2016-aug
方形立板横桟支柱式。鎌倉市街地は海成砂層に湧水帯があるため、素掘りでは崩れ易い。そのため木で井戸の枠を組む必要がある。水は跳ね釣瓶のようなものが使われた跡は見つからず、井戸を覆う屋根も周りに柱が見られないため無かったと思われる。大きな武家屋敷では複数の井戸があって町屋では道から遠いところに数軒で共同して使用していた。[中世都市鎌倉@170-172]
横穴式井戸、例えば銭洗い弁天などを考慮したほうが良いのだろう。また、大きな庫裏には家の中に井戸がある。時代は降りるだろうが、名刹の井戸掃除のblogを見ると、井戸の底が横穴式になっている。
隣家との境となっていた溝に合流し滑川などに流れ込んだ。川や海岸からは大量のゴミが見つかっている、青磁片や、常滑・瀬戸・地元の土器欠が、川から海へ流れ浜へ打ち上げられて現在でもそれらを拾うことができる。
中世都市鎌倉の環境によると、ポッチョン便所の遺構は人口に比して少なく、溝に直接していたのではないかという考察を加えている。
厠は「川屋」というわけである。
散在ヶ池は長さ400m幅33m最も深いところで30m1867年に大船千石の田を救った。
小菅谷の代官、梅沢与次右衛門が造ったと言われる。
散在ヶ池を造る時、岩瀬と今泉は喧嘩をした。今泉は「砂押川より高台にあるから使えない」「堰が切れたら今泉は水浸しになる」岩瀬が堤防を造ったがこの水を砂押川に流し、大船岩瀬の田を潤した。堰の権利は大船7:岩瀬3。話し合いで一番底の栓「泥栓」が抜かれる。これを抜くと1週間は水が出続け、田に水は困らなくなった。
北鎌倉の円覚寺などの裏山六国見山や、横浜市の最高峰大平山から集水する。大船駅から団地に行くバスがある。
夫婦池は旧深沢村笛田にある池、男池と女池の2つで成り立つ。上の池、男池に大雨の時にドット流れ込み泥が沈殿し、上澄みの水が女池に落ちるという仕組みである。
手広は耕地は広いが、水は笛田の三島神社の湧き水、大明神水と夫婦池だけであった。
手広は大塚川が近くを流れているがこれは宮の前のものなので、宮の前との喧嘩が絶えなかった。
手広と笛田とも水争いが絶えず、13年続いた後、裁判になった一審は笛田、大審院の明治13年第二百三十二号判決では、手広が勝った。
しかし、これらの耕地は昭和四十年代には皆、宅地になってしまった。
湘南モノレールが尾根になっていて夫婦池は直接には手広へ流れない。笛田の田を潤してから柏尾川へ抜けてしまう。
その川筋に直行するように、横須賀に丹沢の中津川の水を運ぶ「横須賀水道」が埋設された水道道が走っている。
地図とblockquoteは親の註釈