梅隆の米国見聞録(既載分)

美京 華盛頓(2001.10)
 急いで書いたので拙い地図ですが、観光に関する限り、ワシントンは分かり易いところす。ポトマック川からキャピトル(国会議事堂)までの数キロは、ナショナルモールといって、幅約800メートルの、真ん中が芝生、両側が樹木の広大な緑地で、その両端にリンカン記念堂とキャピトルが向き合っています。どちらも片方から見ると遙か彼方にかすんで見えます。ヴェルサイユ宮殿の庭園緑地を真似たといって差し支えないでしょう。観光名所はこのモール及びその周辺に集中していると言えます。中程にワシントン記念碑があり、パリのコンコルド広場のオベリスクより遙かに大きいです。記念碑の中には上へ上がるエレベータが有るのですが、同時多発テロの直前は故障してました。
 この記念塔の北向かいがホワイトハウスで、並んではいませんがその近くにFBIの本部があります。北東部にユニオン駅があり、今もニューヨーク行きなどを含む多くの列車が発着しています。その直ぐ斜め向かいにこの夏出来たばかりの日系人記念碑があります。
 ナショナルモールの最大の見物(みもの)はスミソニアン博物館で、幾つもの建物から成っています。
 川を渡るとバージニア州で、広大なアーリントン国立墓地があります。地図には載りませんが、この南に今回攻撃を受けたペンタゴン(国防省)が在ります。
 今回は名所の所在地の紹介だけにしておきます。次回から個々を少し詳しく解説します。

美京 華盛頓(2001.10)
 D.C.市内観光は観光スポットばかりを回る乗り放題のバスがあるのでこれを使います。ガイドさんも乗ってますが大抵おじさんで勿論英語です。
 まずリンカン記念堂から始めます。歴代大統領の中で一番尊敬されているのは建国の父第一代のジョージ・ワシントンです。宗主国英国と戦って勝利し、独立を勝ち取った英雄です。だからこそ首都に彼の名前を付けているのです。では一番人気のある大統領はとなると、この第16代エイブラハム・リンカンと言って異論は無い筈です。米国のサクセス・ストーリーを表すキャッチフレーズに「丸太小屋からホワイトハウスへ」というのが有りますが、彼はこれを地で行った人です。ケンタッキー州の貧農に生まれ、子供の頃先住民(インディアンとは言わなくなってきている。本来「インド人」と言う意味だから)に襲われて父を亡くし、早くから母を助けて農業をし、日数で数えるほどしか学校へ行ってません。だのに多くの仕事を経験した後イリノイ州議会議員となり、その間に自学自習して弁護士となり、連邦議会下院議員、上院議員となり、遂に大統領となってホワイトハウスに入りました。米国では親の七光りの名門の御曹司よりも、自分の力でのし上がる人を尊ぶ気風があり、これが彼の人気の大きな一因です。
 人気のもう一つの理由は、言うまでもなく南北戦争で北部を勝利に導き、奴隷解放を行ったことです。アフリカ系(黒人とは言わなくなってきている)は勿論のこと他の少数民族や白人にも人気があります。しかし、恨みに思う南部の俳優に劇場で暗殺されました。この悲劇的最期も彼の人気の大きな原因です。
 彼の偉大な業績を讃え、悲劇的最期を悼み、合衆国は彼の殿堂を建立して祀っています。この殿堂は吹き曝しで、イスに腰掛けたリンカンの巨大な像があり、映画などにもよく出てきます

梅隆の米国見聞録(2002.3)
華盛頓 編

スミソニアン博物館 その1
 スミソニアン博物館は「スミソニアン」か「スミス」という米人がその基を築いたと思われるかも知れないが、実はジェームズ・スミスソンという英人科学者の財で1846年に創立された、ワシントンの誇る、いや米国の誇る世界的博物館だ。ワシントンへ行った人は必ずと言っていいほど訪れるし、そうでなきゃワシントンへ行った甲斐がない。岩倉具視らが1871-72年に行った欧米旅行を記した久米邦武編の『欧米回覧実記』(岩波文庫)にもその記述がある。久米はスミソニアン協会(Smithsonian Institute)を「士覓(スミソニアン)学校」と訳し、次のように報告している。
 (1872年3月)10日 晴風烈シ
 (華盛頓)府ノ「スミソニヤン」学校ヨリ招状来ル、山口副使(外務少輔)之ニ赴ク、此校ハ英人「スミツス」氏ナルモノ、家富ミ、財ヲ譲ル子ナキヲ以テ、世ノ子弟ヲ教導セント志シ、諸国ニ建タル学校ノ一ナリ。府中の一大域ヲ占メ、庭園トナシ百卉ヲウヘ、艸ヲ蒔キ道ヲ払ヒ、其幽静ナルコト公園ニ譲ラス、中央ニ学校アリ、建築奇巧、中ニ玻り(ガラスのこと。原典では「り」は「王」扁に旁が「黎」)室アリ、草木ヲ蓄ヘ、且器械諸件モ備足シ、府中屈指ノ大校ナリ、

 博物館はいくつかの建物から成り、スミソニアン協会が統合している。その主のものは次の通りで、
1.アフリカ系アメリカ人(古い言い方では「黒人」)の歴史と文化
2.古代から現代までのアジア芸術
3.現代絵画と彫刻
4.航空・宇宙科学と技術の歴史
5.アフリカ芸術の収集・研究・展示
6.絵画、彫刻、グラフィックアート、工芸品、及び写真
7.科学と技術の歴史及びアメリカのポップカルチャー
8.自然界と人類文化の歴史
9.アメリカ著名人の肖像画
10.郵便の歴史と切手収集
11.数千の動物と美しく広大な公園
12.アメリカの工芸品
13.インターナショナル・ギャラリー

と、到底一日では見きれないし、果たして隈無く見た人があるのかと思えるほどの質と量だ。そして声を大にして言いたいのは全て入場料は「無料」ということだ! ! 日本ならまず1000円取られても仕方がないところだ。
 アメリカ人の喜ぶのは上記のうち(7)で、エジソンの諸発明のように歴史的、誰でも知っている、一時代を築いた、優れている、というような物品が展示され、此処に収蔵・展示されることは非常に名誉なことだ。
 珍しい例をお目に掛けよう。それはプロクター&ギャンブル社の石鹸「アイボリー・ソープ」だ。いみじくもP&G社が広告を打ち出して120周年記念に当たり、2001年10月31日に4000枚の広告と1000冊のパンフそれにテレビのCMなどを寄贈した。つまりP&G社の広告の歴史はアメリカの広告の歴史でもあり、そして広告が如何に大きな力を持っているかを実証したことになる。
 アイボリー・ソープは1878年ジェームズ・ギャンブルらによって製造された。共同経営者のハーレイ・プロクターはこの石鹸に覚えやすい名前を付けようと旧約聖書「詩編」45:8の「なんじの衣はみな汳薬、蘆薈、肉桂のかをりあり琴瑟の音ざうげの諸殿よりいでて汝をよろこばしめたり」から取った。キャッチフレーズにも腐心し、「純度99%」、「浮きます」は遍く知られた。商品第一号は1879年10月に一個10オンス(280グラム)が5セントで発売され、今までに4千億個売られたという。

 スミソニアンの16の博物館群の中で、もう一つ是非観て欲しいのは「航空・宇宙博物館」だ。この建物が如何に巨大であるかは、数十機の航空機や宇宙ロケットがミニチュアでなく、実物が展示してあることから納得できるだろう。何遍も言うが、ここも無料なのだ。そしてカフェテリアもセルフサービスで安く、食べるところも広いので、ここでランチや休憩をとるように時間配分すると良い。
 さて、その飛行機だが、一番古いのは当然ながらライト兄弟のもので、かなり大きい二葉機だ。単座か複座なのだろうが、浮力を付ける為に翼を大きくする必要があったのだろう。ライト氏(兄か弟か確かめなかった)の蝋人形が操縦席から身を乗り出しているのがご愛敬だ。
 リンドバーグが1927年に世界最初のニューヨーク・パリ間無着陸飛行をした「セントルイス魂」号も有る。
 第二次大戦中の各国軍用機搭乗員の飛行服を着た人形が並んでいたが、「雲突くような . . .」のは居らず、意外に小柄だった。ただし、現在の民間ジャンボジェット機の機長は大抵骨太のがっしりした巨漢が多い。
 ドイツ空軍の名機メッサーシュミットも有った。其の機は北アフリカ配属だったかどうか分からないが、黄土色に塗られていた。
 勿論零戦も有った。メッサーシュミットよりも小さくて軽いかな(スペックのデータを見ないと分からないが)という感じで、山間・平野・海上の飛行を考えてか、緑色に彩られていた。この零戦は海軍が三菱重工に発注し、堀越二郎技師が設計した単座戦闘機で、軽量・上昇力・旋回性・航続力などで第二次世界大戦初期の世界で最高性能を誇っていたというが、傍に陳列してあるメッサーシュミット共々当時の航空工学の最高水準であっても、勇壮という気はせず、多くの日独の何万という有為な若者が機体と運命を倶にしたかと思うと、もの悲しさ・悲愴の感を禁じ得なかった。
 当日見学に訪れていた多くの子供たちにとっては宇宙船の方が遙かに興味が有るらしく、又、軍用ではないので人気が高かった。将来の宇宙飛行士を夢見ているのだろうか。日本の子供たちにも見せてやって、スケールの大きな人間になって欲しいと思った。

日系人の苦難と米国の償い

 明治新政府が鎖国を解いてから米国移民は始まった。移民の多くは第一次産業に従事し、最初は雇われの身分から出発し、「勤勉」、「身を粉にして働く」、「子供には教育」をモットーに、やがて独立自営するのが夢だった。そして地理的には日本から一番近いカリフォルニアなどの西海岸に住んだ。
 米国は今も昔も現地出生主義を取っているので、米国で生まれた二世は自動的に米国籍を得た。他の国からの移民は母国に見切りをつけて新天地に来た人が多かったのに対して、日系一世は「故郷に錦を飾る」意識が強かった。だからところによって二世たちは地元の学校の放課後、日本語学校へ通う子供が多かった。
 一世の中で成功した者たちがやっと自分の農園を持ったり商店主になった頃の1941年に太平洋戦争が始まった。それも大国日本の宣戦布告無しの真珠湾奇襲が発端だった。この太平洋戦争には始めにも終わりにも判らない事が一杯有る。国交断絶の最後通牒を事前に出さなかったという外交上の大失態は意図的なものでなく、偶発的な原因によるということになっている。一方米国にしても日本の外交・軍事暗号を大方解読していたので事前に察知していたという説もあるが、抜き打ち攻撃に変わりはない。
 真珠湾の大被害に怖れ戦いた米本土の軍・政府は日系人狩りを決めたが、同じ交戦国のドイツ・イタリア系米国人はお咎め無しだった。どうして日系人だけ差別されたかを考えると、

1. 独・伊系は人数が多く、白人なので見分けが付きにくい。
2. 独・伊系は各分野で有名人・有力者が多い。
3. ハワイ奇襲が成功したのはハワイの日系人がスパイ活動をしていたのではないかと考えた。
4. ハワイについで日本軍による西海岸上陸作戦が行われるのを怖れた。日系漁夫が翌日の天候を予測するため、あるいは漁具・船の点検に海岸へ行っても、沖に信号を送っているのではないかと疑われた。事実、日本海軍の潜水艦が西海岸へ偵察に来ていた。

 ともかく11万5000人の日系人が手荷物だけ持って西部の荒野の収容所に連れてゆかれた。収容所の中で悶々の思いだった二世男子は、自分は米国人なのだからと、欧州戦線へ出征して行った者と、日本人である親たちに気を遣って収容所に留まった者とに分かれた。
 戦争が終わっても日系人の苦難の道は続いた。カリフォルニアなど西海岸の元居た処に帰ってみたら、自分の家が不法占拠されていて、裁判をして追い出すにしても時間と金が掛かるため、収容所の近くに戻ってきた人たちもいた。
 それから50年近く経ち、日系の有力議員や知識人なども増え、マイク・正岡を代表とするねばり強い対政府交渉が功を奏し、1988年強制収容に対する米国議会の謝罪と生存者約6万人に一人当たり2万ドルの賠償金支払いを勝ち得た。
 これで日系移民の被った物心にわたる損害も償われたかと思ったが、2001.7月、ワシントンのユニオン駅の通りを隔てた斜め向かいに日系人の苦難を偲ぶ記念碑が建立された。有刺鉄線で縛られた番(つがい)の鶴の像が全てを物語っている。 普通のアメリカ人にとって愉快でないであろう記念碑を、首都の目抜きの場所に設置することを許した米政府・国民と我々は末永く友好を保って行きたい。

紐育の大晦日(2001.12)
 マンハッタン島のタイムズスクエアは、1904年にニューヨークタイムズ紙がブロードウェイと7番街が交差する地点に本社を置いたことから地名となりました(但し今其処に社屋は在りません)。そしてその年からタイムズ紙は大晦日の行事を始めました。だから97年の歴史があります。
 さて今年はあんな大事件が起こったのだから、果たして例年通り盛大に行うのかどうか気になるところですが、ニューヨーク市も一枚かんでいるNew Year's Eveの「実行委員会」のホームページを覗いてみたら、「今年もやります」と意気軒昂です。そしてスポンサーとしてパナソニックさんも賛助しています。
 タイムズスクエアのカウントダウンが若者や庶民の行事(気温は日中でも零下になります)だとすると、大人の、上流階級の「行く年来る年」はウォルドルフ・アストリア・ホテルの舞踏会でした。
 このホテルについては又述べる機会を持つつもりですが、ニューヨーク随一の格式を誇るホテルで、此処のボールルームで大晦日に踊れる身分に成るのがアメリカ人のサクセスストーリーでもありました。その時の楽団は1916年結成のガイ・ロンバード指揮ロイヤル・カナディアンズ楽団で、全米最高のダンスバンドと言われました。この模様は全米にラジオ・テレビで中継され、「蛍の光」(Auld Lang Syne)が終わって午後11時59分からガイ・ロンバード自身が「60, 59, 58. . . 」とカウントダウンしました。
 テレビ中継は1954年からで、毎回150万人以上の視聴者が有ったといいます。今も同ホテルの大晦日舞踏会は全米ベストテンに入っており、昨年はマイク・ハーマン楽団他でした。尚、ガイ・ロンバードは1977年に亡くなり、アル・ピァーソンが後を継いでいます。

Vol. 2, No. 9(total)


紐 育(その2)

老舗料理店「デルモニコ」
 
ニューヨークは米国の象徴であり、ニューヨークを知らずして米国を知ったこことにはならない。それでこれからワシントンに続いて暫くニューヨークを探訪して行こう。
 ニューヨークは危険な都会だと謂われ続けてきた。日本で殺人事件が起これば全国ニュースになる。ところがニューヨークでは今も毎日殺人事件が起こっていてもニュースにならない。数字から見ると驚くべきことだが、麻薬がらみ、犯罪者間の抗争などが多く、一般市民が全て巻き込まれているわけではない。それと米国はどちらかというと今景気が良く、特にニューヨークは建築工事などで賑わい、失業者、浮浪者も仕事にあり就けるようになり、ホームレスが安アパートに住めるようになると、犯罪は如実に減ってきている。だから我々旅行者は場所と時間に気を付けさえすれば安心して観光とショッピングを愉しむことが出来る。

 しょっちゅうとはいかないまでも、ちょっとめかし込んで、美味しい料理を食べに行く上品な料理屋をたとえば私の住む京都で一軒挙げるとなると、かなり勇気が要る。それが百年前のことなら気軽に言えそうだが、さてとなると当時のそんな資料に行き当たれないでいる。建国以来高々二百数十年の米国なんかほんの新興国かも知れないが、歴史が新しいだけに米国は歴史を大切にし、大抵の、或いは意外な記録が残っている。
 料理屋の話に戻ると、百年前のニューヨークには、これ一つ、というレストランが有った。スイス生まれのデルモニコ一族が開いたレストランで、あの金融界の中心地ウォールストリート近くに在り、ニューヨーク随一、の折り紙が付いていた。当然映画や小説にも登場し、ボクシング映画では移民の息子であるボクサーが、大きな試合で相手をノックアウトしたら一家でデルモニコへ繰り込もう、と言うシーンがある。
 小説ではクラレンス・デイの『父の思い出』が有名で、少年である著者がウォールストリートに大きな会計事務所を持つ父親に連れられてビーバーストリートの角に在るデルモニコに行く。十九世紀末のオーナーはロレンツォ・デルモニコで、父親に恭しく表敬し、二人はフランス語で言葉を交わす。父には年配の給仕フランソワが付き、味が良いと父が、
「パルフェトモン!」(言うこと無し)
と言うのだけがクラレンス少年に理解できた。

 迂生はかねてから是非このデルモニコに行ってみたいと思っていた。ところが日本のニューヨーク案内書にこの店は出てこない。では今も存続しているかどうか、から調べなければならなかったが、そこはインターネットのお陰で難なく、今も営業していることを知った。それで、折角行くからには少しばかりデルモニコ通になっておくことにした。
 そもそもデルモニコは1827年に、スイス系移民であるデルモニコ一族のジョバンニとピエトロの兄弟がウィリアムストリートで創業した。1831年に甥のロレンツォが店を継いでビーバーストリートに移ってから店は繁盛し、ニューヨークはおろか合衆国で最も有名なレストランとなった。それから何度も火事に遭ったりして転々と場所を変わりながらも、当時田舎だったブルックリンに直営農場を持って新鮮で上質な素材を用い、料理に斬新な工夫を凝らすなどして市中のエリート達の行きつけの店となっていった。そして上流階級の饗宴や子女の社交界へのデヴューとなる舞踏会なども催された。その代わり、地区の警察にも渡りを付け、入り口に警官を一人張り付けさせて、一晩5ドル払うなど、当時のニューヨークらしい気配りもした。
 デルモニコを愛した有名人の中には、数代の大統領、ディケンズやマーク・トゥエインといった英米の文豪などがいる。膨大な宝石コレクションの故に「ダイヤモンド・ジム」の異名をとった富豪で美食家のジェームズ・ブキャナン・ブレイディは、食卓から13センチ離れて座り、腹が膨れてテーブルに触ったら食べるのを止める、という程の惚れ込みようだった。
 しかし他のレストランの台頭や1920年に施行された禁酒法のために1923年にデルモニコは閉店を余儀なくされた。1920年代の終わり頃に店は新しいオーナーのオスカー・タッチによって再開され、1977年まで彼が経営した。次のオーナーとなったヒューバー一族が1982年に店舗を元のビーバーストリートに移して現在に至っている・・・

 日本でも昔はそうだったと思うが、欧米の由緒有るレストランではスーツやドレス着用、要予約、蛮声自粛が原則であり、これを守れば店の接遇も違ってくる。それで私は日本から日時を指定して予約を入れておいた。
ところがニューヨーク入りして滞在したホテルのコンシェルジュ(接客担当)に尋ねてみると、そんなレストランは知らんと言う。ニューヨークのタクシー運転手はマンハッタン島の地理に通暁している筈なので行き先を告げたが、これまた知らんと言う。そんな事も有ろうかとインターネットでダウンロードしておいた店の案内図を手渡してやっとビーバーストリートのデルモニコに辿り着いた。
 店の佇まいは『父の思い出』に出てくる十九世紀のデルモニコそのままで、街角の三角形の頂点にある入り口は一見狭いが中は充分広かった。高い天井、重厚なインテリア、年代物の調度品などが店の歴史を物語っていた。
 客筋は一見して常連らしいウォールストリートのビジネスマンたちで、物静かに話しながら料理を楽しんでいた。だから、あっちこっちの本に載っていて、客がドヤドヤ押し掛ける店は所詮大衆向きなのだろう。
 手洗いに行こうと思って席を立ち、それらしきドアを開けてみて驚いた。一転してそこは紫煙立ちこめる別世界で、スーツ姿、チノパン、ジーンズなど様々の服装の男たちがカウンターに寄り掛かってジョッキーを傾けたりグラスを空けたりしながらわんわん歓談していた。ここはレストランとは入口が別で、レストランよりも多人数が入り、私が手洗いに行くと、一杯も二杯も聞こし召した連中が、機嫌好く通り道を空けてくれた。
 迂生が席を立った間に、同伴の妻がどんな英語を操ったものか、支配人に、自分たちは遠来の客で思い入れが有ってわざわざ訪問した、と言ったものだから、喜んだ支配人は私達を地下に案内してくれた。そこには別室が幾つもあり、かつてここを訪れた前述のチャールズ・ディケンズやマーク・トゥエインを記念した部屋が有った。そこはまさしく十九世紀末の世界で、ガス灯やランプだったであろう照明が電灯になっていることを除けば、百年前にタイムスリップした気がした。
 我々付きの給仕は店御自慢の絵画やワイン棚の前へ我々を連れて行き、カメラのシャッターを押してくれた。勿論相応の心付けは忘れなかった。斯くて料理と19世紀のインテリアと支配人・給仕の接遇に満足して愉しい夜の一刻を過ごし、呼んでくれたタクシーに乗ってホテルに帰館した。


紐 育(その3)

マンハッタン南端
 ニューヨーク州は東南部は海に面しているが、北の内陸部は五大湖の二つとカナダ国境にまで延びている大きな州だ。州最大の都市は言うまでもなくニューヨーク市で、マンハッタン島とその周辺から成る。滞在型でなく短期間の観光旅行なら大抵マンハッタン島内で終始する。それだけ見るべき処や為すべき事の有る処で、丁度、何度京都へ来ても観光ルート以外に見る処が一杯あるのと同じだ。マンハッタンは一つの区だが、都内の中心部、千代田・中央・港・新宿・文京の各区を合わせたのと同じ面積がある。
 マンハッタン島の南端一帯は「下部マンハッタン」(Lower Manhattan)と呼ばれ、以前は何と言ってもウォール街とブルックリン・ブリッジ(1883年完成の吊り橋)で有名だった。しかし1972年にワールド・トレード・センター(WTC)が完成してからそれが新名所になった。全部で七つのビル群から成り、そのうち「双子ビル」(Twin Towers)は110階、410メートルの高さで、当時世界第2の高さを誇るビルだった。しかし、日系建築家ミノル・ヤマサキの設計であることは意外に日本では知られていない。
 2001年9月11日の歴史的大事件の数日前、筆者はWTCの傍まで行っていながら、貿易や経済に疎いので、入りもせず写真も撮らなかった。事件後慌てて過去に撮ったニューヨークの写真を探し、やっと見付けたのが上の写真で、エンパイア・ステートビルの屋上から南へ向かってシャッターを切った写真である。エンパイア・ステートビルから撮ると二つのビルは引っ付いて見える。もう数日帰国が送れたら運が悪ければ事件に巻き込まれたかも知れないし、そうでなくても足止めを食らったのは間違いない。
 マンハッタンの南端はバッテリ−・パークと呼ばれる公園になっていて、ここから自由の女神の「居る」リバティー島へはひっきりなしに遊覧船が出ている。「バッテリー」という言葉にはいろんな意味があるが、ここでは「砲台」のことで、昔海上の敵船を砲撃するために構築され、南北戦争でも使用されたことだろう。
 この砲台の傍に朝鮮戦争で戦死した兵士の記念碑が建っていて、台座には国連章の左右に太極旗と星条旗が刻まれている。人型を打ち抜いた碑の意匠は感動を呼ぶ。正に日本語の「亡骸」を表しているが、実は英語でも同じで、'remains' は霊魂が抜けてしまった遺骸のことを指す。国連軍の中心となった米軍の将兵5万人が戦死し、それに韓国軍42万、同民間人106万人が死亡した。一方、対する北朝鮮・中国軍の死傷者は200万人といわれ、大きな犠牲を払った。

セントラルパーク
 パリやニューヨークのマンハッタン島などは庭付き一戸建ちは一般でなく、大抵が集合住宅である。そうすると市民共有の庭が必要ということになり、公園がその役割を担っている。ニューヨークもヨーロッパの大都市に倣い、1856年にマンハッタン島の文字通り中央部に大公園を作りセントラルパークと名付けた。その大きさは336ヘクタールといってピンとこなかったら、京都御苑の約4倍近いといったらその広大さが計り知れよう。
 大きさばかりに驚いてはいけない。土一升金一升のマンハッタン島に作られたことが驚異なのだ。ご存じのようにマンハッタン島は堅い岩盤で出来ているので高層建築には適しているが土がないため、近郊から土を持ち込んで造成した。隆起して埋めきれない岩はうまくアクセントになっている。公園内には遊歩道、乗馬道、池、動物園、グラウンド、スケートリング、野外劇場などがあり、市民たちは木陰で読書、野鳥や植物の観察・観賞、芝生で昼寝、ジョギング、散歩などを楽しんでいる。
 ニューヨークは物騒だといっても、ここは昼間なら安全だ。とはいっても平日など辺りを見回して人っ子一人居ないときは、心細くなることがある。警官もパトロールしていることになっているが、偶々私は制服警官は見掛けなかった。夜になると治安が悪くなるのはセントラルパークに限らない。物騒とまではいかないが、夜の女たちが徘徊するとかは世界中の大都市の公園で見受けられることだ。
 今から13年前の1989年に、夜間ジョギングを行っていた白人エリート女性銀行員が5人の黒人にレイプされ、瀕死の重傷を負うという事件が起こった。5人の容疑者が逮捕され、自白もあり、有罪が確定して5人の少年は7-12年の刑期を既に終えている。
 ところが別の連続レイプ犯(服役中)が自ら犯人であると名乗り出た。そしてDNA検査の結果このレイプ犯の犯行と確認され、黒人5少年の無罪が明らかになった。この少年たちは当時夜公園内を徘徊し自転車に乗った人やホームレスなどを襲った非行少年たちではあったが、同時刻に起きたレイプ事件の犯人にされてしまった。ニューヨークの検察当局は2002年12月5日、5人の起訴そのものを取り下げる書類を州最高裁に提出した。
 昼間は安全と言ったが、そうとばかりは言えない事件が起こった。2000年6月11日(日)の夕方、パーク内を散策していた少なくとも44名の女性たちが40名ほどの若者に襲われ、痴漢行為を受けたり、衣服をはぎ取られたり、池に放り込まれたりした。被害者の内2名の女性が警察の対応が不十分だったとして、市に対して500万ドルの損害賠償を求める訴訟を起こした。
 折から5番街では伝統的プエルトリコ人のパレードが行われており、約100万人の人出があった。目撃者の一人が事件の模様をビデオテープに撮っていたために犯行グループが判明し、犯人の多くは酒気を帯びた十代のプエルトリコ人だった。 
 尚、89年のレイプ現場には今警官の「キオスク」と電話が設置されている。(セントラルパーク)

紐 育(その5)

メトロポリタン美術館
 メトロポリタンと言う言葉はギリシャ、ラテン語に遡り、首都という意味だ。だからパリの地下鉄はメトロと言う。本来なら米国ではワシントンに使うべきなのにニューヨークでメトロポリタン美術館やメトロポリタンオペラ劇場という風に使われている。メトロには大都市という意味もあり、大抵首都は大都市だが米国は例外なのだ。メトロポリタン美術館はセントラルパークの中にあると一般には言われるが、5番街に面しており、後背部がセントラルパークに食い込んでいると言ってもいいだろう。
 メトロポリタン美術館の事を話すのに英語のことから話さなければならないのは難儀なことだ。昔は英語で困ることはなかった。ところが今は空港を一歩出たらもう英語が通じない。迂生の英語が悪いのではない。相手の英語が悪いのだ。移民か何か分からないが酷い訛りで理解出来ないのだ。ホテルでもまともな英語を話すのはコンシェルジュから上で、ベルボーイやポーターの英語が酷い。昔はこの業種の人たちは多くが米国生まれでちゃんとした英語を喋っていたが、そのような人たちは今は一ランク上の仕事に移り、未だ十分に英語を操れない移民やその他の人がこれらの仕事に就いているようだ。
 店の売り子のマナーも酷い。ホテルの売店で一人で店番しているアフリカ系の女の子などは大抵ケータイと耳がくっついているのではないかと思うほどどの店でも何時でも話し中であり、レジに客が並んでいても平気だ。ニューヨークは今景気がいいからこんな事で済むが、不景気になって人が余り出せばこんなねーちゃんは弾き出されてしまうだろう。但しチップが貰えるウェイター、ウェイトレスとなるとそんなことはない。「現金な」ものだ。
 こんな風にニューヨークに好くない印象を持ちかけていた迂生のニューヨーク観を一変させたのが、メトロポリタン美術館の売店だった。ミュージアム・グッズを計算し包装してくれた熟年女性が、
「会員になりませんか?」
と誘ってくれた。ニューヨークは同じ国内の西海岸から来るだけでも大変なのに、迂生は未だその上太平洋を越えて来なければならない。もう来れないかも知れないと思ったが会員になった。
 その理由は、この女性が惚れ惚れするような英語で話し掛けてくれたからだ。これは米国に脈々と受け継がれている伝統で、昔から小学校の先生は大抵女性で、児童達にペンマンシップ(英字お習字)、読本の朗読、作文の添削などをしっかりと教えてくれた。そういう先生に習った子供は幸せで、それらしき人に出会うと迂生は、
「貴方は小学校の時、国語教育(英語)に熱心な女先生に習ったでしょう。」
と訊ねると、まず間違いなく、懐かしそうにそうだと答える人が多い。
 こうして、元教員かと思われる職員のお勧めで会員となったわけだが、不思議なことに遠いニューヨークのこのメトロポリタン美術館を次の年再訪することになった。会員カードなんか持たずに受付に行ったら、迂生の名前はちゃんとコンピュータに登録されていて入館することが出来た。
 海外の大きな美術館には大抵レストランがあるが、ここもそうで、セルフサービス用とオーダー用の二つに一寸した仕切で分かれているのがよい。オーダー用のところでも高いことはないからお勧めできる。
 メトロポリタン美術館へ来て感じたことがある。ここは寄付金や会費で美術品を購入もするが、寄贈の美術品も多い。富豪が買い集めたコレクションを生前か、死後遺族が遺言を守って寄贈するのだ。死蔵(?)するよりはメトロポリタン美術館に収蔵して貰えば寄贈者の名前も残って光栄だ、と考えるのには敬服する。それに引き替え、日本にも泰西の名画(?)を買い集めた中小のコレクションはあるが、比較的小品であったりして質量とも揃っているとは言い難い。
 又、一々各地の美術館へ見に行くのも大変なので、関東・関西などの拠点に元「どこそこ美術館所蔵」、「何の何兵衛氏所蔵」と明記して集大成すれば美術愛好家・画学生などに喜ばれるのではないだろうか。
 それと、名作は一定の場所に展示すべきだ。40年以上前だったか、ミロのヴィーナスが日本に来たことがある。こんな事は二度としてほしくない。そんなことを知らずにミロのヴィーナスが見られると思ってルーブルを訪れた人はどんなにがっかりすることか。ルーブルに有ってこそのモナリザでありヴィーナスなのだ。今は少しお金を貯めればルーブルやオルセーへ行けるのだから、破損の虞もある美術品は軽々に動かすべきでない。 

紐 育(その6)

ブロードウェー
 ブロードウェーは「広道」、「大通り」という意味だが、普通はニューヨークのを指す。マンハッタン島の通りは米国によくある東西南北が規則正しい碁盤の目のように交叉しているが、ブロードウェーだけが ax+y=b 状にマンハッタン島を斜断している。
 まずマンハッタン島南端から始まって同島を突き抜け、本土のニューヨーク州を北上してオールバニー市に至る全長240kmの世界最長の「広道」である。マンハッタンから本土へはハドソン川で一旦途切れるが、先住民は渡し船を使ったのだろう。このようにヨーロッパ人がやって来る前から先住民の「生活道路」だったので、「条里制」と比べると「不規則」ということになる。
 当然後発の碁盤目道路と鋭角で交叉するが、その交点が7番街の42-46丁目を巻き込んでおり、タイムズスクウェアとして有名だ。タイムズ紙の社屋が創立期はここに在ったのでかく命名された。大晦日の夜はホコテンになり、若者達がカウントダウンする。
 しかしブロードウェーが世界的に有名なのは劇場が犇めく演劇・ミュージカルのメッカだからである。これらの劇場は全部がブロードウェーに面しているのではなく、タイムズスクウェア近くに集まっている。
 これだけ劇場が多いと、日本なら俳優が足りないか、観客が少なくて「小屋」が潰れるかも知れないが、ここはとんでもない。舞台に出られないか、たまにしか役が回ってこない、三日やったら止められなくなった明日のスターを夢見る予備軍が何百・何千と居て、ウエイトレスや皿洗い(ほんとは機械がするが)などで食いつなぎながらレッスンを受けて芸を磨き、出番を待っているのだ。たまにはプロデューサーの目に留まったというようなシンデレラもあるだろうが、普通は厳しいオーディションをくぐり抜ける実力の世界だ。
 昔迂生が現地のテレビでブロードウェーのコメディを観ていて俳優があんまりうまいので、一緒に観ていた知人に名前を聞いたところ、
「知らないわ。良く言って二流の下というところね。」
が返ってきた答えだった。事ほど左様に俳優の層が厚いのだ。この女性は演劇や言語に詳しく、
「この俳優の遣っている英語はニューヨークのユダヤ人の英語よ。この人の言葉か、そういう役柄を演じているのかは分からないけどね。」
 台詞を理解するのにアップアップしている迂生の理解力を超えていたが、英語の奥の深さを痛感した。一方日本はどうかというと、ドタバタ喜劇はあっても本格的喜劇なんて観たことないし、俳優の層も薄い。
 ブロードウェーで上演するには踊り・歌・演技など一流の芸が望まれるのは勿論だが、興行的に成功するにはコマーシャリズムと多少の妥協をせざるを得ない場合がある。それを嫌ったり、実験的演劇を上演したい俳優や脚本家たち、それにブロードウェーは敷居が高い未来のスターのためにオフ・ブロードウェーがあり、オフ・オフ・ブロードウェーというのが「表通り」から引っ込んだところに沢山在る。
 ブロードウェーの当たり狂言は地元の人でもなかなか券が買えないし、プレミアムが付くことさえある。若者たちは行列に並んで当日券を買うが、長時間並んだ挙げ句自分より前の人で売り切れることもある。それで日本人でお目当てのミュージカルがあって、日程も早くから決まっている場合は日本で予約することが出来る。ニューヨーク入りしてから観たくなったら、ダメモトでホテルのコンシェルジュに聞いてみることだ。そのためにはそこそこのホテルに泊まる必要がある。幸運にも券が取れた場合、手数料が上乗せされていても仕方ない。コンシェルジュの取り分が含まれていないようであれば少し「包んで上げる」と好い。
 日本からニューヨークへ観光に行く若者たちはブロードウェーのミュージカルを観たがるが、たとえ一般席であっても、Tシャツ・ジーパン姿は感心しない。ヨーロッパ人から見て服装が悪いと言われるアメリカ人も、高い席の観客はちゃんとした服装をしている。迂生は安い席が無かったので仕方なくバルコニー席を取ったが、ドレスアップして行って恥をかかなくて済んだ。

 尚、『42番街』にはタマキ・ヤスコという邦人と思われるダンサーが活躍していた。上の表紙写真の前から2列目右から2番目の人だ。

紐 育(その7)

グランド・セントラル・ターミナル
  ニューヨークの大規模公共交通機関は土地を確保できないという理由で、19世紀後半に地表を使用せずに地上10メートル上を走る高架鉄道として始まった。蒸気機関車が牽引したが、石炭を焚いたのと、高所へ上らなければならなかったのとでご婦人方は嫌がったという。
 高架鉄道は殺風景なので京都のような都市には考えられないが、シカゴでは今も見られる。高層ビルの谷間を走っているので意外に目障りでない。
 マンハッタンの代表的鉄道駅は1913年完成のグランド・セントラル・ターミナル(GCT)で、他州や郊外への列車が発着する地下駅になっており、地上1階は巨大なロマネスク調のファサードやコンコース、ゾディアック星座が描かれたその天井などが有名で、いろんな小説や映画の舞台にもなった。
 駅が出来て今年で90年になるが、老朽化してきたので数年前リニューアルされて美しくなった。カフェテラスもあるので、コーヒーを喫しながらそこからコンコースをぼんやり眺めるのもよい。
 この駅には「オイスター・バー」という有名なシーフードのレストランがある。ここは天井がタイル張りでしかも込んでいると来ているから、騒がしいのでも有名だが、そのワンワンいう喧噪は寂しがり屋にはかえって独りぼっちを忘れさせてくれるかも知れない。

 このGCTに近いマジソン街の角にルーズベルト・ホテルという古いホテルがある。テオドール・ルーズベルト大統領に因んで1924年に建てられ、築後80年ということになるが、重厚な造りで室内装飾の趣味も佳く、日本人旅行者もよく利用する。20階建て、1013室のこのホテルがこのほどオークションに出されることになった。オーナーは2億2500万ドルの額を提示しているが、パキスタン国際航空と、サウジアラビアのファイサル・イブン・ハリド皇太子とが関心を示している。
 いずれにしても市当局は現建物を撤去し、高層建築を建て、この地区の再開発を予定している。

Vol. 2, No.14(total)

ウォルドルフ・アストリア・ホテルのロビー脇にあるインターネット用コンピュータ

紐 育(その8)

パークアベニューとウォルドルフ・アストリア・ホテル
 マンハッタンを南北に縦断するパークアベニューは、詳しくいうとグランドセントラル・ターミナルの駅舎で通りは一旦途切れた後再び南へ続くのだが、真の「パーク」アベニューは駅以北だと言って良い。高架鉄道を取っ払って地下に潜らせたあとこの大通りの中央部を花一杯の公園にしたので、この名前が付いた。何せとてつもなく長い公園だから、其処に植える草木花の維持管理は費用の点からも労力の点からも大変なものだが、セントラルパークと並んで市民の心を和ませてくれる。その結果当然の事ながら、高層ビルと高級住宅が建ち並ぶ。
 我が在ニューヨーク日本国総領事館もこの通りの48-49番街に日章旗を立てている。組織に属していてニューヨークに住んでいる日本人はそれなりのネットワークを共有しているので情報不足ということないと思うが、組織に属さない人、来て間もない人、旅行者などで困ったことが起きれば、この総領事館に駆け込むか、電話するか、ホームページを開くと良い。
 この総領事館の「隣組」(49-50番街)にニューヨーク随一の格式を誇るウォルドルフ・アストリア・ホテルが在る。このホテルについては既にニューヨークの大晦日の項で触れているが、今はマンハッタンに名実共に優れたホテルが幾つもあるにも拘わらず、このホテルの格は高い。それは京都で言うなら、京都ホテルをはじめとして、交通に便利で優れたホテルが十指に届くと思うが、格式となると都ホテルということになるのと似ている。確かにその華頂山を借景にし格天井のある旧大宴会場は他の追従を許さなかった。
 ウォルドルフ・アストリア・ホテルを最も有名にしたのは前にも述べた大晦日の大舞踏会で、その様子は全米に中継され、そこで踊れるような身分になることがサクセス・ストーリーだったのだ。今も宿泊料は図抜けて高く、我々日本のサラリーマンの手には合わないが、裏のレキシントンアベニュー側から入ったところにブラッセリがあって、ここなら気軽に食事が出来る。
 ロビーは誰でも入れるので探訪することが出来るが、アールデコ調のインテリアはゴージャスでシックだ。何処のホテルでも公衆電話室やコーナーがあるが、ここにはコンピュータのスタンドがあって、クレジットカードを挿入すればインターネットが自由に出来るのは興味深かった。
  数年前だったが、京都ホテルのコンシェルジェのデスクにはインターネットに繋がるコンピュータが有り、申し出れば無料で使わせてくれた。その頃はモデムで電話回線に繋いでいたが、今はもっと便利になっているかも知れない。この歴史有る京都ホテルがオークラ、都ホテルがウェスティンの傘下に入った如く、栄光の歴史に包まれたウォルドルフ・アストリア・ホテルも単独では存続が難しいのか、今ではヒルトンの系列に入っている。

紐 育(その9)

ニューヨーク公立図書館
 繁華街にありながらショッピングと観光が目的の旅行者は余り行かない処が図書館で、5番街と42番通りの角にニューヨーク・パブリック・ライブラリが在る。その南にブライアント・パークが在ると言っても良いし、公園の一角に図書館が在るといっても良い。
 この公園は嘗て「ヤク」の「売人」が屯していたそうだが、今は見事整備され、季節によるが日中は日光浴を楽しむ人が多く、夜は野外映画祭りなどが行われる。
 図書館は創設以来100年を超える石造りの立派な建物で、欧米の公共建築によくあるように、表通りから幅の広い緩やかな階段を上って屋内に入る。内部は時代を経たウッディな造りで、読書室は1階から3階まで有り500人を収容できる。そして所蔵書数は1100万冊を超える。
 興味深かったのはコンピュータ利用室で、カウンターの帳面に名前を記入しておくと、余り待つことなく空いたコンピュータが無料で使用でき、インターネットもできる。利用時間は無制限なのか、一定時間に限られているのかは残念ながら忘れてしまったが、後者だったような気がする。兎に角ここのコンピュータを上手に利用すれば、コンピュータを買わなくても済む。
 日本のデパートによってはクジャクやライオンをシンボルにしているところがあるが、この図書館の名物は入り口の外にある石のライオン像である。このライオンは毎年クリスマスシーズンになると花輪で飾って貰う。

紐 育(その10)

ニューヨークの地下鉄

こんなに綺麗で安全になっていて、一日に700万人の利用客がある。車両の多くは日本製で落書きしにくい塗料が塗ってあり好評。これが全線不通になったのだ。

大停電『異聞』
 
2003.8.14日に起こった米・加大停電は二日間で復旧した。簡単に振り返ってみると、
        14:00頃  オハイオ州の発電所で送電線に障害が発生
        15:00過ぎ 同州内の送電網で障害が拡大
        16:10過ぎ ニューヨーク州、カナダなどに停電拡大
 15日未明   マンハッタンのタイムズスクエアなどで一部復旧
        21:00過ぎ ニューヨーク市内の電力供給完全復旧
 16日早朝   ニューヨーク市内の地下鉄運転再開
 
 今回の大停電はニューヨークでは三回目(1965, 1977, 2003)だったが、2001.9.11の同時多発テロの試練を経たためか、店舗などからの略奪という乱暴狼藉も前回に比べて少なかったようだし、暗闇の路上で一夜を明かした人たちに危害が及ばなかったのはせめてもの救いだった。これが厳寒期だったら凍死の危険性があり、大災害になるところだったと思うとぞっとする。
 第一回目のニューヨーク大停電は1965年11月9日に起こり、3000万人が13時間に亘り電力無しの状態に陥った。丁度停電になったとき、人々は何をしていたかをレポートしたら、大きなドラマになっただろう。
 こういう共時的構成の作品として有名なのは戦後になって広島文理大学学長長田新(おさだ・あらた)が編集した『原爆の子』(岩波書店、1951年)で、ピカドンが落ちたとき、何をしていたか、それからどうしたかを罹災時4歳から中学・女学生だった人たちが綴った名作である。そして当世の「やばい」、「まじ」、「うそー」とは別世界の美しい日本語で書かれている。
 この大停電から数年経って、NHKのドイツ語ラジオ講座のテキストに次のようなエピソードが使われていた。ドイツ人が書いたのか、アメリカ人が書いたのを独訳したのかまでは判らない。兎も角ドイツの雑誌か何かに載ったのだろう。木下的、梅隆的バージョンはこうだ。
 
 男児は帰巣の途中よく路上に落ちている物を見付ける。空き缶を蹴り転がしながら家まで辿り着き、持って入れないので最後は蹴り放つ . . . みんなそんな事して大きくなって行く。
 ニューヨークっ子のこの子の遺伝子にもその習性がしっかりと刷り込まれていた。遊び疲れと空腹とでふらふらしながら勝手知った町並みを家に向かっていた。と、路上に手頃な棒切れが落ちていた。直ぐさまそれを拾うよう体内の遺伝子が指令を出した。彼は道すがら、電柱・バス停標識・消火栓・新聞販売機等、叩き甲斐のあるしっかりした路傍の「建造物」をその棒切れでどつきながら(地方によっては「打っ叩きながら」とも)漸く我が家のとこまで帰ってきた。
 その日の叩き納めに、彼はその棒切れで家の前の電柱を思いっきりどやした。その瞬間、街の電気が一斉に消えた。
 彼は玄関のドアを開け、泣きながら言った。
 「ママ、ご免なさい。」

紐 育(その11)

ジュリアード音楽院
 ジュリアード音楽院は、クラシック音楽に関心を持っている人なら誰でも知っているが、本格的音楽愛好家以外は余り訪れることはないだろう。場所はブロードウェイと65丁目の交叉した西角のリンカーン・センターに在るが、セントラル・パークから一筋西のコロンバス・アベニューに面しているとも言える。
 学校は20世紀初めに出来たのだが、当時音楽家になろうとするアメリカ人は皆ヨーロッパのコンセルバトワール(音楽学校)に留学したので、外国に行かなくても済む学校を作ろうというのが設立の主旨だった。
 音楽ばかりが有名だが、学校の現在の正式名はThe Juilliard Schoolでdance, drama, music の三部門からなり、人間が体を使って表現する芸術の学校ということだろう。ニューヨークの観光名所ではないが、傍にメトロポリタン・オペラ・ハウスが在って、音楽愛好家にとって必訪のスクエアである。 
 優れた芸術家は教師にならない、という厳しい言葉がある。確かに、ピカソが然り、ヘルベルト・v・カラヤンが然り、小澤征爾が然りである。ここジュリアードでも、音楽学生を教育することだけでなく、教授たちで構成するジュリアード弦楽四重奏団は世界的なレベルにある。

紐 育(その12)

エンパイア・ステート・ビルディング
 エンパイア・ステート・ビルディングは大恐慌(1929-34)の最中に完成したと覚えるとよい。序でながら、「エンパイア・ステート」は、NY州のニックネームである。ニューヨークのビル建設ブームは大恐慌の前から起こっていた。そして大恐慌の最中にも工事は続けられた。1931年5月に5番街の43丁目に在ったウォルドルフ・アストリア・ホテルの跡地にエンパイア・ステートが完成し、同年10月にYMCAの在ったレキシントン街49-50丁目にアストリア・ホテルが出来た。
 1933年には単一ではNY市最大の建築プロジェクトで、都市の中の都市と謂われたロックフェラー・センターが5番街の49-51丁目に完成し、「パリのルーブル、NYのロックフェラー・センター」と謳われた。
 これらの高層建築建設の意義を考えると、大恐慌で失職した市民に仕事を与えたこと、経済の活性化を促したこと、新興国アメリカの経済力・科学技術水準の高さを世界に示したこと、などが考えられる。そして「スカイスクレイパー」(「空に届くもの」という意味で「摩天楼」と訳している)という言葉が生まれた。
 その中で特にエンパイア・ステートは世界最「高」のビルとしてアメリカ人の「世界一」志向の原点となった。完成したときは381mの高さだったが、後に放送局のアンテナを付け足し443mとなった。しかしビルそのものの階数は変わらず102階の儘である。このアンテナ塔は飛行船の繋留マストにする予定だったが、1937年に起こったヒンデンブルグ号の爆発墜落炎上事故で沙汰止みとなった。
 エンパイア・ステート自身も事故に遭っている。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線での戦闘が終わった直後の1945年7月に、B25爆撃機が濃霧の中を飛行中79階に突っ込み、14人の犠牲者が出た。
 現在、高さだけを比べると以下に挙げたようにエンパイア・ステートよりも高いタワーが世界各地に出来ている。そして日本・日系の技術・資本が噛んでいる。
 ビル名     階数      高さ    所在 備考
 (故)WTC   110階     411m   NY 設計:ミノル・ヤマサキ
 ペトロナス・           452    マレーシア
 ツインタワー
 台北101     101      508    台北      熊谷組施工、2004年末完成予定
                               尖塔(45mを含む)
   ?       ?        492    香港      施主は森ビル、2007年完成予定    
 
 しかし高層ビルとしてのエンパイア・ステートの格と知名度は他の追従を許さず、展望台に昇る人は平日でも長蛇の列をなし、個人で行くと半日仕事になる。それで上手い方法を紹介する。半日、一日市内観光ツアーに参加すると、エンパイア・ステートは必ずといってよいほど含まれており、待たされることなくすーっと入れる。予め団体用の人数枠が取ってあるのだ。日本人ガイド付き日系資本の業者が何社か有り、競争原理が働いているので、当たり外れはないようだ。そして日本から予約できるツアーも有り、現地に行ってホテルから手配して貰うことも出来る。
 老爺心から言うと、前もってNYの地図や写真集を見ておいてから展望台へ行くと、入場料を払った甲斐がある。望遠鏡を持って行くとなお一層興趣が増すだろう。備え付けのデカイのもあるけど大抵塞がっている。望遠鏡を持って行くのが面倒なら、ズームレンズの付いたカメラでも望遠鏡の代わりとしてそこそこ役に立つ。
 日本でお互いに忙しくてなかなか会えない人同士がこの屋上でバッタリ会ったという話を何人もから聞いた。それほどNYを訪れた日本人が必ず行くところだ。
 

紐 育(その13)

国際連合
 第一次大戦後、二度とこのような世界戦争を起こさないために国際連盟を設立しておきながら、ウィルソン大統領が首唱したにも拘らず米国議会が承認しなかったことや、日独伊が脱退したため連盟は存続しなかった反省もあり、第二次世界大戦が終わる1年前のダンバートン・オークス会議で国連の設立が決まった。
 本部の所在地を米国にすることは上の理由からも米国は乗り気であったし、ヨーロッパの「戦勝国」にしても一応勝ったというものの国土は荒廃し財政は疲弊しており、このような国際機関を誘致する国力はなかった。
 米国内ではサンフランシスコ・ボストン・フィラデルフィア・ニューヨークなどが激しい誘致合戦を繰り広げたが、ソ連が西海岸は絶対反対だった。欧州ヒ米国西海岸往来による領空通過を嫌ったのだろう。残った東部の内ニューヨークに最終決定したのは初代事務総長トリグブ・リーの意向だった。
 終戦の1945年から国連は機能し始めたが、当初はクイーンズ地区のフラッシング・メドウ公園の万国博(1939-40)跡やレイク・サクセスの工場跡などで活動していた。
 1946年にジョン・ロックフェラー二世がウィリアム・ゼッケンドルフから8500万ドルで買い取ったタートル・ベイの17エーカーの土地を国連に寄付した。市は整地・立ち退き・道路建設・川岸占有権取得などのために500万ドルを拠出した。
 これが現在の国連ビル一帯で、敷地内は治外法権となっていて、独自の警察・消防・郵便システムを持っている。9/11事件の現場へは歩くには遠いが本部ビルの高層からは見える距離にあり、ひょっとしたらそれも計算済みの挙行だったのかも知れない。

紐 育(その13+1)

ナイアガラ  その(1)
 ニューヨーク市はこれだけでも語り尽くせないほどの内容を持った地域だが、それでもニューヨーク州の一部に過ぎない。そして州の内陸部は広く、カナダ国境まで達していて、そこにナイアガラ滝が在る。
 世界にはアフリカのヴィクトリア滝、南米イグアス滝などの大滝があり、前者は幅1700メートル、高さ76-105メートル(時期による)、後者は幅4000メートル、高さが70メートルある。ナイアガラはカナダ側が幅700メートル、アメリカ側が300メートルで足しても1000メートルの幅で、高さが54-56メートルでグンと小さい。しかしこんなに交通至便の大滝は他になく、年間1000万人の人が訪れるという。これらの大滝に比べると華厳の滝や那智の滝は畢竟「石激る垂水」に過ぎない。
 日本が出た序でに言うと、昔我が国では、関東の人たちの新婚旅行の行き先は熱海、関西の人たちの行き先は別府と決まっており、日本人の温泉好きを示していた。では米国東部の人たちはというとナイアガラへ行った。
 たとえば、映画『スーパーマン』の何作目かでスーパーマンであるデイリー・プラネット紙の記者クラーク・ケントは休暇に同僚であるガール・フレンドとナイアガラへ出かけて行くが、彼女の期待は膨らむ。そういう背景を知らないと、娯楽作品といえども深い理解は出来ない。
 この滝を舞台にした映画としてはマリリン・モンロー出演(主演?)の『ナイアガラ』がある。評論家に言わせたらB級作品かも知れないが、ナイアガラへ行った人も、これから行こうと考えている人も是非見て欲しい。モンローが胸元を見せるわけでもなく、腰を回して歩くわけでもなく、ニコリともしない、笑ってもぎこちない陰のある女として登場するサスペンス映画である。

ナイアガラ  その(2)
  穴籠もりしていたイラクのフセインを地下の穴倉から引きずり出し、口を「アーン」させ、自国を含め38カ国の軍隊をイラクに出兵させ、リビアの権力者カダフィ大佐をして核兵器開発断念に追い込んだ「望月の欠けたることのなし」の米国にも、鴨川の水が意の儘にならなかった白河法皇同様、思うに任せない物が有る。えらく長いセンテンスになったが、実はそれがこのナイアガラで、米国から見た滝は大したことない。それで米国人も、米国へ来た観光客も橋を渡ってカナダ側へ入って観滝する。その為カナダ側には沢山ホテルがあり、ニューヨークからの日帰り客は別として、大抵の観光客はカナダ側に泊まる。
 著名人のナイアガラ印象記としてはビクトリア朝英国文豪ディケンズのAmerican Notes(米国見聞録)にその記述がある。因みに迂生の本コラムの題名『梅隆の米国見聞録』はディケンズに肖っている。
 彼が妻と妻専用の召使いを伴い初めて訪米したのは1842年、30歳の時で、もう押しも押されもしない有名作家だった。そして入国してから各地を回って出国するまで男性ガイドを一人雇った。ナイアガラへはニューヨークから馬車でと思いきや、ニューヨーク州第二の都市バファローから汽車で行った。
 この世界的名瀑布も所詮不易ではあり得ない。「点滴石を(も)穿つ」ぐらいだから、奔流が押し寄せ落下する滝のてっぺんの岸壁はだんだんと痩せたり砕けたりして退行し、何十年何百年の内には水流は直下せずスロープを下る急流に成り下がる可能性もある。そうなれば観光客は来てくれなくなるので、川を堰き止め、滝の裏側の岸壁をコンクリートで固める「美容整形」を行なうなど、色々なメンテが行われている。
 又、滝の裏側にライトを据えて夜間は点灯される。だから滝に面しているホテルの部屋は滝が見えない部屋より高い室料になっている。滝が見えない部屋に泊まっても、廊下や踊り場から夜景を見ることは出来るし写真も撮れるが、新婚さん達にとってはナイヤガラ滝の夜景を見ながらの初夜は生涯の思い出になる(離婚しなければの話だが)。
 
 ナイアガラ  その(3)
 ナイアガラ「雑学」を一くさり。この滝は今から1万2000年前に氷河が融けて五大湖から流れ出した水によって出来た。そして滝は現在位置よりも11キロほど下流にあったが、その断崖絶壁が水流の力によって徐々に削られて上流へと退却して現在に至っている。
 米国に限らないが、蛮勇を誇示する輩が居るもので、ナイアガラも19世紀初め頃から綱渡りで渡ったり、タル・カヤック・タイヤチューブなどに乗って落下する命知らずが後を絶たなかった。1829年にサム・パッチという男が2回、30メートルの高台から滝壺に飛び降りた。
 女性もおり、記録に残っている最初は女教師のアニー・E・テイラー(当時63)が1901.10.24日、タルに入って落下し、希望通り一躍有名になった。
 そんな遊び半分とは異なり、前述ディケンズによると、当時英国植民地だったカナダ側を警備していた英国兵が米国側へ逃亡しようとして溺死したと記している。外地勤務の特別手当(が出たであろう)に目が眩んではるばる大西洋を越えて送り込まれて来たものの、人口は疎らで娯楽は何もない。冬は寒さが厳しい。一方川の向こうは絶対君主や貴族制度のない四民平等の、底抜け明るい豊かな米国で、つい矢も楯もたまらずナイアガラ川に飛び込んだのであろう。
 現在滝を飛び降りることは禁止されており、敢行した者には1万ドルの罰金が科せられることになっているが、ごく最近も飛び降りた男がいる。ミシガンに住むカーク・ジョーンズ(41)は2003.10.20日にカナダ滝に飛び降り、2003.12.18日、3000カナダドル($2250)の罰金が科せられた。彼が飛び降りる前に鬱の状態にあったことが斟酌されたらしい。彼はタルや救命胴衣などの道具無しで飛び降りて助かった、知られている限り唯一の人とされている。

ナイアガラ  最終回
 ナイアガラの最寄り空港はバファロー国際空港だ。ニューヨークへ行く必要のない人は大抵ここから出発する。迂生もテキサス経由で帰国するので、出国ゲートを通り、搭乗口傍の待合いベンチで時間の来るのを待っていた。所在ないので何となく周りの人物観察をしていると、一組の父子が目に止まった。
 まず客観的事実のみ記すと、父親は手ぶらの普段着、息子はカジュアルだがそれなりに旅立つ服装だった。父親が頻りに話し掛けるが、息子は終始無言に近かった。母親の姿はなかった。迂生のフライトより一つ前の搭乗が始まり、息子は立ち上がり列に並んだ。父親はおろおろ声で別れを言ったが息子は振り返らなかった。ただこれだけの事である。
 しかし時間を持て余す迂生にとってこのドラマの台本は随分膨らむ。
 時は8月下旬だったので、幼げの残る息子は高校を卒業したばかりでテキサスの大学に入るのだろう。父親は大学卒のようには見えなかった。母親が見送りに来てないのは、余儀ない事情、死別、離婚のいずれかだろう。一つずつ消去して行くと、まず「離婚」が消える。米国の夫も息子も離婚に関してそれほどヤワじゃない。「余儀ない事情」だったら、息子は「母さんに宜しく」ぐらいのことは言うだろう。
 母親が亡くなったのだ。しかもごく最近に。父親にすればこうだろう。
 「うちで初めて息子がテキサスの有名大学に入る。家内に見送らせたかったし、息子も見送って欲しかっただろう。」
 無口で内気な息子の思いはこうだったに違いない。
 「僕が居なくなったら、寂しがり屋の父さんはどうして一人で暮らして行くだろう。振り向いちゃ駄目だ。」
 以上が不肖、俄江南土居留の当て推量である。

ハワイ
 先史時代から人が住んでいた日本とは異なり、ハワイは西暦が始まっても人間の住まない島嶼だった。しかし太平洋に住む海洋民族は慎重に且つ大胆に帆付きのカヌーで遠くへと航路を広げていった。そして400年頃ミクロネシアのカロリン群島やポリネシアのマルケサス諸島方面からこぎ出したと思われる勇者達(男だけではない)が3000キロも離れたハワイ諸島を発見し、定住するようになった。
 ハワイ諸島は人の住める島(つまり真水の出る島)が八つあり、後に日系人が「ハワイ八島」という語呂合わせを考え出した。その八島にそれぞれ権力者が割拠していた。
 1778年に英国のクック船長の一行が諸島に来航し、サンドイッチ諸島と命名した。1795年にカメハメハ1世がハワイ王国を樹立し、1810年にはカウアイ島の王も恭順して、カメハメハ1世はついにハワイ諸島を統一した。彼は身の丈が198センチ有り、容貌・気力・体力・知力・人心の掌握などに優れた傑物で、歴代王の中で大王と呼ばれるのは彼だけである。
 それからカメハメハ家は5代続くが、実質お雇い白人達に牛耳られ、又、外来者が持ち込んだ病原菌のため歴代王は短命に終わった。5世が1872年になくなり、カメハメハ家は直系が絶えたため、議会が王を選ぶことになったが、最初の選定王ルナリロ王は在位僅か1年で死んでしまった。
 二人目の選定王が1874年に即位したカラカウア王である。王は1881年に九ヶ月に及ぶ世界一周旅行を行い、最初に日本を訪ね、病気による自国の人口減少を補うため日本からの移民を要請した。そして姪のカイウラニ王女と山階宮家の親王との結婚を申し入れたが、外圧もあり、沙汰止みとなった。
 カラカウア王の死後、1891年妹のリリウオカラニが53歳で女王に即位したが、クーデターによりイオラニ宮殿に幽閉され退位し、ハワイ王朝は終わりを告げた。彼女は文学・芸術などに優れ、「アロハ・オエ」の作詞・作曲者として不朽の名を残した。
 以上が簡単で通り一遍のハワイ王朝史である。
 
その2
 前回はハワイ王朝100年の歴史を瞥見した。これはハワイ王朝史の教科書的記述で、間違いではないが、実態・真相に迫っているとは言い難い。何故なら、ハワイ以外の外国勢力の視点から描かれた歴史に基づいていて、ハワイ側の立場は全く無視されているからである。以下年代を追ってハワイの近代史をもう一度見直すが、如何に外国勢力、特に米国の侵略の被害に遭ったかが明らかになる。

1810年 カメハメハ I世がハワイを統一してハワイ王朝が始まった。
1816年 早くもロシア軍艦がオアフ島のホノルル占領を企てた。
1820年 米国東海岸を出航し南米南端を迂回し、5ヶ月かかって宣教師団がやってきた。彼ら自身は嘗て戦国時代に日本へやって来た宣教師達と同じように布教と教育が目的であったにせよ、白人(米国人)が定住することになり、諸外国の関心を呼ぶ結果となった。そして捕鯨船・貿易船・軍艦などの薪炭・食料・飲料水の補給、乗組員の休養、の基地として寄港が盛んになってきた。
1839年 これまでのキリスト教の布教は米国人によるプロテスタントが主だったが、仏国は文字通りの「砲艦外交」でカトリックの布教を認めさせた。
1840年 カメハメハ III世の時、最初のハワイ王国憲法を制定し、国家としての体裁を整えた。
1842年 米国がハワイ王国を承認した。
1843年 英仏両国もハワイ王国を承認したが、仏国は民族的にハワイと繋がりのあるタヒチ島を保護領とした。
1852年 米国とのハワイ併合を望む人たちが両国に増え、早くもこの年に併合案が初めて米議会に提案された。
1860年代 ハワイの人口減少を補うため、中国・日本からの移民が盛んに行われた。
1876年 米国との間に互恵条約が成立し、その結果サトウキビを原料とする製糖業が振興し、外貨獲得に貢献したが、米国の政策が変わるたびに対米貿易は浮き沈みした。
 

梅隆の米国見聞録
( Umetaka's AMERICAN NOTES)

Vol. 3, No.25(total)

イオラニ宮殿
(リリウオカラニ女王は一時ここに幽閉された。今も昔も米国唯一の王宮)

布 哇 (3)

ハワイ王朝の消長の続きである。

1888年 離れてはいるが、住民の祖先が同じイースター島がチリ領となった。
1890年 米が自国優遇の関税法改定をしたため、ハワイの製糖業が不振となる。
1892年 前年女王に就任したリリウオカラニは王政を強固にするべく各島を周り、支持者を増やしていったが、王国は親米派と女王派に分かれた。親米派はこの年、「併合クラブ」という秘密結社を結成した。その首謀者は4人の宣教師の息子達だった。彼らは王政を廃止して米国に併合しようとした。
1893年 女王は「尊王攘夷」憲法発布を強行しようとしたが、議会が賛成せず、「併合クラブ」は群衆の暴動を画策した。「併合クラブ」は人民大会を招集して「治安委員会」を組織し、治安維持のためにあらゆる権限を委員会に与えることを認めさせた。それに合わせ、併合派と通じていた米国公使は、治安維持を名目に、入港していた米国軍艦ボストン号から海兵隊員を上陸させることを命じた。4人の宣教師の息子の一人であるドールが臨時政府の首席となり女王に退位を要求した。
 一方時の米大統領クリーブランドはハワイの実状を調査するためにジェームズ・H・ブラントを派遣した。ブラントは王政を転覆させるような強固な手段をとる必要は何もなかった、米国公使が軍隊を上陸させて友好的な王政政府を倒す手助けをした、と判定し、米国国旗を降ろすことと海兵隊の撤兵を命じた。しかし米国民は併合派を支持していた。
1894年 臨時政府は新憲法の制定と共和国の発足を宣言した。新憲法では東洋人の選挙権や市民権を認めず、公職に就くことを禁じていた。
1895年 リリウオカラニ支持派は最後の王政復古を企てたが失敗し、彼女は全面的に退位した。
1898年 ハワイと米国が併合した。
1900年 ハワイは准州となった。
1958年 ハワイと同じ祖先を持つタヒチ島が仏の海外領土となり自治権を得た。
1959年 ハワイが米国50番目の州に昇格した。
1962年 西サモア独立。
1970年 トンガ、フィジー独立。

 世界の歴史は太古から今に至るまで戦争と侵略の歴史で、勝てば官軍、と達観すればそれまでのことだが、祖先を同じうするサモア、トンガ、フィジーが第二次大戦後独立したのに、ハワイは米国に少し近かったが故に、太平洋の要衝であったが故に、米国に飲み込まれてしまった。
 
 以上が少し詳しく見たハワイ王朝の歴史だが、百科事典の『マイペディア』は次のように書いている。
 「・・・1993年はハワイ王朝転覆100周年にあたり、ハワイ先住民主権回復運動が高まりを見せた。同年、クリントン大統領は、ハワイ王国転覆に米国軍が関わっていたことを公式に認め謝罪した。」
 アフリカからの奴隷「輸入」といい、ハワイ併合といい、自由平等を国是とする米国が謝罪しても今更覆水盆に返らずの歴史の汚点だ。
 余談だが、上に引用した『マイペディア』は一冊本百科事典で、限られた紙幅ながらもきちんと言うべき事を言っている。迂生は特定の商品を薦める事は極力避けるようにしているが、その自戒を破ってここで電子辞書を薦めておきたい。Sharpの上級の電子辞書はカードを差し込むことが出来、そこへ別売りの切手大のSDメディアを挿入すれば辞書を増やすことが出来る。迂生はPW-A8700という機種を使用しているが、一般の方にはオーバースペックである。これには紙の本で買えばA4版で2500ページのジーニアス大英和辞典が最初から入っていて、ハガキを30枚ほど重ねたぐらいの嵩の電子辞書であり、迂生のように英語を読むのが仕事の人間には極めて重宝である。そこへオプションでこの百科事典を挿入したら鬼に金棒で、行くところ何処でも、たとい車内でも書斎や研究室になる。これこそハイテク袖珍だ。この『マイペディア』SDはメモリに余裕があると見えて、漢和辞典まで付いている。

努力を続けていたら必ず最後は好いようになる
 彼の両親は並外れていた。父親は並外れた大酒のみで、母親は並外れて信仰が厚く、並外れた楽天家だった。だから彼が何かうまく行かなくて落ち込んだときは何時でもこう言った。
 「何でも最後はうまく行くように事は起こるものなのよ。」
 「続けてさえいれば、いつか屹度好いことが起こります。そして最初の失望があったからこそ後から好いことが起こったのだと気付くときが来ます。」
 母親は正しかった。彼が1932年に大学を卒業したときもそうだった。彼は放送局に就職してスポーツ・アナウンサーに成りたいと思った。彼はシカゴへ行って放送局回りをしたが、片っ端から断られた。すると或局の親切な女性が忠告してくれた。
 「シカゴのような大都市の大きな局ばかり狙わないで、最初は田舎の小さな局からこつこつと ・・・。」
 彼はイリノイ州ディクソンの実家に帰ったが、ディクソンにアナウンサーの仕事は無かった。ところがチェーン店のモンゴメリー・ウォードがディクソンに店を出し、スポーツ部門のマネージャーとしてスポーツ経験のある地元の人を求めている、と父親が聞き込んできた。彼はディクソンの高校でアメフトの選手だったので、ぴったりの仕事だと思って応募したが雇って貰えなかった。
 彼ががっくりきたのを見て、母親は繰り返した。
 「何でも最後はうまく行くように事は起こるものなのよ。」
 そこで彼はアイオワ州デイブンポートにあるWOCラジオ局を訪れたが、ディレクターが、もう既に一人採用したと言った。
 彼は部屋の外のエレベーターを待っていてとうとう切れてしまい、思わず大声で怒鳴った。
 「この男がラジオ局に勤められないのなら、一体誰がスポーツ・アナに成れるんだ!」
 するとさっきのディレクターが顔を出した。
 「今なんちゅうた? アメフトの知識は有るのか?」
 前の年の秋、彼のティームは最後の20秒で65ヤード走って勝ったことがあった。スタジオに連れて行かれた彼は、マイクの前に立ってその「実況」を15分に纏めて喋った。聞き終えたディレクターが言った。
 「今度の日曜日の実況やってくれるか。」
 家へ帰る途中、彼は母親の言ったことに思い当たった。
 「続けてさえいれば、いつか屹度好いことが起こります。そして最初の失望が有ったからこそ後から好いことが起こったのだと気付くときが来ます。」
 それから後も何度となくこの言葉に思い当たることがあった。そしてモンゴメリー・ウォードのスポーツ用品部に採用されていたら、どんな運命を辿っていただろうかと屡々思った。
 彼はスポーツ・アナをやった後、当時の大抵の若者と同様第二次大戦に出征し、復員後ハリウッドへ行って映画界に入った。俳優としては大役は回ってこなかったが、俳優組合の会長になり、母親譲りの楽天家で、政治力があることまでは見届けて母親は1962年に79歳で亡くなった。だが息子がその5年後にカリフォルニア州知事になるなんて彼女は思いもよらなかっただろうし、ましてや第40代大統領になるなんて・・・  

ルイス & クラーク探検隊のバイ・センンテニアル
 自国の歴史を学校で教えない国はない。自国の歴史を正しく学ぶのがその目的であると強調するが、愛国心を植え付けるのが目的であるのは言うまでもない。それはそれで良いのだが、果たして史実を教えているかが問題となる。例えば戦争は内戦・外敵に拘わらず、相手が攻めてきたのでやむなく防戦に立ち上がったというのが普通で、自ら先に侵略・攻撃したとは書かない。
 米国は独立してから僅か230年しか経っていない「新興国」(そんなことを言えば『日本は開国してから140年足らずだ』と米国人に言い返されそう)だが、米国では、小・中・高で繰り返し米国史を教わる。
 必ず習う重要項目としては年代順に、
1492年 コロンブスの米大陸到達(今は「米大陸発見」とは言わない)
1775  対英独立戦争(〜1783)
1776  独立宣言
1803  仏よりルイジアナ地域購入
1804  ルイス & クラーク、米大陸横断(〜1806)
1848  カリフォルニアで金発見
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と続くが、この1804年のルイス & クラークの米大陸横断探検から今年の5月22日で丁度200年になり、Japan Times(2004.5.16)は特集記事を組んでいる。この特集の注目すべき点は従来から定説となってきたこの探検の「史実」を見直していることである。
 日本で赤穂浪士の仇討ち事件を例に取ると、藩主浅野内匠頭が刃傷沙汰御法度の江戸城内で吉良上野介に刀を抜いて斬りつけ、藩主は切腹、お家断絶、藩士全員が浪人、浪士の残党が吉良に復讐、という大筋は事実にしても、その他はフィクションであることが知られている。
 ではルイス&クラークの場合はどうだったのだろうか。一般に流布しているのは次のような話で、大筋で史実と合っていたらその他のことは面白ければそれでよい、と一般の米国人は考えているようだ。
 
 独立当時米国の領土はミシシッピィー川以東だったが、1803年米国はフランスからルイジアナ地域を平和裡に1500万ドルで買収した。このルイジアナ・テリトリーはミシシッピイー川とロッキー山脈で挟まれた広大な地域であり、更にロッキー山脈以西は少なくとも米人未踏の地であり、時の第三代大統領トマス・ジェファソンは、メリウェザー・ルイスとウイリアム・クラークに西海岸(太平洋岸)までの探検を命じた。
 この一行の中にガイド兼通訳としてフランス人とその妻で先住民族のサカジャウィーアという女性、それにその生まれたばかりの男児も同行した。これは米国人だけでなく、他民族融和の一行だった。一行がロッキー山脈を越えて西海岸に到達したところで、彼女は自分の出自であるショショーニ族と出会い、しかも今は若き族長となっている兄と邂逅する。つまり彼女は幼い頃拐かされたプリンセスで、正しく貴種流離譚だった・・・
 
 次回から、この「史実」の検証が始まる。

ルイス & クラーク探検隊のバイ・センンテニアル -その2-

 第三代大統領トマス・ジェファソンはルイジアナ地域取得の前から西部探索を計画し、大統領私設秘書のメリウェザー・ルイス陸軍大尉に探検術、動植物学、地理学、天文学、応急医学などの修得を命じた。ルイスは信頼する部下の中からウィリアム・クラーク中尉を副隊長に選び、総勢約40人が1804年5月14日にセントルイスを出発して西へ西へとミズーリ川を遡上した。
 そしてロッキー山脈を越え、翌1805年に西海岸に到達してクラットソップ砦を築き、そこで1806年に掛けて越冬して帰路に就き11月に帰還した。この大旅行の検証は以下のようになる。
 
史上初の大陸横断だったか?
 実はカナダ人のアレックス・マッケンジーが1793年にアルバータ州チペウィアン砦からブリティシュコロンビアのベラクーラまで横断し、ルイス&クラークの探検より2年前の1802年に探検記を出版していた。だから米国政府やルイス&クラークはその事実を知っていたはずであり、「米国領土内で」史上初という但し書きがつく。
 ルイス&クラーク隊は以後の開拓者、猟師、商人達の為の道を発見し、切り開いたのだろうか? 史家のトマス・P・スローターによると、実はルイス&クラーク隊はミズーリ川を遡って西へと旅をしている間に150人以上の白人に出会っている。そして隊よりも先に北西海岸に到達した、少なくとも13人の英人・米人の商人の名をクラークは記している。
 
民族融和の探検行だったか?
 クラークはヨークという名の黒人奴隷を召使いとして同行させ、正式隊員としては扱わなかった。又、道案内兼通訳として雇ったフランス系インディアンのカナダ人シャルボノとその妻でショショーニ族のサカジャウィーアも又隊員ではなかった。
 
凶悪なインディアンの脅威に曝されたか?
 彼らが遭遇した先住民族は善良だったとルイスはショショーニ族のことをこう記している。
「素直で、話が良く通じ、公正で、乏しい持ち物でも気前がよく、極めて正直で全く物乞いをしなかった . . .」
但し女性の貞操は余り大事にされず、夫のほしがる粗末な装身具と交換されることもあったという。

果たして探検行は成功し、成果は有ったのだろうか?
 ジェファソン大統領は200年前のこととは言え、今から考えればメルヘンじみた空想を描き、その確認を命じた。
1. アメリカ・マンモスの存在を確認せよ。
2. 昔ウェールズから渡ってきた白人を先祖に持つ先住民族がいるという言い伝えを確認せよ。
3. 旧約聖書に記されている古代イスラエルの「失われた十部族」の子孫が北米に渡ってきたという言い伝えの真偽を確かめよ。
4.大西洋と太平洋を繋ぐ幻の「北西古道」を探せ。

 一行はこれらの命令に何一つとして良いニュースを持ち帰ることは出来なかった。しかし正式隊員33名の内、1名がごく初期に熱病で死亡したのを除き、残り全員が詳細な記録を携えて無事帰還したのは、極寒・酷暑、猛獣・毒蛇、飢え、荒野・山岳行、地図無しなどを考えればそれだけでも大成功だったと言える。隊長、副隊長への報酬として、共に650ヘクタールの土地が与えられ、ルイスはルイジアナ準州の知事に、クラークはミズーリ準州の知事となった。

ルイス & クラーク探検隊のバイ・センテニアル -その3-

サカジャウィーア
 
彼女の本名は判らないが、1786-88年に現在のアイダホ州でショショーニ族として生まれた。13歳のときにミズーリ川のスリーフォーク(三川合流地点)付近でヒダツァ族に捕まえられ現在のノースダコタ州ビスマルクに在った彼らの集落に連れて行かれた。「サカジャウィーア」という名前はヒダツァ族が付けた名前が元になっている。
 ヒダツァ族は先住民と取引するフランス・先住民混血のカナダ人トウセン・シャルボノに彼女を売った。ルイス&クラークは彼を道案内として雇うことにしたとき、「妻」も同行するよう求めた。妊娠していた彼女は1805.2.11日、難産の末、男の子を産み、背中に背負って旅を続けた。
 一行が太平洋岸に到達した後帰途に就いたとき、シャルボノとサカジャウィーアと男の子はヒダツァ族の村に留まった。そしてシャルボノは報奨として500ドルと130ヘクタールの土地を貰うことになった。しかしサカジャウィーアは何も貰わなかった。後に彼女が報奨金を貰いにセントルイスまで行ったかどうかは判らない。ここから彼女の消息は途絶える。そして諸説が生まれることとなる。
 まず、彼女をジェイニイという愛称で呼んでいたクラークは彼女が1812年に亡くなったと信じていた。現に、ミズーリ川毛皮会社の書記ジョン・ラティッグが1812.12.20日の日誌に次のように記している。
 「今夜シャルボノの妻が可愛い女児を残して発疹チフスで死亡した。享年推定25歳。砦で一番善良な女性だった。」
 次に、1905-1936年にかけて、ワイオミング大学の研究者が多くの聞き取り調査をした結果、1882年12月にワイオミング州ワインドリバー先住民保留地において100歳で死亡したショショーニ族の女性をサカジャウィーアと断定した。これには補強者もあり、1925年にサウスダコタ州にある先住民局はスー族出身の医師を派遣してワインドリバー先住民保留地の女性達を調査した。その結果この医師もこの女性をサカジャウィーアと断定した。それでサウスダコタ州は彼女の亡くなった地に記念碑を建立した。
 では、どちらが本当のサカジャウィーアなのだろうか? 或いはどちらも本当の彼女ではないのだろうか? これに関しては第三の説がある。シャルボノにはもう一人先住民の妻がいた。それは本当らしい。そしてその妻が1812年に死亡したというのだ。そうすると100歳まで生きた方が本物ということになる。
 ルイス&クラーク探検隊への彼女の貢献を考えてみると、行く先々で出合う各部族との通訳として不可欠の存在であったのは言うまでもない。厳密に言えば各部族毎に異なる言語を話してはいたが、違う部族同士でも何とか意思の疎通は出来たようだ。
 次の彼女のお手柄としては、1805.5.14日にシャルボノの操船ミスでボートが転覆したとき、彼女の機敏な動きで書類・道具・書物・医薬品・物々交換用品などの貴重品の散失を防いだ。
 彼女の最大の功績は彼女の存在そのものであった。先住民達は戦に出掛けるとき決して女・子供を伴わない。探検隊に彼女とその子供がいるのを見て彼らは安心し敵意を抱かなかった。彼女の功績を認めたルイス&クラークは1805年の冬にはミーティングにおいて彼女に発言権を与えた。
 確かに彼女は生前に国家から報われることはなかったが、探検行から200年を迎える頃から彼女の功績を認める気運が高まり、2000年に彼女を彫った1ドル硬貨が発行され、2003年には国会議事堂に彼女の彫刻像が安置された。彼女はシャルボノのように土地も報奨金も貰わなかったが、それを遥かに凌ぐ栄誉に浴した。

ルイス & クラーク探検隊のバイ・センテニアル -その4-最終回

サカジャウィーアの遺児
 サカジャウィーアの子供の名前は判っていた。ジーン・バプティスツ・シャルボノという。しかし母親のサカジャウィーアすら後半生のことは不明なのだから、その子供のことなど判るはずがないと諦めていたが、インターネットで検索すると、母親よりも詳しい情報を得ることが出来た。この作業で迂生は二つの教訓を得た。
 一つは、我々は米国を建国たかだか二百数十年の新興国と見下すが、彼らは十分それを承知し、昔の記録を大事に豊富に保存している。翻って我々日本人は同じ江戸時代の記録を彼らほど大切にしているだろうか。
 もう一つは、インターネットの威力である。迂生が駆け出しの頃は金と時間を掛けて国内外へ資料の収集・閲覧に出掛けていった。そして原稿用紙に手作業で原稿を書いていた。それが今、我々は世界中の情報を研究室や書斎で居ながらにして閲覧することが出来るようになり、ワードプロセッサを用いるから、今の研究者は昔の何倍もの業績を上げることが出来る。先輩達の労苦を思うと、我々はもっともっと質の高い仕事をしなければならないと思う。
 
 さて、ジーン・バプティスツの話に戻る。ルイス&クラークが1804年10月にヒダツア族の集落に着き、そこに居たシャルボノとサカジャウィーアを雇うことにしたとき、彼女は妊娠六ヶ月だった。そして1805年2月11日、現在のノースダコタ州のフォート・マンダン(マンダン砦)で男児を産んだ。このお産は長時間に亘る難産で、ルイスは砦の人たちに相談し、ガラガラヘビのすりつぶした粉末を水に混ぜて彼女に飲ませた。ルイスはこの「薬」に懐疑的だったが、彼女は服用して10分も経たないうちに出産した。
 ジーン・バプティスツは健康で活発な男児で、生後55日で母親の背に負われて4月7日に砦を後にし、ロッキー山脈へと向かった。クラークはジーンを可愛がり、ポンピィと呼んでいた。西海岸に到達した後一行が帰途に就いていた1806年7月25日、イェローストーン川南岸で、珍しい形をした砂岩に出くわし、クラークは1歳半になっていたポンピィに因んで「ポンピィ・タワー」と名付け、自分の誕生日である7月25日の日付と自分の名前を彫り込んだ。これは現在ガラス板で覆われ、この探検隊がここを通った事を示す、現存する唯一の記念品として保存されている。この砂岩は現在「ポンペイの柱」と呼ばれている。
 クラークはヒダツア族の集落まで戻ってきて、シャルボノ&サカジャウィーアと別れるとき、 ジーン・バプティスツを連れて行くと言ったが、両親はウンと言わなかったので、後日連れてくるようにと言った。1809年にシャルボノ&サカジャウィーアはジーン・バプティスツを伴ってセントルイスへ移り住んできた。しかし二人は「都会」生活に馴染めず、1811年に子供をクラークに預けて西部へ帰っていった。
 ジーン・バプティスツはクラークが後見人となって学校へ行き、フランス語・英語・古典・歴史・数学・科学などの教育を受けた。しかし知的職業に就くことなくカンザス州でフロンティアの生活に戻り、そこで折から学術使節として独逸から来ていたヴュルッテンベルグ公国のパウル・ヴィルヘルム王子と出会った。高等教育を受けながらも自然の中で生きるジーン・バプティスツに関心を持った王子は、彼を独逸に連れ帰った。独逸へ行ったジーン・バプティスツは王子の許で6年間宮廷生活をし、古典の研究を行った。
 深い教養を修め、一度は白いリンネルに身を包み赤い絨毯を踏んだ身でありながら、1829年、米国に戻った彼は発展途上にあった米国の必要とする人材ではあったが、デスクワークや安楽の道を歩まず、再び西部の原野に戻り、猟師・ガイド・探検などを行った。その中には1846-47年に掛けてメキシコ戦争に出兵するモルモン部隊をニューメキシコからカリフォルニアまで案内したこともある。そしてカリフォルニアの新興地で村長兼判事を務めたこともあったが、彼の主たる関心事は金鉱を掘り当てることであった。しかしそれは報われることがなかった。そして1861年までカリフォルニアのオーバーンに在ったオールリンズ・ホテルに勤めていた。
 それから彼は1866年にオーバーンを去ってモンタナへ金鉱を掘り当てに出発したが、途中で肺炎に罹って死亡し、オレゴン州ヨルダン渓谷のダナーという寒村の共同墓地に葬られた。当時61歳は長旅や金鉱探しをするには高齢だった。1973年にこの墓地一帯は国定史跡に指定された。