山陰沖の幕末維新動乱

大西俊輝 著 ISBN 4-7733-5804-1 1996年刊

知夫村、後醍醐天皇地蔵菩薩増縁起
知夫五輪塔

お気楽に隠岐へ行ってみたら、深刻だった。
鎌倉にしても、鶴岡は源平池の八幡寺がこわされているし、歴史の授業では廃仏毀釈も習っている。
しかし、キリシタン狩りほどの勢いで行われたわけでもなく、先祖を祀る葬式仏教の次元で、住民は寺を維持するものだとは思っていた。墓も荒れている。
西郷の国分寺の伽藍にしても、太平洋戦争が終わってから、東寺に入って洛南中高を軌道に乗せた和尚さま砂原秀遍氏が地元に帰って昭和25年に復興させたものだという。しかも其れは平成19年に再度、焼失してしまっている。

隠岐の島町立図書館で、なんなのだろうと、司書の人に何冊か本を出してもらい、読んでみた。その一冊を帰りに、隠岐堂に寄って買ったのが、本書である。
これだけの図書館に本屋さんがあるのに、この廃仏毀釈という落差は、知がたち過ぎているからとしか言いようも無い。

薩長の志士ばかり持ち上げられるのは、致し方がないが、京都でも維新を知性の面で裏付けた、イデオローグが居た。
中沼了三という儒学者である。十津川にも縁が深く、同じように出身地の隠岐でも庄屋クラスや神官の信頼が厚かったとのことである。逆に言えば、一番の剪刀の切れ味に感化され、中庸を失ってしまったといっても過言ではなかろう。
中沼は天皇家の儒官として、光格天皇の行幸に、億岐家の駅鈴が使われるのを取り次ぐなど、深く入り、学習院の創設時の学者で公家を焚き付け、孝明天皇・明治天皇の持講として仕えた。

隠岐は天領でありながらも、親藩の松江松平家に預けられたような立場にあったらしい。その支配を島前は善しとしても、島後は含むところがあったらしい。それゆえ、その不満などは京都へ向く。
戸籍の管理や通行手形の発給などは、寺の役割である。島を抜けて、志士として学ぶなり活動をするような者どもに、松平の差配を受ける寺は邪魔でしかない。一方は倒幕であり、佐幕である寺には含むところも出てくる。
最終的に、松平家もなくなるわけだが、薩長なら藩が主体となって行った倒幕・尊皇攘夷の活動費用の弁済に対して、隠岐の庄屋や神官には活動費の裏づけもない。かといって、武家の世の中が終わって、士分に取り立て領地を拝領するような、恩功もない。京都への往復なども含めて、尊皇活動費は持ち出し、外国船への警戒などの農民軍組織の攘夷活動費も持ち出しである。
金ではなく、志といっても、実際、松平家などとの間に戦死者もだし、火災や打ちこわしといった経済的な被害も生じていた。
本書、333ページに「小田耕一郎翁の懐中談筆記」からの引用がある。「色々と口実をつくって廃仏を決行し、寺地を売って融通」、これは大変腑に落ちる話である。
しかし、寺に徳があれば、民は中庸に靡く。その徳はいかばかりであったか?そして、民といっても庄屋や神官といったプチブルが志士な訳で、本当の庶民には尊皇以上に寺はどう映っていたのかというのの、結論が廃れた墓地ということで結実しているのであろう。しかし、志士に被れても、中庸や徳を、儒学者が植え付けるのを忘れては矢張り教育も失敗としか言いようが無い。神も仏も、儒も無い。ご一新後は蘭学・実学には勝てないと思った。


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