【細胞生物,Vol 15, No. 1 (2004)巻頭言より転載】

発掘

           

水島 昇(東京都臨床医学総合研究所)

 あるひとが採石場でたまたま大変貴重な化石群を発見した。それによってカンブリア紀の動物群の多様性の秘密が一気に明らかになったとする。一方で、ある古生物学者は長期間の研究や調査の結果、中規模の発見に行き着いた。すごいのはどちらか。もちろん発見としては学術的に価値の高い前者である。しかし研究者としての価値は勝負にならず、前者は素人である。違いは何か? 技術の違いは当然あろうが、もっとも違うのは仮説の有無であると思う。

 古生物学者と同様に私達は実験科学者である。基本的な活動は仮説−検証−仮説−検証の繰り返しであると思う。スタートは常に仮説である。そしてその仮説の確からしさを実験によって確かめていく。他のエッセイでも書いたが、実験によってその仮説が100%正しいと導き出すことはできない。数学者が使っているような意味で物事を「証明する」ことは私達には不可能である。数論の場合は、証明されれば再現性ばっちりであり、どこの誰がやっても同じ結果が得られる。ところが生物学では所変われば品も変わり、結果までも変わることがしばしばである。すべての実験は不完全であり、予期せぬ(あるいは私達の能力をはるかに超えた)アーティファクトが入る余地はふんだんにある。観察行為そのものがアーティファクトの原因であることさえある。私達ができることは正しいであろう確率を徐々に上げることである。検証が済んだらまた新たな仮説をたてて、それを検証する。この繰り返しである。検証を誤れば、当然次は誤った仮説からのスタートとなる。

 「まず実験をしてみてそれから考えよう」ということは多くの研究者がとっている姿勢で、一見これには仮説がないように思えるが、本当は違うと思う。例えば、変異体の遺伝学的スクリーニングは、関与している遺伝子の存在を仮定してそれを検証する実験であるし、あるタンパク質の細胞内局在を見る実験は、それが特定のオルガネラや領域に局在しているのではないかという仮説の検証である。ただ、仮説をどれだけ意識するか、どれだけ深い仮説をもつかには研究者によって大きな違いがあると思う。グラント申請レベルのプロジェクトに仮説があるのは当然であるが、どんなに些細な実験にも仮説は存在するはずである。仮説がなければ検証不可能で、そのような実験は目的を失っている。一方で、仮説は常に棄却されうる対象でなくてはならない。仮説を棄却するという行為はなんら責められるものではないと思う。そうでないと単なる先入観と変わりがない。仮説が支持される確率50%、棄却される確率50%というときに行う実験がもっともやり甲斐があるはずである。反対に、実験前にすでに支持される確率が90%の仮説を、実験によって95%にひきあげることに私達は興味を持たないであろう。

 さて、最初の採石所の少女(男と思っていたあなた!先入観です)は偉大な発見者であるけれども、研究者としての功績はゼロである。しかし、彼女が何らかの仮説をもってまた採石所を訪れるのであれば、それは研究者の姿であると思う。

追記
 と、自分のことを棚に上げてここまでかなり生意気なことを走り書いてしまいました。幸いにして、この度弥生式土器の発掘地より北に約2 km離れた本駒込の地に新しい発掘場所を与えて頂く機会を得ました。ここで自分なりの大いなる仮説のもとに発掘に望みたいと思っております。また、一緒にハンマーを握って頂ける大学院生の方も募集しております。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

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