紳士の作法
(1)
はじめに
米国初代大統領で建国の父と仰がれるジョージ・ワシントン(一七三二-一七九九)が書き、そして自ら実行した、紳士が心得るべき作法は百十ヶ条から成り、それだけを列挙するなら、立てて置くことも出来ない小冊子で事足りる。
しかし、ワシントン自身が考え出したのか、或いは先人が拵えたものなのか、そうだとすればどのような経路を経てワシントンに繋がったのか、を知って条文を読むのと、ただ条文だけを読むのとでは関心も理解の度合いも違ってくるということに、本書を読まれた方は気付かれる筈だ。
私達は人跡稀な深山や野中の一軒家に独居出来る筈もなく、又、組織に属しているか自営業かを問わず、人と交わって生きて行かなければならない。才能も能力もあるのに不遇を託(かこ)つ人がいる一方で、己が力不足を自覚し、人に好感を持たれるよう自らを律し、立派に世を渡って行く人もある。国父ジョージ・ワシントンも実は後者の部類の人だった。
持てる力を十分受け入れてもらいたい人、上司・同僚・部下・後輩・顧客・友人・家族などに今以上に好感を持ってもらいたい人にとって、ワシントンの百十ヶ条の座右銘は必ずや益するところ大だと思う。しかし、そのような実利ばかりを強調するのは好くないかも知れない。全部とは言わないまでも、これと思う条文を実行して自律すると、誰に知られずとも、満足感を覚えて心豊かな日々を送ることが出来るのは間違いないと思う。
ワシントンの座右銘は文明化・国際化の今日、大いに参考にはなるが、何せ年経たものであり、現代の目で見直す必要もあるだろうし、それに本書を読んでくださる方は大方日本人だろうから、これを機会に「京の作法」も少し載せておいた。ご参考になればと思う。
沿革
ワシントンの座右銘(原題は「人前での立ち居振る舞いや物の言い方の作法」とでも訳せるが、長いので本書では『紳士の作法』とする)はそのルーツの探求をも含めて、マンキュア・D・コンウェイ(一八三二-一九〇七)の研究(『ジョージ・ワシントンの紳士のルール』(一八九〇)。今も英語版がぺーパーバックスで市販されている)が頼りになる。この人は聖職者で奴隷廃止論者としても知られている。
フランスの僧院
彼によると、一五九五年に、フランス北西部の町ラ・フレッシュに在ったイエズス会カレッジ(デカルトもそこで学んだ)の修道士達によって「人前における会話の作法」(以後『座右銘』)が編纂され、ポンタムッソン(北東部ナンシー近くに在るモセル川沿いの工業の町。十六世紀に大学が置かれた)の法類達に送られた。日本で言えば、秀吉が国家統一を図った頃だ。このあたりの教区を統括するトゥールの司教ニコラ・フランソワは、ポンタムッソンの大長老でパリのヒューマニズムの教授でもあったレオナール・ペリンにこの座右銘のラテン語訳を命じた。ペリン神父は訳の他に彼独自のテーブルマナーを付け加え、このラテン語版が一六一七年にポンタムッソンで、一六三八年にパリで、そして一六五一年にルーアンで広まった。その後スペイン語、ドイツ語、ボヘミア語に翻訳された。フランス語版は一六四〇年にはパリで入手できた。
コンウェイは大英博物館において、八歳の少年の手になるという一六四〇年の英語本を見付け、次のような印象を述べている。
「翻訳は実に粗雑で所々意味も不正確だったが、八歳に満たない少年の単独訳である事は信じがたい。ワシントンの読んだのと、このホーキンス版を仔細に比較すると、バージニアの少年がロンドンの少年の訳を使用したかどうかは疑わしい。相違の方が類似よりも多い。」
英国の天才少年
話を先へ進める前に、この途方もない早熟英才少年の出自と行く末を記しておくと、フランシス・ホーキンズは一六二八年、ロンドンに生まれた。父親のジョンは医師で、トマス・ホーキンズ卿(翻訳家・詩人。国教を忌避した)やヘンリー・ホーキンズ(イエズス会指導者)と兄弟で、古い有力な一族だった。ジョン・ホーキンズは早熟の息子がフランス語『座右銘』を英訳したのに驚喜し、印刷業者のウィリアム・リーの処へ息子の原稿を持って行き、一六四〇年頃活字となった。しかし当時ピューリタン革命などの政情不安が有って、第二版が出たのは一六四六年だった。それからは矢継ぎ早に一六七二年まで版を重ねた。
ホーキンズは二十一歳でイエズス会の修道士となり、修業を重ねてゲント(ヘント、ガンとも。現在ベルギー北西部の東フランダース州州都)の聴罪司祭となった。そして一六七五年からから亡くなる一六八年の始めまで、リェージュ大学の聖書学教授だった。
これらのホーキンズ本は三百六十年ほど経った現在では稀覯本であり、チャールズ・ムーア(『紳士の作法』ホートン・ミフリン杜刊(一九二六年)の編者)の調査によると、米国ではフィラデルフィアの個人が一六五一年版を所有し、国会図書館に一六六三年版が所蔵されているのみだが、本家本元の英国の方はもう少し多く、大英博物館には一六四六、一六五一、一六六三、一六七二年版が有り、それに一六五二年にロンドンで出版されたラテン語版も所蔵されている。オクスフオードのボルドレイアン図書館には一六六一年の第七刷、一六六三年の第八刷、一六六八年の第九刷、そして一六七二年版の第十一刷が所蔵されている。ケンブリッジのトリニティ大学図書館には少なくとも一六六三、一六七二年版が所蔵されている。注目すべきは、たとい同一本であっても出版年度が異なれば複数保存していることだ。「改訂」と表示しないまでも誤植などの訂正はあり得るからで、司書や図書館の見識を伺い知ることができる。
このようにホーキンズ本は世界中に十冊有余しか現存しない稀覯本なので、是非実物を閲覧したいところだが、筆者木下はロンドンやワシントンに出掛けて行くことなく実物に触れることができた。実は大阪大学図書館に一六七二年本が所蔵されていることが判明したのだ。許しを得て閲覧させていただいたが、コピー機で複写することは不可だった。強い光線を当てる、本を広げて上から圧迫する、は貴重な古書には禁物であり、当然の措置だった。それで自然光線下で写真を撮らせて貰った。我が国にはシェイクスピアのファースト・フォリオ(最初のシェイクスピア全集。一六二三年刊)なども有ると聞いているが、ホーキンズ本は筆者の閲覧した最も年代の古い洋書となった。内容を知りたいだけなら復刻版で事足りるし、今では居乍らにしてインターネットのアーカイブから無料でダウンロードすることも出来る。しかし、ホーキンズ本の実物を閲覧した時の感慨が拙著を完成させる励みになったとすると、原本の保存、そしてその閲覧の意義は極めて大きいと思う。

フランシス・ホーキンズの1672年本(大阪大学図書館蔵)
ワシントンの入手
これまでに述べた『座右銘』成立の歴史を整理すると次のようになる。
一五九五年 仏ラ・フレッシュ修道院道士たちが「人との会話の作法」(本書では『座右銘』)を編纂。後、法類ポンタムッソンのペリン神父が増補しラテン語訳。
一六一七年 ラテン語版、ポンタムツソンで広がる。
一六三八年 ラテン語版、パリで広がる。
一六四〇年 この頃までにペリン本の仏語版もパリで出た。ホーキンズ英訳。
一六七二年 ホーキンズ本十一刷。
ホーキンズ本が出てから百年後、大西洋を隔てたアメリカでワシントン少年がアクセスしたのはホーキンズ本なのか、或いはラテン語版やフランス語版なのか、自習なのかそれとも学校で習ったのか、などは出来れば明らかにしておきたいところだ。それには回り道のようだが、ワシントンの生い立ちから調べてみるのが良いと思う。独立戦争時の植民地軍司令官として、独立後の合衆国初代大統領としての彼はよく知られているが、父が大事にしていた桜の木を、斧の切れ味試しに切り倒してしまったエピソードは有名でも、彼の前半生は意外に知られていない。それにはいろんな理由が考えられるが、史家・伝記作家たちは彼の必ずしも恵まれなかった幼少期を書くことが、後でも少し触れるが、国父のイメージが損なわれるのを慮(おもんばか)ったのかもしれない。
欧州から米国ヘ
(一)
ワシントンの前半生を語る前に、更に回り道をし、時代も遡って、ヨーロッパヘと目を転ずることにする。アメリカは主としてヨーロッパからの移民が造った国だからであり、ワシントン少年に大きな影響を及ぼした二家が『紳士の作法』と深い関わりがあるからだ。
一つは旧大陸で、フランス北西部の町ルーアン(ジャンヌ・ダルク焚刑の地として有名)にマリという一族が居た。このマリ家はカトリックとユグノーの両方の年代記で名を知られている。その内ピエール・マリ(一五八九ー一六四八)はルーアンで生まれ、ブルージュで没したが、その著書でも知られているイエズス会の傑出した存在だ。
一家はユグノー運動によって旧教と新教に分かれ、プロテスタント分派は英国に根を下ろした。後者について言うと、牧師のジャン・マリはバーソロミュー大虐殺から英国に逃れた避難民の一人だった。ユグノーの殉教者で、リジュー(仏北西部の市。聖テレーズ・ド・リジューが住んでいた関係で巡礼者が多い)司教区のサン・ジョルジュ生まれであるマラン・マリと同じ家系に属すると考えられる。この剛胆の人はジュネーブに移住し、フランスヘ布教の旅に出てサンス(仏北中部、ヨンヌ川沿いの町)で囚われの身となり、重い聖書とプロテスタント改革促進パンフを背負わされ、パリのモーベル広場(パリ最古の広場の一つ。古来種々の騒動の拠点として有名)で火炙りにされたのは一五五九年のことだった。
ジャン・マリ牧師は英国では歓迎され、ノリッジ(イングランド東部ノーフォーク州の州都。大聖堂と大学が在る)に派遣された。ここで初めてのフランス人だったらしい。彼は説教の自由が復活した時フランスの改革派教会に雇われ、その結果ノルマンディに戻って来たが、後に再びノリッジに復帰した。そして次に息子の一人、ナサニエル・マリがロンドン・フランス教会の牧師の一人となった。
我々が特に関心を持つジェイムズ・マリはカトリツクの方の出で、十七世紀末期にルーアンで生まれた。彼は聖職に就くべく、間違い無くルーアンのイエズズ・カレッジで教育を受けた。ここは我々も既に知っている如くペリン神父の作法の本が印刷されたところでもある。しかし、ジェイムズ・マリは一七二六年にカトリックを離れた。これは家族との決別を引き起こした。一家というのは寡婦である母と、他にその二人の息子だった。この二人というのはピーターと、後に役人になるウィリアムである。しかし二人の名はプロテスタント家族の中に再登場する。離反の結果としてジェイムズはイングランドに移住する。そこで彼は学問を修め、ロンドン主教によって聖職位を授けられた。
一七二八年に彼はレティシア・マリア・アン・ステイグという女性と結婚した。彼女は、既にバージニアに移住していたテオドシウス・ステイグ師のきょうだいだった。それでジェイムズ・マリも又、この植民地へと一七二九年に花嫁を伴って旅立ち、第一子のルーシーは航海中に生まれた。当時の女性は逞しく、旅先で出産するのは珍しいことではなかったし、それに彼女には信仰心と使命感も有っただろう。
この移住の目的は、ジェイムズ川沿いのモナカン(モナキンタウンとも)に在るフランス系ユグノーの入植地に聖職者を送り込むためだったと思われる。歴史的には、これら亡命者たちの第一陣は一六九〇年にオリバー・デラ・ミュースに率いられ、一六九九年には更にフイリップ・デ・リシュブール牧師ら六百人が後に続いた。バージニア植民地議会は彼らに免税の特典と、エンリコ郡の広大な土地を与えた。現在のリッチモンドはその近くに在る。
マリ 一族(旧教、仏 ルーアン)
↓
レティシア = ジェイムズ(後、新教、米へ)
(二)
アメリカの人となったジェイムズ・マリー(米国では「マリー」と読むことが多い)の名前は、キング・ウィリアムズ教区(ウィリアム王がユグノー植民地に好意的だったことに因む)で一七三〇年の幼児洗礼に関係して現れる。教区会議事録によれば、一七三五年に教区委員たちは植民地の慣習に従い、バージニァ知事に対し、ジェイムズ・マリーを説教師に任命するよう誓願し、それが認められた。彼は当時セントジェイムズ教会(バージニアのグーチランド郡のノーザム教区に在った)を主宰する「セントジェイムズのマリー師」と書かれている。
ジェイムズ・マリー師は一七三五年から亡くなる一七六七年までフレデリックスバーグに留まり、精力的に活動し成功を納めた。彼は自分の名を付けた子孫を大家族に発展させ、彼らは著名な代表者たちとなった。すなわち、彼の死後、フレデリックスバーグのセントジョージ教会は同名の息子によって継がれ、この名誉ある伝統は守られた。ひ孫のジョン・L・マリー(彼の邸宅「ブロンプトン」は「マリーズハイツ」に建ち、南北戦争で有名になった)は高名な法曹家だった。そしてその息子であるジョン・L・マリー二世はバージニア副知事となった。
このバージニアのマリー家創立者はアメリカの名士に列せられて然るべき雄弁な牧師で、フレデリックスバーグで気高い集会を開いた。彼は又、洗練された紳士で教育者でもあった。彼が学校を設立して教えたことは先ず確かである。町の記録によると、この学校は源をフランスに発するとしている。彼が住み始めた当時、植民地語で「ぺーパータウン」に過ぎなかったフレデリックスバーグの然るべき住民一人一人の名前と身分は今も知ることが出来る。
校長として礼儀作法を教えたと考えられる元フランス人学者を得たという幸運によって、この植民地学校は、小邑に過ぎないこの地から異常に多数の傑出した人物を生んだ。この学校でワシントン、マディスン、モンローの三人の大統領が初等教育を受けたのだ。マディスン、モンロー両人の成功と出世は知的能力よりも人を惹き付ける魅力に負うと断言しても良いと思われる。両人は自ら身を置く政界において大いに必要とされる雄弁術に極めて劣っていた。彼らが議会で演説することは稀だった。演説するときもマディスンは尻込みし、しても聞きづらかった。しかし彼の物静かさと他人への気配りが雄弁な演説となった。この両人がジェイムズ・マリーの教えを受けたかどうかは疑わしい。というのは彼らがフレデリックスバーグの学校に通っていた頃、ジェイムズ・マリーは既に高齢だった。しかし礼儀作法は彼らの頃にも教えられていたのは確実と思われるし、事実現存している人たちの記憶の中にもある。
ジョージ・ワシントンは上記二名よりも公衆の面前で演説するのに劣っていたとはいえ、深い知性を備えていた。しかし少年時代、大抵の友達よりも、自分が気に入らなかったが、これは徳性によってのみ克服できる障害だった。
この地にマリー以外フランス人は居らず、フレデリックスバーグのこのような重要な学校で教えることの出来る人物は居なかった。というのは、この学校はたちまち最高学府としてバージニア中に知られることとなった。特に古典教育に重点を置き、その名声は数百年以上続いた。
(三)
それに先立つ一七二七年にフレデリックスバーグが開開(かいびゃく)し、一七三二年に此の地を訪れたバード「大佐」(軍人とは限らない。親分肌の年配者を持ち上げるときにも遣う。「旦那」ぐらいの意味)は以下のように書き記している。
「商人・仕立屋・鍛冶屋・普通の経営者・女医で喫茶店主である女性、が一人ずつしか居ない此の地で、ウィリス旦那を差し置いて、誰がここの代表者だろうか。」
このウィリス旦那がワシントンのおばに当たる女性と結婚した。そして近くにはワシントンと繋がっている人たちも居た。ここらあたりからジェイムズ・マリーとワシントンの接点が見えてくる。ワシントンの父オーガスティン・ワシントンは鉱山などに関係する事業を営んでいて、四人の子(内二人は育たず)を儲けたが、妻に先立たれたため後妻を娶り、二人の間に出来た第一子がジョージ・ワシントンだ。それまで一家はバージニア植民地のウェストモーランド郡に住んでいたが、ワシントンが生まれると直ぐに別の農園に移り住んだ。其処は後にマウントバーノンと呼ばれるようになり家屋敷と記念碑が今も残っている。この地名はこの屋敷を建てたジョージの異母兄ロレンスが士官として仕えた英国海軍のバーノン提督に敬意を表して付けた。
一七四三年に父が亡くなったとき、ジョージ・ワシントンは未だ十一歳だった。父は多くの土地を所有していたが、金は余り残さなかった。そしてその土地も大方は先妻の息子たちに遺された。それでジョージは、彼が生まれたウェストモーランドに在るウェイクフィールドと呼ばれる古い農園で、異母兄のオーガスティン(父と同名)と共に暮らした。それからフレデリックスバーグ近郊に戻ってきて母と暮らした。寡婦となった後妻は貧しいままで、その長男のジョージは殆どの級友のような将来の展望が無かった。
彼がフレデリックスバーグの学校へ行ったことは、この町の創始者であるハリー・ウィリス旦那の孫であるバード・ウィリス旦那の書き遺した稿本に出ている。その中で、バードの父親ルイスはワシントンと学校で遊んだと言っている。教師たちの名は書かれていないが、ジェイムズ・マリーであったと思われる。ただし、チャールズ・ムーアは、「彼がワシントンの教師だった可能性もあるが、彼がフレデリックスバーグや他の場所で教師をしたとか、名目のみにせよ当時フレデリックスバーグに学校が在ったという証拠はない。事実我々はワシントンが学校へ行ったという事実を知らない。」と言っているが、ルイス、バート親子の証言がある以上、本書ではコンウェイ説を採ることにするし、そのほか大方の記述もコンウェイの調査に依っている。
コンウェイはバートの子孫から入手した彼の手書き原稿から次のような箇所を引用している。「父ルイス・ウィリスは二歳年上の従兄であるワシントン将軍のクラスメートであった。彼は学校での将軍の勤勉と精励が際立っていたと言っている。彼の兄弟や他の少年たちが遊び時間にテニスみたいなことをして遊んでいても、彼は教室の中で算術を解いていた。しかし若気の至りは在学中にも見受けられ、一番大きい女の子ともはね回った。これは極めて異例のことだったので、他の男の子たちの間で噂になった。」
少年時代にこの偉大な軍人は決して堅物ではなかったが、喧嘩はせず、仲裁者として運動場へ呼びだされ、その仲裁は常に受け入れられた。
ラッパハノック川沿いの母親の粗末な家で、ワシントンが『若者の振る舞い』を読んで熟考し、注意を引いたことを自分のために書き留め、そしてクラスメートの中で礼儀作法の先生役になったということは驚くべきことだが、有り得ないことではない。ともかくワシントンはバージニアの最高学府であるウィリアム&メアリ・カレッジに進学する代わりに、彼はビジネスに就く準備をした。彼の古い習字帖に書いてある礼儀作法はビジネスのスタイルに近いことが分かるし、十四歳の少年の厳しい将来展望への悲壮の表れでもある。寡婦である彼の母親は無学だったが、彼は母親に孝養を尽くした。のちに大成して公務に追われるようになっても、年を取って気むずかしく厳しくなった母を敬い、優しくした。
ワシントンは最終的にはハンサムな男性に成ったけれども、初めの頃は人好きのする容貌ではなかった。彼は痩せこけて頬がへこんでいた。彼はフレデリックスバーグの名だたる美人連中からの人気はなく、青年時代にバルバドス(西インド諸島東端の島)を訪ねて病身の異母兄ロレンスを介護している間に天然痘に罹り、痘痕面と成った。
ここで、もう一つ彼と係わりのあるヨーロッパの一家系が残っていた。旧大陸から海を隔てた英国にフェアファクス家という貴族が有り、第六代目のトマス・フェアファクス男爵(一六九二-一七八二)がバージニアに在った母方の荘園を訪れ、領主として定住した。このフェアファックス公やフェアファックス家の人々の経験豊富な目は、ジョージ・ワシントンの人目を引かない容貌の下に信頼の出来る性格を見出した。ポトマック川上流の隣人たちは、フレデリックスバーグほど開化されておらず、洗練もされていなかったが、作法や立ち居振る舞いの良き仕付けを身に付けたたこの青年紳士はこの人たちの好意と信頼を勝ち得た。
彼は十四歳で『紳士の作法』を書き、十六歳で学校を出ると、自分で生計を立てなければならなかった。一七歳の時、彼はフェアファックス公から公の広大な荘園の測量技師に採用され、公はシェナンドー渓谷に在る荘園の測量と地図作成を少壮測量技師ワシントンに依頼した。そして一時、彼はグリンウェイコートの公の屋敷に住み込んだこともあった。彼がこのようにして周囲に合わせることなく発展して行き、そして教育程度の高い有力なフェアファックス家の好誼を得たのは、マナーのトレーニングに依ることも一因であるのはまず疑いない。
そして、フェアファックス公が『スペクテーター』紙(二種有り、一つは英国の日刊紙(一七一一-一七一四)、もう一つは同じく英国の評論週刊誌(一八二八年創刊)、ここでは前者を指す)の有力な寄稿家であり、ワシントンはグリーンウェイに寄居中この新聞を精読していたことも記憶されるべきである。
(四)
ワシントンが『紳士の作法』を入手した経緯に決着を付けたいが、コンウェイは断定を避けつつも、教師(ジェイムズ・マリーの可能性有り)がフランス語版とホーキンズ本を基に授業で口述し、それがワシントンの習字の文言に成り、そして彼の原稿に見られる多くの簡略・ぎこちなさ・綴りの間違い・句読点の欠如などは教師の口述を書き取った所為、としている。
このワシントンの手書き原稿は彼の死後も遺族によってマウントバーノンの家屋敷に保存されていたが、公立文書館に納まるまでの間に、ネズミによって囑られ、百十ヶ条の内九ヶ条が被害に遭い判読不能になってしまった。しかし、ロンドンに渡ってフランス語版やホーキンズ本を参照して九ヶ条の復元に成功したのもコンウェイの業績だ。
『座右銘』には異本も幾つか有ったようだが、今ではワシントンの『紳士の作法』がいわば定番となっている。しかし、ワシントンの伝記作家や編集者でこれらの事を世間に公表しようとする人がいないのは驚かざるを得ない、とコンウェイは言っている。すなわち、ワシントン・アービング(一七八三-一八五九。米国の小説家・随筆家。代表作は『スケッチブック』で、米国で初めて国際的に名を知られた作家と言われる)は『ワシントン伝』の中で、賛辞を以て「紳士の作法」に対する関心を呼び起こしたが、一条も引用することはなかった。
また、ジャレッド・スパークス(一七八九-一八六六。米国の史家.伝記作家。「ジョージ・ワシントンの著作」で知られる。ハーバード大学長を務めた)は五十七ヶ条を引用したものの正確とは言えず、彼特有の文学的扱いだった。これら古い伝記作家達は「紳士の作法」全てをプリントする事はワシントンの名声を汚すことになるのを恐れて、批判するより、賛美する事を選んだのではないかと思われる。また、米国のこの軍事的・政治的に神格化された人物が、少年時代とはいえ、貴族や上流階級に脱帽し、敬意を以て恭しくフォーク・ナプキン・爪楊枝などの適切な使い方といった項末なことに拘っているのを発見し、スキャンダルになると思ったのかも知れなかった。
『紳士の作法』は米国において現在十指に余る出版杜のものが流通していて、最新版は二〇〇八年三月に発売されていることから(二〇一〇年現在)、決して過去の遺物でなく、未だに購読されていることが判る。本著を書くに当たって筆者は次の三冊を用意した。
書名 Rules of Civility
編者 Richard Brookhiser
出版元 University of Virginia Press, 2003
入手先 インターネット・ショッピングの「アマゾン」
寸評 読みやすい文章に直してあり、所々に注も入っている。
書名 George Washington's Rules of Civility
編者 Moncure Daniel Conway
出版元 Standards Publications Inc., 2007
入手先 インターネット・ショッピングの「アマゾン」
寸評 編者は『紳士の作法』の原典を十六世紀欧州の僧院に遡り、又、ワシントンの手書き原稿の欠損部復元に成功した功労者。仏文と英文を併記し、『座右銘』や他の説も所々引用しているが、原文の変更はない。綴り、句読、大文字・小文字の区別、イタリック体の使用などは誤りにしろ、旧文体にしろ手を加えてない。
書名 George Washington's Rules of Civility
編者 Hohn T. Phillips, II
出版元 Goose Creek Productions, 2002
入手先 米国国会図書館購買部
寸評 ワシントンの英文、仏文、それにホーキンズ本を併記している。英文に関しては、母語話者が分かる限り、手を加えてない。
この中からコンウェイ本を主として用いたが、他の二冊もほぼ同内容であり、日本語に訳せば大きな違いはない。本編では書籍を典拠にしたが、インターネットの世界では著作権の切れた文学作品などは次々データ化されて無料で閲覧・ダウンロードできる。
(例http://etext.virginia.edu/ebools/やhttp://www.fullbooks.com/など)
筆者もコンウェイ本が到着するのを待つ間、ネット版に頼った。以降における注釈の末尾のBはブルックハイザーの注釈を参考にしたことを示す。
本 編
第一条 人前でのあらゆる行いは、居合わせる人に対し、なにがしかの尊敬の念をもって為されるがよい。
第二条 人前では、他人の通常露出していない身体の何処にも手を置かない。
第三条 友人に対し、驚怖させるような物を見せたりしない。
第四条 人前で耳障りな鼻歌を歌ったり、手の指や足で音を立てたりしない。
第五条 咳、くしゃみ、溜息、欠伸などをするときは、大きな音を立てず、そっとすること。そして欠伸しながら物を言ったりせず、欠伸するときは顔に手巾や手を当てるか、脇を向いてする。
(注 それでも思わず予期せぬ音が出てしまった場合、英語通用圏では、"Excuse me!”(失礼)と小声で言い、相手も殊更反応しないのが普通。)
第六条 人が物を言っているとき、眠ったりしない。人が立っているとき、座ったりしない。最早言ってはならないときは何も言わない。他の人が立ち止まったときは自分も足を止める。
(注 三番目の句は、英国国教会系の礼拝の公式文である「祈祷書」に有る結婚式用の文の「言うなら今だ。でなければ後からは何も言うな(後でごたごた言うな)。」を踏まえている。)
第七条 人前で衣服を脱がない。半分着かけで私室から出たりしない。
第八条 遊んでいるときや炉端にいるとき、最後にやって来た人と替わってあげる、そして普段よりも大きな声を出さないのがグッド・マナーである。
(注 これはトランプ(英語では「切り札」を意味し、普通は「力ード」という)をしているときであり、ワシントンは大統領になって難しい政治問題を抱えたとき、よく力ードでギャンブルをしたという。)
第九条 炉火の中に唾を吐かない。その前に低く屈み込んだりしない。手を温めるため炎の中に手を入れたり、足を火の上に置いたりしない。前で肉を焼いているときは尚更の事。
(注 日本で「ストーブ」は専ら暖房機を指すが、英語では調理用レンジのことで、暖房機は「ヒーター」と言う。尚、「クッキング」はストーブを使って加熱調理することで、サンドイッチなどを作ったりするときには言わない。)
第十条 腰を掛けている時は足を組んだり交叉させたりせず、きちんと揃える。
第十一条 人前で所在無げに体を動かしたり、爪を噛んだりしない。
(注 人と接するときは貧乏揺すりや足を小刻みに動かしたりなどせず、姿勢を変えないで泰然としているのがよく、伸びをしたり、爪の手入れをするのは相手が眼中にない表れだった。)
第十二条 頭、足・脚を振ったり、目を回転させたり、片眉だけ吊り上げたり、唇をへの字に曲げたりしない。そして喋りながら近付き過ぎて、人の顔に唾を掛けたりしない。
第十三条 人前で蚤・虱・ダニなどの害虫を殺したりしない。もし汚物や疾などを見たら、手際よくその上に足を置き、人の衣服に付いていたなら、然り気無く取ってあげる。もし自分の衣服に付いているのを人が取ってくれたら、謝意を表する。
(注 人畜に寄生する害虫は上流階級にも無縁でなかった。高温多湿の日本ではこまめに入浴するが、欧米では湿気が少ない、湯は一人ずつ入れ替えるのでその度毎に沸かす時間が掛かる、多くの燃料と水を必要とする、などの理由で入浴は頻繁でなかった事情もある。これらの害虫が卑近であった証拠に、ゲーテの『ファウスト』で悪魔のメスィストフェレスがライプツィヒのアウエルバハの酒場で「蚤の歌」を歌う。そして『ファウスト』を読まない人でも、『ファウスト』に基づいたムソルグスキーの歌曲「蚤の歌」は知っている。日本でも芭蕉の「蚤鼠馬の尿(ばり)する枕元」(『おくのほそ道』)がある。)
第十四条 人に背を向けない。特にその人が物を言っている時は。人が読み書きしている机や卓を揺すらない。如何なる人にも任几(もた)れたりしない。
第十五条 爪は清潔にし、短く切っておく。そして手や歯も清潔に。ただし余り気にすることなく。
第十六条 頬を膨らまさない。舌を垂らしたり、手を擦ったり、髭を撫でたり、唇を尖らせたり、噛んだり、開きすぎたり、窄めすぎたりしない。
第十七条 阿(おもね)たり、人の喜ばない悪ふざけはしない。
(注 欧州の七年戦争(一七五六一-一七六三)と連動して、英仏が北米で戦争を行い、フランスはインディアン(北米先住民)諸部族を味方に付けて戦ったが、英国は仏植民地であったカナダを征服し、勝利を得た。この戦争をフレンチーインディアン戦争と言うが、当時バージニア植民地民兵軍大佐であった若きワシントンは、英国北米軍総司令官ジェイムズ・アバークランビイ(1706-1781)に宛てた書簡の中で次のように述べている。
「閣下、私が阿(おもね)ようとしているとは思わないでください。私は閣下の貴族に相応しいお人柄に甚く感動し、そして高貴なご身分を尊敬致しておりますが、お追従(ついしょう)をしているのではありません。私の本性はオープンで正直で狡猜さは有りません。」)B
第十八条 人と同席しているとき、手紙・書物・書類などを読まない。しかし必要な場合は一言断る。人が読み書きしているとき、求められない限りそれを読もうとして近寄ったり意見を言ったりしない。又、人が手紙を書いているとき、近付いて覗き込んだりしない。
第十九条 顔の表情は快活に。しかし深刻な場合は幾分厳粛に。
第二十条 身振りは話の内容に相応しいものでなければならない。
第二十一条 人の気弱を責めてはならないし、人が気にする事を言って面白がってはいけない。
第二十二条 他人の不幸を喜ぶ様子を見せない。仮令(たとい)それが敵の事であろうとも。
第二十三章 罪が罰せられるのを見て、心の中で喜ぶのはいいが、罰を受ける罪人には常に憐欄の情を示す。
第二十四章 笑う理由がない限り、公衆の面前で高笑いをしたり、必要以上に笑ったりしない。
(注 ワシントンは都合が付けば芝居を観に行った。そして悲劇も喜劇も観たが、大統領在任中劇場で笑ってみせたのは一回切りで、自分に関する穏和な櫟(くすぐ)りに対してだった。)B
第二十五条 儀式において、過剰の補足や大仰な態とらしさは避ける。それが許される場合を除いては。
第二十六条 貴族・裁判官・聖職者のような身分の高い人に対して脱帽するときは、上流階級のしきたりや相手の地位に応じて多少とも腰を屈めて敬意を表する。同輩間では相手の方から先に礼をしてくれるのを待つのは失礼だが、必要もないのに脱帽するのは大仰である。挨拶や答礼は言葉で行うのが最も普通の慣習に適っている。
第二十七章 自分より身分が上の人に帽子を被ったまま挨拶をしたり、そのままでもよい人に脱帽するのは悪しきマナーである。同様に、脱帽した後余りにも急いで被るのは良くなく、一、二度言われてから被るのがよい。今ここで然るべき挨拶の仕方について述べられていることは、席に着く場合にも当てはまり、席順不同は却って煩わしい。
(注 過剰の丁寧・尊敬は一種の不作法だ。目の前に居る人のことを英語ではyouとしか言わないが、ドイツ語やフランス語では目上の人と同輩乃至目下の人とは区別して呼ぶ。ドイツ人親子と話していて、親も傍にいるから子供にSie(あなた) と筆者が言ったら、すかさず父親から「子供にはdu(お前、君)と言ってやって下さい」と署(たしな)められた。)
第二十八条 もし自分が腰掛けていて誰かが話しにやって来たら、それが目下の者であっても立ち上がる。そして誰にも相応に椅子を勧める。
第二十九条 もし自分より身分の上の人に出会ったときは立ち止まり、特に扉の処か、狭くて真っ直ぐな処であったなら、通して上げるために道を譲る。
第三十条 人と連れ立って歩くとき、大抵の国では上位置は右なので、自分は敬意を表したい人の左側に位置する。しかし三人で歩くときは真ん中が至高の位置であり、二人で歩く時は壁側が高貴の位置である。
(注 欧米の多くの国では、現代でも女性と歩くとき、女性は壁側・建物側で、男性は車道側が普通。)
第三十一条 もし年齢・財力・功績その他何か一点でも秀でている人は、自宅であろうがなかろうが身分の低い者に席を譲ろうとするのが好いが、言われた方は受けるべきでない。又、言う方も、押しつけがましいと思われないよう、一、二度に止めておく。
第三十二条 自分と身分が同等か若しくは大差ない来客でも自宅では上座を勧めるがよい。勧められた人は最初は辞退するものだが、二度目は己の身分を弁(わきま)えた上で受け入れるのが好い。
(注 この条文はワシントンの私人的もてなし方だけでなく、政治にも生かされた。彼はあらゆる要職に常に不本意と謙遜を表明して就任した。一七七五年、大陸会議が彼を総司令官に選んだとき、彼は言った。「私は自分が拝命した重職に相応しいとは思わない。」又、一七八七年、憲法制定会議の議長に選出されたとき、彼は「その資格の欠如を嘆き、経験不足に起因する意図せざる過誤の寛恕」を代議員たちに求めた。更に、一七八九年、最初の大統領就任演説では「自分の力不足を人一倍自覚している」と公言した。「夢想だにしなかった」、「身に余る光栄」、「浅学非才」、「身の引き締まる思い」、「ご指導ご鞭燵を乞う」などの常套語句に慣れている日本では特段奇異に感じないが、自分を少しでも大きく見せようとするのが米国の政治家・事業家などの常であり、ワシントンの謙遜は尋常でなかった。)B
第三十三条 高位高官の人は何処へ行こうとも優先・優位としたものだが、未だ若い場合は、公職に就いていなくとも生まれや階層が同じ人物には敬意を表するが好い。
(注 ワシントン大統領の後継者で第二代大統領に選ばれたジョン・アダムズの就任式の際、ワシントンはこの条文を実践して見せた。新大統領が就任演説を終わり、演壇を降りた後、ワシントンと新副大統領トマス・ジェファソンが演壇に残り、ジェファソンはワシントンに先に下りて貰おうとしたが、ワシントンはジェファソンの後から下りた。)B
第三十四条 常に自分の事よりもこれから話そうとする相手の事から話をするのが礼儀正しさの極みである。そして、特に相手が上位の人であれば、如何なる風にせよ議論せぬのが好い。
第三十五条 実務の話は手短に、分かり易くする。
第三十六条 職人や身分の低い者は、貴紳に対して儀式張る必要はなく、恭しく敬意を表すれば好い。そして貴紳たちは偉ぶることなく、愛想良く丁寧にその人たちを扱うが好い。
(注 独立戦争後何年か経って、元兵士だった老人が回顧したところにによると、ワシントンが彼の部隊へ馬でやって来て、遠眼鏡で地形を調べた。この若い兵卒が「見え具合はどうか」と訊ねた。すると総司令官は無言で遠眼鏡を兵士に貸してやった。ワシントンは最下層の奴隷たちをどう扱ったのだろうか。或外交官夫人によると、大統領としてのワシントンは公務中私情を押さえ感情のむら無く指示を下したが、私生活では、特に召使いに対しては暴力を振るうことがあった。しかし、マウントバーノンを訪問した或ポーランド人は、ワシントンが普通のバージニア住民よりも遙かに奴隷を人道的に扱っていると思った。ワシントンの生き方はその遺言にも表れ、妻マーサ(一七三二-一八〇二)が亡くなったら奴隷を解放するよう指示しておいた。それで妻は生存中の一八○○年に彼らを自由の身にしてやった。)B
第三十七条 身分の高い人と話すときは、何かに凭れたり、無遠慮に顔を見たり、近付き過ぎたりせず、少なくとも一歩は離れる。
(注 桜の木を切り倒した話に次いで有名だが、真偽の程は怪しい話が有る。憲法制定会議の際、アレキサンダー・ハミルトン(政治家。後に初代財務長官)が、ガバナー・モリス(外交官。独立後通貨制度を確立)と賭をし、もしモリスがワシントンに近寄って肩を叩き、「やあ将軍!とても元気そうで嬉しいよ」といったらディナーを奢る、と約束した。モリスは勝ったということになっているが、その時見せたワシントンの苦虫を噛みつぶしたような表情は、モリスが受けた生涯で最悪の非難だった。当時は、ハミルトンもモリスも民間人だったので、選りに選ってワシントンにそのような悪ふざけをしたとは先ず考えられない、とブルックハイザーは言う。)B
第三十八条 病人を見舞う場合、直ぐに医者の真似をするな。もし医術の心得が無いのなら。
第三十九条 物を書いたり話したりするときは、相手の身分や土地の習慣に従って、然るべき敬称を付ける。
第四十条 目上の人と議論をしても、白黒はつけない。しかしそれ以外の人には節度を保ちながら自分の判断を言う。
第五十一条 汚れたのや、破れているのや、挨っぽい衣服は着ない。少なくとも毎日一回はブラシが当たっているよう気を付ける。そして不潔にならぬよう留意する。
第五十二条 装いに関しては、控え目に、賞賛を得るよりは自然に調和するよう努力し、時と場合に合わせて礼儀正しくきちんとし、同僚たちの流儀から離れないようにする。
第五十三条 通りを歩くときは走らない、ゆっくり過ぎない、口を開けない、腕を振らない、足を踏み鳴らさない、足を引き摺らない、路上で靴下を引き上げない。爪先立ちや踊りながら、スキップしながら、或いは機械仕掛けみたいに歩かない。左右の踵を当てたり、何でもないのに屈み込んだりしない。
(注 口をポカンと開けると間抜けに見える。路上に限ったことではないが、往来ではより多くの人の目に留まる。)
第五十四条 立派に着飾っているか、靴や靴下はきちんと履けているか、服は素敵か、などを確かめるために周りを見渡しながら、孔雀みたいに見栄を張らない。
(注 こうは言ったものの、ワシントンは生涯に亘って衣服に深い関心を持ち、見栄えを気にし、しばしば彼独自の制服をデザインした。上着は深紅色で縁取りし、銀色のリボンやレースで飾りを付けた。それに銀のレース付き深紅のベスト、青のズボン、銀の縁取り付き帽子だった。それが見せびらかしに映るか、流石はと取られるかは、着る人による。)B
第五十五条 路上で物を食べない。屋内といえども時分時を弁える。
第五十六条 もし自分の評判を重んずるなら、杜会的地位の高い人と交わる。悪しき人たちと付き合うくらいなら、一人ぼっちの方がよい。
(注 英語の諺に「交友関係を見ればその人の人柄がわかる」というのが有る。)
第五十七条 屋内を目上の人と二人きりで歩行しているときは、初めはその方(かた)を右側にし、その方が立ち止まるまで自分は停止せず、自分から先に曲がらない。そして自分から曲がるときはその方のほうへ顔を向け、その方が貴紳であれば密接して歩かず、やや後ろから歩くが、その方が話し掛けやすい程度にする。
第五十八条 人と談話をするとき、悪意や妬みのないものにする。でないと相手にとって御し易いと見倣(みな)される。あらゆる感情の中でこれらは相手の支配を許す根拠となる。
第五十九条 穏当を欠く事は決して言わない。目下の者の前で道徳律に反する事はしない。
第六十条 秘密を明かすよう友人に強要する様な不躾な事はしない。
第六十一条 謹厳な学識ある人たちの中で、余り程度の低い瑣末事を口にしない。また、余り難しい間題や信じてもらい難い事柄を無知な人たちに話さない。目上や同輩の中で、言葉を一杯詰め込んだ議論はしない。
(注 トマス・ジェファソンはバージニア植民地議会でワシントンに、大陸会議ではフランクリンに仕えたが、こう回想した。「解決しなければならない重要問題を除き、ご両所共いっときに十分以上話すのを余は聞いたことがなかった。ご両所は共に重責を担ったが、身の程を心得たほうが進んで相手に従った。」)B
第六十二条 歓談の時や食事時に悲しい話はしない。死亡や怪我のような暗い話はしない。もし他の人がそんな話をしたら、出来れば話題を変える。見た夢の話はしない。親友となら別だが。
第六十三条 自分の業績、高い身分、称号の効力、一族のことなどを自慢せぬものだ。しかし自分を卑下することもない。
第六十四条 誰も浮かれ騒いでいないところで冗談を言わない。哄笑しない。そういう場面でないときは尚更のこと。他人の不幸を嘲笑しない。それなりの理由があったにせよ。
第六十五条 冗談にせよ、辛辣な愚弄にせよ、人を傷付ける事は言わない。仮令その人が種を蒔いたにせよ。
第六十六条 出しゃばることなく、愛想良く、丁重であれ。自分から挨拶し、聞き、答え、会話すべきときに黙りこくったりしない。
第六十七条 誹謗するのもいけないが、褒め過ぎるのもいけない。
(注 ワシントンはバージニア議会の議員に就任する甥にこう書き送った。「奥床しき温情をゆめ越えるべからず。且つ己が意見は控え目に言うべし。権柄づくは縦(よ)し説得力が有ろうとも、常に嫌悪感を呼ぶものなり。」)B
第六十八条 自分の不案内の事に足を踏み入れない。歓迎されようとされまいと、頼まれもしないのに助言をしない。頼まれても簡潔に。
第六十九条 もし二者が言い争ったとき、差し障りがなければどちらにも付かない。自分の考えに固執しない。どちらでも好いときは多数派に付く。
第七十条 両親・主人・目上の人などの至らぬ点は咎めない。
第七十一条 人の瘢痕(はんこん)などを凝視しない。また、その由来を訊ねたりしない。自分の事を秘かに言うときも、他人が居ない時にする。
第七十二条 人中では不慣れな言葉は遣わず、遣い慣れた言葉を用いるようにし、しかも上流階級の言葉を遣い、野卑な言葉は遣わない。高尚な事柄は真面目に扱う。
第七十三条 考えてから言う。不完全に話さない。慌てず、順序良く、明瞭に喋る。
第七十四条 人が話すときは耳を傾け、聴き手の邪魔をしない。もし話し手が言い淀んだときも、頼まれない限り手助けしない。話が終わるまで遮ったり、答えたりしない。
(注 若きワシントンがバージニア植民地議会議員になったとき、既に戦争の英雄として有名だったが不慣れでぎこちないのを見た議長が言った。「お掛けなさい、ワシントン殿。貴下の謙譲は貴下の豪勇と比肩し、私の持てる言語能力を凌駕します。」)B
第七十五条 議論の最中に、今何を話し合っているかなどと訊ねたりしない。しかし自分が遅れて行ったため、そこで話が止まったら、どうぞ続けて下さいという。もし自分が話しているときに上流階級の人が入ってきたなら、それまでの経過を話して上げるのは好いことである。
第七十六条 物を言いながら相手を指差したり、面と向かって近付き過ぎたりしない。
第七十七条 仕事の話は時を選んでする。人が何人も居る時はひそひそ言ったりしない。
第七十八条 比較はしない。もし仲間の誰かが勇敢なる善行で褒められるとき、同じ事で別の人を褒めたりしない。
第七十九条 真偽不明の噂は軽々に話さない。伝聞を話すときは、伝えてくれた人の名は伏せ、常に秘密は明かさない。
第八十条 演説や朗読は単調にならぬよう。それが受けている場合は別だが。
第八十一条 余所事を知りたがらない。秘かに喋り合っている人たちに近付かない。
第八十二条 やり通せないことには手を付けない。しかし一旦約束したことは守るようにする。
(注 ワシントンが独立戦争の際果たした幾つかの勝利の一つについて感想を求められた生母メアリはこう言った。「ジョージは一旦始めたことは何でも最後までやり通すのです。」)B
第八十三条 或事柄を申し伝えるときは感情を挟まず、分別を以て行う。相手が如何に卑しい身分の者であっても。
第八十四条 目上の人が誰かに話すとき、聞き耳を立てず、口を挟まず、笑わない。
第八十五条 自分より身分の高い人たちの中にあっては、下問を受けるまで物を言わず、それから起立・脱帽して言葉少なに答える。
(注 独立戦争に勝利を収めたワシントンはフローンシス亭で士官達に離任の挨拶をした後、総司令官職を返上するため、当時アナポリスで開かれていた植民地会議に出席した。彼は直立していたが、議員達は着席したままだった。彼は書類を書記官長にではなく、その補佐に渡した。それから彼は短い声明を読み上げた。これらは、今や人気絶頂の総司令官よりも議会の優越性を示すため、議会が念入りに演出したセレモニーだった。彼はこの式次第と声明文に全面的に同意した。彼は心から議会の優位性を信じていたからだった。彼のこの控えめの態度は弥(いや)が上にも彼の人気を高めた。フローンシス亭はニューヨーク市マンハツタン島のイーストリバー近くに今も在り、当時サミエル・フローンシスがそこを買い取って料亭にした。独立戦争が終わってワシントンが植民地軍将校達に別れを告げた場所として有名な歴史的建造物である。後に亭主はワシントン付きの料理長となった。)B
第八十六条 論争の際、相手を論破しようと焦らず、各自にそれぞれの意見を述べる自由を与え、大多数の意見に従う。彼らが審判者である場合は尚更のこと。
(注 戦時の総司令官として、大統領として今でいう閣議における決定を下さなければならない場合でも、幕僚・閣僚たちに意見を述べさせた。「彼の性格の最も顕著な特徴は慎重であり、あらゆる状況、あらゆる考慮が熟さない限り、決して行動に移らなかった」とジェファソンは書き残している。)B
第八十七条 重々しく、落ち着いた人のように振る舞う。そして言われたことに対して、過度に畏(かしこ)まることなく耳を傾ける。人が言ったことに一々反駁しない。
第八十八条 冗長な話はしない。脇道に逸(そ)れない。同じ話し振りを頻繁に繰り返さない。
第八十九条 その場に居ない人の悪口を言わない。それは正しくない。
第九十条 止むを得ない場合を除き、食卓に着いているときは、唾を吐いたり、掻いたり、咳をしたり、鼻をかんだりしない。
第九十一条 出された料理に殊更大喜びしたり、がつがつ食べたりしない。パンはナイフで切り、食卓に凭れず、食べている物に文句を言わない。
第九十二条 塩を使用したり、脂の付いたナイフでパンを切らない。
第九十三条 料理の皿を取り回したりして食事の時皆を喜ばせるのは好いことだが、主(あるじ)が喜ばない人を手助けしたりしない。
第九十四条 食事中パンをソースに浸すとき、パンの大きさは口に入る程度にしておき、肉汁を吹いて冷ましたりせず、自然に冷めるのを待つ。
(注 日本人に比べて自分たちは「猫舌」、と筆者に言ったアメリカ人がいる。)
第九十五条 ナイフで食べ物を口に入れない。フルーツパイの核などを皿の上に吐き出したり、食卓の下に捨てたりしない。
第九十六条 他人の食べている物を覗き込むのは不作法であり、指を清潔にし、汚れているときはテーブルナプキンの隅で拭う。
第九十七条 口の中に食べ物が残っているのに次の食べ物を入れないようにし、一口分は口腔の大きさに合わせる。
第九十八条 口の中が一杯なのに、飲んだり喋ったりせず、飲みながら辺りを見回さない。
第九十九条 飲むのはゆっくり過ぎても、急ぎ過ぎてもいけない。飲む後先に唇を拭い、その時その後も大きな音を立てて息をしない。
第百条 テーブルクロス、ナプキン、ナイフ・フオークで歯を綺麗にしたりしない。他の人がそうしても自分は楊枝を遣う。
第百一条 人前で口を濯がない。
第百二条 食事をするために頻繁に仲間を訪れるのは時代遅れであり、飲む度毎に人のことを祝ったり祈念して飲む必要はない。
第百三条 目上の人と同席するときは、その人たちよりも時間を掛けて食べたりせず、腕は食卓の上に置かず、手を端の方に一寸置く。
第百四条 ナプキンを広げて最初に食べ始めるのは一座の主賓や亭主である。しかしその人は時間通りに始め、手際よくさっさと済ますものだが、一番遅い者が食べ終わる時間を見計らう。
第百五条 何事が起ころうと、食事中に立腹しない。縦(よし)んばその理由が有ろうとも、面(おもて)に出さず、快活を装う。とりわけ見知らぬ人が居るときは。好い雰囲気は一皿の料理でもご馳走にしてくれる。
第百六条 食卓の上席には座らないものだが、その席が自分に相応しい場合であったり、当日の亭主のご意向であるなら、他の人を困らせるほど固辞はしない。
第百七条 他の人たちが話をしているのに耳を傾けるのは好いが、自分は口の中に食べ物を入れて物を言ったりしない。
第百八条 神や神に関する事を話すときは、真剣に敬神の念を以て行い、如何に取るに足りなくても実父母に従う。
第百九条 浩然の気を養うのも男らしくし、罪深いものであってはいけない。
第百十条 良心と呼ばれる天国の小さな火花を胸中に生かし続けるよう努める。
ー完ー
ご挨拶
前回を以て、ワシントンの『紳士の作法』は完結致しました。従って予告しておりました「小説」に戻っても良いのですが、前回までの欧米の古作法を読んで下さった方へのお礼の証に、京の作法のほんの触りを書いてみようかという気になりました。ご参考になることが一つでも二つでも有れば、幸甚です。
「京の作法」抄
まえがき
「京の作法」に入るまでに、まず、京都について少し予備知識を持っておいた方が好いだろう。しかし千二百年の歴史を持つ京都を包括的に捉えることは難しく、各人各様の京都観になってしまう。それで以下に述べる筆者の知識もその一つに過ぎず、深くはないが余り異論のない範囲内に止めておく。
明治になったとき、京都(京洛)は史家の言葉で言えば洛中洛外から成り立っていた。それを地元の人間である筆者は町中(まちなか)と在所(ざいしょ)と言っている。洛中・洛外の線引きも平安時代から幕末までの千年余りの間に固定していたわけではないが、鴨川以東、朱雀(すざく)大路(現千本通り)以西が在所であることははっきりしていた。以後の行政の移り変わりを見ると、
一八六八(慶応四)年、京都府が出来た。
一八七五(明治十一)年、洛中は上京と下京の二区に成り、鴨川以東の在所は上京区に編入された。
一八九八(明治三十一)年、京都市が誕生した。
一九二九(昭和四)年、上京区の鴨川以東が左京区と成った。
この洛中を次の五つの在所が取り囲んでいた。北は上賀茂・松ヶ崎・修学院(しゅがくいん)・一乗寺・岩倉他の各村から成る愛宕(おたぎ)郡、東南は山科・醍醐などの村から成る宇治郡、南は吉祥院・上鳥羽・竹田・深草などの村から成る紀伊郡、南西は久世・川岡・大原野などの村から成る乙訓(おとくに)郡、西は花園・西院(「さい」、「さいん」とも)・太秦(うずまさ)・松尾・梅津・京極・桂などの各村から成る葛野(かどの)郡が在った。
これら各在所の生業は基本的に農業であり、町中の食料供給源だったのは言うまでもないが、町中の後方基地としての役割も有り、京都は昔から何度も戦火・大火に見舞われた割には文化財が残っているのは、その度毎に在所へ避難・疎開させたからだ。そのようなことが可能だったのは、在所と町中は婚姻関係を結ぶことが行われ、また在所から町中へ働きに来ている人も多く、持ちつ持たれつの連合体を形成していた。しかし一枚岩だった訳でもなく、山科や伏見の住民は、昭和になっても町中を「京」または「京都」と言っていた。
これらの各在所にはそれぞれの里言葉が有り、町中にしても西陣には職人衆の、室町には呉服関係の商人の、それに花街、大寺院及びその門前、御所及びその周辺の「方言」が有ったが、これらの方言にそう大きな違いは無く、自分たちは遣わなくても何とか理解できる程度の違いだった。
言葉が違えば習慣も作法も異なる。だから理解はし合えるが、これが「京の作法」、と言える一つに纏まった定番の書かれたものが有る訳ではない。その理由は幾つか考えられ、思いつくままに記すと、次のようになるだろうか。
一、京都人は一般に控え目で、晴れがましいことを好まず、作法の事など言ったり書いたりするのは気恥ずかしい。
二、自分よりももっと詳しい人が居ると思っている。
三、自分たちが不文律にしていることを公開するのは憚られる。
ここから漸く作法の話に入るが、京都では俗に、「三代住んで市民権」という「通念」が有り、四代目の筆者は辛うじてその資格が有るのかも知れないが、奥床しさや嗜(たしな)み意識が希薄な性も有って、定番は無いにせよ、これらは理解し合えるものだ、と考えて纏めたのが以下の「京の作法」抄である。本当はもっと広く深くに及ぶだろうが、本書は「京の作法」を専らに扱ったのではないのと、「言わぬが花」の事も多いので、ほんの抄録に止めておく。そのため筆者が不案内の古い高尚な礼法には触れず、二十一世紀に通用し役立つ事柄に限ったが、そのため次元の低い(?)卑近な事にも触れた。それらは学生達に行ったアンケート調査の結果を参考にした。
以前、作法はどのようにして身に付けたかというと、上流階級ではしっかり家庭教育が為されているが農・工・商は粗野だった、と考えるのは正しくない。農家の長男は農業を継ぐにしても、二男・三男などは奉公に出た。すると、しつかりした奉公先では先輩たちを見習い、或いは彼らが教えてくれた。拳固付きで。奉公先によっては将来の年季明け・暖簾分けに備えて、茶の湯・謡曲などを習わせてくれる処もあった。
職人・商人・芸人などの子は、親の後を継がせるにしても、必ずといって好いほど、同業者の処へ修行に出して、「他所の飯」を食わせた。この「他所の飯を食わせる」は男子だけでなく、年頃の娘も、甘やかして我が侭になっているといけないということで、他家へ行儀見習いや花嫁修業に出すことがあった。これには給金が出る場合も、出ない場合も、中には食い扶持持参も有った。
(1)
ご挨拶
前回を以て、ワシントンの『紳士の作法』は完結致しました。従って予告しておりました「小説」に戻っても良いのですが、前回までの欧米の古作法を読んで下さった方へのお礼の証に、京の作法のほんの触りを書いてみようかという気になりました。ご参考になることが一つでも二つでも有れば、幸甚です。
「京の作法」抄
まえがき
「京の作法」に入るまでに、まず、京都について少し予備知識を持っておいた方が好いだろう。しかし千二百年の歴史を持つ京都を包括的に捉えることは難しく、各人各様の京都観になってしまう。それで以下に述べる筆者の知識もその一つに過ぎず、深くはないが余り異論のない範囲内に止めておく。
明治になったとき、京都(京洛)は史家の言葉で言えば洛中洛外から成り立っていた。それを地元の人間である筆者は町中(まちなか)と在所(ざいしょ)と言っている。洛中・洛外の線引きも平安時代から幕末までの千年余りの間に固定していたわけではないが、鴨川以東、朱雀(すざく)大路(現千本通り)以西が在所であることははっきりしていた。以後の行政の移り変わりを見ると、
一八六八(慶応四)年、京都府が出来た。
一八七五(明治十一)年、洛中は上京と下京の二区に成り、鴨川以東の在所は上京区に編入された。
一八九八(明治三十一)年、京都市が誕生した。
一九二九(昭和四)年、上京区の鴨川以東が左京区と成った。
この洛中を次の五つの在所が取り囲んでいた。北は上賀茂・松ヶ崎・修学院(しゅがくいん)・一乗寺・岩倉他の各村から成る愛宕(おたぎ)郡、東南は山科・醍醐などの村から成る宇治郡、南は吉祥院・上鳥羽・竹田・深草などの村から成る紀伊郡、南西は久世・川岡・大原野などの村から成る乙訓(おとくに)郡、西は花園・西院(「さい」、「さいん」とも)・太秦(うずまさ)・松尾・梅津・京極・桂などの各村から成る葛野(かどの)郡が在った。
これら各在所の生業は基本的に農業であり、町中の食料供給源だったのは言うまでもないが、町中の後方基地としての役割も有り、京都は昔から何度も戦火・大火に見舞われた割には文化財が残っているのは、その度毎に在所へ避難・疎開させたからだ。そのようなことが可能だったのは、在所と町中は婚姻関係を結ぶことが行われ、また在所から町中へ働きに来ている人も多く、持ちつ持たれつの連合体を形成していた。しかし一枚岩だった訳でもなく、山科や伏見の住民は、昭和になっても町中を「京」または「京都」と言っていた。
これらの各在所にはそれぞれの里言葉が有り、町中にしても西陣には職人衆の、室町には呉服関係の商人の、それに花街、大寺院及びその門前、御所及びその周辺の「方言」が有ったが、これらの方言にそう大きな違いは無く、自分たちは遣わなくても何とか理解できる程度の違いだった。
言葉が違えば習慣も作法も異なる。だから理解はし合えるが、これが「京の作法」、と言える一つに纏まった定番の書かれたものが有る訳ではない。その理由は幾つか考えられ、思いつくままに記すと、次のようになるだろうか。
一、京都人は一般に控え目で、晴れがましいことを好まず、作法の事など言ったり書いたりするのは気恥ずかしい。
二、自分よりももっと詳しい人が居ると思っている。
三、自分たちが不文律にしていることを公開するのは憚られる。
ここから漸く作法の話に入るが、京都では俗に、「三代住んで市民権」という「通念」が有り、四代目の筆者は辛うじてその資格が有るのかも知れないが、奥床しさや嗜(たしな)み意識が希薄な性も有って、定番は無いにせよ、これらは理解し合えるものだ、と考えて纏めたのが以下の「京の作法」抄である。本当はもっと広く深くに及ぶだろうが、本書は「京の作法」を専らに扱ったのではないのと、「言わぬが花」の事も多いので、ほんの抄録に止めておく。そのため筆者が不案内の古い高尚な礼法には触れず、二十一世紀に通用し役立つ事柄に限ったが、そのため次元の低い(?)卑近な事にも触れた。それらは学生達に行ったアンケート調査の結果を参考にした。
以前、作法はどのようにして身に付けたかというと、上流階級ではしっかり家庭教育が為されているが農・工・商は粗野だった、と考えるのは正しくない。農家の長男は農業を継ぐにしても、二男・三男などは奉公に出た。すると、しつかりした奉公先では先輩たちを見習い、或いは彼らが教えてくれた。拳固付きで。奉公先によっては将来の年季明け・暖簾分けに備えて、茶の湯・謡曲などを習わせてくれる処もあった。
職人・商人・芸人などの子は、親の後を継がせるにしても、必ずといって好いほど、同業者の処へ修行に出して、「他所の飯」を食わせた。この「他所の飯を食わせる」は男子だけでなく、年頃の娘も、甘やかして我が侭になっているといけないということで、他家へ行儀見習いや花嫁修業に出すことがあった。これには給金が出る場合も、出ない場合も、中には食い扶持持参も有った。
(2)
訪問・来客
椅子やベッドを使い、洋服を着るなど、これだけ生活様式が洋風になっても、家の中も靴を履いたまま、という家庭はまず無いし、これからも増えそうにない。我々はほぼ無意識に和洋折衷の生活をしている。それで他家を訪問した際、履物を脱いでから客間に通されるが、訪問者は履物を式台の前の沓脱ぎの中央を避けて端の方に、先を外に向けて脱ぐ。そして女性なら式台にしゃがみ込んで手できちんと揃える。男性ならそこまですることはない。脱ぎ様が多少不細工でも許される。すると家人は客人が帰るまでにその履物を沓脱ぎの中央に揃え直して置く。
客間に案内されたなら、取り敢ず上(かみ)座(和室なら床の間の前)を避けて座るが、亭主が上座を勧めたら、一度遠慮するのは好いが、重ねて勧められたら上座に移る。(注 本編第三十二条参照。)
客人と亭主が着座すると、亭主は客人が男性で洋服の場合は「膝をお楽に」と言う。それから客人は膝を崩すが好い。和服の場合は主客・男女共正座を崩さない。客間が洋室の場合、椅子やソファーに腰掛けるが、余程昵懇(じっこん)の場合を除き、主客・男女共足を組むことなく両膝を揃える。(注 本編第十条参照。)
客と応接中、主人は頻りに時計を眺めて時間の経過を気にする様子をしてはいけない。早く帰ってほしいという意思表示になる。
談話中、妄(みだ)りに第三者の名前を出さない。
客人が辞去するとき、主人は必ず玄関まで送りに出る。客人が家を出て直ぐに家人が門やドアを音立てて閉めたり施錠するのは失礼であり、客が遠ざかるまで待つ。また、客が帰った後直ぐに客間や座敷を片付けるのも慎む。
外出
エスカレーター エスカレーターは大体関東では左寄り、関西では右寄りに乗るというが、京都は比較的融通性が有り、前の人に倣(なら)うことが多い。従って、急ぐ人は、左寄り右寄りの人の間を蛇行しながら追い越して行くが、前に二人並んで立たれる(女性たちに多い)とそれが出来なくなる。でも「一寸(ちょっと)退(の)いとくりゃす」という人は少ない。
二人連れ 京都は戦災に遭ってないため、四条通、河原町通の様な目抜きの繁華街でも歩道が狭く、欧米の半分以下の処も珍しくない。そこへ自転車が駐輪しているので、人出の多い週末など二人並んでゆったりと歩道の真ん中を歩くと他の人が通り難くなる。だから二人連れで歩く場合は端へ寄るなどの気配りが必要になる。
バス停 京都ではバス停で順序よく並ばないことが多い。折角並んでいても違う行き先のバスも来ることがあるからだ。だから何となく不揃いに屯していて、お目当てのバスが来たら、乗らない人を掻き分けて乗り込む。一見無作為の順序に見えるが、自分より先にバス停に来た人か、後から来た人かは、それとなく見ている。一路線のバス停の場合は自ずと列が出来るが、いざ乗り込む段になると、さっと横から割り込むのは決まって熟女・老女だ。