補給を巡る話。兵を養うといっても、生産力に限界があれば、養えない。官衙の整備を海軍と陸軍を並列しながら書き起こし、教育要請も含めて軽視はしなかったと説明する。
鉄道・船舶から車両に至るまで、努力の跡を説明している。例を挙げると馬匹の利用についても、荷車が使えない国内の道路事情、日清日露でようやく二輪馬車を一頭曵きにすること、多頭曵きより自動車化を明治末から企図しており、馬の餌と自動車燃料は同じ糧秣廠の扱いから始ったことを書いている。昭和一桁では国内に占める陸軍の石油消費は少なく、糧秣廠での扱いで足りるほどであった。それが大きく変わるのは航空主兵でそれまで一斗缶が輸送の中心であったのが、ドラム缶の開発に乗り出し、官衙として燃料廠を整備する下りもある。
著者は仮装戦記で知られた作家であるが、こういう運のいい事があればという戦記ではなく、実際にあった組織的な矛盾を改変する事で、クスリと茶化す一方、現実世界でもその矛盾が戦後継続している事を例示しヒヤリ・ハットさせる作風である。
純然と国力だと、自動車の台数は作っても8万台。緒戦得られた鹵獲車両も追加は無い。
師団の数も急増し、「軍人」は716万人も居た。「一億火の玉」というが内地の日本人の人口は「7000万人」人口の1割より多い、男の2割にあたる人数が、生産の現場から引き剥がされる。その結果、生産は減りGNPは開戦前の段階で減ってしまっている。戦前のピークは昭和14年で勝っている昭和17年ですら3%も減っている。
兵を養っても、占領地に十分な消費物資を与えなければ、人心は離反する。その具体的な数字は下記の表である。物資欠乏で現地調達しようにも、現地の生活も賄えないのを、軍民が奪い合うと、本土の窮乏以上の塗炭を相手方に味あわせてしまう。
足らない労働力は日本本土であれば、植民地から連れてくる。お陰で、戦後連綿と続く、民族問題が重くのしかかる。自分だけが良ければ良い。その当時の辻褄合わせは、敗戦の事実より戦後に陰を落としている。日本に限らず、英国もフランスもイスラム化し有色人種が多く居る。植民地軍の軍人を使ったからだ。442部隊もまた戦後の公民権運動も、米国で真の人種差別が崩れ始めたのも、動員である。
街 | 物価指数:終戦時÷開戦時×100 |
---|---|
東京 | 154 |
ラングーン | 18万5648 |
収奪接収をしないだけでは済まないのである。軍票も裏付けとなる物資がなければ、各地はインフレになる。
開戦時のマレー戦は、万全の準備をして、航空機も英側の4倍用意し、3個師団に日本側は2000台以上の自動車を用意し、かつマレー南進の間2700台の自動車を鹵獲、統計手法で敵の物資補給所を明らかにしながら、ドラム缶も4000本得て燃料も鹵獲。自転車だけでは無いのである一方、すでに戦争が始まっていたのでインパールでは、暫時事前集積した物資は敵襲で焼き払われ、拡散した戦域故、ビルマには自動車はなく、糧秣の秣、馬の餌・牛の餌も無い。
陸軍は獣医も擁し、馬の餌を中央で生産し供給するための流山に糧秣廠を設けた。日支事変までの馬の餌はココから供給された。しかし、陸軍としては牛を輸送に用いる伝統は無い。方法も判らず、インパールへの物資輸送のために用意した牛二千頭は途中で死んだと言う。そして先ほどの流山からの馬に配慮した餌も遠くのビルマには十分届かない。
相手より近代的な装備で、かつ鹵獲車両も得られたマレーと、相手から得たものはパラシュートで流れた敵方の食料というインパールでは、大分違うが、計画は建てても実行に伴い徹底が出来ないと失敗する。買うにも物は無い。朝鮮特需に応じる様な社会資本の整備は広く東南アジアには無かったのである。それが果されるのは21世紀の今になってからだ。資源があっても加工しないと使えない。馬の餌も適切でなければ疝痛を起こす。そして馬は死ぬ。一事が万事である。
その悪平等が今の地方経済の浮揚などにも尾を曵いている。その徹底が出来た米国と出来なかった日本の違い。ここを定量的に理解しないと、上手く行かない。方法は解っていても、市民レベルで意見が統合出来ない村社会。方法は解っているので実践するため実験国家の満州に逃れた革新官僚や少壮軍人。軽視ではなく、意見集約のコストが実施を上回るのは今も昔も変わらない。