乗り越えるための工夫

2009-10-17


ハングリータイガーは好きな店であった。昭和 の50年代には保土ヶ谷の権太坂に行くのはイベントといえる出来事だった。平成一桁には馬込にも出てきた。Tボーンステーキなぞを覚えたのも この店であった。仕入れは米国だからと米ドルが使える変わった売り込み方もしていた。しかし、水戸から帰ってくると噓の様に消えてしまってい た。一番行きやすかったのは、民衆駅として出来た嚆矢の横浜駅ビル(CIAL) であったが、無くなったのはテナント替えかと独り合点していた。車に乗らないと権太坂は行きにくい。湘南を目指すにも、国道1号を走ることも 無くなると近寄る事も無いまま日が過ぎた。やっと岡田屋モアーズにあるのに気がついて、2010年に久しぶりにハンバーグにありついた。なん だ引っ越したのかと思い込んでいた。さすがにTボーンは無いかと悄気かえった。

2011年6月ブックオフで1冊の本が手に入った。
2009年に出た「小さくして強くなった  こうしてハングリータイガーは生まれ変わった」(FB 出版 ISBN978-4-903458-05-2)は、中田さんという経営に携わった一人によって書かれた企業再生の話である。最 近も焼肉店で腸 管出血性大腸菌の事例があった。ハングリータイガーも鉄板の余熱でジュージューやるのを演出するというのが、子供心を駆り立てる店で あった。しかし、2009年にも別 件があったように、「客に加熱を任せる事」「刻んだ肉・捏ねた肉」は十分な加熱が至らない場合があり、2000年正月にハングリータ イガーもやはり、O157の事例を抱えたらしい。死者を出す事は無かったが、米国でパテにしたハンバーグがO157に既に汚染していたという事例 であった。対策として、徹底した加熱を行ったが、固い焦げた以前のものとは異なるという代物であったらしい。調理法を改善し、元のフックラしたハ ンバーグを取り戻し、仕入れを豪州に切り替えるなど2000年は暮ていったとの話である。
この事案は上場直前の同社を立ち止まらせた。追い打ちを掛けたのは、2001年9月に発見された国内BSEの事案だった。ハングリータイガーに限 らず、様々な外食チェーンが痛手を負った。遡れば、失われた10年の最終コーナーでもあった。痛んだのは食品業界だけではなく、金融機関も余裕を 失った時代であった。売り上げが減るとなると、貸し剥がすかのように、銀行は店の清算を創業者の井上に迫った。倒産や会社更生法の道もあったが、 井上社長は社員の雇用や退職金を思いやった。そして、事業譲渡の先を探した。ある北海道のチェーンが東京進出を目論んでおり、横浜の周辺に居抜き で20店近くあったハングリータイガー社に興味を抱いた。
業態として重なる部分が無かった事、最初の保土ヶ谷店が自社物件であった事、代表的なジョイナス店がテナントとして継続を支援してもらえた事。こ の3つから、2002年春、大幅に店を小さくしながらも、ハングリータイガーは過渡期を雌伏しながら、生き延びる事が出来た。

店が激減したが、顧客は私のような薄情者ばかりではなく、何処に残ったと保土ヶ谷店などに押寄せたそうである。池干しした溜め池のコイやフ ナの様に。却って駐車場や順番待ちのトラブルが増したそうである。それでも、地場のレストランに対する忠誠心が強く、信頼を失いかけても顧客 が支えて、2002年の2月縮小直前の本店の売り上げ1億5千万円弱が、次の3月2億2千万円弱とO157の事案の直前の数字に跳ね返ったそ うである。

一方、買い取ったチェーンは2008年上場廃止の憂き目に了っている。ユッ ケ会社も、上場や売り上 げを急いだが、躓きのまま清 算するそうだ。解 雇予告金も無く、補償もどうなるか見通せない。
自分の店作りや顧客に応えるという姿勢があるハングリータイガーとは大きな違いがある。

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