を失った家族は悲惨でした。当時寺は戦死者のお葬式ばっかりしてた様に記憶してます。
 日本中何処でも戦争未亡人は子供を抱えて生きて行くのが大変じゃったと思いますが、ここでも大変でしたけど、互いに親類や株内の地縁で結ばれてますのと、漁業も林業も女らぁの肉体労働が有ったんで何とか皆さん戦後を生き抜きました。可哀想なんはおりゑさんで、ああ名前思い出しました、りゑさんです。自分は身寄り頼りが無い、夫の親類筋は其処も戦死者を出したりしておりゑさんの面倒を見るどころでない。其れでおりゑさんは幼児を抱えて一人で生きて行かんとなりませんでした。其れに如何してか戦後は魚の方の仕事はしなくなり、和裁や洋裁をしてました。勿論時代が時代で田舎のことじゃもんで新調の仕立ての仕事らぁ無く、縫い直しや寸法直しや修理等をして其の日其の日を食べてるという様子でした。其れでうちらぁ当時祖母も母も居て女手は有りましたけど、成る可くおりゑさんに仕事を上げる様にし、お供え物のお下がりを上げたりしました。
 けど悪い事は重なるもんで、あの子が病気に成りました。寺へ来ん様になったんで判りました。なんの病気か知らんけど高熱が出て一時は危なかったそうなが、おりゑさんはあの子を医者に掛けました。其れで其の子は一命を取り留めましたが、医者の払いを如何したやらと思うてました。」「其の子は元通りようなって寺へ来る様になりましたが、夕方になって他の子が家へ帰っても一人残る様になりました。おかしいなと思てると、おりゑさんのえーに若い男が出入りするという噂が立ちました。狭い町じゃもんで噂はじっきに拡がり、然ういう話に女らぁはえずいんで、おりゑさんに仕事を出さん様になりました。私が仕事を持って行てもおりゑさんは顔を背ける様になりました。其の内、毎晩いろんな男らぁが出入りしてるという噂が立ち出しました。あの子は暑い日も寒い日も寺へ来ましたが、皆が帰ってしまった後、何処かで拾て来た犬ころと何時迄もあすんでました。最初寺に来始めた頃よりは大分大きなったんで大分喋れる様になってた筈ですが、逆に口数が少なくなって来ました。そひて遠く迄一人歩きができる様になったんで、夜犬ころを連れて浜へ出て海を見とるところを訳知りの人が連れ戻した事も何度か有りました。」
 彼女は流石に少し話疲れたのか、お茶のお代わりの声を掛けて一服した。すっかり話に聞き惚れていた向井は慌てて我に返った。彼女はお喋りではないが語り口が確りしていて全然田舎の老女という感じを抱かせず、昔女専迄出た人はやはり違うと思った。そして自分が其の年になってもこれ丈の記憶力と頭脳明晰で居れるか如何かと思った。
 元気を取り戻した彼女は直ぐ話を続けた。
「それから例のヤーヤ祭がやって来ました。さっき通った尾鷲神社の祭礼です。今から考えると可笑しいことですが、昔は神仏混淆で神社が両源寺の鎮守だったんです。ヤーヤ祭は何百年も伝わる古い寒祭りです。」
「お話の途中で済みませんが、どうしてヤーヤ祭りと言うんですか? 何か方言ですか?」
「ああそれは変わった名前に聞こえるかも知れませんが、昔、戦国武士が戦場で『ヤーヤ我こそは・・・』と名乗ったのに由来するということですにゃ。
 あの日は二月に入った許りのさぶい日でしたが、例年の如く若いもんが一斉に浜の魚市場へ走って行って海に飛び込んで体を潔め、其れから夜遅く迄もみ合い乍ら町を練り歩いたんじゃが、真夜中になって、おりゑさんが子供が帰らん言うて髪を振り乱しておめき乍ら近くの北川や海を捜し出しました。体を潔めに海へ飛び込んだ若もんの中から、然ういえば子供みたいに小さいもんが巻き込まれて一緒に落ちた様な気がする、と言うもんが何人も現われて、大騒ぎになりました。其れに多少後ろめたいもんも少なからず居ましたんで、お祭り気分もふっ飛んで夜明け近く迄捜しました。」
「で、どうでした?」
「見付かりませんでした。未だ電気の照明が十分でなかった頃で、漁火を焚いたり、松明みたいなのを作った様に憶えています。」
「朝になって魚市場の岸壁近くに犬ころの死骸が浮いてました。其れで岸壁付近一帯を底ざらいしましたが、なんも見付かりませんでした。警察は死体が上がらんので行方不明として処理しました。ほいじゃよってお葬式もしませんでした。祭りの最中じゃから余所もんが来てさらって行ったんじゃないかと言うもんも居ました。漁村の子とは思えん上品な顔立ちじゃもんで、然うかも知れんと言うもんも居ましたが、この食料難で東京や大阪に戦災孤児がよーけ居るんに態々こんなへんぴな所からさらって行くだろうかと言うもんも居ました。
 又犬に詳しい人が、犬ころゆうてもあれ位大きく育っていれば海に落ちた位なら何としても泳ぎ着く筈じゃ、海の中で子供が犬ころを掴んで放さなんだか、まづ有り得ん事じゃが犬ころが子供を助けようとして力尽きたんじゃないか、とか議論百出でしたが、結局判らず仕舞でした。話は以上です。」     
 彼女は長かった話を語り終えてほっとした様子だった。向井は暫く呆然として物が言えなかったが,
「有難うございました。お疲れになったでしょう。」
そう心を込めて礼を言った。そして無駄とは思ったが、心残りが有ってはいけないと思ったので彼は尋ねた
「ダイオン、ライオンのことですが、これについては心当たりは無いでしょうね?」
 すると彼女は黙って首を振る許りだったが、
「ダイオンはこの辺でも言いますよ。子供も大人もラクダはダクダですから。」
 彼女は付け加えた。
 彼はさっき駅でメモしておいた時刻表を見ると、熊野・白浜・和歌山と紀伊半島を回って大阪へ出る列車に間に合うので、未だ時間の余裕は有るが何度も礼を言って立ち上がった。彼女が表門迄送ると言って付いて来て呉れたので、彼は石畳を歩き乍らふと思い付いて尋ねた。
「おりゑさんは其の後如何なりました?」
「おりゑさんは其の後気が狂れたみたいになったんでだーれも近寄りませんでしたが、彼岸が過ぎた頃居らんようになりました。かどわかされたと思うて捜しに出たんじゃろか、そいじゃったら『隅田川』を地で行く様なもんです。可哀想な事をした、もっと親切にしてやったら好かった、と後悔したり、哀れに思うたもんも居りましたが、去る者は日々に疎しで、人の噂も七十五日となりました。皆食べるんに精一杯の頃じゃったもんで。」
「其れからおりゑさんの消息は知れましたか?」
「いーい、確かな事はなんにも判りません。」
「生きているのか死んでいるのかも判らんのですか?」
「判りません。ただこんな事が有りました。やっと世の中が落ち着いて来て団体旅行もできる様になった頃ですんで昭和二十年代の終りじゃったと思いますが、男連中が講を組んで京都の本山へ行ってお籠もりをし、其の後精進落としに中書島の遊廓に登楼したんだそうです。そしたらおりゑさんに似た娼妓に会ったもんが居るんです。幾ら無粋な田舎の漁師や樵でも、おやまの身許を聞く程野暮じゃありませんさか、確かめることはできませんでしたが、若かったおりゑさんがちょびっと老けてやつれたら、あないな顔に成るんやないか、と利いた風な事を言うとりました。未だお時間は好いですか?」「其れから十年程後の事ですが、ここの婦人会の女性らぁが団体で、出来たての新幹線に乗って東京オリンピックを見物に行きました。国内旅行は少しずつ盛んになって来ていて、子育ての終わった女らぁは小金を貯めては旅行に出掛けていました。女連中は東京から京都迄戻って来て京都の神社仏閣を見物しました。それで知恩院へ参詣した時、近くの尼僧学校の前を尼さんの見習いか下働きみたいな人が掃き掃除しているのに出会いました。其の人がおりゑさんによう似とるんで、一人が思わず、
『こいな、そんたおりゑさんと違うかなぁ?』
と聞きました。今でいうオバタリアンの走りですから遠慮が有りません。すると其の女の人は、
『私は其の様な者ではありません。人違いです』
と言うて中へ引っ込んでしまったそうじゃが、其の時、其の女の人が少し狼狽えた様子じゃったと何人もが言うとりました。これで本当にお終いです。もう当時を知ってるもんも少のなりましたし、今では忘れられた話になってしまいました。」
 彼女は最後の方を早口で締め括った。彼は時計を見て列車の時刻が迫って来たのを知り、振り向いて礼を言い乍ら小走りに両源寺を後にした。
 列車には間に会った。列車はがら空きで無人駅でも一つずつ丁寧に停車して行ったが、彼は退屈しなかった。今日の出来事を振り返ってみたかった。両源寺の御隠居の語りの余韻が未だ彼の耳に残っていた。そして今回の旅行に来た甲斐が有ったと思った。彼は語りを聞いている間誰が語って呉れているのかも忘れ、唯々話に聞き入っていたが、あれはもう芸の域に入っていると思った。高学歴を持ち乍らも職業に就かず寺の大黒さんとして住職を助け、檀家や地域住民に奉仕し、余生は文化的趣味に生きているのに彼は尊敬と羨望の念を抱いた。
 彼は今日の整理をしてみた。惇の喋った言葉は尾鷲弁であることが確認された、そして四十数年前尾鷲で惇の言ったのと似た事件が有った、鯨は其の子が見聞きした可能性は十分有る、と考えると最後にライオンが残った。ライオンなんて当時大都市の動物園にでも行かなければ見られなかっただろうし、それに戦争末期は安全上猛獣は毒殺か餓死させたそうだし、終戦直後は猛獣を飼う余裕など無かった筈だ、ライオンの謎は解き様が無い、とすれば惇の前世の話は蓋然性が無い、やはり自分の都合の好い様に予見を持ってここ迄に至ったのではないか? 漁村の事だから長い間には子供が溺れたり行方不明になることだって有っただろう、と彼は又もや段々悲観的になって来た。 然し一方で四分の三解決したという悔しさが残った。其れに尾鷲弁を如何して惇が知っていたのか、ダイオンも惇の幼児語丈でなく、尾鷲弁でもあった事実を如何説明したらいいのか、と彼は思い悩んだ。 
 其の時列車が小さな駅に止まった。彼が何気無く車窓の外を見ると「大泊」という駅名と「吉野熊野国立公園名勝 鬼ヶ城」という掲示が目に入った。彼はとっさに荷物を手にして列車を降りた。あと二、三時間ここで道草を食っても今日中には京都へ帰れる、ここで今回のセンチメンタルジャーニィのフィニッシュにしよう、と一瞬頭の中で考えたからだったが、多分に衝動的だった。然しこの駅で降りたのは彼一人であり駅前は余り人影が無く、降りてしまった事を一寸後悔したが、人気の無い待合室に掲げてある地図を頭に入れて海岸へと歩き出した。道を右に折れて川を渡ると川沿いに道は海に向かっていた。
 遠いと覚悟していた割りには早く鬼ヶ城の入り口に着いた。彼は全く予備知識が無かったので海岸に有る鬼の岩屋の洞窟を想像していたが、然うではなかった。何万年も前はもっと水位が高かったのか、或はのちに海岸が隆起したのか、兎に角海水が岸壁を侵食し広範囲に不規則な凹凸の有る奇巌が連なっていた。何時頃命名したのか判らなかったが、知恵を絞って考えたのだろうと彼は思った。徒の「奇巌」では客を呼べないし、「奇巌城」は確かルパンに有ったし、「海賊城」では昔熊野水軍の縄張りだった丈に人聞きが悪いと考えたのではないか、等と想像を逞しくし乍ら彼は岩から岩へと進んで行った。すると、天候に関係なく高波が押し寄せることが有るから注意する様に、という物騒な注意書きが出ていて驚いた。然しここという所には丈夫な手すりが付けてあり、其れもむき出しの金属でなく、岩に合わせて茶色に塗ってあった。道に迷うと岩に鋲が連ねて打ち込んであり道標と成っていた。
 黄昏時で相客は誰も居なかった。こんな孤独に成れたのは久し振りだった。彼は岩窪に座り深い安息を覚えた。何故かほのぼのとした満足感が沸いて来た。もうライオンは判らなくても好かった。きっと惇に対する積年の思いが自分を偏執的にしたのだろう、其の分妻に心配を掛けて済まなかったと思った。
 <さぁ早く帰って明日から元気に働こう>と独り言を言って彼は立ち上がり、残りの岩巡りを歩き通した。西口を経て海岸道路に出ると喫茶店が在ったので其処に入って列車の時間を調べた。丁度好い列車が有り、喫茶店の主がタクシーを呼んで呉れた。
 熊野市駅の売店で鬼ヶ城縁の手土産を買って、彼は程無くやって来た列車に乗り込んだ。列車は発車して速度を上げる間も無くトンネルに入ったが、然し入って直ぐの傍の海岸に天然記念物で高さ二十五米の獅子岩が熊野灘を見据えて咆哮しているのを彼は知る由もなかった。(完) 

縦書きグジラ、ダイオン3040pdf

京のスリーピィホロー

「あっついなー、兄ちゃん。」
 確かに昭一が言うようにその日は暑かった。それで少しでも風に当たるように縁側でごろごろしていたが、南向きなのでまともに暑かった。
 新制中学一年の昭一は実の弟ではなかったが、従兄で高校生の僕をそう呼んでいた。僕には弟が居なかったので、お相手をしてやるのは嫌ではなかった。
 いつも何の前触れもなく町中(まちなか)からやって来るのだが、不思議に僕の居る日にやって来た。二人ともお喋りではないので、将棋を指すか、ごろごろしながら思い出したようにぼそぼそ話したりするが、それも飽きると大抵昼寝をした。
 昭一は自分の家に居るみたいに大きな顔をして、夕食の時には自分で決めた場所に座り、食後一休みすると一寸出てくるような調子で帰って行くのだった。
 昭一は物知りでもなく読書好きでもないが、本質的な物の考え方をして質問するので、頭の筋はいいと僕は思っていた。昭一の唯一の趣味は自転車で、学校が休みの日は、弁当を作って貰って朝から京都中を走り回り、大抵どこでも知っていた。そして月に一回愛車を分解掃除して組み立て直していた。

「ほんまに暑いなぁ。」
 今度は僕が思わず呟いた。すると腹這いになっていた昭一がのそっと体を起こした。
「兄ちゃん、泳ぎに行かへんか?」
「泳げるとこ有らへんがな。」
 当時僕たちはお金を出して泳ぎに行ったりしなかった。
「それが、有るねん。」
「何処やね?」
「P川や。」
「あかん。川幅は広いけど、夏は涸れて水は膝ぐらいまでしか有らへんがな。」
「それがなぁ、上流へ行ったら川幅が狭うなって、ダムになってて深いとこが有るねん。」
「ほんまかいな。わしの知ってる限り、川幅なんか狭うなってないぞぅ。」
「もっともっと上流や。そこまで行ったらほんまに有るんや。」
「しかしそんな遠いとこ、今から行って帰って来るんは大変やし、第一ちゃんとした道も無いやろう?」
「いや、自転車やったらなんとか行って帰って来れる。」
 兎角頭で物を言う僕に対し、実地踏査主義の昭一には今日ばかりは有無を言わせない説得力が有った。それに昭一の自転車の荷台には六尺と手拭いが括り付けてあった。

 とうとう昭一の誘いに負けて、僕も自転車のタイヤに空気を入れ、簡単なチェックをして昭一と家を出た。当時は車も少なく、自転車が二台並んで走れたので、時々横を見て話をしながら走ったが、いつものように僕が話しかけ、昭一が応答した。
「お前、そんだけ自転車が好きなんやったら、軽快車かサイクリング車を買うて貰うたらどうや?」
「そら、1/4(しぶいち)タイヤのもんかて有って、軽いしスピードも出るけど、あんまり乗り心地良うないねん。それに僕は体を鍛えるために乗ってるのやさかいに、重うて遅い実用車が気に入ってんねん。ほんで丈夫で故障少ないしな。」
「成る程そうか。ところで、学校の勉強の方どうや。 中学入ったら英語も代数も始まったやろう?」
「大体分かる。」
「家帰ったら勉強してんのか?」
「ううん。授業中に頭に入れてしまうねん。家では宿題やるだけや。」
「それで、一学期の成績はどうやった?」
「おかんが保護者会行って、担任のせんせからクラスで一、二番やて聞いてきよった。」
「そうか。それで親から勉強の事、将来の事、何か言われへんのか?」
「全然。おやっさんは商売忙しうて出たり入ったりしてるし、おかんは双子の妹たちに掛かり切りで僕はほったらかしや。」
 両親は昭一に家業を継がせたがっていて、なまじ勉強が出来て東京の大学へでも行ったら、帰ってこないかも知れないし、京都の入り易い私学にでも行ってくれることを望んでいたので、勉強してほしくないことは僕も知っていた。それで僕は話題を変えた。
「お前から見て、京ちゃん、都ちゃんという妹が居るって、どんなんや?」
「二人は一卵性で仲が良うていっつも一緒で、僕のことなんか全然関心ないみたい。」
「確かに二人はよう似てるなあ。同じもん着てたら家のもんでも区別つかへんのと違うか?」
「それは分かる。」
 そんなことを言っているうちにP川にやって来た。橋を渡り、右岸を遡ることになった。 川岸の道は何とか二人並んで走れる幅だったので、又、話の続きを始めた。
「それでお前は将来何に成るねん?」
「まだ分からへん。」
「家の商売、どうやねん。」
「わし、何も知らんねん。そやさかい、ええも悪いも分からへん。」
「そやけど商売安泰なんやろう? 古い老舗なんやからな。」
「ほんでも、これから先は分からへんと思う。」
「何でや?」
「小さい頃、店員さんも仰山居たけど、今は少のうなってきてる。」
「そうか。ほんでもまあ、未だ中学入ったばっかりやさかい、急いで決めることもないわな。」

いつの間にか道幅は狭くなり、並走出来なくなったので、前後になって走っていると話も出来なくなった。さらに走って行くと、道は石ころだらけになって自転車は走れなくなったので、道端に置いて行くことにしたが、何故か僕たちは自転車を寝かせておいた。
 歩けども歩けども大して風景は変わらなかったが、日は照っているのに風は涼しくて汗が出ず、町中より数度気温が低く感じられた。
 どれくらい歩いたのか、距離感が鈍くなり出した頃、突然微かな子供の声が聞こえてきた。昭一が叫んだ。
「あ、泳いどんにゃ!」
 足を速めて行くと成る程昭一が言っていた水苔の付いた古いダムが見えてきた。そのダムの傍に家が二、三軒在って、そこの家の子らしい小学生が、四、五人泳いでいた。僕たちが着ている物を脱いで六尺姿になっても、彼らは全く意識することなく、泳いだり、ダムから下の淀みへ飛び下りたりして遊んでいた。僕たちは彼らに声一つ掛けるでなく、ラジオ体操と柔軟体操をして、川というかダムに飛び込んだ。何と水は澄み切っていて、潜って目を開けると川魚の泳いでいるのや川底の小石を見ることが出来たが、水が冷たくて十分も泳ぐと水中に居られなくなり、コンクリートの護岸に腹這いになって、歯をガチガチいわせながら太陽熱を浴び、暖をを取ると又水に入るのだった。
 こんな有様だったから多分一時間ぐらい泳いで引き揚げることにしたのだと思うが、子供たちは僕たちの方を見るでもなく、僕たちも無言で古いダムを後にした。
 疲れていたこともあり、腹が減っていたこともあったりで、自転車の置いてあった処までは長かった。行きしなとは異なり、僕たちは無言で自転車を漕いで帰途に就いた。後ろを見ると、昭一はただ無心にペダルを漕いでいたが、僕はさっきの事を思い出していた。男の子たちは丸裸で泳いでいた。女の子はパンツは穿いていたが、上半身は裸だった。一番年かさの女の子は高学年らしく背も高くて、胸はもう子供とは言えず、眩しくて、見てはいけないものを見てしまったような気がした。その子は恥じらう風もなかったが、ちらっと彼女を見たとき、百人一首のお姫様みたいに古風で綺麗な顔の少女だと思った。

 お盆の頃だった。私は所用から帰宅の途中、スクーターに乗って信号待ちをしていた。気の所為か、なかなか青にならなかったので、見るともなく前方を見ていてふと気が付いた。
<P川だっ!>
 突然十五年前の出来事が甦った。そして殆ど無意識にスクーターを方向転換させて川の上流に向かって走り出した。あの段差と石ころだらけの道は今や小型車が一台通れるほどの簡易舗装になっていて、楽に走る事ができた。あの時自転車を置いた場所を探したが判らなかった。とっくに通り過ぎたような気もした。程なく遠くに古いダムが見え出した。こんなに近くだったのかと思ったが、メーターを見ると何キロも走っていた。
 ダムに近付いてみると、二、三軒在った民家は、古くも新しくもなく昔のままだった。家の手前に、前には気の付かなかったかなり広い畑があり、トマト、キュウリ、ナスビなどがよく育っていた。この畑のそばを通り過ぎようとしたとき、姉さん被りをした一人の女が畑の中から腰を上げた。二十歳代と思われる若い大柄な主婦で、あっという間に通り過ぎたのでゆっくり見る暇は無かったが、その綺麗な顔に見覚えがあったように思えた。よく見直そうと今来た道を直ぐに取って返したが、若い女の姿は何処にも見えなかった。
 停車して探すわけにも行かないので、バックミラーを気にしながら帰途に就いたが、後ろから追ってくるのは水音だけだった。

 (完)

 

夢 語 り

 一、遠忌
 その年、嵯峨大覚寺では開祖の遠忌が行われた。大法要などの他に記念行事として生け花展や、最終日には講演や邦楽の演奏があり、よしのは箏合奏の一人として出演した。会場は広い畳敷きの御影堂だった。
 当日の催しの次第では講演が先だった。箏合奏の準備は出来ていたので、よしのは従姉の千里らと共に聴衆の末席に座った。講師はどこかの大学の先生で、僧籍も持っているという紹介があった。
 講師は、このお寺は最初離宮として建てられたが、後に皇子が出家して大覚寺の開祖となった、という話から始めた。大覚寺はいけばな嵯峨御流の本拠で、よしのは子どもの頃から其処の先生に生け花を習っていたので、それぐらいのことは知っていた。
 講師は仏教の話は余りせず、専ら平安朝の皇室と大覚寺の関係の話だった。少し複雑な話なので、よしのは正確なことは覚えられなかったが、おおよそ次のような話だった。
 事は桓武天皇から始まり、皇后から生まれた皇子が嵯峨天皇と成り、桓武天皇と夫人との間に生まれた親王が次の淳和天皇と成った。つまり嵯峨と淳和は異母兄弟となる。血縁はこれに終わらず、淳和と、嵯峨の妹高志内親王との間に恒世親王が生まれ淳和の後継者と見なされたが、その後淳和と皇后正子との間に恒貞親王が生まれた。長子としては恒世だが、正統性では皇后が生んだ恒貞であり、しかも正子は嵯峨天皇の内親王だった。ところが異母兄の恒世は僅か二十二歳の若さで病没した。やがて淳和が譲位して恒貞の従兄にあたる仁明天皇が即位し恒貞を皇太子にした。
 しかし嵯峨・淳和の没後起こった承和の変で恒貞親王は反乱の嫌疑を掛けられ、皇太子を廃された。政争の渦中に置かれることを望まなかった恒貞親王は二十四歳で仏門に入り、大覚寺の初祖となり、法名を恒寂と名乗った。
 その後又、皇位継承問題が起こり、恒寂に即位要請があったが、仏門に入ったのを理由に祖師は承けず、仏道に専心し、最後は即身成仏のようになって西方浄土に向かった……

 その後始まった箏合奏は千里を中心に顔見知りの弾き手ばかりだった。当日は全部で三曲弾く予定で、曲目は「夕顔」の次に「江の島の曲」を弾き、ここまではいつもの演奏会と何ら変わることはなかった。三曲目は素人にもよく知られている曲をということで「新松づくし」を選んだ。
 ところが、演奏が始まって間もなく、よしのは少し妙な体験をした。最初誰かの視線を浴びている気がした。聴衆からの視線は慣れていたが、その時は背後からだった。しかし背後には嵯峨天皇、弘法大師、初代門跡恒寂入道親王らの尊像が鎮座ましますだけで、人は誰も居ない筈だった。それに、尚不思議だったことは、視線というよりは何かの「気配」だった。それはまるで背中に温石を入れているような、温かくて優しい気配で、演奏を後押ししてくれているような気がし、今までになく好い演奏が出来たと思った。そして、又こんな体験が出来ればと思いながら、その日の演奏は無事終わった。

二、千里とよしの
 それから二、三日は何事もなかったが、或晩よしのが寝ていると、一人の男がやって来てよしのの夜具の横に音も無く坐った。その男の顔も分からず、物も言わないので夢だと判ったが、よしのに指一本触れるでなく、温かくて優しい気配のうちによしのの寝姿を見守り、やがて帰って行った。こんな事が屡々起こり、よしのは夢でこの男を待ち受けるようになった。
 暫く経って、近く大きな演奏会を控え、千里が練習にやって来た。彼女はよしのと対照的で、結婚していて子どもも有り、弟子も多く抱えていたが、何故かよしのと合奏するときはよしのの処へやって来て練習した。そのため、千里は自分の琴をよしのの処にも置いていた。
 よしのと千里は父親同士が兄弟で、共に妻が同じ頃に身ごもって産み月になったとき、兄弟は生まれてくる子の名前を付けて貰おうと父母に頼みに行った。すると父親は言った。
「もう祖父母が名付ける時代やない。おまはんらが付けたらええ。」
 それで、兄弟は男児の名前は考えたが、女児の名前が思い付かないので、又父親に教えて貰いに行った。すると、和歌を嗜む父親は、冬に生まれてくる子なので、冬の歌から取ったら好いと言って、古今集の坂上是則の詠んだ歌を推薦した。
 
 朝ぼらけ有明けの月と見るまでに吉野の里に降れる白雪


 月満ちて先に生まれた子は女児で、親は最初「さと」と付けたが、有り触れているというので千里とした。一月も間を置かずに生まれた子も女児で、女児の父親は「吉野」と付けたが、仮名書きの方が優しい、と母親が言ったのでそれに決まった、と二人は小さい頃から聞いていた。しかし千里は、男にも有る名前だと、余り気に入ってないようだった。それに引き替え、よしのの方は自分の名前が好きで、母の配慮にも感謝していた。そして、有名な歌から名前を取ると直ぐに出典が判かるので、比較的地味な歌を選んでくれた祖父の遠慮にも敬服していた。

 二人は練習に熱が入り、時が経つのも忘れて弾いていたが、疲れたとみえ、どちらからともなく爪を外した。そこへ婆やがお茶を淹れて持ってきた。婆やは宇治田原の里の出で、今でも実家から宇治茶が届くので、千里はそれが羨ましく、よしのの処へ来ると飲めるのが楽しみだった。大して喋ることもなく、二人は黙って庭の方を眺めていたが、千里が湯飲みを持ったまま、急に話し出した。
「よしちゃん、あんた何か有ったん? ええ事でも。」
「ううん、別に何も有らへん。」
「そうかあ? そやけどこの頃あんたの弾き方一寸違うような気がするわ。」
「どう違うのん?」
「それは上手いこと言えへん。ともかく違うわ。わてには出来ひん弾き方や。」
「そんなん、何の事か分からへん。あんたとウチは師匠も一緒、習うた年月も一緒で、似たような弾き方やと思うわ。」
「わてかて甲乙付けがたいと思うてたんやけど、今日はあんたに圧倒されて、わてが付いて行ってる感じやった。」
 よしのは自分の弾き方が変わったのには気付いていなかったが、弾いていると後ろから温かい気配が見守ってくれているような気がして嬉しくて堪らず、毎日、朝も昼も弾いてばかりいた。変化と言えばそれが変化だったが、夢の事は千里には言わなかった。
 千里は首を傾げながら帰って行った。

三、小野小町の歌
 昼間は自分の練習や弟子の指導やらで琴を弾いてばかりだが、夜になると婆やは食事を片付け風呂の火を落とすと、早々と寝てしまう。後は静寂そのもので、歌集を読むのがよしのの至福の時だった。祖父が遺してくれた大きな字で書いてある和綴じの古今集を繙くと、心が安らいだ。自ずと女性の歌に目が行き、よく分かった。特に夢を見出してからは小野小町の歌に共感を覚え、続古今集や小町集までも繙いた。毎晩同じ歌を読んでも飽きることが無く、まるで自分の事を小町が詠んでくれているような気さえした。

 思ひつゝ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

 限りなき思ひのままに夜もこむ夢路をさへに人はとがめじ

 宵々の夢のたましひ足たゆくありても待たなむとぶらひに来よ

 次の日に会が有るときなどは夢を見なかったが、そうでなければ夢見は続いていた。これまでよしのは寝付きの良い方ではなかったのに、この頃は夢が見られると思うと直ぐ寝入ってしまうのだった。よしのは大抵横臥するが、するとその人は背後に回り、座禅の時のような座り方だった。それを結跏趺坐とか言う座り方だと生け花の稽古の時に聞いたことがあった。やがて温かい気配が背後から伝わってきて、程なくよしのは深い眠りに落ちて行き、その男の人が何時帰って行くのか分からなかった。
 
 いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る

 或夜、この歌を読んで、よしのは自分もやってみようと思い、寝巻きを裏返しに着て床に就いた。しかしその晩は夢を見なかった。ところが、翌朝起床して寝巻きを脱ごうとすると、紐が二本掛けに結んであった。よしのは二周目しか結ばないので不審に思ったが、怖くはなく、何だか体が火照っているのを感じた。

四、月のこと  
 その日の宵は小学生の少女の稽古だったので、終わってから三条通まで送りに出てやった。見送って踵を返すと十五夜の月が出ていた。咄嗟に小町の歌が口を衝いて出た。

 秋の月いかなる物ぞ我心何ともなきに寝がてにする。

 よしのは家に戻らず車折神社の参道を抜けて大覚寺へと向かった。凡そ半里ほど有り、しかも夜道だったが、慣れた道だった。大覚寺の大沢の池に来てみると、寺縁の善男善女の他に若い二人連れなども多かったが、池は一周が十町近くあるので、混み合うほどでなく、よしのは他の人たちに混じって月に手を合わせたり、池の水面に映る月を愛でた。今までに何度も大沢の池で月見をし、美しいとは思ったが、今回ほどしみじみと物の哀れを感じたのは初めてで、自分も漸く一人前の女になったと思った。

 その頃だっただろうか、食事の時など婆やと向かい合っていると、婆やが何やら物を言いた気にしている。聞いても言わないのは分かっていたが、何か考えているのだ。そして後になって、ああ、あのことだったのかと判るのだった。婆やは大体が無口で、よしのが何か話し掛けても受け答えをするだけで、自分から喋ることは滅多になかった。
 実は思い当たる節があった。よしのの女体の働きが二月以上も止まっていた。以前父親が急死したとき、母親と不眠不休の看病が続き、一回滞ったことがあった。母親に聞いたら、大事があったとき女はそうなることがある、と教えてくれ、一月経ったら元に戻った。
 今回はそうではなかった。朝、気分が悪く、ご飯の炊き上がった匂いを嗅ぐと嘔吐きそうになった。そのうちに心なしかお腹が大きくなったように思えた。そして終に少量の乳が出だした。もう一人で悩んでいるときではないと思い、よしのは暗くなるのを待って嵐電で二駅離れたところにある産婦人科へ診て貰いに行った。
 診察を終えた医者は、「お目出度ではありません」と言った。よしのは納得できず、自覚症状を繰り返し訴えたが、医者の答えは変わらなかった。そして、今の症状はやがて治まって行くと言って何も薬を出してくれなかった。

五、後追い
 秋も深まり、気が付いてみると何時とは無しに症状は治まり、体は元に戻っていた。そして夢も見なくなった。夜になると婆やは部屋に退き、よしのは庭で弱々しく鳴く虫の音を聞きながら、いつもの通り小町の歌を読み始めた。

 夢ならばまた見る宵も有りなましなに中々のうつゝなりけん

 するとその時、幽かながらも鳴いていた虫の音がピタッと止まった。何かの気配がした。確かめようと立ち上がって縁側に出ようとしたところ、木戸の閉まる音がした。開けるときは音がしないが、閉まるときだけ音がするのだった。庭下駄を突っ掛けてよしのは足音の後を追った。三条通に出たが人影は見えなかった。しかし遠くを見ると、車折神社の参道へ入る人の残った片足が幽かに見えたような気がした。よしのは裾の乱れるのもいとわず、石畳の参道を下駄の音高く走ったが、途中に社殿が在って参道は迂回するので、見通しが利かなかった。
 点在する薄暗い常夜燈に照らされた後半の参道の向こうに、やっと嵐電の駅が見えたが、人影はなく、折悪しくチン、チン、チンと警鐘が鳴り始め、電車の近付くのを知らせていた。参道を出ると、踏切の遮断機が降りていて、嵐山発の電車が入って来た。よしのは空しく地団駄を踏んでいるだけだった。
 電車が発車し、遮断機が上がるのを待って踏切を渡り、大覚寺へ行く道の方を見たが誰も歩いていなかった 。
「まあ、お師匠はん、お見送りどすか?」
 見ると今の電車から降りてきた近所の主婦だった。
「いや、そやおへんのどすけど……今乗らはった人有りましたか?」
「へえ、二、三人乗らはりました。」
「どんなお人どした?」
「二人はお連れさんで、此処の碁会所に来て、蚕ノ社へ帰らはる、ワテも知ってる人どす。」
「も一人は?」
「それが、よう分かりまへん。車掌はんが扉を閉めようとしたら、慌てた様子で、風みたいにすーっと入って行かはりました。」
 よしのは元来た道をゆっくりと戻り始めた。何故かすっきりとした気持ちになっていた。家に近付くと、門の前に婆やが寝巻きの上に何か一枚引っ掛けて、胸元を押さえながら立っていたが、顔はいつもの穏やかな表情に戻っていた。

(完)

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愛 子

一、受診
  京都帝國大学醫學部附属病院は、内科・外科・産婦人科などが在る東構内と、鞠小路を隔てて眼科・小児科・精神科などがある西構内とが在り、各科共車寄せのある木造二階建ての獨立棟を構えている。
 フヂは愛子の手を曳いて、聞いてきたとおり鞠小路から二番目にある門を通って小児科に着いた。玄関を入って直ぐ左手に下足を預けるところがあり、山姥のような顔をしたもんぺ姿の年かさの女が履き替え用のわら草履を出してくれた。直ぐ傍に受付があり、引き違いの小さな窓を開けてフヂは開業医の植野から預かってきた紹介状を差し出した。
 診察場の前の廊下に並んだ長椅子には既に幾組かの親子が腰掛けて待っていた。フヂは長時間待たされることを覚悟し、する事も無いので見るともなく先客たちの様子を窺った。母親が付いてきているのはフヂと同じだが、それに乳母まで付いてきているのもあり、両親が来ているのもあった。子どもの方はいかにも病弱そうな子、落ち着きが無く立ったり座ったりする子、力なく泣いている子などだったが、近くの町医者で済まさずわざわざ大學病院へ来るからには何か仔細が有るのだろうとフヂは思った。その点愛子は心持ちフヂに凭れてにこにこと行儀良くしていて、フヂは他人様が見たら何処が悪いのだろうと思われるような気がした。

 「安田愛子チャン」
とうとう看護婦の呼ぶ声が聞こえた。
「あひ」
 愛子が大きい声で返事をして立ち上がったのでフヂは驚いて後に続いた。
 診察場の中へ入って行くと、「羽鳥」という字の磨り減った名札を付けた初老の医師が植野医師の紹介状を前に置いて座っていた。この人が植野医師が言っていた有名な教授なのだとフヂは思った。他に比較的若い医師が二人机に向かって坐り、何かを書いていた。その後ろに学生服の上に白衣を着た医学生らしいのが四、五人立っていて、他に中年と若い看護婦が控えていた。
 看護婦が愛子の上半身を裸にすると、教授は愛子に話し掛けたり、聴診・打診・触診のほか、目・耳鼻咽喉・口腔・四肢などを丁寧に診察し、その間医学生たちは身を乗り出すようにして見学していた。一通り診察が終わった後、教授は少し考えているようだったが、やがて医学生たちに向かって言った。
「山元君、モンゴリスムの特徴を言い給え。」
「はっ、シュバッハジンであります。」
「ふむ。三根君、どうかね。」
「はい、概ねゲホルザームであります。」
「大西君、他には?」
「比較的クルツェス・レーベンが多いと思われます。」
 フヂには何の事かさっぱり分からなかったが、英語ではないように思えた。そして愛子の病気について好いことを言っているのか悪いことなのか不安だった。
 教授は看護婦に愛子の服を着せてやるよう合図をして、フヂの方に向き直った。
「愛子ちゃんはどの程度喋れるのか、何語ぐらい話せるのですか」
「言葉は数えてみたこと有りまへんけど、着る物・食べること・御下のことを合わせて十語余りと思います。」
「文章は言えますか?」
「いいえ、言葉だけどすけど、私らには分かりますし、家の者の言うことは大概理解しますので、大して困ることは有りまへん。」
「今の健康状態や生活の様子はどうですか?」
「乳児の時に大病しましたけど、今は風邪一つ引かんほど元気で、何でも食べますし、毎日お歌を歌いながら御人形さんと機嫌よう遊んでます。」
 フヂが話し終わるのを待って、教授は少し改まった様子で言った。
「愛子ちゃんの病気は、植野先生のお見立て通り、『蒙古症』という病気と思われます。」
「それ、どんな病気どす?」
「知恵の発達が遅い病気です。しかし愛子ちゃんの体は今日診たところ健康そのもので心配有りません。」
「せんせ、その蒙古症ちゅうのは生まれ付きで、ほんで遺伝するのどすか?」
「生まれ付きだが、遺伝かどうかは判りません。」
「持って生まれるちゅうことは遺伝と違うのどすか?」
「先天性が遺伝とは限りません。親類に似た症状の人が有りますか?」
「有りまへんけど……せんせ、もっと詳しいこと教えてお呉れやす。これからどうしたら宜しおすのか……」
「実は未だよく分からない病気なのですが、私は遺伝とは関係ないと思っています。」
「ほんでも昔から有った病気と違うのどすか?」
「それはそうですが、教育や医学が行き届かなかった昔は、大人も子どもも頭の回転の速いのとそうでないのとが一緒に暮らしてきたのです。」
 フヂが未だ言いたいことが有りそうなのを見て取って、教授は話を続けた。
「小児科は先ず子どもの命にかかわる病気の治療に追われているのです。愛子ちゃんは乳児の時に脳膜炎に罹ったということですが、これも知恵の発達に影響しているかも知れません。しかし、助かっただけでも良かったと思わなければなりません。愛子ちゃんはいつも機嫌良く、丈夫なのですから、子どもの無い夫婦や重い病気の子を持った親から見れば幸せかも知れません。愛子ちゃんは来年小学校の学齢に達しますね。それもあって今日受診に来られたのだと思いますが、愛子ちゃんは普通学級の授業について行くのは無理です。」
「……ほんならどうしたら宜しいのどすか?」
 フヂは身体を乗り出すようにして訊ねた。
「朗報があります。府庁の前に滋野という小学校がありますね。其処に知能の発達の遅い子どもたちばかりの特殊学級が開設されることになって、学校を出たばかりの若い田村先生という男の先生が赴任されることになり、先日挨拶に来られました。役所も取り組みを始めたのです。」
「まぁー、そうどすか!」
 うつむき加減で話を聞いていたフヂが初めて顔を上げた。
「戦争が激しならん限り、役所も障害児教育を推し進めていくでしょうし、医学も進歩すると思いますから、希望を持って愛子ちゃんを大事に育てて上げて……」
 教授が言い終わらないうちに、フヂがまるで血を吐くように声を出した。
「私が生きてる内は宜しけど……」
 医学生たちは凍り付いたように動かず俯いていた。すると愛子が、前屈みになって嗚咽するフヂの顔を覗き込むようにしてその背中を摩った。

二、鴨の河原
 いつもより心持ち強う手を握り、屡々半歩前へ出てはフヂの顔を覗き込む愛子の手を取り、フヂは小児科の門を出て、家へ帰るのとは反対に病院の前の春日通りを西へ向かって歩き出した。小児科を出るとき玄関の時計を見たらもう正午を過ぎていた。直ぐ鴨川に出たので、何となく流れに沿って川下へと歩き出した。今朝からもう雨は止んでいたが、此処二、三日降り続いたせいで川の水は濁って水かさを増し、中洲は水没して丈の長い雑草だけが顔を出していた。愛子は久し振りの外出が嬉しいのか、フヂと繋いだ手を軽く前後に振っていたのでフヂもそれに合わせてやった。
「愛ちゃん、お腹減った?」
「あひ。」
「ほんなら、お弁当食べようか?」
「あひ。」
 地面は未だ濡れていたが、石垣は乾いていたのでその上に風呂敷を拡げて腰を下ろした。愛子の背負っていた小さなリュックサックから竹の皮に包んだ握り飯を取り出し、愛子の前に置いてやった。
「はい、お上がり。」
「あひ。」
 愛子は鶏卵大の握り飯を取り上げ、美味しそうに食べ出した。それを見届けてから、フヂも手提げ袋から自分の弁当と御数と水筒を取り出した。
「愛ちゃんの好きな卵焼きえ、お上がり。」
「あーくん!」
 愛子は嬉しそうに軽く頷いた。

三、本家の縁談
 二人は又歩き出した。腹が満ち足りたせいか、愛子は半分ほど歌える「靴が鳴る」を歌い出した。そして歌の通りフヂと手を繋いだり、草花を摘んだり、靴音を立てたりして歩いていた。
 フヂは愛子の後に付いて歩く感じで、何処をどう歩いているのか殆ど意識していなかった。先月、夫の実家である本家にご機嫌伺いに行って以来、気の晴れない日が続いていた。夫の両親は既に亡くなり長男が後を継ぎ、その嫁が内輪一切を仕切っていた。
「ご無沙汰ばっかりで申し訳有りまへん。」
「そうゆやそやなぁ。ところで愛ちゃんは一寸ぐらいかしこなったかぁ?」
「……」
「一寸関係が有るのや。」
「?」
「うちの好子に縁談が有るのや。」
「まあ、お目出度うさんどす。」
「未だ決まった訳やない。あの子未だ女学校卒業してへんし一寸早いのやけど、お茶のおっしょはんのお世話やし、早いに越したことないし……」
「まぁー。」
「ところがや。相手さんは御大家やし、屹度ウチのこと調べはるに違いない。ウチはなんぼ調べてもうてもええけど、問題はあんたとこや。」
「愛子の事、どすか?」
「そや。もし判ったら、血統に問題が有ると思わはるやろ。」
「……」
「ほんまに困ったこっちゃ。」
「……」
「どーしたらええやろ。」
「……」
「あんたとこの家まで見にゆかはるかも知れんし、縁談が纏まるまで、暫く愛ちゃん連れて実家に帰るか、それが出来んのやったら、せめて愛ちゃんをあんまり外へ出さんといてや!」
「……」
 フヂは唯々平身低頭するのみだったが、頷きもせず、一言も発しなかったので、義姉は言葉を荒げた。
「あんた、顔に似合わず、中々やなぁ。何とかゆうたらどうや。これは一族の慶事なんえ。身内はみんな協力するもんやのに……」

 気が付いてみると、三条京阪に来ていた。愛子は電車に乗るものと思ったのか改札の方へ駆け出そうとしたので、行く宛てもなかったが、フヂは取り敢えず切符を買って電車に乗った。愛子は子どもがよくやる、通路に背を向けて座って車窓に寄り掛かって外を見ることはせず、大人と同じように前を向いて坐り、片手をフヂの膝の上に置いていた。

 あの日、フヂは本家から戻って、夕食後愛子の寝るのを待って夫に姪の縁談のことと、愛子についての苦情を報告した。夫は最初嬉しそうな顔をしたが、愛子の話になると黙りこくってしまった。夫は本家に全く頭が上がらなかった。
 そもそも、結婚の時からそうだった。先代が神社の氏子役員をしていて、フヂは巫女の一人だった。神社の例祭に長男、二男が奉仕に出てきて、独身の二男がフヂに一目惚れした。そして、何が何でもあの子をもろて呉れ、と先代に言った。しかし、家の女たちは反対だった。母親は、
「仲人の無い縁談はあかん。」
兄嫁は、
「巫女はんなんて……」
がその理由だった。
 そこで、先代が神社に出掛けて行き、宮司の話を聞き、帰りにフヂの働き振りや立居振舞をそっと観察して帰ってきた。
「宮司の話では、先さんは代々古い伝統工芸の職人で、神社や仏閣に錺(かざ)り物を納めてるそうや。大した物持ちやないけど、暮らしは何の不自由もないそうな。」
すると母親が聞いた。
「肝心の娘はんはどうどすのん。」
「宮司は評判ええて褒めてた。朋輩らとも仲良うやってるらしい。ほんで、帰りしなに本殿へ回って本人を見てきたんやけど、中々の別嬪や。」
 その報告に我が意を得た二男は、
「はよ決めてくれ。」
と責付くので、最後は先代の一声で決まった。
「大人しいけど確りしてるちゅう話しやし、ウチの二男坊主は頼りないし、丁度ええのと違うか。宮司に仲人代わりに坐ってもろたら格好が付くし、何せ二男やさかいな。」
 後からフヂの聞いた話では凡そそんなことだった。

 また気が付くと、電車は観月橋を右に見て宇治へ向かっていた。中書島で宇治行きに乗り換えたのか、それとも元々三条京阪から宇治行きの直行に乗ったのか、それすらフヂは記憶になかった。

 夫は好きで貰った女房だからフヂには優しく、夫婦仲は上手く行ってたが、何でも本家最優先だった。所帯を持つとき、両親は財産分けとして家を一軒持たせてくれた。それもあって両親が亡くなった今もお家大事で、夫は兄や兄嫁には絶対楯突かなかった。だからいくらフヂが訴えても沈黙を決め込んでいる夫にこれ以上言っても埒が明かないし、下手したら夫婦仲も上手く行かなくなると思い、フヂは夫に相談もせず、植野医師の勧めもあって愛子の行く末の相談に大學病院を訪れたのだった。

四、宇治橋三の間
 今度我に返ると電車は終点の宇治駅に入るとこだった。駅を出ると直ぐに宇治橋へ来た。最初、どうして無意識に宇治に来てしまったのかとフヂは思ったが、宇治橋まで来てみて納得が行った。
 縁談が纏まって結納も交わした後、両親と宇治へ来たのだった。父親は珍しく羽織を着て改まり、自分の拵えた物が納められていると言って、萬福寺と平等院へ参拝した。何時も仕事場に篭もってばかりで出不精なのにどうして知っていたのか、宇治川畔の「花やしき」という料理屋に連れて行ってくれた。そして普段は殆ど飲まない酒を注文した。母親はお酌をしないので、父親が手酌をしようと銚子に手を伸ばしたとき、フヂは思わず銚子を手にして慣れない手付きで父親の方へ近付けた。すると父親は杯を差し出しながら、嬉しそうで淋しそうに笑って言った。
「こんな事すんのも今日が最初で最後やなあ。」

 フヂは愛子の手を曳いて宇治橋を渡り始め、三の間にやって来た。此処は橋から迫り出した露台みたいなもので、此処に立ち止まって山や川の景色を眺めていても通行の妨げにならなかった。

あの時、
「こっから汲んだ水で茶を点てると美味いにゃて。太閤はんもお気に入りやったそうな。」
父親が此処の欄干の錺を撫でながら言っていた。
 今日の先生の話で愛子の病気は治らないと分かったが、ある程度覚悟は出来ていた。たとい障害があっても育てやすく、他人に迷惑を掛けることは全くないし、学校へ行けなくても構わなかった。余り先のことは考えず、大事に育ててやろうとフヂは思っていた。このひたすらな心の琴線が切れたのは、義姉の心無い言葉であり、夫の態度だった。フヂや愛子よりも本家大事の夫にはもうこれ以上話す気はなかった。然りとて実家に行って言おうものなら、一本気の父親は、愛子を連れて帰って来い、親子の面倒は見てやる、と言ってくれるだろうが、最近心身共に弱っている母親はただおろおろと泣くだけだろうし、幸せに暮らしているとばかり思っている両親には到底言えなかった。
 自分が元気な内はよいが、母親似で自分はどうも長生きする自信がない。そして頭はそのままで身体だけ大きくなって行く愛子を残して自分が死んだり、病気で寝付いてしまったら、この子はどうなるだろう。結局この世で心が一つなのは自分と愛子だけで、誰も分かってくれないし、誰も頼れない……
 其処までは考えたが、後は身体だけが動いた。愛子を橋のたもとまで連れて行って、背負った空のリュックサックに小石を拾って一杯詰めてやった。かなり重たかったが、頑丈な愛子は平気で背負って嬉しそうにしていた。そしてフヂが自分の着物の袖にも石を入れるのを愛子はじっと見ていた。石は歩ける程度にしか袂に入れなかったので、思わず彼女は小声で口走った。
「もっと石を入れなあかんのやけど…… 」
 フヂは袂の石を下から手で持ち上げながら、愛子と三の間に戻ってきた。宇治川の水は濁って増水していて流れも速く、少しうねっていてフヂには手招きしてくれているように思えた。フヂは愛子を後ろに置いて欄干から身を乗り出し、京と思う方を向いて手を合わせた。
<先立つ不孝をお許しください。大事に育てていただいたご恩は決して忘れません。愛子を連れて行きます……>
 するとその時、後ろから愛子の声がした。
「かーたん、あひ!」
 振り向いて目を開けてみると、愛子が両手に一杯石を持って嬉しそうに差し出していた。
 フヂは愛子を抱きしめ、大声を上げてその場に泣き崩れた。すると愛子の手からばらばらと石がこぼれ落ちた。[ 完 ]

30字×40行愛子

 

 

縁の下

 (一)
 洵道は初めて足を踏み入れる祇園花見小路に戸惑いつつも、漸くのことで何筋目かを東に入った料亭「桜谷」に辿り着いた。門を潜り、水を打った石畳の上を通って玄関を入ると、奥から女が小走りに出てきて膝を付いた。
「お越しやす。」
「若松といいますが、増村さんはもうお越しでしょうか?」
「へえ、増村はんの大旦さんはもうお見えどす。どうぞお上がりやしとくりゃす。」
 仲居は法衣の洵道を見て別に意識する様子もなく、奥座敷へ案内した。
「大旦さん、お見えになりました。」
「そうか。」
 増村は下座に座って上座を空けていた。
「さあさ、こちらへ。」
「それはいけません。大旦那様こそそちらへ。」
「いや、今日は特別や。」
 そんなことを二人は二、三度言い合っていたが、どちらも譲らず埒が明かないので、仲居たちが気を利かし、机を動かして共に床の間の前を,横に見て坐ることにした。落ち着いたところで、増村は少し改まった様子で切り出した。
「挨拶が済んでませなんだが、この度の重ね重ねの目出度事、心よりお祝いを申します。精進の甲斐有って、功成り名を遂げはりやしたな。」
「いえ、此処まで何とか来れましたのも、偏に大旦那様のお陰で御座います。受けたご恩を忘れたことはたった一日もありません。」
「さあさ、古い話はそれまでにして、今日は上下脱いで、いや、お師(っ)さんは衣やけど、アッハッハ、気楽に四方山話をしましょうや。今まで、用件の話しは何遍もしたけど、ゆっくり話ししたことは一遍も無かったさかいに。」
「本にそうで御座いました。大旦那様はいっつもお忙しそうにしておられましたし、第一、私からは雲の上のお方でした。」
 

(ニ)
 増村はお茶屋「やすらひ」で招客たちを先に送り出した後、自分が帰る車を待っていた。
「未だ来まへんなぁ。玄関で待ってて貰うのも寒ぶおすし、宜しおしたら帳場でお待ちやしとくりゃす。」
 女将が気を利かせた。
「そうか、ほんなら。」
 増村は女将と向かい合って長火鉢の前に坐った。
「えらいむさくるしいとこどすけど、お茶でも淹れますわ。」
「わし、帳場に入れてもろたのは初めてや。親父はどうやった?」
「ほら、長いご贔屓どしたさかい、先代はんはご自分から入っといやした。」
「へぇー、しゃーないなぁ」
「入って来はるぐらいは宜しいのどすけど、ここで酔い潰れてしまわはったこともありましたんえ。」
「それでどうした?」
「大っきい人どしたやろ? そやさかい女どもが何人がかりでも動かせしまへんねん。それで男衆二、三人呼んで、やっとこさ奥座敷に運びましたんどすえ。」
「そんなこと有ったんか。大昔の事とはいえ、済まんかったなぁ。其の癖、わしには『呼ばれたときは機嫌よう酔うて、舞妓や芸妓をキャーキャー言わしてもええが、自分が接待するときは一寸酔うた振りしても、ほんまに酔うたらあかん』ばっかり言うとったのに、けしからん。」
「いいえ、ほんまにええお人どした。うちらでも暇なときが有りますねん。それをよう知ったはって、そうゆう時にお客さん連れて来てくれはりました。もうそういうご贔屓さんも少のうなりました。」
「済まんこっちゃ、わしは未だその域に達しとらんわ。」
「これからどすがな。」
 其処へ電話が鳴った。女将は聞き手に回っているようだった。
「気にはなってんのやけど、まだええお返事出来まへんねん。」
そんな遣り取りで電話は終わった。
「女将、何か困った事有んのか?」
「いいえ、ウチの事やおへんのどすけど……」
「何や? 聞いてもええ事か?」
「そら、かましまへんのどすけど、どっか子ども貰うてくれるとこ、有らしまへんやろか?」
「何やそれ? 藪から棒に。」
「芸妓(こ)が旦那の子を生みましたんどす。」
「そんなん、ちょいちょい有る話と違うのか?」
「そらそうどすけど、落籍した妓やなかったんどす。」
「そんなとき、どうするねん?」
「普通はお金付けて、貰うてもらいますねん。」
「そんなにうまいこといくもんか?」
「女子(おなご)やったら、いずれは色街で育てられます。」
「その芸妓、此処のお座敷へ出てる妓か?」
「此処やおへん、上(かみ)の色街の妓どす。」
「何でまた、他所の色街の始末を此処がせんならんのや。ゆうたら商売敵やろ?」
「そんなこともあらしません。時々他所の女将さんらと顔を合わすこともあります。」
「へーえ。」
「そやさかいに、芸の上手い妓やお客さんの評判のええ妓の噂は聞こえてきます。それに、ウチらへ出入りする商人は他所へも行きますよってに、いろんな話しを持って行ったり、持って来たりすんのどす。さっきの話しもそうどすねん。」
「それが何で上手いこといかんねん?」
「生まれた子が男の子やったんで、色街で引き取ることが出来ず、髪結(かみい)さんが養子として引き取りました。」
「忙しい髪結いさんが育てられるのかぁ?」
「さあ、詳しいことは知りまへんが、手広うやってて、見習いの若い子が何人も居て、みんなで育てたんと違いますか。」
「育てたて、未だ赤ん坊と違うのか?」
「小学校二年生やそうどす。」
「なーんや、赤ん坊と違うのか。それやったらもう手が掛からへんし、一人で学校行くがな。」
「今はそうどすやろけど、それまでは大変やったと思います。」
「そしたら何が問題やね?」
「その髪結いさんが病気で倒れはったんどす。若いときから身体が弱うて、無理して無理して仕事したはったそうどす。」
「ああ、そんで男の子貰うたんやな。」
「そうかも知れまへん。兎も角、店を一番弟子に任せて療養所に入ることになったんやそうどす。そやし、子どもの面倒見ることが出来んようになったんで、何処ぞにと……」
「どっかの置屋が引き取って、男衆か箱屋にしたらええのと違うのか。知らんとこ探さんでも。此処どうや?」
「それがねぇ、色街にはどうしても置いときとうないて言いますねん。それに学校の勉強がよう出来て、学校に上がる前から誰も教えへんのに字が読めたそうどす。」
 女将が後を続けようとしたとき、仲居が襖の外から言った。
「お車が参りました。」
「そうか。」
 増村が立ち上がると、女将が見送りに出ながら、もう一声掛けた。
「お待っとうさんどした。何処ぞ宜しゅうお願い致します。」
「可哀想な『親子』やな、考えてみるわ。」

(三)

 それから半月ほど経って、増村は代々の墓がある本山の信徒の役員会に出席した。先代が長い間檀家総代をしていた関係で家業を継いだ増村は半ば自動的に役員になったが、彼は役員の中では若い方で、動き回れる分、管長からは何かと当にされていた。今回は、台風で傷んだ本堂の屋根の修理が議題で、小規模の修復なら自己資金で出来るが、専門家に見せたところ、彼方此方老朽化していて、一、二年は掛かる大工事になることが判ったので、檀家や企業からの寄進を募る相談だった。
 散会した後、事務方を務めた僧侶たちと雑談していた管長に、増村はふと思い付いて近付いて行き、先日お茶屋で頼まれた一件を話した。高齢ではあったが、数十有る法類や塔頭から選ばれただけあって、末寺や檀家の信頼も厚かった。聞き終わった管長は少し考えていたようだったが、やがて口を開いた。
「あんまりゆっくりしてられん話しですのう。一つ考えてみましょう。」

 四、五日経って本山から電話が掛かり、管長がご足労願いたいと言っているとの伝言があったので、翌日増村は本山に出掛けていった。
「お忙しいのにご足労じゃったが、好い話しになりそうなので、善は急げで、来て貰いました。檀家も多いので時間を掛けて当たれば好い処も見付かるかも知れんが、急を要することでもあろうし、役僧らの意見も聞きましたが、吾等は在家の事を余り知らんので、まず寺関係を考えましたのじゃ。僧侶の中には数奇な運命や訳有って寺院で大き成ったのも居りまする。」
「成る程。」
「役僧らと話している内に、あそこはどうじゃろうという寺に気が付いた。」
「遠いとこですか?」
「あんた、安陽院をご存じか?」
「安陽院って、境内の直ぐ其処の塔頭のことですか?」
「そうです。」
「安陽院さんなら、喋ったことはないが、寄り合いで同席して知ってます。」
「安陽院には子どもも小僧も居らず、その割には檀家も多いので、盆の檀家回りには難儀しておりますのじゃ。」
「……」
「それで、安陽院にこの話をしてみたところ、かねがね一人小僧が欲しいと思っておったので、安陽院で引き受けると言うのです。」
「それは願ったり叶ったりで、灯台下暗しとは、この事ですな。」
「本にそうじゃ。実は一番喜んだのは、安陽院の大黒で、子どもが出来んかった分、子ども好きで、養子にしたいというのじゃが、わしはうんとは言いませなんだ。」
「?」
「海のもんとも山のもんとも分からん子が果たして坊主になるかどうか分からんし、二回養子に行くというのも聞いたことがありませんしなあ。」
「……」
「それで、その子は本山に籍を置き、安陽院預け、ということにしようと思いますのじゃ。」
 増村は管長の慮りに感心した。
「増村の旦那、あんたさんはそれで異存は有りませんかな?」
「えーええ、大変結構な話やと思います。」
「それなら、善は急げじゃ。今日、安陽院に会うて下さるか?。」
「えーええ、会わせて貰います。」
「そんなら、迎えを遣ります。安陽院には待たせてありますのじゃ。忙しいあんたさんに何遍も来て貰うわけにも行きませんしなあ」
 管長が手を叩くと、やがて障子が開いたが、やってきた若い僧は中に入らず、廊下に跪いた。すると管長は安陽院の和尚を呼んでくるようにと命じた。障子を閉めて若い僧が退いた後、管長は話しが進展しているのに気を好くしてか、幾分寛いだ様子で話しを続けた。
「安陽院の和尚は兎も角物を言わん人で、いっつも経典・仏典を読んでる宗門切っての学僧でな、宗門学校へも教えに行っとります。その分、大黒が明るい人で頗るええ人じゃによって、それもあって安陽院に白羽の矢を立てましたのじゃ。」
 そこへさっきの若い僧が障子を開けて、安陽院が見えたと告げるその後ろから、和尚とその妻が入ってきた。管長は安陽院が夫婦でやって来たので少し意外だったようだが、別に機嫌を悪くした様子はなかった。
 和尚は管長と増村に礼をし、妻もそれに倣った。
「この度は増村様のお世話で有難いお話を頂戴し、私共は喜んでおります。」
「いや、私も人助けの真似事が出来て喜んでます。」
 暫く一同は会話を交わしたが、その中で、増村は和尚が雑念のない学僧であることが分かり、ニコニコ相づちを打っている妻が善人であることも見て取った。やがて頃合いを見計らって管長が締め括った。
「それでは双方とも異存は有りませんな。」
 増村は頷きながらも、一言言っておきたかった。
「異存の有ろう筈もありませんが、子どもとはいえ人一人預かるには出費も要る事でしょうから、口を利いた以上知らん顔も出来ませんので、少しはお手伝いをさせて欲しいと思います。」
 管長が何か言おうとしたが、安陽院が徐に口を開いた。
「ウチは子どもや小僧が二、三人は居ても不思議のない寺ですので、何のご心配も要りません。それに小学校は金が掛かりませんでしょうし。」
 管長は黙って頷いた。
「では、細かい段取りは後日番頭が寄せて貰うてお伺い致します。どうぞ宜しうお願い致します。」
 増村は低頭し、安陽院は合掌して、その日の話し合いは無事終わった。

 得度と入山が上手く三年生の新学年度に間に合って行われることになった。行き掛かり上、増村は儀式の最初だけ出席した。管長は不在で、代わりに執事が取り仕切った。「やすらひ」の女将も出席していたが、お座敷の時とは違い、増村が別人かと思うほど着物も化粧も地味だった。男の子は髪結いの女弟子らしい若い女に連れられてやって来た。未だ母親のおっぱいが欲しいような小さな子が、ちょこなんと正座しているのが増村には不憫に思えた。
 増村は仕事に戻ったが、後刻女将から礼と報告の電話があった。安陽院夫婦に挟まれ、大黒に肩を抱かれるようにして歩く本山から安陽院への道行きを見送ったが、その子を連れて来た若い女が声を殺して泣いていたので、自分も貰い泣きした、とのことだった。

 一年ほど経った。増村は年に数回は寺にやって来たが、これまでは正門から寺の玄関まで石畳の敷かれた道を行き来していた。雨の日でも足下が好いのと、一番近道でもあったからだ。それが、安陽院の一件があってから、脇道を通って何となく安陽院の前を通るようになった。あの子に法名が付いたことも聞いていたが、見掛けることはなかったし、安陽院の夫婦にも出会わなかった。
 その日も、安陽院の門前を通り過ぎようとすると、門を入ったばかりの処で大黒が草引きをしていたので、増村は声を掛けた。
「まあ、増村さんの旦那さん、以来ご無沙汰を致しております。」
 彼女はニコニコして手拭いで手を拭きながら立ち上がった。
「いや、こっちこそ、一遍様子を聞いてみんならんと思うてたんやけど、ついつい……」
「立ち話もなんどすさかい、一寸お上がり下さい。お師さんは居りませんけど。」
「いや、そうはしてられませんのや。」
「そんなら、其処の縁にでも腰をお掛け下さい。」
「そんなら、一寸だけ。」
 引っ込んだ彼女は手だけ洗って出てきた。
「あの子、いや、小僧さんはどうしてます?」
「洵道は元気にしております。」
「最初は大変やったやろと思いますが……」
「来た当座は、あの子の部屋で、一緒に付いて寝てやりましたが、その内、一人で寝られるて言い出しました。それからは何の問題もありません。」
「学校の方はどうですか?」
「一日も休みません。他の塔頭の、学年が上の子もいて、毎朝一緒に行ってます。」
「そら結構なこってす。それで小僧の修行の方はどうなってます?」
「毎日、お師さんと一緒にお経上げてる内に、字も読めんのに大分覚えました。そしてもう木魚も叩けます。」
 彼女は増村と口を利くのは初めてなのに、我が子の自慢をする母親みたいに頻りに喋った。
「檀家の方は、小僧さんが来たことを知ってますか?」
「正式にはお知らせしませんでしたが、お盆の檀家回りにはお師さんに付いて行きました。そしたら喜んで、洵道にもお布施を少し包んで下さる檀家さんも有りました。あんまり嬉しそうに持って帰ってきましたんで、洵道名義の貯金通帳を作ってやりました。」
「中々子育て上手ですなあ。」
 そう言われて尚嬉しいのか、彼女は言葉を続けた。
「保護者会にも行ってます。」 
「へーえ!」
「そしたら、担任のせんせとの面談で、べんきょがよう出来ると褒めて貰いました。がっこから帰って来てもあんまりべんきょせえへんのに。」
「そら、学校で確り聞いてるのですやろ。ああ、思わず長居しました。こうはしとれんのです。他に聞いとく事ありますか?」
「何にも困った事は有りませんが、大笑いした事は有りました。」
「そんなら、それだけ聞いて帰りますわ。」
「秋に檀家のお通夜がありました。洵道はその日運動会があって疲れていたと思いますが、お師さんが『これも修行や』て言うて連れて行きました。そしたら、檀家では何ともなかったんやそうですが、帰りの夜道で眠とうなって歩けんようになったんでお師さんが背撓負うて帰ってきました。降ろそうと思うて見たら、下駄が片方有りません。お師さんが慌てて探しに行ったら、下駄もお供養も落ちてたと言って拾って帰ってきました。」
「未だ子どもやなあ。ほんならこれで失礼します。何か困った事が有ったら、言うて下さい。和尚に宜しう。」

(四)
 それから更に二年経った。増村は洵道が級長をしていること、養母が病死したことぐらいは聞いていたが、他の事は余り伝わって来ず、日頃は洵道のことを忘れていた。正月の松の内が終わった頃、洵道のことで話しがあると言って、安陽院がやって来た。今回も夫婦連れ立ってだった。一通り挨拶を交わした後、和尚が口を開いた。
「洵道が今春小学校を卒業します。」
「早もう卒業ですか。何やあっという間やったような気がしますな。」
「私共もそう思います。」
「ほしたら、宗門学校へ進むのですやろ?」
「実は、その件でお話があります。」
「授業料のことやったら、何とかさせて貰います。今まで何のお手伝いもせんかったさかいに。」
「宗門校なら授業料は安いので、どんな寺の子でも入れます。」
「そしたら何が相談ですねん。」
「こっから先は、大黒の方が詳しいので、話しさせます。」
 こう言って和尚は引き下がった。待ってたとばかりに妻が後を継いだ。
「数日前、担任のせんせがお見えになりました。卒業後の進路のことやと思うて、宗門校に入れますと答えかけたら、普通の中学の受験を勧めはりました。」
「何でまた?」
「あの子の学力やったら、府立一中に合格するのは間違いないと言わはるのです。」
「あー、読めた。今も昔も一緒やなぁ。実はわしも一中の先輩ですわ。わしもせんせが勧めにやって来ました。各小学校は毎年男子は一中、女子は府一に何人合格するかを競争してますのや。わしはどっちゃでも良かったんやけど、親父は家業を継がんようになったら困るので嫌がりましたが、担任に押し切られました。ところで、もし一中に行ったら、修行やら仏教の勉強はどうなります?」
 すると今度は和尚が答えた。
「宗門大学は他の中学卒業生も受け入れていて、予科で不足分を習うので問題有りません。」
「管長はどう言うてはります?」
「増村さんと相談して決めるように、と言うておられます。それでこうして参りました。」
「そうですか。それで安陽院さんとしてはどうなんです?」
「私としては……」
 和尚が言い淀んでいると、彼女が黙っていなかった。
「せんせが折角言うて呉れてはりますし、私は一中へ入れてやりたいと思います。早うから宗門がっこに入れることもないと思います。」
「本人はどう言うてますか?」
「何にも言いません。」
和尚がぽつりと答えた。
「あの子は一中へ行きたがってるに違い有りません。私には分かります。」
 彼女は大黒というよりは最早母親そのものだった。
「それは……」
 和尚が自分の意見を言わないので、増村は自分が決めなければならないと思った。
「安陽院さん、それでは一中を受けさせてやって下さい。入ったら義務教育とは違って、少しは金も掛かりますが、なんぼかお手伝いさせて貰いましょう。」
 和尚は初めて嬉しそうな顔をした。彼女は未だ黙らなかった。
「お許しが出て、ほんまに有難う御座います。お金のことは全然心配有りません。受かって行ってくれたら嬉しいのです。本真の子でも一中へ入れる子が出来たかどうか分かりません。」
 増村の同意を得たので、安陽院夫婦は上機嫌で暇乞いをした。玄関まで送って出た増村は、彼らの背中へ向かって声を掛けた。
「四年も育てたら、もう自分の子みたいですやろな。」
 和尚は無言で頷いただけだったが、妻が振り返って言った。
「他の人が居らなんだら、私のことを『お母さん』って呼んでくれるようになりました。お師さんを『お父さん』とは言いませんけど。」
 彼女は相好を崩していた。
「養母のことはどう言うてたんやろう?」
 増村は要らんことを言ってしまったと思ったが、彼女は気にしている様子もなかった。
「それは聞いてみたことありませんけど、どうやら『お母ちゃん』って言うてたらしいです。時々そう言いかけて慌ててます。」
 後日、増村は、洵道が上位の成績で一中に合格し、小学校の卒業式に卒業生総代で答辞を読んだという報告を受けた。
 四月になって、入学式の帰りだと言って安陽院の妻が洵道を連れて増村の店に挨拶にやって来た。洵道は自然体だったが、彼女は洵道の真新しい一中の制服制帽姿が自慢で仕方ない様子だった。増村は用意しておいた入学祝いの金封を洵道に差し出した。すると洵道は合掌してから押し戴いた。それはもう、お布施を受け取るときの仕草なので、増村は思わず笑った。


(五)
 それから洵道が一中を卒業するまでの五年間は、増村は家業と業界の役目が有ったりで働き盛りの時期と重なり、あっという間に過ぎた。洵道は宗門大学に進み、安陽院を出て寄宿舎に入ったという報告を増村は聞いていた。その間に本山の老管長が往生し、新執行部は新管長以下若手が就任した。同時に信徒役員も若返り、増村が代表となった。
 新体制での役員会が終わり、やはり出席していた安陽院の和尚と増村は連れ立って歩き、安陽院までやって来た。和尚は立ち寄って行くように勧めたが、増村が多忙なのも知っていて、無理強いも出来なかった。そんな遣り取りが聞こえたのか、妻が走り出てきた。
「まあまあ、増村さんの旦那さん、ご多忙やのにこの度は総代さんにご就任戴いて有難う御座います。」
「ああ、そやさかいにこの様に立ち話しか出来まへんのや。洵道は寄宿舎に入ったそうですなぁ。」
「そうなんです。寄宿舎は地方出身の子が入るもんで、あの子はウチから通うたらええのに、言うこと聞きませんのです。」
「一遍外の空気を吸いたいのでっしゃろ。」
「洵道が言うには、後々のことを考えると、同じ釜の飯を食うておいた方がええと言うのです。それで私は止めませなんだ。」
 和尚はそう言って満更でもない顔をした。
「それでも、大黒さんは淋しいでっしゃろ?」
「そら、一寸は淋しいですけど、お師さんよりも背が高こうなって、もう青年ですし、可愛がる時期は過ぎました。」
「巣立ちの時が来たんですなあ!」
「そうかも知れませんけど、未だしょっちゅう帰って来ます。週末になったら、『只今』言うて、勝手口から入ってきます。洗濯もん持って。」
「ほんなら、半分在宅、半分寄宿舎ですな。」
「まあそうです。あの子の部屋は本や何やかやそのまんま置いてありますし、泊まって行くこともあります。」
  増村は安陽院の妻の嬉しそうな報告を聞いて、気の休まる思いがした。

(六)
 その後洵道は宗門大学の予科と本科を終え、首席卒業生の中でも何年に一度か特に優秀な成績を修めた者に贈られる宗祖賞を受賞して卒業した。増村は卒業式に来賓として招かれ、安陽院夫婦が誇らしげに出席しているのを見て、これまでよくぞ両親の役割を果たしてくれたと思った。洵道は安陽院預けから正式に本山に戻り、将来の宗門を担う有望若手僧として個室も与えられ、多忙だが充実した日々を送っていた。
 安陽院の妻は、洵道が寄宿舎に入っていた間にすっかり「子離れ」し、今は洵道を本山に送り出したことを自慢にさえ思っていた。そして安陽院が多忙の時は、洵道が手伝いに来てくれるので、これも安陽院夫婦にとって嬉しいことだった。

 それから数年経った頃、若狭の龍山寺という末寺の和尚が高齢で病に伏し、取り敢えず近隣の末寺が代わり合って急場を凌いできたが、それも限度があり、新しい住職を送り込んで欲しいという要望がこれら各寺の連署で本山に寄せられた。早速執行部は会議を開いて検討した結果、龍山寺は若狭の数ある末寺の中心的宗門寺院であり、無住にはしておけないので、然るべき僧を住職に任命し、五十年に亘って若狭の諸寺を束ねてきた老師の功績に報いるため京都に運び、大学病院に入院させることになった。
 二回目に開かれた会議で新住職の人選に入り、内局は洵道を候補者として推薦した。その推薦理由として、安陽院で学僧の徒弟として十分修行を積んでいる、宗門の最高学府を優等で終えている、内局の宗務にも携わっている、などが挙げられた。洵道そのものについて異論を唱える出席者は誰も居なかったが、地方の末寺へ赴任することは其処で骨を埋めることになる可能性がある、洵道は将来宗門の中枢の一員に成るべき人材であり、本山に留め置くべき、という意見が出て、それに賛同する出席者たちも居た。
 それで、出席していた安陽院の意見が求められたが、例によって彼は何も言わなかった。これを見た管長が締め括った。
「優れた者は内局に、という考え方はいけない。末寺有っての本山である。少し若いかとは思うが、地方の檀家は若い住職を喜ぶじゃろう。」
 それで一同は納得し、安陽院は初めて笑顔を見せた。
 歓送会には増村も呼ばれた。最年少が上座に座らせられるので、萎縮するかと思ったが、早くも住職然と怖めず臆せず坐っている洵道を見て、増村は頼もしく思うと共に、安陽院夫婦の訓育と、管長の眼識に敬意を表さないでは居られなかった。帰り際に、「出発までに立ち寄ること」と耳打ちしておいたら、洵道は出立の前日にやって来た。今度も「母親」同伴だった。
「和尚さんは、我々在家の言葉で言うたら、若くして一国一城の主に成らはった。これはお餞別やお祝いと思うてもうてええのやけど、最初は何かと物入りやろさかい、まさか無一文で乗り込んで行く訳もいくまいし、これは少ないけど、わしとしては持参金兼お手許金の積もりです。」
 そう言いつつ増村は目録を洵道に手渡した。すると、いつ見てもニコニコしていた「母親」が目頭を拭うのを、増村は初めて見た。

(七)
 それから数年経った。檀家の役員会があり、管長以下執行部の主立った僧たちも出席した。増村が代表であることに変わりはなかったが、小規模の役員の新旧交代が行われた。散会後増村が帰り支度をしていると、管長が近付いてきた。
「総代さん、一寸残って下さいませんかな。」
 前管長は高齢だったが、現管長は増村と同年代であり、お互いに気安く口が利けた。管長室に案内されると直ぐに管長は話を切り出した。
「お疲れの処、お時間を取って済みません。実は若狭の龍山寺のことなんです。」
「ああ、一遍お聞きせんならんと思うてました。安陽院さんに聞こうにも中々会えんし。それで和尚は元気にしてますか?」
「洵道は元気でお勤めをしております。あんまり忙しいので、本山へ出てくる暇がないようです。」
「そら結構ですな。檀家さんたちも喜んでることでっしゃろ。」
「そらそうですが、こないだ久し振りにやって来て言うには、なんぼ若いというても、一人では無理で、この節田舎の山寺に来る小僧もおらんので、どうにもならんと申しますので、妻帯してはどうかと勧めました。そしたら、考えても見なかったが、本山のお許しを得たら、そうしたいと申しますので、昔じゃあるまいし、今は末寺の住職の妻帯など本山の関知することではないと言うてやりました。」
「そらそうですわなあ。」
「そしたら、そんなら嫁さんを世話して欲しいと言って帰って行きました。」
「檀家さんからか、檀家さんが世話してくれるでしょうが。その方が地元の事をよう知ってて何かと好都合でっしゃろが。」
「いや、地元から貰う気はなさそうでした。」
「そんなもんですかいなあ。」
「妻帯を勧めた手前、世話してやらんならんことになりました。寺の娘なら探せそうなのと、寺の事が少しは分かってる筈なので、どうやと言ってやりましたが、『同業者』からは避けたいと言うのです。分かるような分からんような理由ですが。」
 そう言って管長が笑ったので、増村も釣られて少し笑った。
「在家からということになると、世間の広い増村さんの旦那さんに頼る他はない。家へ戻られて、奥さんと一緒に考えて貰えますかな。」
 管長はそこまで言って今日の話しを終えたような様子だった。ところが増村は席を立つ代わりに居住まいを正し、やおら口を切り出した。
「何という事やら! 管長さん。実は身近に、合いそうな話しが有るのです。」
「それは又奇遇なこと。是非聞かせてくだされ。」
「では、少し時間が遅くなるかも知れませんが、大事な話なので、初めから申します。
 ウチの姻戚で丹波に昔の大庄屋で養蚕で財を成したのがあり、今も村人の大方を雇って養ってるようです。そこに娘が一人居り、姻戚のことを褒めるのも照れ臭いが、近郷近在切っての器量好しと謳われるので、親は一人で外出はさせず、入り会いの鐘が鳴ったら乳母(おんば)さん付きでも外へ出さんという育てようでした。」
「ほう。今でも行くところへ行けば、そんな事が有るのですなあ。」
「子どもの頃はそれでも良かったんでしょうが、年頃になるとそうは行きまへんでした。」
「というと?」
「何でも、そもそも事の起こりは、会社や工場の従業員の慰安行事の企画をする手配師がやってきて、お芝居の観劇を勧めたそうです。この興行主は実績もあり、評判も悪くないそうで、そこへ以て大旦那が毎年京都の顔見世を観に来るほどの芝居好きなんで、工場の敷地内に大テントを張って芝居を観ました。旅回りの劇団としてはそこそこ名の知れた一座で、大旦那も満足して芝居が跳ねた後、一座の主立った者を招いて屋敷の大広間で慰労の宴を開きました。」
「それは又、念入りなことですなあ。」
「そこまでは好かったんですが、一座の二枚目役者が出席してました。娘も母親と一緒に出席しました。娘は芝居で水も滴る美男子に魅入ってしまい、宴会では間近で素顔に接し、もうすっかり逆上せてしまいました。尤も、日頃は捏ね芋みたいな顔した村の衆しか見とらんので、無理もありまへんけど。」
「捏ね芋とは酷い。」
「へへっ。兎も角一座が去っていった後、二、三日して娘が居なくなりました。家中大騒ぎになり、町の警察署に届けようかということになりましたが、乳母さんの口から『何とかの助』の後を追って家出した、ということが判かりました。」
「女好きの旅役者が生娘を誑かしたんですな?」
「最初はそう思いました。確かに行く先々で一夜の慰みはよくあることやそうですが、押し掛けは余りなく、連れ歩くとなると朋輩たちの手前もあり、直ぐ重荷になりました。」
「それで、それからどうなりました?」
「親元は興行主と連絡を取り、行き先も分かり、田舎の宿屋に置き去りにされていた娘を大番頭と乳母さんが連れ戻しに行きました。」
「連れ戻ってきてからが大変でしょう。急に居なくなったのが、急に戻ってきたのじゃから。」
「それは、知恵者も居り、実家には戻らず、年頃なので京都の然るべきお屋敷に花嫁修業に出したということにしました。」
「何処か預かってくれるとこが有ったんですな?」
「実はウチが預かってるんです。」
「ええっ、何とな!」

「そら、器量はええし、お茶・お花はお免状を持ってるほど仕込んであるし、来客にお茶を運んできても様になるし、結構なんやけど、店で遣う訳にも行かんし、家内の外出のお供をするぐらいで、これといってすることもないのです。その内虫でも付いたら事やし、何時までも置いとけんなと、昨日も家内と言うてたとこです。」
「ふーむ、ふんふん。」
「確かに訳有りではありますが、龍山寺にどうでっしゃろ?」
 増村は其処まで話して一呼吸吐き、管長の出方を待った。すると管長は余り間を置かずに反応した。
「私はええ話しじゃと思います。龍山寺も出自の問題が有りますしな。それも考慮に入れて増村さんは釣り合うと考えておられると思いますが。」
 増村は否定も肯定もせず微笑するのみだった。
 早速管長は洵道に縁談の書状を送ったところ、結構な話だと言ってきた。増村も丹波の田舎に手紙を出したところ、有りがたい話だと乗ってきた。時を置かず両人の見合いが本山の客間で行われ、娘には両親が出席し、洵道には安陽院夫婦が坐った。洵道は同意し、安陽院夫婦も異存が無く、娘の方は娘も両親も喜んで縁談は纏まり、結婚式は本山で増村夫婦が媒酌人となり、儀式は管長が取り持ち、娘は目出度く若狭に輿入れした。そしてその内女児が一人出来たという話は増村も聞いていたが、いつの間にか二十年が過ぎ、増村は大旦那と言われるように成ったが、家業は息子に譲り、名目だけの会長になっていた。
 増村家はいかにも老舗らしく、家庭も事業も大きな変動はなかったが、若狭の龍山寺は動きがあった。
「動きて、どんなことでした?」
「娘がいるのはお聞き及びかと存じますが、子どもは一人しか出来ませんでした。それが大き成って京都の大学へ入りました。」
「何処です?」
「立志院です。」
「それやったらええ学校や。」
「そして在学中にウチの宗門校の夏期講習にずーっと出て、僧侶の資格も取りました。」
「そら偉い。実はさっきから気になってたんやけど、後継者の事はどうなってんのやと思うてたんや。」
「私も家内も寺の後のことは何にも言いませんでしたが、継がんならんと思うてたみたいです。」
「専業のつもりなんやろか?」
「いえ、田舎へ戻ってきて教師になると言いました。」
「それやったら理想的やがな。」
「そして四年生の時に京都市内の中学に教育実習に行きました。」
「地元の学校へ行っといた方が後々有利と違うのやろか。」
「私もそう思いましたが、京都出身の仲のいい友達が京都の中学へ行くのと、自分も京都の学校の教育を見ておく方がいいと言いました。」
「なかなか確りしたはるわ。そして卒業して若狭の学校の先生に成らはったんやね?」
「話は未だ其処まで飛ぶことが出来ません。」
 洵道は少し笑っていった。
「へ、その後何かあったんどすか?」
 増村はそう訊ねてはみたものの、洵道の口調から、悪い話ではないと思った。
「実習校へは他大学の学生も来てまして、化学専攻の男子学生と親しくなりました。娘は英語でしたけど。」
「ほうほう。」
「夏休みの終わりにはウチに連れて来ました。」
「ほうほう。」
「海に近い山寺が余程気に入ったのか、福井県の教員採用試験を受けてみないかと娘が冗談半分で言ったところ、彼は受けると言い出し、本当に受けて二人とも採用されました。
「ほうほう。」
「その頃になるとどちらからともなく結婚する気になり、卒業する頃には婚約しました。」
「わしは他の言葉が出まへんわ。」
「初任校は別々でしたが、彼は、自分も何れ得度を受けると言ってくれました。」
「何でそんなに上手くいくのやろ!」
「彼は親が転勤族で、故郷の無い子なんです。転勤の先々でも、畳のない椅子の生活だったようで、娘や私達ののんびりした生活が羨ましかったようです。」
「……」
「正直言って嬉しかったです。それで家内と相談して、娘夫婦の結婚を祝って寺の伽藍を建て直すことにしました。」

 本山の紹介で京の有名な宮大工が請け負い、地元の職人も加わって改築は完成した。そして新婚の二人に少しずつ住職としての指導を始めたのも束の間、予想外の事が起こった。
 安陽院の和尚が心筋梗塞で急死した。自坊と宗門の教学部長の掛け持ちで最近疲れ気味だったという。檀家の葬儀や法事は、忽ちは並びの塔頭や本山から僧を出すが、それも長くは無理で、至急新たに住職を選ぶ必要があった。本山は大して議論することもなく洵道に白羽の矢を立て、人事を内示した。昔と異なり下命は絶対服従でなく断ることも出来たが、安陽院とあれば洵道は断ることができなかった。

「寺院となると、我々民間の家屋とは異なり、 宮大工が入って何百年も持ち堪える建築で、大金を要したやろに、ようまあ建てはった。」
「それは大変でしたが、私の代で建て直す積もりをしてたのと、檀家の寄付もあり、それにお聞きかも知れませんが、家内の実家が財産分与としてかなり纏まった金を出してくれたのが助かりました。」
「折角終の棲家が出来たのに、降って湧いた人事で困ったですやろ。」
「私達夫婦はすっかり若狭弁にも馴染んでいたので、今更、という気持ちはありました。」
「それを断ち切って下命を受けはったんは、お師さんの安陽院への思い入れどすか?」
「いや、実は家内が飛び付いたんです。」
「何でまた……!」
 「江戸後期に建立したという伽藍の解体が始まって直ぐ、棟梁が緊張した顔をしてやって来まして、本堂裏の縁の下に、不審な男と女が住んでいるのを見付けたというんです。本堂は高床になっていて、しゃがんで歩けるほどの高さがありました。本堂の裏へ行ってみましたら、作業員たちに囲まれて、中老年の男女が縁の前の白砂の上に座っていました。名前は? どこから? 何時から? どうやって食べてる? など手を変え品を変えして聞くのですが、如何な要領を得ません。仕方ないので駐在に来て貰いました。すると餅は餅屋で、駐在はいろんなことを聞き出したようでした。駐在が言うには、一応家宅侵入や不法占拠に該当するが、時効になるのか、継続とするのか、本署に聞いてみんと分からんが、何れにしても微罪だろうというのです。田舎では山小屋、野小屋に流れ者が住み着いたり、暫く住んで綺麗に掃除して去って行くことは偶にあります。駐在は訴えるかと聞きましたが、私としては一生に一度の大事業の時に罪人を出すのは寺院のすることではないと思ったし、棟梁も大造作に縁起が悪いと嫌がりましたので、お咎め無しということになりました。」
「その男と女は夫婦者やったんですか?」
「男の方は元々は独身で何かの職人だったらしいですが、空襲で焼け出されて、逃げるところを柱か電柱かが倒れてきて頭を打ち、命は助かったが今みたいになってしまったらしいです。そして女の方は既婚か未婚かも分かりませんが、やはり戦災に遭って放浪していたところを知り合って一緒になったようです。」
「それで、二人は出て行きましたか?」
「それが次の問題でしたが、それからいろんな事が判ってきました。村人たちは前から知っていたというのです。そして山奥からちょいちょい働きに来ていると思い、農繁期に仕事をさせたり、隣村に物を届けさせたりしたが、何の問題もなかったそうです。確かに物は言わなんだが、山奥へ行くとそんなのは珍しくなかったんです。」
「それにしても、寺の者が長年気付かんかったとは!」
「いや、実は家内や娘は顔を知っていたというのです。私も何となく見たことのある顔でした。」
「そんなら何故?」
「ウチは境内が広いですし、旅の人がお詣りに来たり、村人が墓地へ出入りしたり、老人たちが断り無く境内の草引きしてくれたりで、寺の者は人慣れしているのです。」
「田舎はそんなもんですかいなあ。それからどうなりました?」
「直ぐに追い出す訳にも行かず、一日、二日と経つ内に造作現場で雑用を手伝うようになり、男は木材の扱い方を知ってるらしいと棟梁が言い始め、女は湯茶を沸かしたり、掃除したりするので、二人は段々と職人に混じって働くようになり、とうとう落成するまで残りました。」

「何となあ!」
「落成法要には、態々京都から管長らも来て下さり、新聞の地方版にも載りました。これで一区切りが付いたので、私達夫婦と娘夫婦とで件の男女の処遇を相談しました。私としては、ここらが潮時で、某かのお金を遣って、出て行って貰う積もりでしたが、娘が『自分たちは共働きで不在がちだし、寺の規模からいうと居て貰ってもいいのでは』と言い出し、婿も『戦争の犠牲者だし』と言いました。すると妻までが、『山門脇の物置小屋を空けることが出来る』と言いました。これは明治になってから建てたもので、うちでは比較的新しいのですが、処分しても好いようながらくたしか入っておりません。それに土間ではなくて一応床も張ってあるので、住めんことはないのです。そんな訳で三対一で私が負け、二人を寺男夫婦として置く事になりました。」
「何か時代劇に出てくるような話じゃ。」
「ええ、事実村の古老の話によると、明治から大正に掛けて、鐘を撞いたり、墓を掘る寺男が居たそうです。」
「折角目出度しめでたしの処へ、安陽院の話が出てきて、困ったでっしゃろ。」
「仰せの通りでした。さっきも申しましたように、断っても好かったのです。事実本山でも龍山寺の和尚が承けてくれるかどうかと案じたそうです。そしてもし断られたら、後、適任者がない、と心配したそうです。」
「それでお師さんが本山の意向を忖度して引き受けはったんやね。」
「いえ、そうではないのです。さっきも申し上げたように家内が飛び付いたんです。」
「それが分からんのや!」
「申し訳ありません。でも笑い話みたいなことなのです。」
「尚更判らん。」
「お聞き下さい。三組の夫婦で寺は新たに動き出しました。寺男の『妻』は家内が声を掛けてやるとポツポツ話すようになり、ある日、娘が生まれた時から知っていると言いました。」
「そしたら少なくとも二十年以上も前から住んでたんやね。」
「家内はそんなことに驚いたのではなく、そこまで知られていたのがただもう恥ずかしく、それからというもの、寺男の妻を避けるようになりました。」
「うーん!」
「それで私が、若い夫婦がどんな声を出そうと、どんな睦言を交わそうと、少しも恥ずかしい事ではない、と言いますと、それが露骨過ぎたのか、私の顔も見んようになりました。ええ歳しながらも、生まれや育ちを引き摺っていると見えます。」
「うちらの女共とはえらい違いや。」
「そこへ安陽院の件が……」
「それで飛び付いたんやね。」
 洵道は黙って頷いた。
「それで、二つの寺をどう管理したはんのどす? 時々は若狭へも教えに?」
「いいえ、まだまだ若い者に任せられんので、私は若狭に居ります。そして用が有るときだけ安陽院に来ます。」
「ええっ、何時までそんなことを?」
「一、二年はそんなことを続けるつもりです。その後の一、二年は時々助けに行き、それが済んだらお互いの寺に専念します。」
「その間、お師さんは夫婦で行ったり来たりしたはんの?」
「いいえ、家内はすっかり安陽院が気に入って、全然彼方へ行く気がありません。」
「然し一人の時は退屈というか、淋しいでっしゃろうが。」
「いいえ、言うのを忘れておりましたが、安陽院の奥さんに、私が若いとき居た離れに住んで貰ってるので、家内にいろいろ教えて下さり、仲の良い嫁と姑みたいで、私が居らん方がいいのかも知れません。」
「今日は本真にええ話しを聞かせて貰うた。これで私も安心して引導を渡して貰えるわ。その節は宜しゅう頼んまっせ。もう直ぐやろけど。」

 (完)

 

紳士の作法

はじめに

 米国初代大統領で建国の父と仰がれるジョージ・ワシントン(一七三二-一七九九)が書き、そして自ら実行した、紳士が心得るべき作法は百十ヶ条から成り、それだけを列挙するなら、立てて置くことも出来ない小冊子で事足りる。
 しかし、ワシントン自身が考え出したのか、或いは先人が拵えたものなのか、そうだとすればどのような経路を経てワシントンに繋がったのか、を知って条文を読むのと、ただ条文だけを読むのとでは関心も理解の度合いも違ってくるということに、本書を読まれた方は気付かれる筈だ。
 私達は人跡稀な深山や野中の一軒家に独居出来る筈もなく、又、組織に属しているか自営業かを問わず、人と交わって生きて行かなければならない。才能も能力もあるのに不遇を託(かこ)つ人がいる一方で、己が力不足を自覚し、人に好感を持たれるよう自らを律し、立派に世を渡って行く人もある。国父ジョージ・ワシントンも実は後者の部類の人だった。
 持てる力を十分受け入れてもらいたい人、上司・同僚・部下・後輩・顧客・友人・家族などに今以上に好感を持ってもらいたい人にとって、ワシントンの百十ヶ条の座右銘は必ずや益するところ大だと思う。しかし、そのような実利ばかりを強調するのは好くないかも知れない。全部とは言わないまでも、これと思う条文を実行して自律すると、誰に知られずとも、満足感を覚えて心豊かな日々を送ることが出来るのは間違いないと思う。
 ワシントンの座右銘は文明化・国際化の今日、大いに参考にはなるが、何せ年経たものであり、現代の目で見直す必要もあるだろうし、それに本書を読んでくださる方は大方日本人だろうから、これを機会に「京の作法」も少し載せておいた。ご参考になればと思う。

沿革

 ワシントンの座右銘(原題は「人前での立ち居振る舞いや物の言い方の作法」とでも訳せるが、長いので本書では『紳士の作法』とする)はそのルーツの探求をも含めて、マンキュア・D・コンウェイ(一八三二-一九〇七)の研究(『ジョージ・ワシントンの紳士のルール』(一八九〇)。今も英語版がぺーパーバックスで市販されている)が頼りになる。この人は聖職者で奴隷廃止論者としても知られている。

フランスの僧院
 彼によると、一五九五年に、フランス北西部の町ラ・フレッシュに在ったイエズス会カレッジ(デカルトもそこで学んだ)の修道士達によって「人前における会話の作法」(以後『座右銘』)が編纂され、ポンタムッソン(北東部ナンシー近くに在るモセル川沿いの工業の町。十六世紀に大学が置かれた)の法類達に送られた。日本で言えば、秀吉が国家統一を図った頃だ。このあたりの教区を統括するトゥールの司教ニコラ・フランソワは、ポンタムッソンの大長老でパリのヒューマニズムの教授でもあったレオナール・ペリンにこの座右銘のラテン語訳を命じた。ペリン神父は訳の他に彼独自のテーブルマナーを付け加え、このラテン語版が一六一七年にポンタムッソンで、一六三八年にパリで、そして一六五一年にルーアンで広まった。その後スペイン語、ドイツ語、ボヘミア語に翻訳された。フランス語版は一六四〇年にはパリで入手できた。
 コンウェイは大英博物館において、八歳の少年の手になるという一六四〇年の英語本を見付け、次のような印象を述べている。
「翻訳は実に粗雑で所々意味も不正確だったが、八歳に満たない少年の単独訳である事は信じがたい。ワシントンの読んだのと、このホーキンス版を仔細に比較すると、バージニアの少年がロンドンの少年の訳を使用したかどうかは疑わしい。相違の方が類似よりも多い。」

英国の天才少年
 話を先へ進める前に、この途方もない早熟英才少年の出自と行く末を記しておくと、フランシス・ホーキンズは一六二八年、ロンドンに生まれた。父親のジョンは医師で、トマス・ホーキンズ卿(翻訳家・詩人。国教を忌避した)やヘンリー・ホーキンズ(イエズス会指導者)と兄弟で、古い有力な一族だった。ジョン・ホーキンズは早熟の息子がフランス語『座右銘』を英訳したのに驚喜し、印刷業者のウィリアム・リーの処へ息子の原稿を持って行き、一六四〇年頃活字となった。しかし当時ピューリタン革命などの政情不安が有って、第二版が出たのは一六四六年だった。それからは矢継ぎ早に一六七二年まで版を重ねた。
 ホーキンズは二十一歳でイエズス会の修道士となり、修業を重ねてゲント(ヘント、ガンとも。現在ベルギー北西部の東フランダース州州都)の聴罪司祭となった。そして一六七五年からから亡くなる一六八年の始めまで、リェージュ大学の聖書学教授だった。
 これらのホーキンズ本は三百六十年ほど経った現在では稀覯本であり、チャールズ・ムーア(『紳士の作法』ホートン・ミフリン杜刊(一九二六年)の編者)の調査によると、米国ではフィラデルフィアの個人が一六五一年版を所有し、国会図書館に一六六三年版が所蔵されているのみだが、本家本元の英国の方はもう少し多く、大英博物館には一六四六、一六五一、一六六三、一六七二年版が有り、それに一六五二年にロンドンで出版されたラテン語版も所蔵されている。オクスフオードのボルドレイアン図書館には一六六一年の第七刷、一六六三年の第八刷、一六六八年の第九刷、そして一六七二年版の第十一刷が所蔵されている。ケンブリッジのトリニティ大学図書館には少なくとも一六六三、一六七二年版が所蔵されている。注目すべきは、たとい同一本であっても出版年度が異なれば複数保存していることだ。「改訂」と表示しないまでも誤植などの訂正はあり得るからで、司書や図書館の見識を伺い知ることができる。
 このようにホーキンズ本は世界中に十冊有余しか現存しない稀覯本なので、是非実物を閲覧したいところだが、筆者木下はロンドンやワシントンに出掛けて行くことなく実物に触れることができた。実は大阪大学図書館に一六七二年本が所蔵されていることが判明したのだ。許しを得て閲覧させていただいたが、コピー機で複写することは不可だった。強い光線を当てる、本を広げて上から圧迫する、は貴重な古書には禁物であり、当然の措置だった。それで自然光線下で写真を撮らせて貰った。我が国にはシェイクスピアのファースト・フォリオ(最初のシェイクスピア全集。一六二三年刊)なども有ると聞いているが、ホーキンズ本は筆者の閲覧した最も年代の古い洋書となった。内容を知りたいだけなら復刻版で事足りるし、今では居乍らにしてインターネットのアーカイブから無料でダウンロードすることも出来る。しかし、ホーキンズ本の実物を閲覧した時の感慨が拙著を完成させる励みになったとすると、原本の保存、そしてその閲覧の意義は極めて大きいと思う。

original

フランシス・ホーキンズの1672年本(大阪大学図書館蔵)

ワシントンの入手  

 これまでに述べた『座右銘』成立の歴史を整理すると次のようになる。  

一五九五年 仏ラ・フレッシュ修道院道士たちが「人との会話の作法」(本書では『座右銘』)を編纂。後、法類ポンタムッソンのペリン神父が増補しラテン語訳。  
一六一七年 ラテン語版、ポンタムツソンで広がる。
一六三八年 ラテン語版、パリで広がる。  
一六四〇年 この頃までにペリン本の仏語版もパリで出た。ホーキンズ英訳。  
一六七二年 ホーキンズ本十一刷。

 ホーキンズ本が出てから百年後、大西洋を隔てたアメリカでワシントン少年がアクセスしたのはホーキンズ本なのか、或いはラテン語版やフランス語版なのか、自習なのかそれとも学校で習ったのか、などは出来れば明らかにしておきたいところだ。それには回り道のようだが、ワシントンの生い立ちから調べてみるのが良いと思う。独立戦争時の植民地軍司令官として、独立後の合衆国初代大統領としての彼はよく知られているが、父が大事にしていた桜の木を、斧の切れ味試しに切り倒してしまったエピソードは有名でも、彼の前半生は意外に知られていない。それにはいろんな理由が考えられるが、史家・伝記作家たちは彼の必ずしも恵まれなかった幼少期を書くことが、後でも少し触れるが、国父のイメージが損なわれるのを慮(おもんばか)ったのかもしれない。

欧州から米国ヘ
(一)
 ワシントンの前半生を語る前に、更に回り道をし、時代も遡って、ヨーロッパヘと目を転ずることにする。アメリカは主としてヨーロッパからの移民が造った国だからであり、ワシントン少年に大きな影響を及ぼした二家が『紳士の作法』と深い関わりがあるからだ。
 一つは旧大陸で、フランス北西部の町ルーアン(ジャンヌ・ダルク焚刑の地として有名)にマリという一族が居た。このマリ家はカトリックとユグノーの両方の年代記で名を知られている。その内ピエール・マリ(一五八九ー一六四八)はルーアンで生まれ、ブルージュで没したが、その著書でも知られているイエズス会の傑出した存在だ。
 一家はユグノー運動によって旧教と新教に分かれ、プロテスタント分派は英国に根を下ろした。後者について言うと、牧師のジャン・マリはバーソロミュー大虐殺から英国に逃れた避難民の一人だった。ユグノーの殉教者で、リジュー(仏北西部の市。聖テレーズ・ド・リジューが住んでいた関係で巡礼者が多い)司教区のサン・ジョルジュ生まれであるマラン・マリと同じ家系に属すると考えられる。この剛胆の人はジュネーブに移住し、フランスヘ布教の旅に出てサンス(仏北中部、ヨンヌ川沿いの町)で囚われの身となり、重い聖書とプロテスタント改革促進パンフを背負わされ、パリのモーベル広場(パリ最古の広場の一つ。古来種々の騒動の拠点として有名)で火炙りにされたのは一五五九年のことだった。
 ジャン・マリ牧師は英国では歓迎され、ノリッジ(イングランド東部ノーフォーク州の州都。大聖堂と大学が在る)に派遣された。ここで初めてのフランス人だったらしい。彼は説教の自由が復活した時フランスの改革派教会に雇われ、その結果ノルマンディに戻って来たが、後に再びノリッジに復帰した。そして次に息子の一人、ナサニエル・マリがロンドン・フランス教会の牧師の一人となった。
 我々が特に関心を持つジェイムズ・マリはカトリツクの方の出で、十七世紀末期にルーアンで生まれた。彼は聖職に就くべく、間違い無くルーアンのイエズズ・カレッジで教育を受けた。ここは我々も既に知っている如くペリン神父の作法の本が印刷されたところでもある。しかし、ジェイムズ・マリは一七二六年にカトリックを離れた。これは家族との決別を引き起こした。一家というのは寡婦である母と、他にその二人の息子だった。この二人というのはピーターと、後に役人になるウィリアムである。しかし二人の名はプロテスタント家族の中に再登場する。離反の結果としてジェイムズはイングランドに移住する。そこで彼は学問を修め、ロンドン主教によって聖職位を授けられた。
 一七二八年に彼はレティシア・マリア・アン・ステイグという女性と結婚した。彼女は、既にバージニアに移住していたテオドシウス・ステイグ師のきょうだいだった。それでジェイムズ・マリも又、この植民地へと一七二九年に花嫁を伴って旅立ち、第一子のルーシーは航海中に生まれた。当時の女性は逞しく、旅先で出産するのは珍しいことではなかったし、それに彼女には信仰心と使命感も有っただろう。
 この移住の目的は、ジェイムズ川沿いのモナカン(モナキンタウンとも)に在るフランス系ユグノーの入植地に聖職者を送り込むためだったと思われる。歴史的には、これら亡命者たちの第一陣は一六九〇年にオリバー・デラ・ミュースに率いられ、一六九九年には更にフイリップ・デ・リシュブール牧師ら六百人が後に続いた。バージニア植民地議会は彼らに免税の特典と、エンリコ郡の広大な土地を与えた。現在のリッチモンドはその近くに在る。

マリ 一族(旧教、仏 ルーアン)


レティシア = ジェイムズ(後、新教、米へ)

 

(二)
 アメリカの人となったジェイムズ・マリー(米国では「マリー」と読むことが多い)の名前は、キング・ウィリアムズ教区(ウィリアム王がユグノー植民地に好意的だったことに因む)で一七三〇年の幼児洗礼に関係して現れる。教区会議事録によれば、一七三五年に教区委員たちは植民地の慣習に従い、バージニァ知事に対し、ジェイムズ・マリーを説教師に任命するよう誓願し、それが認められた。彼は当時セントジェイムズ教会(バージニアのグーチランド郡のノーザム教区に在った)を主宰する「セントジェイムズのマリー師」と書かれている。
 ジェイムズ・マリー師は一七三五年から亡くなる一七六七年までフレデリックスバーグに留まり、精力的に活動し成功を納めた。彼は自分の名を付けた子孫を大家族に発展させ、彼らは著名な代表者たちとなった。すなわち、彼の死後、フレデリックスバーグのセントジョージ教会は同名の息子によって継がれ、この名誉ある伝統は守られた。ひ孫のジョン・L・マリー(彼の邸宅「ブロンプトン」は「マリーズハイツ」に建ち、南北戦争で有名になった)は高名な法曹家だった。そしてその息子であるジョン・L・マリー二世はバージニア副知事となった。
 このバージニアのマリー家創立者はアメリカの名士に列せられて然るべき雄弁な牧師で、フレデリックスバーグで気高い集会を開いた。彼は又、洗練された紳士で教育者でもあった。彼が学校を設立して教えたことは先ず確かである。町の記録によると、この学校は源をフランスに発するとしている。彼が住み始めた当時、植民地語で「ぺーパータウン」に過ぎなかったフレデリックスバーグの然るべき住民一人一人の名前と身分は今も知ることが出来る。
 校長として礼儀作法を教えたと考えられる元フランス人学者を得たという幸運によって、この植民地学校は、小邑に過ぎないこの地から異常に多数の傑出した人物を生んだ。この学校でワシントン、マディスン、モンローの三人の大統領が初等教育を受けたのだ。マディスン、モンロー両人の成功と出世は知的能力よりも人を惹き付ける魅力に負うと断言しても良いと思われる。両人は自ら身を置く政界において大いに必要とされる雄弁術に極めて劣っていた。彼らが議会で演説することは稀だった。演説するときもマディスンは尻込みし、しても聞きづらかった。しかし彼の物静かさと他人への気配りが雄弁な演説となった。この両人がジェイムズ・マリーの教えを受けたかどうかは疑わしい。というのは彼らがフレデリックスバーグの学校に通っていた頃、ジェイムズ・マリーは既に高齢だった。しかし礼儀作法は彼らの頃にも教えられていたのは確実と思われるし、事実現存している人たちの記憶の中にもある。
 ジョージ・ワシントンは上記二名よりも公衆の面前で演説するのに劣っていたとはいえ、深い知性を備えていた。しかし少年時代、大抵の友達よりも、自分が気に入らなかったが、これは徳性によってのみ克服できる障害だった。
 この地にマリー以外フランス人は居らず、フレデリックスバーグのこのような重要な学校で教えることの出来る人物は居なかった。というのは、この学校はたちまち最高学府としてバージニア中に知られることとなった。特に古典教育に重点を置き、その名声は数百年以上続いた。

(三)
 それに先立つ一七二七年にフレデリックスバーグが開開(かいびゃく)し、一七三二年に此の地を訪れたバード「大佐」(軍人とは限らない。親分肌の年配者を持ち上げるときにも遣う。「旦那」ぐらいの意味)は以下のように書き記している。
「商人・仕立屋・鍛冶屋・普通の経営者・女医で喫茶店主である女性、が一人ずつしか居ない此の地で、ウィリス旦那を差し置いて、誰がここの代表者だろうか。」
 このウィリス旦那がワシントンのおばに当たる女性と結婚した。そして近くにはワシントンと繋がっている人たちも居た。ここらあたりからジェイムズ・マリーとワシントンの接点が見えてくる。ワシントンの父オーガスティン・ワシントンは鉱山などに関係する事業を営んでいて、四人の子(内二人は育たず)を儲けたが、妻に先立たれたため後妻を娶り、二人の間に出来た第一子がジョージ・ワシントンだ。それまで一家はバージニア植民地のウェストモーランド郡に住んでいたが、ワシントンが生まれると直ぐに別の農園に移り住んだ。其処は後にマウントバーノンと呼ばれるようになり家屋敷と記念碑が今も残っている。この地名はこの屋敷を建てたジョージの異母兄ロレンスが士官として仕えた英国海軍のバーノン提督に敬意を表して付けた。
 一七四三年に父が亡くなったとき、ジョージ・ワシントンは未だ十一歳だった。父は多くの土地を所有していたが、金は余り残さなかった。そしてその土地も大方は先妻の息子たちに遺された。それでジョージは、彼が生まれたウェストモーランドに在るウェイクフィールドと呼ばれる古い農園で、異母兄のオーガスティン(父と同名)と共に暮らした。それからフレデリックスバーグ近郊に戻ってきて母と暮らした。寡婦となった後妻は貧しいままで、その長男のジョージは殆どの級友のような将来の展望が無かった。
 彼がフレデリックスバーグの学校へ行ったことは、この町の創始者であるハリー・ウィリス旦那の孫であるバード・ウィリス旦那の書き遺した稿本に出ている。その中で、バードの父親ルイスはワシントンと学校で遊んだと言っている。教師たちの名は書かれていないが、ジェイムズ・マリーであったと思われる。ただし、チャールズ・ムーアは、「彼がワシントンの教師だった可能性もあるが、彼がフレデリックスバーグや他の場所で教師をしたとか、名目のみにせよ当時フレデリックスバーグに学校が在ったという証拠はない。事実我々はワシントンが学校へ行ったという事実を知らない。」と言っているが、ルイス、バート親子の証言がある以上、本書ではコンウェイ説を採ることにするし、そのほか大方の記述もコンウェイの調査に依っている。
 コンウェイはバートの子孫から入手した彼の手書き原稿から次のような箇所を引用している。「父ルイス・ウィリスは二歳年上の従兄であるワシントン将軍のクラスメートであった。彼は学校での将軍の勤勉と精励が際立っていたと言っている。彼の兄弟や他の少年たちが遊び時間にテニスみたいなことをして遊んでいても、彼は教室の中で算術を解いていた。しかし若気の至りは在学中にも見受けられ、一番大きい女の子ともはね回った。これは極めて異例のことだったので、他の男の子たちの間で噂になった。」
 少年時代にこの偉大な軍人は決して堅物ではなかったが、喧嘩はせず、仲裁者として運動場へ呼びだされ、その仲裁は常に受け入れられた。
 ラッパハノック川沿いの母親の粗末な家で、ワシントンが『若者の振る舞い』を読んで熟考し、注意を引いたことを自分のために書き留め、そしてクラスメートの中で礼儀作法の先生役になったということは驚くべきことだが、有り得ないことではない。ともかくワシントンはバージニアの最高学府であるウィリアム&メアリ・カレッジに進学する代わりに、彼はビジネスに就く準備をした。彼の古い習字帖に書いてある礼儀作法はビジネスのスタイルに近いことが分かるし、十四歳の少年の厳しい将来展望への悲壮の表れでもある。寡婦である彼の母親は無学だったが、彼は母親に孝養を尽くした。のちに大成して公務に追われるようになっても、年を取って気むずかしく厳しくなった母を敬い、優しくした。
 ワシントンは最終的にはハンサムな男性に成ったけれども、初めの頃は人好きのする容貌ではなかった。彼は痩せこけて頬がへこんでいた。彼はフレデリックスバーグの名だたる美人連中からの人気はなく、青年時代にバルバドス(西インド諸島東端の島)を訪ねて病身の異母兄ロレンスを介護している間に天然痘に罹り、痘痕面と成った。
 ここで、もう一つ彼と係わりのあるヨーロッパの一家系が残っていた。旧大陸から海を隔てた英国にフェアファクス家という貴族が有り、第六代目のトマス・フェアファクス男爵(一六九二-一七八二)がバージニアに在った母方の荘園を訪れ、領主として定住した。このフェアファックス公やフェアファックス家の人々の経験豊富な目は、ジョージ・ワシントンの人目を引かない容貌の下に信頼の出来る性格を見出した。ポトマック川上流の隣人たちは、フレデリックスバーグほど開化されておらず、洗練もされていなかったが、作法や立ち居振る舞いの良き仕付けを身に付けたたこの青年紳士はこの人たちの好意と信頼を勝ち得た。
 彼は十四歳で『紳士の作法』を書き、十六歳で学校を出ると、自分で生計を立てなければならなかった。一七歳の時、彼はフェアファックス公から公の広大な荘園の測量技師に採用され、公はシェナンドー渓谷に在る荘園の測量と地図作成を少壮測量技師ワシントンに依頼した。そして一時、彼はグリンウェイコートの公の屋敷に住み込んだこともあった。彼がこのようにして周囲に合わせることなく発展して行き、そして教育程度の高い有力なフェアファックス家の好誼を得たのは、マナーのトレーニングに依ることも一因であるのはまず疑いない。
 そして、フェアファックス公が『スペクテーター』紙(二種有り、一つは英国の日刊紙(一七一一-一七一四)、もう一つは同じく英国の評論週刊誌(一八二八年創刊)、ここでは前者を指す)の有力な寄稿家であり、ワシントンはグリーンウェイに寄居中この新聞を精読していたことも記憶されるべきである。

(四)
 ワシントンが『紳士の作法』を入手した経緯に決着を付けたいが、コンウェイは断定を避けつつも、教師(ジェイムズ・マリーの可能性有り)がフランス語版とホーキンズ本を基に授業で口述し、それがワシントンの習字の文言に成り、そして彼の原稿に見られる多くの簡略・ぎこちなさ・綴りの間違い・句読点の欠如などは教師の口述を書き取った所為、としている。
 このワシントンの手書き原稿は彼の死後も遺族によってマウントバーノンの家屋敷に保存されていたが、公立文書館に納まるまでの間に、ネズミによって囑られ、百十ヶ条の内九ヶ条が被害に遭い判読不能になってしまった。しかし、ロンドンに渡ってフランス語版やホーキンズ本を参照して九ヶ条の復元に成功したのもコンウェイの業績だ。
 『座右銘』には異本も幾つか有ったようだが、今ではワシントンの『紳士の作法』がいわば定番となっている。しかし、ワシントンの伝記作家や編集者でこれらの事を世間に公表しようとする人がいないのは驚かざるを得ない、とコンウェイは言っている。すなわち、ワシントン・アービング(一七八三-一八五九。米国の小説家・随筆家。代表作は『スケッチブック』で、米国で初めて国際的に名を知られた作家と言われる)は『ワシントン伝』の中で、賛辞を以て「紳士の作法」に対する関心を呼び起こしたが、一条も引用することはなかった。
 また、ジャレッド・スパークス(一七八九-一八六六。米国の史家.伝記作家。「ジョージ・ワシントンの著作」で知られる。ハーバード大学長を務めた)は五十七ヶ条を引用したものの正確とは言えず、彼特有の文学的扱いだった。これら古い伝記作家達は「紳士の作法」全てをプリントする事はワシントンの名声を汚すことになるのを恐れて、批判するより、賛美する事を選んだのではないかと思われる。また、米国のこの軍事的・政治的に神格化された人物が、少年時代とはいえ、貴族や上流階級に脱帽し、敬意を以て恭しくフォーク・ナプキン・爪楊枝などの適切な使い方といった項末なことに拘っているのを発見し、スキャンダルになると思ったのかも知れなかった。