きのう・京・あした(既載分)

Vol. 1, No. 1 (Aug. 2001)
京都というところ     
 或特定の地域についてレポートすることは意外に難しいと思います。地元の人は確かに詳しいが、客観的に地元を見るのはなかなか大変です。第一、京都人は余り京都の事を話しません。自分よりもっとよく知っている人が居ると思うからでしょう。それで東京あたりからやってきた「文化人」が、自分の体験や飲み屋・料理屋で仕入れた情報の受け売りをするのでしょうが、京都人は読みません。
三代住んでやっと市民権 京都では先祖が住みついて三代経って漸く市民として認知される、というのは或程度本当です。迂生は四代目なので何とか市民権を取得しているのでしょう。迂生は数年間外国で暮らし、少しは京都を外から見た経験も有るので、京都のレポートを書く資格が有るのかな、と一人で思っています。
「京都は余所者には住み難い。」
「京都は余所者に冷たい。」
「京都人は意地悪。」
 力んで否定する積もりはありませんが、これは果たして京都だけでしょうか。古い話になりますが、60年近く前の太平洋戦争末期、空襲を受け焼け出された都会の多くの人達が地方に避難しました。戦災に遭わなくても万一を考え、小学生の多くが親を離れて「集団学童疎開」をしました。暖かく迎えた地方も有ったでしょうが、冷たかったり、いじめられたという話も聞きます。
 比較的よく知られている話にこんなのが有ります。
甲「あの人とこは京都へ来はってまだ新しいでっせ。何せ戦後でっさかいな。」
乙「へエー、終戦後どすか?」
甲「いいえ、応仁の乱以後どす。」
 これは些かえげつない例ですが、要するに京都人は長い年月の間に彼等特有の社交ルールを持っていて、それが身に付いている者同士は気楽に付き合えるが、余所者と付き合って気を遣うのが面倒なのだと思います。
祇園祭 日本三大夏祭りの一、京の三大祭りの一である祇園祭は毎年7月17日に山鉾が巡行し、前夜がイブで宵山といいます。近年宵々山も賑わうようになり、今年は暦の関係もあり、宵々々山も有りました。なお、祇園祭に限らず、5月の連休、時代祭、11月の連休の頃は京都のホテル・旅館は予約で満杯なので、早い目に且つ旅行社を通じて予約するのが得策です。しかしこのインターネット時代のことですから、ホテル・旅館のHP から直接予約も可能かも知れません。
 京都の三大祭りとは古い順に言うと葵祭、祇園祭、時代祭で、祇園祭はその原形の賀茂国祭が平安時代の869年に、全国で流行った疫病を鎮静する為に始まったとされ、現在のような大掛かりなものになったのは江戸時代になってからのようです。
 祇園祭のことを詳しく書くときりがないので、極簡単に済ませます。山鉾の前の部分に懸けてある織物を前懸、左右の側面に懸けてあるものを胴懸といいますが、これが、驚くべき文化財なのです。
 まず函谷鉾(かんこくぼこ)は勿論中国の函谷関の故事に因みますが、前懸は旧約聖書の創世記に出てくる「アブラハムの子イサクの嫁選び」の場面が描かれた16世紀の毛綴りで、シルクロードを来たのか、船による南蛮渡来なのか知りませんが、重要文化財です。白楽天山の前懸はギリシャ神話のトロイ城の陥落を描いた16世紀の毛綴り、鶏鉾の見送(後部の下げもの)と鯉山の前懸・見送・胴懸はギリシャ神話を描いており、鯉山のは『イリアス』に出てくる「アポロン像を礼拝するプリアモス王とヘカペー」を描いた16世紀ベルギー製毛綴です。これらの山鉾の巡行は「動く文化財」、「動く美術館」と言われるのも尤もです。一度この山鉾巡行を見たら、またこの季節に京都へ来たくなるのも無理ありません。

女人禁制        
 以上が祇園祭のほんの触りですが、実は、この京都からのお便りの第一回として「女性解放」を取り上げたかったのです。女人禁制は古くて新しい問題です。ついこの間までトンネル工事の現場へ女性は入れませんでした。女性が入ると落盤事故が起こったり、責任者が病気や急死したりするので不吉だと言われました。
 女性たちから理由を問い詰められて、山の神は女神で女性が入ると焼き餅を焼くからだ、というような説明もありました。ユーロトンネル掘削に大きく貢献した世界最高水準の科学技術を持つ我が国の技術屋さんにしてからがこうだったのですが、今はそんなこと無いようです。女性検査官が入ったのを皮切りに、女性のダンプ運転手も入るでしょうし、このタブーはなくなったそうです。
 でも高校野球は女子は選手としては出られません。その点東京六大学野球は女子禁止条項が無いそうで、明治・東大に女性投手が現れたのはご存じの通りです。
 大相撲で女性が土俵に上がるのを禁じているのは有名です。スポーツを管掌する役所は文部省(旧)で、歴代二人の女性文相が居たと思いますが、改革はありませんでした。三月の大阪場所では大阪府知事が土俵に上がって優勝力士を表彰するのですが、今の知事は元自治官僚の太田房江さん(れっきとした女性!)で、土俵に上がって賞状を渡したいと言いましたが、実現しませんでした。
 前置きが長くなりましたが、実は京童の誇る祇園祭にも女人禁制が有りました。鉾には「コンコンチキチン・コンチキチン」のお囃子の男連中が乗り込みますが、女性は許されませんでした。近年、女性もという声が挙がるようになりましたが、「古くからの伝統」、「神事」ということで、32の山鉾の連合会は認めませんでした。ところが女性研究者が、江戸時代の初めまでは女性も乗っている屏風絵があることを指摘し、拒否する根拠が崩れました。
 7月17日の山鉾巡行が間近に迫った7月の初め、全山鉾連合会が女性参加を話し合ったところ、函谷鉾と南観音山とが既に数年前から女性を乗せていることが明らかになり、「緩やかな連合体」である連合会としての可否統一は無理となり、乗せる乗せないは各山鉾町の独自の判断によるということになりました。一基数十人を要する引き手も外人の参加はもう珍しくなく、函谷鉾は晴れて三人姉妹が乗るなど、今年の祇園祭は新世紀に相応しい記念すべき行事となりました。
 何れにしても、密かに数年前から周到な布石を置いた函谷鉾・南観音山の役員たち、ソフトランディングで仲間割れを防いだ連合会理事長らは、大蔵省(旧)や外務省に欲しい人材ですね。


Vol. 1, No. 2(2001.9)
地蔵盆
 京都の夏の終わりを告げる伝統行事は地蔵盆です。これが終わると朝夕は涼しくなり、子供たちは宿題の仕上げに掛かります。
 地蔵信仰そのものは平安末期から有り、中世には民間信仰となっていました。子供が親より早く死ぬことを逆縁と謂い、親不孝とされました。子供こそ哀れなのですが、賽の河原で石を積んで幼死したことを父母に詫びます。すると鬼がやってきて折角積んだ石塔を崩し、子供を虐めます。その子供達をお地蔵様が庇って下さるというのです。
 医学の未発達のため、或いは母乳が出なかったりで、昔は言うに及ばず、昭和に入ってからでも幼児をなくした家庭は多かったのです。地蔵盆では御詠歌を上げるところも多いですが、その「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため・・・」という地蔵和讃の哀調は涙無しでは聞けないものでした。
 地蔵盆は8月23・24日に行われることが多いですが、延命地蔵や大日如来などを祀り、早い方と遅い方の地蔵盆が有るようです。京都には大体町内に一体はお地蔵さんが祀ってあり、その前に町内の役員らがテントを張って、茣蓙を敷いたりイスを並べたりして子供を遊ばします。そしてお八つを出したり、僧侶を招いてお経を上げて貰ったりします。
 町内ではお金を集めて福引きの景品を買い、民家の二階から小さなゴンドラで景品が降りてくるのを子供達が目を輝かせて待ち受ける、というのが以前の光景でした。昔京都駅前に丸物(創業時は「京都物産館」)という百貨店があり、何故か各町内の役員さんは其処へ景品を買いに行きました。
 さて今は地蔵盆に出てくる子供が少なくなってきています。少子化、塾・お稽古事、家で遊ぶ、などが原因でしょうが、高齢化が進んで子供達の居ない町内も珍しくありません。そういうところでは福引きの景品が家庭用品、台所用品になっている町内も有ります。そんなに形骸化しているのなら、いっそ廃止しては、ということになりますが、止める町内は先ずありません。伝統行事を絶やしたくない、自分達の幼時の思い出の行事だ、将来また子供が増えるかも知れない、などの思いが地蔵盆の灯火をともし続けているのでしょう。
 それどころか、京都郊外の新興住宅地では新たにお地蔵さんを建て、子供に学校で肩身の狭い思いをさせたくない、伝統行事の由来を教えたいと、地蔵盆を始めるところも有ります。
 意外なところのお地蔵さんを紹介しておきましょう。一つは大丸百貨店の敷地内丑寅に在るお地蔵さんです。日本を代表する百貨店で、1717年京都で創業ということもあり、地元とご近所を大事にしているのです。
 もう一つ、京都大学の中にもお地蔵さんが在り、農学部東隣の町内の子供達と役員は地蔵盆には大手を振って構内に入れます。京大は「開かれた大学、地元重視」を力むことなく昔から実践しています。このお地蔵さんについてはいづれ機会を改めて書く積もりです。

 夕立の上りし夜道の其処此処に茣蓙を敷きたる地蔵盆あり  梅 隆


時代祭
「時代祭」は平安京遷都1100年を記念して1895年(明治28年)に始まった京都三大祭りの中では一番新しい祭ですが、一番面白いお祭りかもしれません。というのは上代から明治までの時代風俗の行列が見られるからです。しかも明治から逆年代順に行列は遡ってゆきます。時代考証は正確を極め、歴史の勉強の絶好の教材として、修学旅行生や外人観光客で賑わいます。
 祭日は10月22日と決まっていますが、今年は生憎雨で中止となりました。高価な装束ばかりですから止むを得ません。地方からホテル泊で来た観光客はどうやって日程調節したことやら。明くる23日(火)は晴れたので無事催行されましたが、迂生は出勤日で写真が撮れず、残念ながら文字情報だけのレポートとなります。
 迂生が当日朝出勤の途中バス停に佇んでいると、笠を被り裃を身に着けたおじさんが裾周りを気にしながら自転車に乗って通りかかりました。「ははん、時代祭参加の人だな」、と思っていると、通り過ぎざま迂生に挨拶してくれたのでビックリしました。よく見たら古い馴染みの大工さんでした。迂生は裃着て自転車に乗った人を見たのはこれが初めてです。

紅葉狩り
 晩秋から初冬に掛けての京都は、紅葉を愛でる観光客で賑わいました。米国で起こった航空機による多発テロの影響で、海外旅行が激減し観光客は国内旅行に切り替えたため、不況に泣いていた京都のホテル業界は盛況で宿の取れない観光客も多かったようです。
 最近観光シーズンで困ることが二点有ります。一つは他府県からの車による大渋滞で、路線バスのダイヤが麻痺してしまいます。京都は戦災に遭っていないので、道路が狭く、スイスイ走れる道路が多くありません。この交通渋滞は、京都人には迷惑ですが、折角京都へ来た観光客にとっても不評です。
 こうなれば抜本的対策を講じるしかありません。例えば、国道や名神高速道路から京都市内に入る地点に大収容能力のある駐車場を設け、そこから地下鉄、バスなどで市内へアクセスするという方法です。
 もう一つは拝観料、入場料が高いことです。何でも、拝観料とライトアップ料の両方を取るところも有るらしく、境内は繁華街並みの雑踏で、深み行く秋をしみじみと味わう、というような雰囲気は更々無いようです。迂生は夜桜の照明は理解できるのですが、紅葉のライトアップはどうかなと思います。
 このページをご覧下さる方のために、無料で見られる紅葉の綺麗なところをご紹介しましょう。それは左京区の真如堂境内です。白川通りの「真如堂前」バス停で降りて白川を渡って坂を登れば直ぐです。時間が余れば南側の墓地の地続きに黒谷が在ります。黒谷といっても谷間ではありません。正式名は金戒光明寺ですが、地元では前者で呼びます。此処の墓地には戊辰戦争で戦死した会津藩士達の墓があります。会津若松から歩き通したか、一部船旅だったか知りませんが、130年前、外国へ行くほど遠い京へ来て、幕府に忠誠を尽くして官軍と戦って戦死し、郷里も官軍に蹂躙されました。歴史の波に翻弄された会津藩兵の墓に参って上げてください。
 尚時間が有るようなら北へ取って返して吉田山を散策してください。頂上東側には大文字山を正面に望む展望台も出来ています。頂上西側からは手前に京都大学、遠景に京都市街、遙か彼方に西山の山並みが見渡せます。 お金を遣わなくても幾らでも京見物は出来ます。しかも足腰を鍛えて健康に宜しいです。

 

春・春・春(2002.3.1)
 京の春は早春の三月、麗らかな四月、爽やかな五月、の三つの春がある。
 三月は「卒業式に雪が降る」の言い習わしの通り、思わぬ大雪が降ることもあり、暖房は欠かせず、冬服に外套着用だが、中・下旬はもう冬とは言えない。大きな産業の無い学都京都では卒業と入学試験が主たる年中行事だ。昔の地方からの受験生はホテルに泊まるなんて大それた事はせず、「宿屋」に泊まるか、知人・親戚宅や先輩の下宿に泊めてもらった。宿屋としては「大学病院」〔「京大」を付けなくても分かった。府立医大の方は「府立病院」と言った)前の春日通りが旅館街で、緊張した面持ちの受験生が宿屋の窓から不安げに外を見ていたものだ。今では旅館の廃業が相次ぎ、ほんの数軒しか残っていないが、正月の女子駅伝の選手団が泊まっているのを見るとほっとする。
 行事としては雛節句があるが、この季節になると天皇・皇后を模した内裏雛のどちらを右左にするかが話題になる。デパートでは一般にこちらから見て天皇雛が左で皇后雛が右に坐す。今も昔も宮中では現実の天皇・皇后の坐す位置がそうだというのが理由だろう。ところが京人形専門店では一様に皇后雛が左で天皇雛が右だ。女の子のお祭りであり、現実の天皇・皇后でないと言うのが理由と思われるが、創業何百年という宮中御用達の有職故実の老舗が皇后雛を上席に座らせるのは、女性を大事にする京童の心意気の表れと見たい。
 四月は日中は暖かだが朝晩は薄ら寒く、「花冷え」などと言って市内でも特に今出川通り以北や左京は暖房器具を仕舞い込むところまで行かないが、外套は着用せず合服となる。言うまでもなく桜花の季節であり、その下を潜っての入学式である。欧米での新学年の開始は一般に9月であり、日本からの留学や、日本への留学にも不便なので、教育行政当局は今まで何度も9月新学年開始制度を検討したが、実施に踏み切れない事情の一つには、日本人独特の「桜花と入学式」の「国民感情」が有るようだ。
 五月は余程の寒がりや年寄りは別として、快適な気温となり、中旬から下旬に掛けては初夏を思わす日も有る。元気を誇示したい若者や子供たちは半袖になったりする。高校で古文を習った人は「祭り」と言えば5月15日の葵祭りを指すことだと知っているが「賀茂のまつり」とも言う。「かも」は「賀茂」、「加茂」、「鴨」の三表記があり、慣用や行政で表記が少し異なるが、微妙に使い分けている。

Vol. 2, 8
春拾遺

夏を記すに先立ち、ここで前号の春の追録をしておく。
今年の桜は全国的に十日早く満開になった。京都は例年4月10日頃が満開だが、三月末に見頃になってしまった。早く咲く花は早熟の女の子を見るようで、何となくおぼつかない。
 そんな或朝、朝日に映える桜が綺麗なのでカメラを持って疏水縁に出てみた。朝は空気が澄んでいて仄かに桜花の香りが漂う桜並木を逍遙するのは至福の一刻だ。と、向こうから70歳前後の男性がゆっくりとやって来た。ちゃんと足拵えをしている様子から他府県の人らしかったが、首から胸に保険証大の物を下げていた。そしてそれを心なしか花の方に向けていた。擦れ違い様見るともなく視線を向けると、女性の遺影だった。

 いつもより遅き開花の疏水べり今年の桜見ずて逝きにし  松村 登茂


 京都市の左京区は賀茂川(鴨川)以東、三条通以北を占める。中央部の区が商業・産業地区なのに対して左京区は明治時代から京都帝国大学、第三高等学校、京都高等工芸学校(今の京都工芸繊維大学)、絵画専門学校、府立一中、美術工芸学校などがあって、文教地区といわれている。このように高等教育・研究機関が集中しているのは、意外に簡単な理由からだ。江戸時代から洛中は民家や寺院が密集し、広い敷地を要する学府を建てる「余地」が無く、当時洛外で在所だった愛宕(おたぎ)郡にこれら学府を設置し、上京区となり左京区となって現在に至っている。
 この文教地区は学校だけで成り立っているわけではない。岡崎公園地区の美術館、武徳殿、勧業館、京都会館などを落とすことは出来ない。このうち少し馴染みのないと思われる武徳殿について説明しておこう。
 戦前、平安神宮の西隣に武道専門学校というのがあり、柔道・剣道・薙刀・水泳(水練といったか?)などの教師を養成していた。戦前戦中は中等教育以上の学校では武道が正課になっていて、武道専門の教員を必要とした。幾ら腕が立っても町の武道家では駄目で、武道の歴史・理論、運動生理、人体解剖などの知識が求められた。勿論実技に秀でていることが第一で、猛者たちを輩出した。その内柔道を例に取ると、柔道には立ち技(投げ技)と寝技があるが、講道館の立ち技、武専の寝技と言われたらしい。面白いことに卒業生は國漢の教員免許も取得できた。武道の実技指導が出来なくなったときのためと思われる。
 武専は終戦と共に消滅したが、和風建築の道場は残り、警察学校が使用したり、時代劇映画にもよく使われたが、京都市が鉄筋の武道館に建て直した。今も各武道競技の全国大会の会場として知られ、上は老武道家から、下は中学生までが、紺や黒の稽古袴を付けて武具を持ち、近くの旅館から向かってくるのがよく見受けられる。
 枕が長くなったが、本題は美術館だ。動物園の向かいに在り、家から歩いて行ける距離なので、迂生は子供の頃から知っていたが、終戦後の一時期進駐軍に接収されていた。後に、事務用に使われたとどこかで読んだが、迂生のような地元の子供たちは病院として使われたと聞いていた。返還後は日展などが主な催しで、催しが無いときは閉館していたように思う。兎も角迂生は京都市美術館は貸館専門だと思っていた。学生になってもそうとばかり思っていた。
 ところが質量共に全国に誇る一大コレクションが有ると知ったのは、そんなに前のことではない。特に京都派の日本画の宝庫らしい。欧米の著名美術館は大方訪問したが、所蔵品の名作常設展示が基本で、美術愛好家はそれをお目当てに行く。京都市美術館にはそんな作品が展示してない。最近はテーマを掲げて小出しには展示しているが、どうして名作を常設展示しないのかと、貸館業が専らに見えた京都市美術館運営に迂生は不満を持っていた。
 しかしよく考えてみると、段々実状も分かってきた。欧米の大美術館に比べると如何にも小さいのだ。所蔵品を並べるスペースが無いのだ。そして、公共の美術館である以上、海外からの美術展や日展などの大型展覧会の会場として提供する役割もある、と考えると、同情も覚える。
 批判ばかりでなく、建設的提案をしたい。大方の所蔵品を展示できる大規模美術館を建築して欲しい。福祉・地域産業の振興などが大事なのは言うまでもないが、それは他の都市でも同じ事。京都市は学術文化観光都市だという特色を生かさなければならない。迂生のアイデアとしては、本館は常設展示専用にし、最近開館した、京都会館横の分館を建て増すなどして貸館専用にする、というのである。行政としては直ぐ、先立つものの話を持ち出すと思うが、学術文化の都として美術館新築を優先し、鴨川に橋を架ける話はその後議論して欲しいと思う。
 気が早いので新築が決まったときのことも考えている。二代目京都駅は戦後の昭和二十年代に失火で焼失したが、「ルネッサンス風」が自慢だった。東京駅の丸の内側正面はアムステルダムの中央駅を模したとのことだ。我が京都市美術館の正面階段はヨーロッパの某美術館のそれを模したという。いずれも当時は模したことが自慢だったのだ。今度造る時は世界の後発美術館が模してくれるようなのをお願いしたい。

v.2,9 

前回は京都市美術館の所蔵美術品とその展示について思うところを述べた。京都へ美術品を鑑賞に来ようと思っても暇のない方、遠くに住んでいて京都に来るのが大変な人に朗報がある。
 京都市や商工会議所が関係している京都デジタルアーカイブ研究センターのホームページに京都市美術館所蔵美術品の一部を載せるようになった。これっきりなのか、後未だデータ化してゆくのかは不明だが、居ながらにして心ゆくまでネット上で鑑賞できるのは有り難い。
 アーカイブには京都市美術館のほかに京都市学校歴史博物館がある。これは少し説明を要するだろう。
 昔京都の画家たちは、自分の出身校や、家族が世話になった学校から頼まれると快く揮毫する人が多かった。だから小・中学校、女学校などが、思わぬ画家の思わぬ秀作・大作を持っていて、府・市の台帳にも載っていない場合も結構あったが、各校の校長室や応接室に飾られ、幸いにも戦災に遭わなかった。
 京都の小学校の中には、地域住民が資金を拠出したり、書籍などを寄付したりして創設したのもあって地域住民の愛校心も強いため、府・市もこういった美術品を敢えて取り上げることはしなかった。しかし、「町内の絵描きさんが描いて呉れはった」絵が、栖鳳・松園などを含む貴重な美術品と判って、各校とも管理が大変になってきたのを機会に、一堂に集めてはという機運になった。そこへ幸か不幸か市中央部はドーナツ化現象で小学校などの統廃合が相次ぎ、ウツワが出来たので「京都市学校歴史博物館」が御幸町仏光寺の元の開智小学校跡に誕生した。
 意外な所蔵品としては西郷隆盛の扁額が有る。西郷は明治10年に死んでいるから、出来たての学校が頼みに行ったと思われる。詳しくは上のHPを見られたい。
 フィレンツェ(英語でフローレンス)ではウフィツィ美術館(「オフィス」の意で、かつてメディチ家のオフィスだった)が世界的に有名だが、現地のガイドはフィレンツェには数十の美術館・博物館が在る、と言っていた。イタリア人の英語なので、言い違いあるいは迂生の聞き違いかと思ったが、どうやら間違いはなさそうだ。というのは、この際、京都の美術館・博物館と名の付く施設を数えてみたら、40近くあった。それに資料館・宝物館・陳列室などを加えるとその倍にはなるだろう。
 その中の一つに三条高倉の京都文化博物館がある。ある時「例の」おば(あ)さん連れと一緒になり、しまったと思った。この連中には辟易しているのだ。例のとは次の条件を満たしている女性たちだ。

1. 専業主婦でなく、定年まで勤め上げた。
2. 従って年金が十分にあり、センスの良し悪しは別として、服装も悪くはない。
3. 権利意識が強い。
4. 控え目にするということを知らず、辺りを憚らない。
5. 声が大きい。

そして言わずもがなの事を喋る。この人たちにとって美術品鑑賞はどうでもよく、kill・timeであって、行って来たことが後で話の種になるのだ。迂生はもうあっちこっちで被害に遭っているので、その日は運が悪かったと諦めかけていたが、その時係りの女性がおば(あ)さん連れを窘めた。パイプ椅子に腰掛けて膝掛け巻いている女性たちは大抵知らんぷりだ。すると、
「折角楽しく鑑賞しているのに、気分を悪くした。お通夜みたいにせんといかんのか。」
と食ってかかった。しかし係員は怯まなかった。ここは大声を出すところではない、静かに鑑賞している人の邪魔になる、と譲らなかった。

 一つお勧めの美術館を紹介しよう。立命館大学正門前の府立堂本美術館だ。ガウディ調の入口が特徴で、文化勲章受章者堂本印象の作品の常設・特集を行っている。空いている、入場者は目的を持って来ている、などで静かに心ゆくまで鑑賞できるし、裏庭も散策するとよい。門を出たところがバス停で、各方面行きのバスが沢山出ている。街中へ行くも好し、嵐山・嵯峨野へ足を延ばすも好し。

Vol. 2, 通巻 No. 10

行政と市民の美意識

 大阪市の住民と同様、京都市の住民は府・市の区別を意識することは少ない。戦前からの六大都市で現在も政令指定都市だから、府を通さなくても単独で中央政府と交渉することも出来る。
 過去の京都は凄かった。世界で二番目に水力発電を行い、その電力で日本最初の電車を走らせた。その他「日本最初」を挙げるなら、教育に限っても小学校・盲学校・美術学校設置、ノーベル賞受賞者輩出、第一回国体開催、と東京を圧倒していた。
 ところが今はどうだろう。「京都議定書」の会場となったこと以外に、これといって内外に知られる業績を挙げていない。かつては修学旅行のメッカだったが、今やその地位も揺らいでいる。古い文化財を売り物にしているだけでは若い者たちにそっぽを向かれるのだ。昔は修学旅行の意義も使命もあった。地方の子供が学校を卒業してから1人で切符を買って乗り物を利用し、都会へ働きに行くことが出来るためには大切な「予行演習」旅行だったのだ。しかし今の子供は大抵それまでに親に連れられて京都へ来ている。それで修学旅行の自由行動の日は阪神間へショッピングや遊びに出かけて行く。だから修学旅行生の姿を見かける割には観光収入が増えないのだ。
 京都が昔日の勢いを取り戻すには優れた首長、それを支える事務方、理解・協力・支援する府・市民、の三者が揃わなければならない。「大過なく勤める」ではいけないのだ。批判は誰でも出来る。しかし批判のみに終わるのは迂生の性に合わないので良いところにも目を向けよう。京都人は当たり前のことと思っているが、余所から見れば優れている物もある。山紫水明の地にけばけばしい原色は合わないとして、建造物に色の制限を設けている。市内を走っていて、赤い色を塗った建造物を見かけることなないし、広告物の色も規制を受ける。赤十字のマークといえども規制の対象になったらしいが、公共性、人命に関わる施設、などの理由で例外扱いになっている。
 京都市営バスの車体の色が綺麗だ。緑色に統一されていて、「山紫水明」や古い町屋にもよく合う。全国の主な都市へは行ったが、これに優るものには出会わなかった。最近、車体全体に広告を貼り付けたバスが走り出したが、古都の景観に調和しないという声が起こり、廃止の方向に向かうらしい。赤字財政に悩む交通局も「文化」に気を遣う。だが、お祭りの幔幕みたいなデザインの民営バスが走っているが、これはどうなんだろう。
 毎年8月16日の夜に京都五山に送り火が点るのは全国的に知られた年中行事だが、送り火が点る午後8時の直前から市内の大きなネオンや照明灯は点灯を自粛することになっている。これは行政の呼びかけと、市民の良識で成り立っている。或年、余所の資本の(つまり京都人が関係していない)ビルのネオンが明々と点ったままだったので、後日苦情が寄せられた。調べてみたら、当日の責任者が消灯のセットをするのを忘れて退出したためとわかり、ビル側は平謝りに謝ったそうな。
 

きのうあした

Vol. 2, 通巻 No. 11

ノーベル賞と京都

島津創業記念資料館

 島津の田中耕一さんがノーベル化学賞を取った。ノーベル賞には物理学、化学、医学生理学、文学、平和の5部門があり、自然科学系3分野で日本は9人受賞し、世界の10位に入っている。開国後高々130年で、よくここまで来たものだと思う。この9人のうち湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、福井謙一、利根川進、野依良治の6「博士」は京都の第三高等学校、京都帝国大学、京都大学の少なくともどれかを出ているのが京童の自慢だ。その中で一番京童に親しまれているのは故湯川博士で、老いも若きも未だに「湯川さん」と気安く呼び、一寸ガッコ行った人なら「中間子理論」で受賞した、くらいのことは言う。40年ぐらい前に京大時計台下地下に有った喫茶部の名称は「メソン」(Mesonなら中間子の意)だった。「朝永さん」、「江崎さん」は通りがいいが、損をしているのは福井謙一博士で、「福井さん」というと、「お天気予報の人どすか」と間違える人も居た。 

 島津の田中耕一さんがノーベル化学賞を取った。これがまた京童を誇らしげにさせる。というのは「島津」はテレビのCMや新聞に広告を出すような一般消費者を対象にした企業ではないので、全国的な知名度はない。せいぜいレントゲンを撮って貰ったときその撮影装置の'Shimadzu'のロゴにお目に掛かるぐらいのことだ。しかし京都市民は島津が超大企業ではないが、伝統と最先端技術を持った京都を代表する会社であることを知っている。島津抜きで田中さんは考えられないので島津の今昔を知ろう。
 創業の島津家の先祖は、島津藩と関係の有るような無いような、と言った方が正しいかも知れない。以下全て島津のHPを参考にすると、先祖は井上姓で戦国時代に播州姫路に住んでいた。そのころ薩摩藩は秀吉から姫路を領地として貰い、藩主が姫路に赴き検地を行ったとき井上が尽力したのを多とし、島津姓と紋所の「丸に十の字」(正式には「丸にくつわ」)の使用を許したという。井上家は京都に出て来て商いをしていたが、当時の子孫源蔵が初代島津源蔵を名乗って1975年(明治8年)今の中京区木屋町二条下がるに教育用理化学器械製造業を創業した。ここは今創業記念館になっており、島津の「聖地」だ。
 島津は発展するに従い教育用から民需・官需用製造業に発展し、蓄電池も製造した。1905年の日露日本海海戦では、バルチック艦隊が太平洋、日本海の何れを航行するかが、日本海軍の作戦上の重要問題だったが、日本近海で哨戒していた信濃丸が「敵艦見ユ」と日本海航行の捷報を打電し大勝に導いた。このときの無電の電源が島津の蓄電池だったという説も以前はあった。大正になってこの電池部門が独立して日本電池となった。この会社の製品名は今も「GS」だが、島津源蔵の頭文字であることはすぐ分かるだろう。
 後はローカルの話だが、島津家の邸宅が北白川の里山にあったが、洋風だったので戦後進駐軍に接収されたと思う。これが今、日本バプテスト病院となっている。
 島津はレントゲン技術学校を持っていた。1927年に創立の島津レントゲン技術講習所で、学校教育方式でのレントゲン技術教育の始まりと言われているが、島津のHPにその記述はない。今から30数年前、全国の旧帝国大学を主として医療技術短期大学が設置され、看護学科、衛生技術学科などの他に放射線技術学科を置いたところも多かったが、京都大学医療技術短期大学部は放射線技術学科設置を申請せず現在に至っている。「島津にあるのだから」が主な理由の一つだったという説がある。

 島津の田中耕一さんがノーベル化学賞を取った。しかし田中サンは京都人ではないし、京大卒でもない。それどころか博士号もなく、研究者というよりは作業服が制服の「知る人ぞしる」企業の技術者だった。つまり普通の人である。これが京童が痛く感動し親近感を抱く由縁だ。というのは、大多数の京童は普通人だからである。大昔から、京洛はごく限られた数の公家などの特権階級を除けば、武士も各藩の出屋敷勤番の武士ぐらいであり、大方洛中は商人、職人、それに僧侶、周辺が農民という構成だった。狂言に登場する人物を見るとそれがよく分かる。だから第一義的には庶民であり、田中サンに同胞意識をもってしまう。スーツは一着しかなかった、職階は下から二番目だった、なんてもう堪らないのである。それと、京童の美点は物見高くないことである。今田中サンはタクシーで通勤せざるを得ないそうだが、思い切って以前のようにジーパンにスニーカー姿で京福電車に乗って通勤したら、市民は暖かく受け入れると思う。

 

夕 陽
 
碁・将棋の内、碁は僕たち子供にとって大人か爺さんのするものだったが、将棋は子供でも出来た。Pちゃんは算数の良くできる子で、その上将棋が滅法強いので皆からソンケイされていた。僕なんか何にでも興味があって辺りをきょろきょろ見回したが、Pちゃんは視線を伏せて一点を見つめる子だった。
 週末ともなると何時も将棋好きの仲間がPちゃんの家に集まった。対等に指せる子はいなかったが、Pちゃんは嫌がりもせず相手の腕前に応じて駒を落として「対局」していた。僕は勝負事はからきし駄目で、そのくせ負けると腹が立つので勝負はせず、横で見ているだけだったが、それでも、Pちゃんが数手先を読んでいるのが分かった。
 Pちゃんの家の向いにQちゃんという同じ学年の女の子の家が在った。Qちゃんのお父さんは戦死したのでお母さんが働きに出ていた。その頃クラスには何人かそんな子がいたように思う。Qちゃんは女の子だから将棋を見にはやって来なかったが、将棋が終わり僕たちがPちゃんの家から外へ出てみると、何時もQちゃんが軒下に佇んで西空の夕陽を見ていた。そしてQちゃんの両側には幼い弟妹が寄り添っていた。それから僕は何となくPちゃんの将棋「道場」へ行かなくなった。
 それから更に年月が過ぎ、僕たちは高校に入って再会した。Pちゃんは今や数学の「大家」になっていた。痩せぎすだったQちゃんはふっくらとした清楚な女の子になっていた。しかしお互いに必要なとき以外口を利くこともなかった。
 卒業後Qちゃんは地元の某地方銀行に就職したと聞いた。当時金融機関は欠親家庭の子は採りたがらないというような噂があったが、某地方銀行は本人が優秀であれば採用してれくれるという評判だった。
 それから1年か1年半ほど経ったある日の夕方、僕は疏水縁を銀閣寺へ向かって歩いていた。散歩じゃなくて何か用事があったのだと思う。すると向こうからカップルがゆっくりと歩いてきたが、聞こえてきた女性の話し声に聞き覚えがあった。前方を見ると夕映えに浮かび出た女性はQちゃんだった。僕は慌てて身を避けた。幸いQちゃんはお話に夢中で僕に気付かぬ様子だった。遣り過ごしてから僕はどきどきしながら振り向き、夕陽を背に浴びて遠ざかってゆく二人の後ろ姿を一寸だけ見送った。ちらっと見えたその同僚らしいお相手が感じのいい男性だったせいか、それから数日僕は何となく嬉しかった。

能 楽(1)

 今回のタイトルを「能楽」にしようか「能と狂言」にしようか少し迷った。本来能楽は能と狂言の総称なのだから、能と狂言について触れる場合、これで不都合はない。そして能の演目の間に狂言が入るといった具合に不即不離だった両者だが、最近は狂言の単独の公演も盛んになってきた。その代表的なのが京都市が支援する「市民狂言会」だろう。だから「能と狂言」というタイトルにしても良かったのだが、やはり「能楽」にしたのには理由がある。
 2003年3月中・下旬に第3回世界水フォーラムが京都を中心に開催され、対イラク攻撃開始と重なる時期だったにも拘わらず、重要会議として国内外に大きく報道された。そのフォーラムの公式プログラムとして能楽『渇水龍女』が上演された。
 この演能は注目すべき点が二つあった。一つは、『渇水龍女』が上演されたそのことである。この演目は、余程の能楽通でないと知らないだろうし、実際見た人は更に少ないだろう。迂生も知らなかったし、稽古本も見たことない。それもその筈、中世に作られた『河水』という古曲を1995年に堂本正樹が改作したものだ。上演が途絶えていた理由としては、登場人物が多すぎる、能舞台では狭すぎる、等が主な理由だったと考えられる。
 第二の注目すべき点は、能楽師と狂言師が共演したことだ。普通能楽会では幾つかの能が演じられ、その間に独立して一つか二つの狂言の演目が入っていて、能楽師は能を、狂言師は狂言を演ずるが、『渇水龍女』では上にも述べた共演が行われた。在京観世流能楽師を動員すれば彼らだけでも出来ないことはなかったと思うが、大蔵流茂山家一門の芸達者な狂言師たちが仙人や海の精を演じ、共演は大成功だった。
(以下次号)

きのう・京・あした
Vol. 2, 通巻 No. 14


能 楽(2)

 前回は能と狂言共演の『渇水龍女』のことだった。それで今回は能楽の観世流片山一門について触れてみよう。能狂言に詳しい人なら知っていることだが、京都の能狂言をよく知らない人には参考になるだろう。
 能楽には現在観世・宝生・金春・金剛・喜多の「シテ五流」が有るが、その内観世が最もポピュラーで、茶道の裏千家みたいなものだ。しかし他の流派も甲乙付けがたいのは言うまでもないことだ。
 能楽は公家、藩主、豪族などの庇護の下に受け継がれてきたが、明治遷都と共に各流派も東京へ出て行った。観世流も本家は東京へ移り、分家の片山家が京都に残った。片山家と観世家の違いは、観世家が能楽一本を貫いているのに対し、片山家は男が能楽、女が井上流京舞を守り続けている点だ。
 片山家の当主は代々九郎右衛門を、妻は井上八千代を名乗る。片山家は世襲だが、八千代は妻だから世襲でなく、優れた弟子が継いだ。二世八千代は初代の姪、三世(本名春子)は二世の高弟で、1938年に没するまで100歳の長寿を得た。四世(本名愛子)は三世のこれまた高弟で、夫九郎右衛門博道との間に博太郎、慶次郎、元三郎の3子を儲け、三人とも能楽師になった。
 博道亡き後長男博太郎が九郎右衛門を襲名し現在に至っている。当代九郎右衛門は人間国宝・芸術院会員と頂点を極め、全国の能楽師1545名の集合体「能楽協会」の理事長を務めている。このポストは地理的な問題もあり大抵は東京の人が就任すると思うが、兎も角九郎右衛門が理事長である。多分に名誉職的色彩が濃いポストで、大過なく任期を全うすればよい筈のところを運が悪いことにとんでもない難題を背負ってしまった。例の和泉元彌問題だ。
 彼のことは迂生よりも世間の方がよくご存じと思うので、説明は省くが、合議の上2002年10月21日協会は元彌に対し「退会命令」の苦渋の断を下した。九郎右衛門は芸の虫みたいな人で、このような「俗事」には疎いと思うが重責を果たした。今回の『渇水龍女』では帝王を演じたが、何事もなかったかのような明鏡止水の芸だった。

 伝統芸能を誇る片山・井上家といえども、昔のようにはいかない。博太郎は芸道とは関係のない商家の素人娘と結婚した。其処へもって四世八千代は上にも述べた如く三子を設けたが女子に恵まれなかった。勿論いざとなれば後を継ぐべき「高弟」はあったが、四世八千代には血縁・姻戚の京舞後継者がなかった。しかし長男博太郎に三千子という娘が出来たので、一代飛ぶが跡を継いでくれたら、と言う期待が持てるようになり、幸い八千代が健康に恵まれ長寿を保つことが出来たので、三千子に幼少の頃から後継者教育を行い、数年前に四世は引退し(現在百歳近い)、三千子が五世を名乗っている。
 能楽の方も三千子の弟の清司が九郎右衛門の後継者として修業に励んでいるので、片山・井上家はお家安泰だ。

(以下次号)

きのう・京・あした
Vol. 2, 通巻 No. 15
能 楽(3)

  次に狂言に移ろう。大蔵流茂山家一門の当主は千五郎を名乗り、隠居が千作を名乗る。企業の社長と会長みたいなものだ。今の千作は四世だが、迂生は三世を知っており、その頃今の四世は千五郎を名乗っていた。だから迂生にとって千五郎、千作は紛らわしく、本名で呼べば一番間違いがない。前千五郎・現千作は本名を七五三と謂い、「シメ」と読む。現13世千五郎は本名を正義と謂い、「シメさん」「マサヨッサン」で区別できた。これから茂山家の名前の話をするのだが、その前に一門の主要人物の話をしておこう。
 東京の野村家が「万」を名乗るのに対し、茂山家は「千」を名乗るのが普通で、一桁引いているのが床しく、かわいげがある。
 茂山家の主要家系は次のようになっている。

             ┌─正邦
       ┌─千五郎─│
       │     └─茂
  ┌─千作─│    
  │    │     ┌─宗彦
  │    │─七五三─│
  │    │     └─逸平
  │    └─千三郎 
  │
  └─千之丞──あきら───童司 

 この他に、どんな大勢の人物が登場する演目でも可能な数の芸達者の脇役勢が控えて居る。迂生は茂山家とは個人的付き合いは全くないので、あくまでも狂言の一愛好者として舞台上の彼らを見ているに過ぎないことを中途からではあるがことわっておく。
 千作は当主名である千五郎時代が長かったが、彼の時代に茂山家の狂言が隆盛になったその功績は飛び抜けている。そして芸のスケールが大きい。迂生はこの人には思い出がある。迂生の乗った市バスの17番が河原町通りを北進して今出川通りで右折し、銀行の前で止まった。すると小柄な老人が降りた。誰でもバスを降りたときの一、二歩は、武道で言うと隙だらけである。ましてや老人においておや。ところがこのオジン、一分の隙もなかった。西向いた時横顔が見えて納得がいった。我らが京都のアンソニー・クイーンこと、元センゴロハンだった。
 千五郎は当主名を継ぐまでは本名の正義で通していた。芸事本家の当主によくあるが、芸の継承と伝授の責務に忠実で、一見地味だが、一番安心して観られる芸風は流石だ。
 千五郎の弟七五三は可成りの期間金融機関に勤めながら狂言役者であるという二足の草鞋を履いていた。プロの狂言師としては明らかに遠回りの道だったが、それなりの理由が有ったと思われる。千五郎の慎重な芸風に比べて、七五三の芸は明るく、彼が専業になったのは狂言界にとって喜ばしいことだ。そして2003年春から、観世の片山慶次郎の跡を承けて京都能楽会理事長の要職に就いている。
 しかし、迂生は一つのことを指摘しておきたい。七五三は本名の眞吾を長らく名乗ってきた。それをなんと実父千作の本名である七五三に改名し二世と名乗ったことだ。「真打ち」クラスは大方芸名を名乗っているからそれは自然のことだが、どうして父の本名を芸名にしたのか分からない。伝統である「千」を付ける名前は幾らでも有ると思うのだが。
 千之丞は千作の実弟で本名を政次という。この人の事は後でも述べるが頭が切れ、大阪(市立)商科大学に学び、戦時中は経理将校を務めたという芸界の超高学歴だが、戦前・戦中のこととて、次男坊が狂言専従で食べて行ける見通しが付かなかったのだろう。茂山一家のご意見番・知恵袋と言うところだが頭でっかちでなく、芸も兄千作と並んで鍛え上げてある。
 この人は伝統芸能人にしては珍しく革新派で、選挙の季節になると革新系候補の応援者リストに名を連ねるのが常だ。伝統芸能界から叙勲・授賞を受ける人で革新を旗印にする人は少ないが、彼は一向に気にしている気配がない。狂言の真骨頂は権威に対する批判と風刺だが、それを身を以て体現している真の狂言役者と言えるだろう。

(以下次号)

Vol. 2, 通巻 No.16


能 楽(4)

   大蔵流茂山家の芸風は、1.合理性、2.庶民性、3.団結、と言える。「合理性」は本当は頭がいい、と書きたかった。茂山家の若手のことは知らないが、中高年は千之丞の旧制商大を筆頭に少なくとも3人京大卒の高弟が居て茂山家を支えている。この辺が京都のこわいところだ。そして戦後間もなくから地方の学校を回って「学校狂言」を続けてきたことが、今日の茂山狂言の人気と繁栄に繋がっている。「田舎へ行ったらご飯を食べさせて貰えた」と卑下するが、それだけではあるまいと言いたくなる。
 千之丞によると、市民狂言の観客は半分がリピーターで、半分がいちげんさんだそうで、若い女性も多く、お目当てはテレビのドラマなどでお馴染みの「モトヒコクン」や「イッペーチャン」らの若手連中だと思われるが、彼らに「オンゾーシ」気取りは窺えない。オジン・クラスの躾、薫陶が行き届いているのだろう。そして当家のモットーは「豆腐のような狂言」である。詳しくは茂山家のホームページを覗いてほしい。
 茂山家の最大の特徴は「団結」だ。兎角名門には内紛の噂が絶えないようだが、茂山家はよく纏まっている。迂生は彼らの私生活のことは全く知らないし、芸の上だけで判断するが、東京の古典芸能界は政治・経済界の有形無形の庇護があり、需要も供給も有っただろうが、京都は政治・経済の埒外に置かれ、今でこそ我が世の春だが、其れまでは常に存亡の緊張が有り、皆で力を合わさざると得なかったのだろう。其れに加えて千作・千五郎の「会長・社長」ラインを支える「叔父貴」千之丞の貢献度が高く、たとえば演目の選定などは彼が行っているらしい。二男が本家を助けるどころでなく、運命共同体の大家族なのだ。

祇園祭が終わった
 先月の行事を書くのは「後の祭り」の誹りを免れないが、後なればこそ書けることもある。
 祇園祭は7月17日が山・鉾の巡行、前夜が宵山と決まっているが、今年はカレンダーが非情で、両日とも平日になってしまった。これだと祭りを当て込む京阪・阪急電車などの乗客数に影響が出るし、鉾町の商店の売り上げにも係わる。そういう年は宵々山・宵々々山と繰り上げて祭り景気を盛り上げるが、それでも今年は未だ平日だった。それは早くから分かっていたことなので、鉾町はいろんな工夫をしてPRした。地元某新聞も意をたいして心なしか例年よりも祭り気分をそそる記事を多く書いていた。その幾つかを紹介する。
 郭巨山(四条西洞院東入ル)は、今年が歌舞伎発祥400年なのに因み、歌舞伎の始祖出雲の阿国(おくに)の舞台姿や観客たちを描いた京都国立博物館所蔵の重文屏風をもとに綴れ織の後掛を新調した。普通は山の後に掛けるのを今年に限り前に掲げて披露した。
 太子山(油小路高辻上ル)は、17世紀中頃に清の皇帝一族が着用した官服をつなぎ合わせて作ったとされる「波濤に飛龍文様錦」を山の後に飾る「見送」として用いてきたが、いたみが激しいので龍村織物に発注して復元した。新調の費用は約1500万円とのことだ。
 霰天神山(錦小路室町西入ル)は文化勲章受章者故上村松篁作「金鶏白梅図」の胴掛を飾ってきたが、このほど息子の上村淳之が「銀鶏紅白梅図」を描き、都合金銀一対の綴れ織が完成した。
 「コンコンチキチン・コンチキチン」でお馴染みの鉦(かね)をたたくバチを「鉦スリ」というらしく、頭の部分がシカの骨で柄はクジラの骨だそうな。しかしクジラなどの保護をうたったワシントン条約のためにクジラ骨が入手困難になっていたが、条約以前の骨を入手し、360本を720万円で購入し、囃子方のいる全12の山鉾に行き渡らせた。
 京都は超大企業こそ無いが、ハイテク産業は何処にも引けを取らない。その内の一つ某電機は扇ぐリズムに合わせて発光ダイオードが光る祇園祭用ハイテクうちわ「宵待蛍」を京大工学部某教授とで共同研究開発したもの。扇ぐ僅かな人力エネルギーを電気エネルギーに変換する仕掛けなので半永久的に使用できる。限定500本を四条傘鉾(四条西洞院西入ル)で1000円で、インターネットで2000円で販売したが残っているかしらん。
 ハイテク続きに言うと、芦刈山(綾小路西洞院西入ル)がホームページを開設した。同鉾町に住む某翻訳家が英訳しているのもハイカラでコクサイテキ。
 祇園祭恒例だが、某信用金庫は各鉾町がクライアントなので、四条烏丸の本店の窓口のおねえさんたちは浴衣姿で接客する。おねえさんたちはクライアントである和服業者とこで気に入った浴衣地を選び、費用は雇用者持ち。今年は閉店後この某中信の綺麗なおねえさんたちはそのままの浴衣姿で宵山見物に繰り出したそうな。

Vol.2, No.17

夏が終わった
 京都の代表的夏の行事・風物詩は祇園祭、大文字送り火、地蔵盆だが、それらは今までに書いたので、今回は他に視線を向ける。
 7月の或朝、朝刊を取り入れて折り込み広告を整理していると、商業宣伝広告に混じって朝の法話の案内が入っていた。夏の朝の法話というのは大寺院がよくやる行事で、昔清水寺の大西良慶師の暁天講話が有名だった。この大和尚はNHKの山下さんの五つ子ちゃんの命名者としても有名だ。
 今回折り込みを入れたのは「岡崎別院」だった。岡崎別院といえば、社葬や有名人などの大規模葬儀の式場として知られているので、法話をやるとは、と思った人が有るかも知れない。
 今回の法話は「親鸞に学ぶ朝の法話」で、東本願寺の別院としては当然のタイトルだ。但し、葬儀会場としては宗派が違っても貸してもらえるようだ。話を法話に戻すと、7月末の金、土、日の7時から8時まで、何れも学者や教育者である三人の講師がそれぞれ親鸞と関連のあるテーマで話すのだった。「暁天」ではないので、朝の早い年寄りだけでなく、「現役」連中も参加しやすいように配慮したのだろう。
 気配りの極みはチラシの最後に書かれた次の一言だった。
 「法話終了後つづけて出勤していただけるようささやかな粗飯を用意いたしております。」
 ここで迂生がコメントするのは野暮というものだ。これを読まれた方が解釈を膨らませて頂きたい。

京阪三条駅地上一帯リニューアル成る
 1989年に京阪電車は七条から終点出町柳までが地下鉄化し、国道1号線や四条通との交叉の踏切による慢性的交通停滞問題も解決して市民にとって喜ばしい交通機関となった。しかし京阪電車の大津─京阪三条間の京津線は地上を走り、しかも国道1号線と平行したり交叉したりで、どちらにとっても邪魔な存在だった。
 ところが1997年に京都市営地下鉄東西線が開通したため、翌1998年、京津線は三条─御陵(みささぎ)間を市営地下鉄と共同運行し、地上線を廃止した。この軌道跡は国道の拡張に使用され、やっと国道らしくなった。
 しかし、京阪三条駅の地上一帯は整備が捗らず、ごちゃごちゃ汚い状態が続いたが、このほど5年掛かって見違えるようにリニューアルし、KYOUEN(「京園」でも、「饗宴」でも、「きょうえん」でもない)と名付けた。テニスコートほどもある竜安寺のを模したモダンな石庭が有り、その周りを10軒ほどのシックな店舗が「口」の字形に取り囲んでいる。これらの店は祇園祭に間に合わすべく7月に開業した。多くは和洋のレストランだが、アンティークやインテリアの店もあり、中を覗くのも楽しい。
 散策するのなら、火点し頃から宵の口をお薦めする。ライトアップした石庭が幻想的で、ロマンチックな気分にしてくれる。何かにつけて一言有る京都人だが、新「京都駅」の悪口は聞いたことがないのと同様、KYOENも受け入れられるのではないだろうか。京都人は古いものにこだわる新しい物好きなのである。

Vol. 2, 通巻 No. 20

歌舞伎発祥400年
 今年は歌舞伎が始まって400年になるとかで、記念行事が幾つか行われた。
 慶長の頃、阿國(おくに)という女が出雲大社の巫女という触れ込みで京に上ってきて鴨の河原で念仏踊りを興行したのが始まりという。これを記念して「関西楽劇フェスティバル協議会」というところが「復元 阿国歌舞伎」と銘打って8月2,3日に歌舞伎踊りを復元した。主なメンバーは次の通り。
 総合演出  野村万之丞
 阿国    花柳和彩紀
 猿若    池乃めだか
 
 場所は四条大橋上がる鴨川左岸に特設舞台を組み、川を隔てて右岸から観客は見物した。昼間は気付かなかったが、夜は舞台が川面に映り、料理屋の床は定めし特等席になっただろう。可成りの費用がかかったはずだが、一体何処がスポンサーだったのか聞き漏らした。
 その二は祇園祭の郭巨山(かっきょやま)が1991年に京都国立博物館所蔵の重文「阿国歌舞伎図」を模した後掛け(うしろがけ)を新調し、例年文字通り山の後に掛けるが、今年は歌舞伎発祥400年に因んで前掛けにした。
 その三。一方南座では木の実ナナ主演のミュージカル「阿国」が8月2-17日に亘って上演された。余談だが「木の実」は「きのみ」か「このみ」が迷うが、本人に言わせると「着の身着の儘」と覚えて欲しいそうだ。
 最後は太鼓新歌舞伎「阿國・わらう」で、公演は12月11-28日(顔見世と重なる)祇園甲部歌舞練場で行われる。主な関係者は次の通り。
 脚本・演出: ふじたあさや
 太鼓奏者:中条きのこ
 実行委員長:茂山千之丞
 内容は、舞の阿國、太鼓の阿國、笛の阿國と、3人の阿國を登場させ、阿國の半生を描く音楽劇を目指している。
 伝統芸能は総じて民衆の中から生まれたものだが、高尚な人たちの庇護を受けたものがおハイソと見做され、我々同様八っつぁん熊さんが木戸銭払って観たものが大衆芸能と呼ばれるようになった。今となっては「共通始祖」に戻ることは難しいが、どれも気楽に鑑賞したいものである。

スターウォーズ展
 
この夏特筆すべき展覧会としてはスターウォーズ展があった。お堅い国立博物館でSF映画に因む展示というのも珍しいし、6, 7, 8と3ヶ月間に亘ったのもこの種のものとしては珍しいし、大人1400円という観覧料も高ければ、前売り券が割り引き無しという異例尽くめだった。
 でも見応えはあった。感心したのは展示してあったコスチュームやセットの精巧さと迫真性だった。忠実な万能ロボットのR2-D2,宇宙の有りと有らゆる言語が話せる通訳ロボットのC-3P0などは、中に人が入って動かしたにしても、本物のロボットと見紛う出来映えだった。
 銀河共和国の母艦は小型釣り船ぐらいの大きさがあり、側面の配線や細い配管の一本一本が丹念に造られ、これならどんなにアップして撮っても観賞に堪えると思った。迂生が行ったのは夏休みの平日だったが、程良い混みようで、子供に負けずオジサン族が熱心に観ていた。
 序でに博物館の案内をしておくと、平日なら駐車場は空いている。そして常設展も充実しているので半日を費やす積もりで行くとよい。京都の子供なら、小学校か中学校で一度くらいは見学に行くが、美術や歴史の教員が事前教育や見学授業をしっかりやってくれないと、唯わーわー行ってきただけということになる。だから大人になってからこれという催し物の時にじっくり観賞するのがよい。
 尚、本館裏の東大路寄りは日本式庭園になっていて茶室があり、迂生が行ったときは「在釜」だった。

ましら 2004.1.1
 何せ大分昔のことなので、高校の二年生だったか三年生だったかも定かでないが、ある日の放課後、僕は河原町通りと鴨川との間の道を荒神口から丸太町へ向かって歩いていた。何故普段は通らない道を歩いていたのかも今となっては判らない。兎も角仕舞た屋風長屋の軒下をゆっくりと歩いていた。もうすぐ丸太町通りというところまで下ってきた時、突然何物かが僕の後頭部から肩口に掛けてドサッと降ってきた。驚きはしたが、その頃少し武芸に励んでいたので、奇声や悲鳴を発したり、飛び上がったりしないだけの胆力は出来ていた。
 無理をして首を回せば何物か判ったかも知れないが、敢えて立ち止まったままじっとしていることにした。そして僕が緊張して身体を硬直させていたら相手も警戒すると思い、丹田に力を入れて上半身の力を抜いた。僅か数分間のことだったのだろうが、随分長く感じた。すると相手にも通じたと見えて、少しずつ僕の右肩の方へ移動し始めた。
 生暖かい感触からまず最初に考えたのはネコだったが、ネコなら自らやって来たからにはもっと馴れ馴れしい筈だった。次に思ったのは青大将か何かだった。これなら十分有り得ることだったが、そんな生臭い匂いはしなかった。
 その間相手は僕の様子を窺っていたのだろう。恐る恐る僕の右肩口へ姿を現した。なんとサルだった。それでも僕が何もしないので「人畜無害」と思ったのか、僕の胸元へ回ってきた。僕は赤ん坊を抱くように抱いてやった。<好かった!> もしあの時奇声を発したり、身構えたり、振り払ったりしていたら、爪を立てられたり、喉元に食いつかれたかも知れなかった。
 児童文学作家の椋鳩十の作品で、お医者さんに飼われていたサルが、鎖の長さの半径が描く円の内だけの世界から、ある日抜け出して自然界に帰って行く話を思い出した。
 確か首輪はしてなかったように思うが、野生ではなかった。夕方の散歩に出て来たのか、或いは逃げ出してきたのかだろう。僕は「犬背、猫喉、猿の耳」の言い伝えを思い出し、耳を軽くつまんで撫でてやった。するとサルは口を窄めてしきりにサル語を話し始めた。僕は今まで犬としか喋ったことがなかったので、犬に喋るように話し掛けた。サルは頻りに何かを訴えていた。それで僕が、
「そうか、そうか。」
と言ってやるとサルは僕の顎や詰め襟の金ボタンなどを触りながらとても喜んだ。
 僕達「二人」或いは「二匹」は、結構長く対話したつもりだったが、これも意外と短かったのかも知れない。サルは突然降ってきたのと同様、突然飛び上がって民家の屋根を伝って消えていった。
 河原町丸太町に出た僕は、春日校の前の停留所から白地に黒文字の2、12,22番の何れかの市電に乗って帰宅した。

 後もう少し先が有るのだけど、お上品でご清潔な読者は此処までで止めておいて頂きたい。以下を読むと、迂生同様毛の3本少ない下等人間に堕ちてしまいますから。
 
 帰宅して着替えようとして上着を脱いで気が付いた。詰め襟の肩から背中に掛けてサルの水瀉便でしとど濡れていた。道理で何時も混む電車がその日に限って僕の周りは空いていたのだ。

 読みましたね。あれほど言っといたのにっ!

きのう・京・あした

Vol. 3, 通巻 No. 23

 疏水遊覧船
 寒い季節だが、寒いからこそ春を待ちつつ明るい話題を話そうと思う。常々、批評するだけで何一つ建設的・積極的提案をしない人達を嫌う迂生としては、京都の活性化を真剣に考えている。その一案として疏水に遊覧船を運行させる構想を持っていた。それを今号に書こうとした矢先、新年早々に京都市が「岡崎桜回廊十石舟めぐり」を発表し、先を越されてしまった。しかし「市案」と「木下案」は少し違う。
 まず「市案」を紹介すると、昨年の京都を中心に開催された第三回世界水フォーラムを記念して、今年の4月1日から5月9日まで、昨年の水フォーラムで使った木造和船二隻を運航させて疏水沿いの桜を見物して貰う。運航距離は琵琶湖疏水記念館前ヒ夷川ダム間1.5キロで、運賃は800円だという。

 一方「木下案」はもっと本格的で定常的だ。
 1.大阪方面から来る観光客を視野に入れ、京阪丸太町駅から歩いて来た人のために、始発点は夷川ダムより少しでも川端寄りにする。
 2.船着場は「鴨川端」、「徳成橋」、「冷泉橋」、「二条橋」、「神宮橋」、「インクライン下」(何れも仮称)の6カ所とする。
 3.各船着場には乗客の乗り降りの安全を図り、かつ発券をする係員を置く。達者なシニアのパワーを活用する。
 4.ブルージュやアムステルダムに倣い、低騒音の発動機付き船にする。
 5.乗船券は一日乗り放題とし、何処で降りても何処から乗っても好い。
 6.沿岸の各施設、たとえば国立近代美術館、市立美術館、市立動物園、平安神宮、南禅寺などは乗船券で割引料金にする。
 7.インクラインを復活させ、船溜まりから船を乗客毎台車に乗せて引き上げ、上のダムで方向転換してウォーターシュートよろしく船溜まりへ降りてくる。正しく「船、山に登る」である。
 
 京都の観光的魅力は最近頓に薄れてきている。それは過去の伝統にばかり頼ってきたからだ。その伝統にしてからが、木造の町家が建て替わると殺風景で不揃いの何処の町にもある洋風建築物に替わりつつある。古い町家の修復には補助金を出しても好いのではないか。
 京都の「地盤沈下」を真剣に憂う人たちは、京都にやって来た修学旅行生達が、自由行動の日は朝早くから通勤客に混じって阪急や京阪に乗って大阪・神戸へ遊びやショッピングに出かけて行くのをご存じだろうか。
 実は昨年京都の旅館・ホテルは観光客で潤った。しかしこれが今後も続くと思ってはならない。不況と、テロを恐れて海外へ行くのを躊躇った人たちが来てくれたに過ぎないのだ。いろんなレベルで、京都と京都の観光のこれからを考える会合は開かれていると思うが、「大変有意義な会合でした」で終わっていては堪らない。
 田中康夫チャンや石原慎太郎サンは立場も考え方も違い、敵も味方も有る人だろうが、県・都政を何とかしなければ、の熱意は伝わってくる。

電気製品の商い(前編)
 京都は千年の都であった間に、貴族・社寺・伝統芸能などの需要に応えるため独特の職人が過不足なく居り、よく後継者が有るなとか、よく食べられるだけの注文があるものだ、などと思われながらも今日に至ってきたが、時代の移り変わりと無縁ではない。純和風建築は激減したため、壁を塗る職人が段々居なくなっているそうだ。そして大工の使う鋸は使い捨てになってきている。「嬶を貸しても道具は貸さん」なんて言い種を今の若い職人は知らんだろう。
 Keep your shop and your shop will keep you(商売やったら何とか食える)は英語の古い言い習わしである。学歴がなくても、大きな元手がなくても、実直に働けば小商いながら食べて行けた。ところがこの頃、暫く通らなかった道を歩いていて、ついこの間まで在った店が廃業しているのを見ると、何とも寂しい思いがする。しかも思い出のある店だったりすると尚更だ。
 老舗の多い京都で老舗の話をしたら切りがないので、戦後の話をしてみよう。それにぴったりなのは電気店である。戦後の昭和20年代中頃までは誰しも食べて行くのに精一杯で、電気洗濯機・電気冷蔵庫(その頃はきっちり頭に「電気」を付けた)どころではなく、せいぜいラジオを楽しむぐらいだった。
 電気好きは大きく二手に分かれ、短波・中波など遠くの放送をキャッチして楽しむのと、良い音で音楽を聴いて楽しむのとだった。前者は比較的金が掛からないので若者に人気があり、外国の短波放送の他に、開局したばかりの国内の民放の電波を受信して報告するとチャンとQSLカードという返事が来た。後者は高級なアンプやスピーカーの買える階層の人たちに好まれた。
 その頃の京都のアマチュアがよく行く主な電気店としては毎日新聞京都支局の前にあった「サイン」や旧朝日会館の傍にあった「アサヒムセン」などが知られていて、電気部品を主に商い、完成品は殆ど置いてなかった。その理由は簡単で、完成品は高いが、自分で部品を組み立てれば安く上がるからだ。最近パソコンを自分で組み立てるのが流行っているのと同じである。
 これらの店へ行くと、電気に詳しい教えたがりの客が大抵ごろごろしていて、我々中学生の質問に答えてくれた。店員は知識があっても、どの製品が良いとか悪いとかは言えないが、その点、ユーザーは遠慮がなかった。

  しかし、これらパーツ専門店も姿を消すときが来る。理由は幾つか有ったと思うが、一つには場所が悪かった。しかも同業が軒を並べるのでなくそれらは孤立した店舗だった。そこへもって、家電メーカーによる大量生産の完成品が発売されるようになると、一部の組み立てマニアを除けば、一般客は来なくなった。たとえば、テレビを手作りで組み立てるなんて誰もしなくなった。
 時代も漸く落ち着いてきて、一般庶民も電化製品を買えるようになってきたので、これらの店に替わって、寺町通りの四条⇔高辻間約300メートルに電気店が集中するようになり、東京の秋葉原、大阪の日本橋に次いで一大電化街となった。最盛期には一社が何軒も店舗を持つほど繁盛した。
 ところがれいのバブル崩壊によって電気店も大きな影響を受けた。家電製品は高額商品が多いのと、買い控えの風潮が出て来た。それに引き替え、大きな駐車場を持った大型家電スーパーがあちこちに出来て安売りをしたため客はそちらへ移っていった。その結果寺町電化街は櫛の歯の抜けたように閉店や撤退が相次ぎ、今では家電専門店としては旧「ナカガワ」の「ナカヌキヤ」と「電計社」(名前が示す如く元はパーツが主だった)、コンピュータ専門の「J&P」、家電・コンピュータの両方を商う「ニノミヤ」と「タニヤマ」ぐらいになってしまった。その代わり、組み立てパソコンのパーツを売る店が4軒ほど出来た。
 景気がよくなれば電気店が又戻ってくるのだろうか。それともよく行って現状維持、さもなければ未だ衰退が続くのだろうか。未来予測ほど当てにならないものはないので、御姫さんが出るか、坊主が出るかを占うのは止めておこう。
 商店街(「街」と言うほど纏まっているかどうか知らないが)も腕を拱いているわけではない。週末は「ホコテン」にしようという話が出ているらしいのがせめてもの好材料だ。何で迂生がこんなことまで知ってるのかというと、中学以来の電気少年の成れの果てで、今も週に一度は寺町界隈を「地回り」しているので、捜査員が迂生の顔写真を持って聞き込みに回ったら、
「あっ、この人知ってます。いっつも週末になったら来はります。」
ということで、直ぐに身元が割れるだろう。
 

「おったけさん」のこと
 僕のうちと同じ疏水べりに入り口を入ってからが長くて奥の広いお家があり、三軒離れているけど裏では僕んとこと接していて、住む人は何人も変わったが、この家は今もある。
 この家に昔、「おったけさん」という人が住んでいて、僕を可愛がってくれた。この人は写真術が趣味で僕をよく撮って呉れたので、戦時中の貴重な記録となっている。
 そんなに可愛がってもらったのに僕はこのオイチャンの顔もよく覚えていないが、「坊や」と呼びかけてくれた声だけがかろうじてかすかな記憶(?)となって残っているように思う。そんな有るか無きかの記憶の中で、妙にはっきりしているのは、和服を着た女性が二人居たことだ。それで、
「どっちがお嫁さん?」
と庭から座敷に座っていたオバチャンに向かって訊ねたら、その女性はただ笑っているばかりだった。
 これ以上のことは幾ら思い出そうとしても、まるで湯殿のくもりガラス戸の向こうみたいではっきりしない。当時三歳だったので無理もないことかと思う。
 それから「おったけさん」一家は居なくなった。その居なくなった時の記憶もないが、その後暫くして、女学生だった一人娘の睦子さんが、京都に用事があったか、東京への行き帰りだったかで僕の家へ来て泊まった。これはもう僕の記憶にある。健康そうではきはきしたお姉さん、と幼児の眼には映った。そしてもう少し大きくなってから、「おったけさん」は三高の先生だったが、遠い学校の偉いさんになって行ってしまったのだと知らされた。
 残念ながら「おったけさん」とことのご縁はこれが最後となった。戦争末期に、あの健康そうだった睦子さんが亡くなったという知らせが来た。睦子さんと僕の長姉とが同い年で小学校も一緒だったのでその後も音信の遣り取りがあったのだろう。
 戦後「おったけさん」は病気になって京都に戻ってきて、左京区岡崎のあたりに住んでいるそうだ、とうちの誰かから聞いた。家の者たちも正確な住所は知らなかったし、小学生の僕にとってそれ以上は思案の外だった。
 その後僕が学生になってから、「おったけさん」が実は折竹錫(おりたけ・たまう)という旧制三高の仏蘭西語教授で、日本における本格的仏蘭西語教育の先駆者の一人だったことを知った。その頃は故人となって居られたであろうし、著書のフランス語教本を見て、懐かしいと思ったぐらいのことだった。
 しかし、それから長い年月が経ち、自分が熟年を通り越して老年と言った方が相応しい年齢になってくると、何故か「おったけさん」のことが気に掛かりだし、少し調べてみようかという気になった。早速NACSIS Webcatで検索してみたら、三高の教え子で東京在住の人たちが1970年に『折竹錫先生遺稿集』を出していることが判った。これは幸いにも京都大学総合人間学部図書館に所蔵されていたので閲覧し、この書物のお陰で積年の疑問をほぼ解明することが出来た。
 
折竹錫の年譜
 前記遺稿集に収められた本人の日記や角南(旧姓萱沼)武子氏の資料を基に折竹錫の一生を辿ると大体以下のようになる。
 
1884(明治17)年1月11日、信州諏訪に父嘉鋭、母ひでの長男として生まれた。父は旧松本の藩士だったが、小学校で教鞭を執っていた。
1885(明18)年、1歳。父が北海道へ単身赴任したため、親戚を頼って祖父、母と共に東京へ移住した。そして住居を転々と移し、下町・山の手の両方を知った。その後中学、第一高等学校を経て東京大学文学部に入学した。
1908(明41)年、24歳。文学部を卒業した。当時仏文科は未完成で、仏人教授一人による仏蘭西文学専修という扱いだった。折竹は仏文6人目の卒業生で、5期生だった。2年後輩に内藤濯がおり後に『星の王子さま』を訳した。共に「帝国文学」の同人となり、仏蘭西文学の紹介や批評を行った。
 卒業後は陸軍士官学校の仏蘭西語教官を務めた。
1911(明44)年、27歳。駒城美津子(明23年生まれ)と結婚した。
1916(大正5)年、32歳。9月に京都の第三高等学校に赴任し、以後25年間仏蘭西語教授を務めた。長男信が生まれた。
1920(大9)年、36歳。文部省からフランス留学を命じられた。二男孝が生まれたが、育たなかった。
1923(大12)年、39歳。フランスより帰朝。三高教授に復職した。
1926(昭和元)年、長女睦子が生まれた。
1936(昭11)年、長男信が高校卒業前に病死した。
1941(昭16)年4月、57歳。福岡高等学校校長に栄転した。
1943(昭18)年10月20日、娘睦子が病死した。
1945(昭20)年、61歳。依願退職した。
1946(昭21)年、62歳。9月に軽度の脳溢血を発病した。
1947(昭22)年、63歳。4月13日に京都に戻ってきたが、適当な住宅が見付からず、間借り生活が続いた後、左京区岡崎入江町に居を定めた。日仏会館の計らいで、文法・作文などを教え始めた。ほぼ同じ頃、森田一郎という人が京大北向いの百万遍寺内に英語を始めとする外国語学校を開校し、折竹も仏語を週一回教えることになった。この学校は後に寺を出て短大になり、現在の京都外国語大学へと発展している。
1950(昭25)年1月13日、病気再発のため死去した。後4日生きれば66歳だった。

きのう・京・あした

Vol. 3, 通巻 No. 28

 

「おったけさん」のこと(3)
  以上の年譜の行間を埋めて行くと、おったけさんが僕を「坊や、坊や」と可愛がって呉れたのは、長男・二男を亡くしてからのことだった。そして僕が二人の女性のどっちがお嫁さんか分からなかったのは、妹静が同居していたからだった。
 おったけさんは元来日記を付ける習慣はなかったが、睦子ちゃんを亡くして1年半ほど経ってから日記を付け始め、終戦を契機に一旦筆を擱き、京都に戻ってきてから又付け出した。読んでみると、二子を亡くした事への言及は一切無い。武士の末裔であることがしのばれる。弟子の伊吹武彦や桑原武夫に言わせても、謹厳で、哄笑するようなことはなく、センチメンタルな事は好まなかったようだ。おったけさんはある小文の中で、
「人と契らば浅く契りて末遂げよ」
という言葉を何処からか引いているが、僕もこれを座右銘としたい。そして、
「武士は(「男は」とも)三年に片頬」
を想起する。
 しかし睦子ちゃんを失ったことは余程応えたと見え、感傷的な表現こそないが、命日のことがよく出てくる。関西では普通祥月命日しか仏事を行わないが、関東では没後1年間とかは毎月命日に墓参りをしたようだ。おったけさんは京都に戻ってきてからも睦子ちゃんの毎月命日には霊前に海の幸・山の幸・花・薄茶を供えたと記しているが、睦子ちゃんは戦中の学徒動員の重労働と食糧不足による結核死だったらしく、心尽くしの食べ物を供えたのだろう。
 おったけさんは短い随筆を多少残しているが、「出す当て無しの・・・」ではなかった。戦後間もなく、先鋭故に朝日新聞を出た記者達が京都で『都新聞』という夕刊紙を発行していた。おったけさんはこの新聞に随筆を書いていた。多分三高の教え子が居たのだろう。
 昭和22年の日記を読むと、戦後2年経っているのに如何に市民生活が大変だったかが分かる。国民に食料が行き渡らなかったのである。国は米の自由販売を禁止して米の配給制度を敷き、米穀通帳なる物を各戸に渡し、家族数に応じて米の割り当て量を保障した(筈だった)。
 ところが昭和22年7月17日付の日記によると、福岡、東京では30日間、京都は16日以上米の欠配が続いていると記されている。今のイラクみたいなもので、国が、政治が、体をなしていなかった。この米不足の原因は、農地の荒廃、不作続き、全土に及んだ空襲爆撃による輸送・流通経路の破綻、悪徳商人の買い占めなどがあったが、みんなが三食米食だと補給しきれないという事情もあった。今はパン食が米不足を助けている。だから闇米を食わなかった判事が餓死したり、歌舞伎役者の師匠宅に住み込んでいた弟子が、食い物の恨みで師匠を殺すというような事件もあった。
 我が疏水縁にだって似たことはあった。おったけさんのいた家に後から住んだ人のところへ僕がお使いに行ったら、台所に計りが置いてあった。これは献立表の食材の分量を量るためではなく、家族に米飯などを等量に分けるためだった。
 こんな悲惨な状態にあったにも拘わらず、おったけさんは不自由なからだで錦小路まで出掛けて行ってコーヒーの豆か粉かを買ってきた。飢餓状態にあってもエスプリを忘れなかったのだ。当時の日本に嗜好品を輸入するような外貨はなかったから輸入品ではないしコーヒーの国産もない。謎みたいな話だが、実は進駐軍の兵士がPXで買ったのを持ち出して売り、日本円の小遣い稼ぎをしていたのだ。そして買い取る業者もチャンといた。
 おったけさんは病弱の老人の身で日本の未曾有の苦難の時代に生き、なんとか食べ物が行き渡るようになった昭和25年1月に「どっちがお嫁さん?」の二人の女性に看取られてこの世を去った。その数ヶ月後に朝鮮戦争が始まって特需景気が起こり、日本は急速に経済復興して今日に至っているが、当時を知っている僕は、今街に食料品が溢れているのを見て、又、食べ物の好き嫌いを自慢げに言う若者達を見て、「これで好いのだろうか、これが続くのだろうか」の思いは消えない。
(以下次号)

「おったけさん」のこと(4)


冥土へのメール(1)
 「おったけさん!」
 こう呼びかけた人はこの世でおそらく僕一人だったと思いますが、遠い記憶にあるでしょうか。僕の名前を言っても分からないと思いますが、60年余り前、疏水縁のお宅へよく遊びに行って写真を撮って貰ったご近所の「坊や」です。睦子ちゃんと僕の姉とが同級だったことはもうお分かりでしょう。
 僕はこれからお浄土へE-メールを送ろうと思います。電波が電離層を突き抜けて宇宙へ飛び出しているのでそちらへ届くと確信しています。そしてお浄土ではコンピュータなんて面倒な機械を使わなくても、蓮の萼の上で念想するだけで通信文や画像が目の当たりに現れるのだと思っています。
 
 60余年間のご無沙汰をどうやって埋めようか、何からお話ししようかと迷いますが、先ずは学校の事からお話しします。
 おったけさんは昭和25年まで俗世に居られたのですから、三高が廃止され京大吉田分校になったところまではご存じですね。その後教養部となり、僕は最後の宇治分校の学生となりました。
 僕は医療技術短期大学部(3年制、現在は4年制となって医学部の1学科)と教養部に、その教養部が大学院を持つ総合人間学部に昇格した後も、実に23年間非常勤講師を務めました。おったけさんの三高教授25年間には及びませんが、余り例のない長さだったと思います。
「どうして専任になれなかったのかね?」
というお叱りを受けるかも知れませんが、力が無かったの一言に尽きますし、弁解がましいことを言えば僕の専門が京大になかったとも言えます。
 上の写真は現在の総合人間学部の正門です。もう三高時代の建物は一つも有りません。総じてモダンですが、一向に趣が有りません。
 おったけさんがお浄土へ行かれた後、京大仏文は三人の著名人が出て黄金時代を迎えます。うち二人はおったけさんが三高で教えられた桑原武夫と伊吹武彦で、後一人は生島遼一です。
 一番出世したのは桑原で、人文研所長となり、晩年は何と文化勲章を受章しました。下世話な話ですが、旧国鉄時代、受賞者は京都駅の貴賓室が使えたそうですが、今はどうなんでしょう。伊吹は仏文の教授となりました。僕はてっきり彼が京大卒だと思ってたのですが、東京の辰野隆の門下だったんですね。
 生島は松江高校出身ですが、当時松江に仏語が無かったので独習し、京大仏文で初めて正式に仏語を習ったことになります。生島は神戸経済大(後の神戸大)で教えた後京大に移りました。僕が学生の頃は教養部教授で、伊吹退官の後短期間ながら仏文を継ぎました。
 三人共訳業が多かったため社会的知名度抜群で、伊吹の退官記念講演は法経第1か第2で行われましたが、医学部や理系学部などからも白衣を着たまま聴きにやってきて、超満員、文字通り立錐の余地もないほどでした。演題は確か「空間の詩学」だったと思いますが、演題から予想したほど難しい内容では無かったような気がします。僕は前の席に陣取って確か写真を撮った記憶があります。
 第1信はこれぐらいにしておきます。第2信は写真の話しでもしようかと思っています。待ってて下さいね。(以下次号)

「おったけさん」のこと(5)


 冥土へのメール(2)
「おったけさん!」
 前信の学校のことで言い残しましたが、僕の第二外国語はドイツ語でした。フランス語も少しはやってみましたが、終ぞモノになりませんでした。不肖の「坊や」をお許し下さい。おったけさんは第一次大戦で敗れ超インフレに喘いでいたドイツを旅行して失望されたようですが、第二次大戦で戦勝国となって経済的に今も栄えているのは米国だけです。それに引き替え共に敗戦国である日・独は見事に経済復興し繁栄しています。
 そんなわけで(これ、内藤濯の翻訳『星の王子さま』に出てくる常套句です)、僕は仏語・仏文の素養がないので、本便は写真の話を致します。
 僕が写真を撮るようになったのには、結果的には幾つかの理由が有りますが、おったけさんに貴重な幼年時代の写真を撮って貰った思い出が大きな一因であることは確かです。それで僕は3人の子供が幼稚園から大学へ入るまで延べ20年近く毎年子供達の写真で年賀状を拵えました。そして子供達も印画紙の定着や水洗を手伝いました。その所為か、二女は美術学校へ行き(これは僕の父親譲り)ファッション・デザイナーになり、末子の息子はTV番組やCM制作、という具合に造形・映像分野に行きました。
 カメラに話題を移します。実は現在日本は世界最高水準のカメラ王国となっているのです。そしてその発端は戦争です。おったけさんがお浄土へ行かれた五ヶ月後の1950年6月25日に北朝鮮軍が突然南朝鮮に怒濤の如く攻め込んで来て、所謂朝鮮戦争が始まりました。中共(と当時は呼んでいました)やソ連の後ろ盾がある北朝鮮とは異なり、建国間もなくで何の準備もない韓国は互角に戦える筈もなく、史上初めて米国を主体とした国際連合軍と共産軍との戦いになりました。
 この朝鮮戦争に、D.ダンカンという米国の報道カメラマンが従軍していました。当時報道用カメラは大型のプレスカメラと小型はライカでしたが、泥水に浸かったり、砂塵が入ったりでカメラマンはカメラの故障に悩まされました。元々カメラは酷使に耐えるモノではなく、慎重に注意深く扱う精密機械です(これは今でもそうです)。それでダンカンは試しに日本光学のニコンを使用しました。その結果仲々使えることが分かり、仲間にも知れるようになり、日本製カメラの需要が増しました。彼らが日本製カメラを使用した理由は、ニコンの性能が良かった、ライカに比べてはるかに安い、故障しても地理的に修理が早い、などでした。
 それから精密工学は日本人に適していたとみえ、写真工学は世界の最高水準に達しました。昔はカメラの露出もピントも勘と経験が頼りで、適正露出でピントの合った写真が撮れたら、写真が上手いといわれましたが、今では露出もピントも自動化され、カメラはシャッターを押すだけで綺麗な写真が撮れるようになりました。しかもカメラは子供がお小遣いで買えるほど安くなりました。
 ライカが名機であることに変わりはありませんが、値段が高く、ヨーロッパへ行っても影が薄く、ニコン、キャノンなどの日本製の人気が高いです。そのライカの一番売れる国が日本だそうで、持ち歩いて写真を撮るというよりは、コレクターが家で眺めたり、磨いたりする「お宝」になっています。
 フィルムや印画紙は戦前から米国コダック社の製品が世界的に有名でしたが、富士フイルム製品の品質・性能が向上して追いつき、今は世界中何処へ行っても富士フイルムのカラーフィルムを入手することが出来ます。おったけさんが写真を撮っておられた頃は、白黒フィルムが普通で、感光度はASA100なら早い方だったと思いますが、今はASA400のネガカラーフィルムが常用フィルムになっています。
 そして昔は暗いとマグネシウムや閃光電球を焚いたのが、今では小型のキセノン管をカメラに内蔵し反復して使用できるストロボライトが使われています。それと、街の写真屋さんが増え、フィルムの現像から印画紙の焼き付けまで自動化されているので、数十分で焼き上がってきます。
 これで戦後半世紀の日本製カメラの進化ぶりがお分かりになったでしょうか。フィルムを使うカメラの話はこれでお終いです。実は僕は上の写真のような古いニコン使用者の残党で、それには一寸した曰くが有って以前小文を書いたことがあり、欄外に載せておきました。次回のメールでは、50年前には想像も付かなかった、フィルムの要らないカメラの話をします。お楽しみに。(以下次号)

「おったけさん」のこと(6)


冥土へのメール(3)フィルムを使わないカメラ
「おったけさん!」
 今回は予告通りフィルムのないカメラの話を致します。そんなの想像もつかないと思いますが、今それが主流となっているのです。あらゆる科学技術は軍事目的に開発されたといってよいと思いますが、このカメラも例外ではありません。そして、どうしてもコンピュータから話を始めなければなりません。
 コンピュータというのは電子計算機のことですが、米国陸軍が動く標的に大砲を命中させるために弾道を瞬時に計算できる機械の研究開発を第二次大戦中にペンシルバニア大学に依頼し、戦後の1946年にENIAC-1号という世界最初の大型計算機が完成しました。何でも1万8000本の真空管と延べ900km(東海道線の2倍弱)の配線を要したといいます。
 これだと大電力を消費し、大発熱を生じ、教室一つほどの部屋を要したでしょうから、前線では使えなかったでしょう。大戦に間に合わなかったのだから、大金をつぎ込んだ無用の長物に思えますが、この完成によって生まれた理論と技術と経験は以後のコンピュータ開発に大きく生かされました。
 次の至上目標はコンピュータの小型・軽量化でした。というのはソ連対米国の宇宙開発競争が激化し、打ち上げるロケットに搭載される器具・機械の小型・軽量・高性能・頑丈・性能の安定、が求められました。米国を中心とする各国技術陣の競争努力の結果、教室ほどのスペースを要したENIAC-1号を上回る性能の計算機がポケットや鞄に入る大きさになりました。そしてコンピュータは軍事・業務用から民生・家庭用へと広がって行きました。例えば、我が国のガス風呂はボタンを押すだけで水張り・湯加減などを全部マイクロ・コンピュータが行い、沸いたら音で知らせてくれます。
 話を本題のカメラへと進めます。従来のフィルム・カメラは、レンズを通してカメラに入った映像をフィルムに感光させそのフィルムに写っている潜像を化学的に処理して安定した陽画・陰画を得るわけですが、暗室作業を必要とすること、感光に銀を使用するため、地球上に比較的多量に存在する銀といえども、何れは稀少化して高価になって行く、というような問題がありました。
 そこで開発されたのがフィルムを使わないデジタル・カメラで、レンズを通して入ってきた二次元の映像と色彩を数列に変換して記憶するという方法が実用化されたのです。これだと暗室も要らない、省資源、写真屋さん要らずで、家庭にあるパソコン(personal computer)とプリンターでプリントが出来ます。
 フィルム・カメラは今後も業務用や写真愛好家には使われると思いますが、一般には2年ほど前からデジタル・カメラの生産台数の方が多くなりました。そして日本はデジタル・カメラにおいても世界を制覇しています。米国も独逸も日本と争う気はありません。
 この春、家内がハワイに行きたいと言ったので、私も暫く会ってない人があり、真珠湾のあるオアフ島だけで一週間過ごしてきましたが、今回初めてフィルム・カメラ無しで、デジカメ3台持って行ってきました。2001年9月11日にニューヨークで或イスラム勢力と見られる集団が大型旅客機2機を乗っ取ってそれぞれ二つの高層ビルに体当たりし、数千人の犠牲者を出した所謂同時多発テロが起こり、以後米国のみならず世界各国が飛行機への持ち込み品の検査を厳重に行い始めたため、強力な電磁波を浴びたフィルムは「かぶってしまう」ので私は持っていかないことにしたのです。
 しかし、一般用デジタル・カメラの記念すべき第1号は米国のコンピュータ会社アップルが1994年に発売したQuickTake 100です。私は当時何の気無しに買ったのですが、今では「お宝」となってしまいました。もう何年も休眠していたので、今回少し手入れして撮ってみました。如何ですか。この通り立派に写るんです。

「おったけさん」のこと(7)


冥土へのメール(4) 終の栖(その1)
 長かったおったけさんの追想も漸く終わりに近づいてきました。今回と次回で終わる予定です。「終の栖」には二つの意味があって、この世で最後に棲んだところと、奥つ城を指すようですが、今回は前者について書きます。
 おったけさんが福岡高等学校校長の職を辞し、病を得て京都に戻って住まれたところは岡崎入江町でしたね。春日北通りというのでしょうが、黒谷門前通りです。僕はその終の栖へ行って来ました。通り北側に「関常」という酒屋さんが昔からあり、おったけさんが福岡から帰ってこられた当時,関常は壮年夫婦と若夫婦、娘さんなどが居たと思います。その主人の世話で通りの南側の家におったけさん一家が入られたと聞きました。実はその家に現在関常は移転しています。
 今は孫がお店を継いでいて、僕がおったけさんの事を訊ねても何も知りませんでした。しかし父親である当時若夫婦だった先代が未だ元気で、今の若主人が電話で連絡を取ってくれて、おったけさんの事は直ぐ判りました。当時の若奥さんだったおばあさんもおったけさん一家の事をよく覚えているとのことでした。
 その結果、おったけさんが生前ご存じなかったことが一つ判りました。僕が「どっちがお嫁さん?」と言って返答に困らせたお二人におったけさんは看取られてお浄土へ行かれたわけですが、そのお一人だった妹の静さんは後に結婚されたそうです。
 それから、当時壮年夫婦に娘さんがあり、おったけさんと一つ家に住んでいましたね。この方もお元気で、近所に住んでいて今もよくお店へやって来るそうです。
 以前はタバコ屋や酒屋は専売免許を持つ安定した押しも押されもしない商売だったと思いますが、この頃は簡単に酒を売ることができるようになり、大型安売り店などが出来て、小規模酒店には経営が大変なところもあると聞きますが、関常さんは順調のようです。
 商売の話が出た序でに入江町界隈の話をしておきますと、門前通りに大きな変化はありませんが、お宅と裏を接していた左京郵便局が高野(東山通りと北大路通りの交叉点西)に移転しました。郵便局の東向に鴈治郎・扇雀の家がありましたが、その頃もう住んでいましたか? そして、お宅の数軒東角の「錦林製パン」が廃業しました。
 東山通り以西の春日通りで一番変わったのは大学病院で、今では京大病院となり、嘗ては各診療科が車寄せのある独立棟でしたが、今では高層建築になり、各階毎に各科診療施設と病室があります。病院の南側は旅館街でしたが、今はもう数軒しか有りません。
 それから最も変化したことは、東山通りは言うに及ばず、全市で市電が廃止されたことです。では市民の足はどうなっているかというと、バスと自家用車です。あの頃は車はお医者さんなど限られた人しか持ってませんでしたが . . .
 それもそのはずトヨタや日産は世界的自動車メーカーになっています。これはお浄土にも聞こえているかと思いますが。
 今回は「終の栖」その一でした。いよいよ次回が最後です。
 

冥土へのメール(5) 終の栖(その2)
おったけさん!
 冥界へのお便りもとうとう最終回になりました。
 実は二番目の終の栖である、おったけさんのお墓を探し当ててお参りしてきました。2004年・平成16年(明仁天皇の元号)入梅の直前に川崎市で学会があり、僕は研究発表を控えていたのですが、早朝に京都を発って東京へ直行しました。
 おったけさんが在世の頃は東海道本線は関ヶ原以西に電化されない部分があり、東京ー京都間は特急ツバメ号で8時間ほど掛かったと思いますが、1964年の東京オリンピックに間に合わせて「特急亜細亜号」みたいな広軌の東海道新幹線が完成し、今では3時間で東京へ行けるのです。だから東京日帰り出張が可能となっています。
 巣鴨の駅で降りて、1,2回道を尋ねて染井霊園に辿り着きました。駅に近い入り口を入れば直ぐとのことでしたが、正にその通り直ぐお墓は見付かりました。以下は全て僕の専門の一つである記号学的「墓考」です(昔、記号学なんてありましたっけ?)。
 入り口から三基目という特等の場所は大正か昭和初期におったけさんが墓地を買っておかれたのでしょう。京都在勤の頃ですから、東京の縁者の方からの情報もあったことでしょう。大きな自然石の墓碑の裏側に故人の方々の名前が入っていますが、ご祖父・ご両親、それにおったけさんから一番若い睦子ちゃんまで同じ時期に一度に名前が彫られたのが判読できますので、美津夫人が施主だと思われます。そしてその美津夫人は昭和57年11月26日歿と新しい文字で彫り加えられています。美津夫人はおったけさんを見送って30年余り生きられたことになりますね。
 折竹家の墓の敷地内に分家の墓も建っています。弟さん一家でしょうか。夫婦と二児の名前と歿年が記されているのですが、謎を含んでいます。奥さんが昭和12年に亡くなって、夫が翌13年になくなっているのですが、二人の子供も父親と同日に亡くなっています。内地か外地か分かりませんが、事故死と思われます。当然おったけさんは真相をご存じでしょうが。
 僕も人並みの歳になってきたので生き死にの事を考えるようになりましたが、周りを見ても末広がりに一族が増えて行く家よりも跡が絶えて行く家が多いように思います。折竹家も本家・分家の後継者が亡くなってしまったようで、何とも寂しい思いがします。でもご安心下さい。お墓に雑草は生えていませんでした。守って下さる方があるのか、霊園の管理が行き届いているのかでしょう。
 ところで「折竹」という姓は珍しいので、これを機会に長野県下でどれぐらいあるのか調べてみました。今はインターネットでそんなことも出来るのです。その結果、下伊那郡に3軒、南安曇郡2、塩尻市2、飯田市1、ありました。遡れば遠戚になるのかも知れません。
 長々と由無し事を書き綴ってきましたが、少しはお供養になったでしょうか。僕ももうそう長くはありません。大きな悪い事はしていない積もりなので、煉獄を経てお浄土へ行かせて貰えたら、一緒に写真談義でもしましょうか。仏蘭西語は勘弁して下さいね。