河崎洋志
河崎洋志
中原先生の奥様より「私の履歴書」という冊子を頂きました。中原先生の口述を10回生の松本晴彦先生がまとめられたものです。奥様によれば「皆さんで読んで下さい。」との事でしたので、松本先生の許可を頂いて、「私の履歴書」の内容を転載いたしました。また「私の履歴書」に写真もありましたので、あわせて転載いたしました。本文は写真の下にあります。
ボォーという腹の底に響きわたる汽笛の音、一段と激しくなった水をかき分ける音、船尾からは盛り上がるように吐き出される白い泡、その内に「蛍の光」が流れてきました。
あぁー遂に来る所まで来てしまったと、覚悟を決めました。
昭和十二年十一月の頃でした。その日私は、ふとしたはずみでと申しましても、単に以前から一度汽車に乗ってみたかったと云う、それだけのことで、広島の駅から列車に乗ってしまったのです。勿論、無賃乗車ですがね。ほんの二つか、三つ隣の駅で止まったら、さぁーと線路へ降りて、戻ってくる積りでした。所がこの汽車は下関行きの特急列車でした。どんどん先へ進んでいきましたね。岩国とか、小郡とか停車はしましたが、要領を得ないで、まごまごしている間に下関まで来てしまったのであります。いつの間にか人混みの多い方へと付いて行く内に関門連絡船にも乗り、門司駅を経て門司港に参りました。こうなると動物の本能みたいなものですね。またしても人が多い方へと付いていったのです。タラップを登ると、これがまた大きな汽船でした。中国大陸への外航船に乗っていたのであります。
年は十四才、尋常高等小学校を卒業した年でした。この年の七月には北支事変が勃発し世の中も騒然としておりました。恐らく中国(当時は支那)を目指す民間人も多数おられたのでしょう。結局、私はこの時家出をしたことになりますね。今の家庭でこのようなことは、そりゃあとでも考えられないことでしょうが、まずは当時私の置かれていた環境を、お話ししなければ理解して頂けないでしょう。
大正十二年二月十五日、私は広島市街に生まれました。後に原爆が投下された地点の近くです。五人兄弟の四番目です。
父親は帝国人絹に勤めておりましたが、仕事の無理が祟ったのか、床について間もなく亡くなってしまいました。私が九才の頃であったと思います。従って物心がついてからの家は大変貧しかった訳です。
母が家政婦の仕事で貰ってきた一切れの羊羹を、包丁で正確に五等分してくれるのを、かたずを飲んで見守っていたのを、よく憶えております。近所の銭湯へおがくずを運んだり、兄と新聞配達に行ったのもこの頃でした。
住んでおりました家は、よく雨漏りがしました。ある時学校の作文に、少し大袈裟に私の家の雨漏りは一夜で盥一杯の水が溜まりますと書きました。これが母親に知れまして散々に叱られましたね。お陰で私は以後作文コンプレックスになりました。
このように話しておりますと随分大人しい子供に育ったかに思われるかもしれませぬが結構に無茶も致しました。
学校の潮干狩りに行った日のことでした。その頃は新聞社から時折り活動写真の無料招待券が送られて来ました。友達を誘って抜け出し見に行ったのですが、夕方になって家へ帰ると、これが大変、海で行方不明になったと云うことで、消防団の人やら、警察が来ているやらで、えらい目に会いました。
遠足では岸辺にあった小舟を漕ぎ出し、川の中程で右往左往している所を先生に見付かり油を滲られたりしたものです。
あんまり度が過ぎる時には家へ入れてもらえません。一計を案じて、近所の大きな家の窓ガラスに石を投げて割りましたね。そこの親父さんが怒って、私を掴まえて家に談判に連れて行きます。これで家の中に入れる訳ですが、その後が問題です。母親は私の首根っ子をぎゅうと押さえ、二人の兄達に手足の動きを封じさせ、包丁を見せて、「これ吉晴、出刃包丁だぞ」と云ってピタッと首に当てられた時には度肝を抜かれました。その次は焼処ですね。その他にも記憶すべき焼処の跡が幾つも残っているのであります。母親も仕付けには随分と手を焼いたようです。
さて話しは戻りますが、船に乗ってしまった私は、家に帰ればさぞひどいお仕置を受けると思うと、このまま船に乗っていた方が安全ぐらいに考えておりました。尤も家の貧しさを思えば、そのまま生活を続けることへの生物学的な不安から逃避したと云えるかも知れませぬ。十一月の玄界灘は、さすがに寒かったですね。今思えばチカチカ波間に見えたのは釜山の街の光であったかもしれませぬ。
朝から何も食べていなかった私は、美味しい香りに誘われたネズミのように厨房のあたりをうろついて居りました。そこで遂に見つかってしまいました。青木さんという船員さんでした。親切な人で「この船は今から大連と云う所へ着く。その港で叔母が旅館を出している。そこで待っておれば、今度この船が台北を経由して戻る時に、日本に連れ帰ってあげる。」と云われました。保証人になってくれたのです。芙蓉旅館と云う所でした。
私はすっかり元気を取り戻しました。旅館は丁度人手不足の折り私も一生懸命働きました。
ここまでは順調に行っておりましたが、そこから先が、よろしくないのです。流れの三人の写真屋グループに誘いを受けたのです。
「叔父さん達は、今からアジア号という汽車に乗って奉天と云う所へ行く、面白いから是非ついておいで」と云うのです。
アジア号は当時の満州鉄道が世界に誇る大型の機関車に牽引される最新型の長距離列車でありました。内地に住んでいた私でさえ知っていた位ですから、それは夢のような話しです。申し訳ないとは思いましたね。芙蓉旅館には、たった四日間居ただけで、黙って後にしました。写真屋グループの人達は奉天では仕事にならず、再び一路南下をしました。渤海湾に沿って大活(タンクー)を経て天津に入りました。途中は殆ど無蓋車で日本軍の兵隊さんであふれ、機関銃が備えられていました。動乱の最中へ入って行った訳です。別に怖いとは思いませんでした。かえって子供の私を兵隊さん達が随分可愛がってくれました。
天津で開業した三人の写真屋は随分と繁盛しました。前線の兵隊さん達が写真を撮って故郷へ送るからです。私は焼付けの水洗い、スタジオの掃除、集金と忙しい日々を送りました。
昭和十二年十二月十二日十二分の瞬間に天津にいた事を今も鮮やかに記憶しております。戦線は拡大し、私達も後を追うように移動しました。黄河流域の済南(チーナン)と云う街が最後でした。ここで今迄、連れて来てくれた三人の写真屋は、突然と姿をくらませてしまいました。その置去りにされた理由は今でも分かりませぬ。結局ここで憲兵隊に保護された私は山東省の青島(チンタオ)に送られました。青島には高橋写真館と云う、大きな写真館があったからです。ここでは月伍円の給与をもらい一年半勤めました。港には連合軍の極東艦隊もあり、各国の水兵達が店を訪れました。「ワンダラーハーフ」と代金が請求出来るようにはなりましたが、もっと英語を勉強しなければと思い「井上英語講義録」を一円二十銭出して内地から取り寄せたこともありました。当時はタンゴが流行し始めていました。港の桟橋のたもとに、楽器店があり、そこに売っている、ドイツ製のハーモニカが欲しくてなりませんでした。三円か四円していましたか、とうとう買う事が出来ませんでした。
昭和十四年六月私は勉強しなければならないと思うようになり、一方では写真館を開いて商売が出来るかもしれないと云う、いささか安易な考えもありましたが、内地へ帰ることに致しました。結局、写真館の方は資金面でとても駄目と分かりました。実現できませんでした。
広島へ戻った私は、さすがにスゥーとは家に入れませんでしたね。広島の駅を出てから二年余り一度だって家に便りを出した訳でもなく、家の敷居を越えるのを随分ためらっていました。
帰宅して一ヶ月後、私は昔父親が勤めていました帝国人絹の研究所に職工として入りました。研究所の結果はライカのカメラで写し、発表することになっておりました。私の写真技術が役に立ちました。この研究室の室長でありました岡田先生にお会い出来たのは本当に幸運であったと思います。先生は、私のことを中原君と呼んでくれました。職工の私を君付けで呼んでくれることに、大変感銘を受けました。教育を受けると人はかくもあるのかと思いましたね。研究室に勤めながら翌年の春、昭和十五年四月、広島市立第二工業学校応用化学科夜間部へ入学致しました。
後に分かった事ですが、この学校では当時広島文理科大におられました川西弘晃先生に国語を教わりました。
昭和十六年四月岡田先生の勧めで広島文理科大柴田研究室で仕事をするようになりました。ここには私の生涯では大きな転機を与えてくれることになる二人の学生が勉強をしていました。一人は酒井 馨先生であり、もう一方は後年数研出版社より発行されるチャート式化学の初版本を共著することになる小林正光氏(後年神戸大教授)であります。私は副手の身分になりましたが、もっぱら研究室のビーカー洗い等の手伝い仕事をしておりました。時に講義を受けましたが、とても難しく理解出来ませんでしたね。それでも夜学に通いながら勉学に励みました。
昭和十六年十二月、真珠湾奇襲攻撃が行われ、日本はいよいよ太平洋戦争に突入しました。
昭和十八年十二月広島市立第二工業学校応用化学を三年間で繰上卒業することになりました。翌年の二月には呉海軍病院病的検査所に配属され、その後は衛生兵として軍医と共に、マニラ・シンガポールと派遣されました。戦況は次第に厳しくなり、いずれの地も離れると間もなく連合軍の手によって陥落しております。最後はニューギニアのアンボン島で終戦を迎え現地で捕虜となり収容されました。
この間私は軍医のもとで、マラリア・アメーバ赤痢等の熱帯医学の治療に携わっておりました。病理組織の染色にギムザ染色液と云うものがありますが、次第に入手困難となり染料より代用品を造り出しました。夜学での知識が役に立った訳であります。お陰で二階級特進の栄誉を受けました。
昭和二十一年ニューギニアより復員しました。既に広島は荒廃の極みに達しておりました。私の兄弟では長兄と弟が被爆し、二人は後にこれが元で亡くなっております。
復員して来た時母は私に職人として生るかサラリーマンの道を選ぶか話しをしてくれました。「片方が良い時は、他方は良くないものだよ」と付け加えてくれたのを憶えております。
この時、心に焼付いていたのは岡田先生の人に接する時の態度でした。教育を受けた人の心の豊かさに惹れていたと申し上げた方がよろしいかもしれませぬ。
母は私の書物を土に埋めて保存しておりました。残る数ヵ月私は必死の思いで受験勉強に専念しました。裸電球の下で、ミカン箱を机代りにし、暖も取ることが出来ないので、寝床は敷ぱなしの状態でしたね。
昭和二十二年四月、甲斐あって広島高等師範学校理学部化学科に入学出来ました。学生になった私は二男の兄より示唆を受けまして古紙の回収をアルバイトに行いました。当時パルプ材の原料が極端に不足しておりました。
あまりおおぴらには、お話ししたくないのでありますが、これが当りまして立ちどころに万単位のお金を手にすることが出来ました。動乱の世の中で儲けたお金と云うものは、使うのも派手になり、殆ど残りませんでしたね。
師範を卒業して、さて就職となりました。親友で奈良県出身の方が居りまして、吉野の高等学校で先生を求めていると紹介がありました。西行ではありませぬが、吉野と云えば桜の名所、その花の下で乙女達を相手に先生をする。ロマンチックな発想と云いますか、それとも再び漂泊の思いが沸いて来たのか、深くも考えずに、承諾を致しました。
所がそこはすごい山の中にある学校でした。当時、新宮よりプロペラ船で七時間昇りつめた川原に学校の船着き場がありました。県立十津川高等学校は、それでもこの十津川流域では中心的な村落にありました。交通は不便な所でしたが、森林地帯で河も流れており日本でも有数の木材生産地を形成しておりました。経済的にも豊かな所でした。素朴な土地柄でした。夏には生徒達と鮎を取りに行きましたね。村の人々に受け入れられ充実した時を過ごしたように思います。ここでは避地教育に力を注ぎました。そのため偏差値を取入れました。自分の教えたことの理解度をフィードバックすることにより効率的な学習指導を目指した訳です。地方の研究会でその成果について何度か報告致しましたが、その手答えは未だ一つの感がありましたね。後にはコンピュータを早くから導入し結果を直ちに得ることが出来るようになりました。この手法は金大付属高等学校在任中にも用いて、皆様方生徒さんのお役に立てることが出来ました。十津川では化学の授業で完全に理論でないものは、歴史の年表を憶えると同様の方法で身につけさせることにしました。周期律表の暗期の仕方等、皆様の記憶に残っていますかどうか。殆どは十津川時代に作ったものです。
この地で私は結婚をして居ります。妻は丁度十九才でした。はばかりながら実は私の教え子なのであります。土地の有志がこぞって結婚を祝ってくれました。このまま私は十津川の人間になっていたと思います。村の人々もそのように考えていたかもしれませぬ。
ところが酒井 馨先生が金大附属高等学校を離任されることになり突然、後任としての意向の打診がありました。付属高校は既に進学校として全国的にも有名でした。この時は、さすがの村長も同意をしてくれました。何故に私が指名を受けたのか分かりませんでしたが酒井先生が母校に問い合わせた所、私の名前が出たようであります。また、県立奈良高等学校の佐藤先生(酒井先生の同期生)からも同様の推薦があったそうです。酒井先生はすぐに副手として勤務していた頃の私を思い出し、彼なら後を任せてよいと考えられたようです。後に酒井先生に何故に私を推して下さったか尋ねる機会がございました。「君は相当に勉強していたからね」と云われました。
付属高校に着任して、三年間程は緊張しましたね。教えた事は理解が早く、丁度親鴨の後についてくる子鴨のように、ピタッと頚の後に張りついている感じさえしました。
北本朝史君なんか反応速度の解法に微積分を適用して来るなど、こちらも懸命に勉強しましたよ。その彼が卒業間際に「化学の方へ進みたい」と云われた時には、強い印象として残っています。
ここでの授業にも暗記させる部分もありましたが化学の理論を教えることが出来ました。量子力学の一部を教え始め、成果を学会で発表したのは、付属高校に来て十年目も過ぎた頃だったでしょうか。
昔柴田先生(文理科大)に、どのような先生が良い先生か質問した事がありました。
その時このように答えられました。「教室に入ってまず自分が燃えていなければ相手を燃やすことは出来ないよ。と同時に、ローソクに火を点すようなもので、燃える素材でなければうまく行かないよ。」二十七年間の付属高校の在任中私は一日も休んだことはありませんでした。健康に恵まれていたこともありますが、毎日が気持ち良かったからでしょう。教師として生きて来たこと、振り返ってみて有意義であったと思います。自分の性に合っていたのですね。随分と道草もしましたが結局はすべてが役立ち人生には無駄と云うものはないようですよ。まだお話ししたいこともありますが大分長くなりました。ここらで一旦は終りにしたいと思います。
(平成七年二月収録)
付記
中原吉晴先生の口述を編集し、松本晴彦が要約して記したものです。先生の意を充分に表現していない所もございますが、何卒御寛容の程お願い申しあげます。
表紙の中原先生
表紙のタイトル
青島の高橋写真館時代
広島高等師範時代
広島高等師範時代
(原爆ドーム前にて)
県立十津川高校時代
妻とともに、中国桂林にて