私が以前主治医をさせていただいていた患者さんからお便りをいただきました。大変素晴らしい文章ですので、是非ホームページに掲載させていただきたいとお願いしました。
躁うつ病との出会いとたたかい
現代の病気の中でも注目されつつあるうつ病という病気、案外日本人の多くの人がかかりやすい要素を持っていると言われています。
私の場合このうつ病と出会ったのは27才の時でした。病院で受診するまで多くの日々を過ごしていた私はなかなかその勇気がもてず内科を転々と尋ね自律神経失調症と言われていたのです。しかしいつまで経ってもすっきりしない身体の症状に思いきって神経科を尋ねると、その時はじめて「うつ病」だと聞かされたのです。しかも私の場合そのうつ状態の前にある一定の期間何でも物事に積極的に取り組めて疲れ知らずに動き回る元気な躁状態があることも同時に聞かされたのでした。
躁の時は症状が軽く、逆にうつの時は重い為その時は苦しんでいるということでした。自分でも二.三ヶ月程とても元気に過ごせることは自覚していました。しかしその反動なのか後にやってくるこのうつの状態は本当に苦しいものなのです。
このうつの時の身体の苦痛は言葉で表現することの出来ない程のもので、私はその時の先生に必死で「先生助けて下さい。」と懇願していました。躁とうつこのことばをこのときはじめて耳にしたわけです。それでも私はそれまで気の持ち様だと回りの人から頑張るように励まされていたので・・・はじめてこの身体のだるさ、頭の回転の鈍さ、気力のなさ布団の中でもぐり込んだまま朝になっても歯みがきも着替えも出来ず情けない話をしたら「それがこの病気なんですよ」と先生にはじめて気持ちをわかって頂けた様で気が楽になったことを覚えています。
気力で何とかなるものではなくもっと何か不思議な力が働いているという様に思わざるを得ませんでした。手足の動きや顔の表情など細かいことまで脳から信号を送っているためなのか理解に苦しむことばかりでした。
元気でいる時に友人といろいろ約束をして楽しみにしているのに急にうつになって約束が果たせずそれまでと全く正反対の生活をしているのですから、自然と離れてしまう友達も多くなりました。信用がなくなってくるのです。もうこの波が何度も繰り返されると信用をなくすのはあたり前のことです。それでも私には何ともできないのでした。
病院にかかる様になってからは、私の様な症状をかかえて生きている人たちにも多く出会う様になりました。けれども簡単には波はおさまらずその後も躁とうつこのことばとは縁の切れない日々を送っている私でした。
我が子が育っていく大切な時期に肝心の母親がこんな身体なんて神様はいじわるだと思わずにいられませんでした。もしもほんとうに神様がおられるのならどうして私をこんな目にばかりあわせるのか聞きたい、そして病院で同じ病気の人に出会ってもみんなこんなにいい人ばかりなのになぜ苦しめるのか・・・聞きたい思いでいっぱいでした。
うつになるとどうしても自分のことを責めてしまい、病院に通っていること自体人に甘えているからだとか、やっぱり気の持ち様ではないかと言われると、自分自身のことも家族のことばもだれのことばも信じられなくなって行きました。
人間はこんなに苦しくても生きて行かなくてはならないものなのか、人間は幸せになるために生まれてきたのではないのか、ほんとうに神をもうそれはうらむような気持ちでした。
子どもは小学生になり、私も発病してから六年近く経ちました。子どもはそれぞれに成長し、母はなくとも子は育つではないけど、元気な小学生になっていました。しかし私の方は運命の糸にあやつられるかの様に躁とうつを繰り返しているのでした。
きちんと予防薬を続ければ良かったのに、自分の気力で治すと言って薬をやめてしまってはまた再発するという悪循環を繰り返していました。簡単そうに思えても何年もの間薬を続けて飲むことは私にとっては容易ではありませんでした。「西洋医学だけを信じるのはどうかと思うよ。」とすっきりしない身体と副作用に悩まされていた私は友人のことばに右に揺れ、もっときちんと薬も飲んで継続しなければ効果だってしっかり出ないと言う家族のことばに今度は左に揺れているのでした。
だれのことばを聞いてもいったい私自身はどうしたいのだ・・・と自問自答の日々です。
正直言ってもうどうにでもなれという程、自分の人生を投げてしまっていました。この頃の私は、家族の目から見ても何の魅力もないどうしてやり様もない・・・いっそのことひとりでどこかで勝手に生きていくかとまで言われていたのです。家族がそう思っても仕方のないくらいひどい姿の私でした。
家族の重荷になっていることや、こんな私でも母親だと言わなければならない息子のことを思って遠く離れたところに旅立ちたいと何度思ったか知れません。
躁うつ病にかかってから、十三年という月日が流れ、子ども達は中学生になりました。予防薬は安定して飲むようになりましたが、最初の頃のような激しいものではなくても、波は続いていました。小学生だった六年間は、地域のことやPTAなど典型的に躁の時は積極的に出向き、うつになると、ピタッと出られなくなるので不思議がられるのです。元気に「おはようございます。」と声をかけてもちょっといつもと違うんじゃないと言われたりすることはよくありました。
私はこの病気にかかってからずっと子育てをしています。というよりも私はただ母として居るだけで子どもの方から育っていくのでしょうが、小学校も中学校もとうとう九年間躁うつ病のままでした。躁状態でひとり京都の街を歩いてどうしても家に帰りたくないと主人や母が迎えに来てくれても、息子が来てくれても言うことを聞かず、病院のお世話になったことがあります。たとえ我子が側に居てくれても母としての自覚を取り戻せない様な私なのです。子どもが学校で熱を出したのに迎えに行けず、送って下さった先生にも玄関であいさつすらできない程うつ状態だったことがあります。
自分のことを可愛いがれないでよく子育てをしてこれたなあと思うのですが、自分がかかえている不安とは逆に子どものもっている力が私を必要としなかった様に思う程成長してくれました。
私は躁うつ病の中でも特にその症状が典型的だと思います。躁になる時とうつになる時自分の気持ちや意志とは関係なく勝手に身体が動いていると思います。もちろんそれに合わせて気持ちも動きますがまずは身体から動き、身体から止まってしまいます。そしてそのあと思考が止まったり、気持ちが落ち込んでいくのではないでしょうか。実際躁状態の時は手の指先まで動きが違う様に思います。
私はピアノを少し弾きますが、躁の時はしなやかに指が動くと思います。うつの時にいつも経験するのは、しゃべらなくなるのは当たり前のようにやってきて、買い物に行ってもかごを持ったまま、何にするか決まらないので何も買わずに帰ってくるということです。完全に考えがまとまらなくなってしますのです。
字を書くことにも差があります。日常生活の細かいことも躁の時とうつの時でははっきりしています。単純と言えば単純な病気なのです。こんなに何年も苦しんでいなくても流行の風邪の様に一週間も経てばケロッとしていそうな病気なのです。
今年長男が義務教育をおえました。この子はもう物心ついた頃には母親がこんな状態だった訳です。だれだって親を選べませんけれど、私だって子どもを産むまでは別人のように健康だったのです。自分が選んでこの病気を与えて下さいと言ったこともないのです。主人だってそのはずです。健康だと思って一緒になってくれたに違いありません。
でも最近私は思うのです。四十路に入ったからかもしれないけど、半生を振り返って二十才ぐらいまでは自分のことが好きで前向きでした。それからあとの二十年間ぐらいは病気との出会いもあってか自分のことは嫌いになりどうしても前向きになれなかったのです。
涙の数もずいぶん違ってほとんど泣くことのなかった私が子どもを産んでから泣いてばかりでした。これは不思議なくらい一生のうちで流す涙の量が決まっているのではないかと思う程、躁うつ病と出会ってよく泣きました。ですから風邪やはしかと同じで一通りかからなければならない病気だったのかもしれません。私が現在の状態で完治しているとは言えませんが、もうこれで充分という程経験できたのではないかと思っています。
「死」ということばも当然浮かんでくると言う最悪の日々を通り過ぎてきたから、それでも生かされているのはもう私には「生」ということばしか浮かばないからなのです。
恥ずかしながら、実際にもうこれ以上病気と共に生きていくのが嫌になり、その時大量の薬を飲んでしまいました。幸か不幸か家族には遺書まで書いたものの、ゴミ箱に捨てられていて吐き戻した薬は、牛乳と間違われ、顔や頭にひどいけがをしたのは薬のせいでなく普段からよく目まいがするからそれで転倒してのこととなっていました。気がついたら集中治療室で、病院の先生だけが「どうしてあんなに薬を飲んだの。」と聞かれるのでした。私は家族には知られないまま、命も助けて下さって・・・とだれに言って良いかわからないけど、こんなひとりの生き方をどこかで見守っていてくださる方に、それは神様かもしれないし、私よりもっとひどい躁うつ病で苦しんでいる人かもしれないその方にことばにならないことばでお礼を言っているのでした。もちろんあの世に行くつもりで本当に薬を飲んだのですが「生きろ」ということなんだ・・・自分がおそろしいことをしていながら、だれかが「生きろ」と背中を押してくれているようで本当に孤独でどうしようなくみじめなひどい状態だったけど、だれにも私の真意を知られなかっただけにほんとうのひとりぼっちになっただけに私にしか聞こえない、不思議なだれかとの会話だったのかもしれません。
悟りというと大げさだけど、この時を境に私は落ち着いてきました。
それまでの好きだった頃、嫌いになった頃とはまた違う別の感情でいとおしくなってきたのでしょうか。自分のことばかり考えて回りに迷惑ばかりかけているこんな私だけど、それでも懸命に生きていることがいとおしいのです。もう充分という程私なりに生きてきた気がしました。私などは逃げてばかりだしもっともっと苦しい思いをしながらも懸命に生きている人はたくさんいると思うけれど、私は私で一生懸命でした。
躁うつ病という病気は直接「死」につながる病気ではありません。人一倍働くこともできるし、人の何倍もの早さで人を好きになることだってできる、また激しく落ち込んだり、動けなくなってどん底にいてもやがて波が来てすくいあげてくれる時がくる、そんな不思議な病気なのです。だれにも信用されなくて、元気でいるかと思えば、戸を閉めたまま眠っている、失くした信用は、一生かかっても取り戻せないかもしれないけれど・・・特に身内の場合の信用は尚のこと・・・(金銭面で躁状態の時に何度も派手になっているので)それでも私はここまで病気とつきあっていると、こんな病気でも嫌いになれないのです。躁うつ病はもう今では私の身体の一部です。個性とか自我の様なものが人間にあるとしたら、私の場合、躁うつ病も含めて私の個性だと思いたいです。死んでも死にきれないし、治りたくてもどこまでも私にくっついて離れないのだから一緒にいるしか、一緒に生きていくしかないように思います。
本当に不思議な病気です。脳の病気ということはわかっています。でも神経からくるのでなく勝手に身体がそうなっていくのだから私は身体の病気に近いと思います。
世の中には、いろいろな病気があって人々を苦しめます。病気が何故起こるのか本当にはわかりませんが、もしこの世で起こることのすべてに意味があるとしたら、この病気にも意味があるはずです。
私も病気になって多くの物を失いました。仕事であったり、お金であったりいろいろです。でも失った物は目に見える物で、やはりこの目には映らない物を得た気がしています。人の心の痛みや、やさしさ、思いやりそういった物です。大切なものは目には見えない様な気がして、そしてもしかしたら一生あるいは死んでももう消え失せることはないかもしれません。そう思ったら病気になって失ったものより、はるかに大切でかけがえのないものを手に入れた感じがするのです。
以上の様な内容が私が躁うつ病と出会ってから今日までのたたかいをまとめたものです。たたかうというより、これからはもっとうまく仲良くこの病気とつきあっていかなくてはなりません。
そしてここで声を大にして言いたいのは、躁うつ病という病気が世間の目を気にして社会に適応しないからと疎外感を感じることなく、もっと与えられた個性を活かしのびのび生きることができる様になりたいことです。
決して悪い面ばかりでなく、むしろ最近忘れがちな素直な心や思いやりのある人が多くかかっている様に思うので、本来人間にとってとても大切な面を持ち合わせているのだから、もっと堂々としていたくてこの様に書いた次第です。今の社会で生きていくためには鍛えなくてはならないことも多々ありますが、根底に必要なのは素直な心の様な気もするからです。躁うつ病の解決にそれを仕事として下さっている加藤先生につたない文章ですが、近況と合わせて報告致します。