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Laboratory and Clinical Practice 17(2) : 127-130, 1999

第9回日本臨床検査医会春季大会
パネルディスカッション

臨床検査医学の21世紀に目指すべきもの

西堀眞弘
東京医科歯科大学医学部附属病院検査部

What Laboratory Medicine Should Pursue in 21st Century

Masahiro NISHIBORI
Clinical Laboratory, Tokyo Medical and Dental University Medical Hospital, Tokyo

[published edition]
はじめに
 今回のパネルディスカッションが企画された動機は、我々臨床検査医にとって限りない可能性に満ちている21世紀の夢を皆で語り合おう、といった胸躍るものでは決してない。このままではやがて臨床検査医が消滅してしまっても不思議ではない、との強い危機感が背景にあることは、各パネラーに渡辺大会長から事前に送付された文書からもはっきりと窺える。そこで本稿では、学問的あるいは公共的な視点からは穏当でないというご批判を覚悟のうえで、臨床検査医の利益を守るという政治的視点に立ってこの主題を論じてみたい。

生き残りの戦略
 医療経済が高度成長から一転して縮小均衡に向かうなかで、どの診療科も手段を選ばず必死に生き残りを図らねばならなくなった。自由経済であればある程度市場原理が働き、ニーズに応じた棲み分けが行われることになるが、残念ながら我が国の医療は統制経済である。その中においては、たとえ多くの人々から必要とされる役割を担っていたとしても、決定権のある人に必要性を認めさせなければ、生きては行けない。したがって我々が生き残るためには、真面目に家業に勤しんでいるだけではだめで、手段を選ばず戦略的に縄張りを確保する必要があり、この点ではある種の自由業の方々と同じ立場におかれている。

社会的縄張りの確保
 縄張り確保の基本は、社会にとって必須の領域を仲間内で囲い込んだうえで、競合する者を排除しつつ、同志として加わる者にはその利益を保証することにある。即ち、医学部教授会や病院が臨床検査医なしではやっていけず、あるいは検査部長や指導監督医が臨床検査医でなくては勤まらないような状況を作りあげ、もし他科医師等のよそ者が割り込もうとしたら、二度とそのような考えを起こさないように徹底的に痛めつけなくてはならない。
 ただし、臨床検査医は境界領域を対象とするため、広範な守備範囲のなかで、固有の役割を明確に打ち出さないと、囲い込むだけの説得力が得られない。病院検査部門や検査センターの運営および精度管理の実務は、台頭しつつある優秀な検査技師が担当すれば事足りる。さらに臨床検査医の発生母体であるいわゆる「中央」検査部は、既にその歴史的役割を終えつつあり、「検査情報の付加価値で差別化する」などと言ってそこにしがみついてみても、一緒に沈没するのが落ちである。
 臨床検査に関わる多くの専門職のなかで、臨床検査のマネジメントに精通し、かつ患者を看取れるのは我々臨床検査医だけである。したがってその固有の役割として希望が持てるのは、限られた医療資源の中で「患者が死なない程度」に検査精度を保証する監査に絞られる。もちろん、これとて黙っていたのでは我々のものとはならない。検査の質を最優先に考える検査技師、診療の質を最優先に考える臨床家、資源の節約を最優先に考える行政、そして自己の健康を最優先に考える受診者の間に立ち、学問的、社会的に公平な行司役が務まるのは臨床検査医だけである、という固定観念を、あらゆる手段を駆使してそれぞれの立場の者に植え付けていく努力が不可欠である。
 そのためには、こちらから積極的にアプローチし、それぞれのニーズを掘り起こす努力から始めねばならない。これを「まるでご用聞きのようだ」という批判もあるが、「doctor of doctors」という言葉を曲解し、検査室で「コンサルテーションを受けます」などと言って踏ん反り返っている臨床検査医がいたとしたら、毎日ご用聞きにくる便利屋と比べて「どちらがあなたの仕事にとって必要か」と聞かれたとき、答えは明らかである。それどころか、これは本来マーケティングの範疇に属する事柄であり、本気で考えるのであれば、DRG/PPSの導入による医療の質の劣悪化をむしろ追い風と捉え、効果的な戦略をその道のプロである電通や博報堂に相談する、といった柔軟な発想こそ必要である。
 一方これらの活動の裏打ちとして、我々自身にもその役割を担うだけの能力や態勢が求められる。そのためには、サービスマークの査察を積極的に引き受けることはもちろん、検査所の格付け事業や、成立間近と言われる臨床検査関連ISO規格の審査事業などは、日本臨床検査医会の沽券にかけても、決して他の団体に先を越されるようなことがあってはならない。

学問的縄張りの確保
 本来臨床検査医の活躍する場は第一線の病院である。しかし、大学が専門医を教育する最高学府である以上、検査医を教授に戴く講座がなければ後進の育成はおぼつかず、いずれ絶滅するのは明らかである。そのためには社会的縄張りだけでなく、講座という学問的縄張りも併せて確保する必要がある。
 我々の誇るべき先達の努力により、その受け皿となる講座は全国の国立大学に設置されている。しかし残念ながら、その名称は未だもって統一されず、さらに私立大学の中には、他講座に振り替えられてしまう事例も出てきた。そうこうしているうちに、従来の技師学校が4年生大学に格上げされ、有力国立大学に検査技術学専攻の大学院講座が続々と設置されつつある。
 また臨床検査医を認定する日本臨床病理学会は、現在会員数や演題数の減少に悩み、また研究レベルも相変わらず他学会の二番煎じの域を出ない。臨床各科は言うまでもなく、多くの検査科には対応する専門学会が存在し、さらに最近では血液検査学会なる分派活動が公然と活発化している。このまま進めば、やがて日本臨床病理学会は種芋のように養分を吸い取られ、抜け殻となってしぼんでしまっても不思議ではない。
 このような状況では、これまでの概念の延長線上で我々が一定の学問領域を囲い込むのはもはや不可能である。かといって、先程の「検査精度の確保」といった主題だけでは、ひとつの学会や講座を独立して維持できる程すそ野が広がらない恐れがある。可能性としては、従来の臨床検査を「病人を調べる検査」と捉え、その対立軸として「健康人が病気にならないための検査」、即ち遺伝子検査を含む検診用のスクリーニング検査の研究開発を新たな中心課題とする、「予防検査医学」とも呼ぶべき分野を柱に据えるという選択肢もあるが、これも既存の検診関連の学会との調整が難関となろう。
 いずれにせよ、今のままでは臨床検査医であることが教授選考において一顧だにされない状況を変えることはできない。さらに、講座の設立趣旨への適合性や研究の質を問わず、点数だけで比較されたら、基礎研究でオタク的な論文を量産している人とまともに戦ってもかなう訳がない。事ここにいたっては、論文による今の選考方法がいかにくだらないかを示すためにも、impact factorが最も高くなるように徹底して会員同士で論文を互いに引用しあう、といった八百長を組織的にやるべきである。極端な考えだとの批判はあろうが、臨床検査医あるいは本会会員の国立大教授が退官した後、弟子の臨床検査医が殆どその後を継げないという現状を放置したまま、若い人に臨床検査医になるよう勧誘するのは、著しく不誠実である。

21世紀の時代性
 少し目を外に転じてみると、窮地に追い込まれ対応を迫られているのは我々だけではない。我が国の医療、学術、教育、経済、政治ひいては社会全体が大きな変革の時期にさしかかっており、そのひずみが各分野でさまざまな形をとって現れているに過ぎない。したがって将来を展望するに当たっては、巨視的にその大きな流れを見据えることが大切である。
 右肩上がりの高度成長の時代には、誰でも余程愚かでなければある程度人並みに役目をこなすことができ、また余程うまくやったとしても極端な優位に立つことは少なかった。翻って今後の低成長下では、誰でも余程うまくやらなければ行き詰まることが避けられず、優勝劣敗が如実に表われるようになる。またこれまではお上や外国から権威を借り、密室に閉じこもっていれば威張っていられたが、成熟社会の中で皆の目が肥えてくれば、衆人環視のもとであらゆる側面について厳しく評価が下され、真の実力を備えていない者はすぐに化けの皮が剥がされてしまう。
 欧文紙への掲載論文数や外国留学歴など、見当違いの基準で教授を選んでいる大学は、このような変化に晒されるなかで消え去る運命にある。21世紀に求められるのは、現状追認的、予定調和的発想から脱却し、前例や既存の権威に縛られず、自らの頭で考えかつ行動し、一般社会への説明責任を果たしつつ、新しい枠組みへの構造変革を実践できる人材である。時代に合わなくなった教授の世代交代を進め、このような人材をいち早く登用することに成功した大学だけが、次の時代を先導役となり得る。これまで日本の学術界をリードしてきた東大を頂点とする国立大学は、日本が西欧列強に追いつく過程で必要とされた教授の量産が本来の使命であり、歴史的役割が終われば独立行政法人を経て民営化されていく。やがて我が国も欧米のように、自由競争に競り勝った私立大学が学術分野を主導するようになるのは時間の問題である。
 このような時代の到来は、旧来の権威を後ろ盾としている者、従来型の手法で教授になった、あるいはなろうとしている者にとっては脅威であるが、医師、教育者あるいは研究者として本来の能力を磨いている者にとっては、大きなチャンスとなる。これから学問の世界で生きようとする者は、自分の戴いている指導者が、この両者のどちらに属するのか、冷静な目で正しく見極めなければならない。

研究の核とすべきテーマ
 医学界においては、研究者の業績を欧文誌の論文数で評価する考え方が根強い。しかし以上のような状況判断に立てば、今我々が最優先で研究すべきなのは、形骸化した教授選の点数稼ぎにしかならない似非アカデミズム的テーマではなく、表1に示すような実際的な主題である。もしこれらが旧来の学会等の枠組みに収まらないのであれば、そのようなテーマを核として組織的に研究できる場を新しく作るところから始める必要がある。

表1 核とすべき研究テーマ
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 本来我が国が医療にかけるべき経費はどのくらいか
 検査部長が専門医でない場合どのようなデメリットが生じているか
 指導監督医が専門医でない場合どのようなデメリットが生じているか
 臨床検査医学教授が専門医でない場合どのようなデメリットが生じているか
 臨床検査の質の低下によりどのようなデメリットが生じているか
 検査施設の業務品質の確保に実効のある査察方法
 臨床医にわかるような臨床検査の品質表示法
 患者や受診者にわかるような臨床検査の品質表示法
 診療報酬改訂に関わる臨床検査関連団体協議会の答申を裏付ける理論の構築
 ネット・サイテーションインデックスの開発
 Evidence-based Laboratory Medicineの構築
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 著者は既に表1の一部のテーマについて、複数の施設の職員に協力を得て基礎データとなる事例を集めているが、その驚くべき内容を見れば、これらがいかに切迫したテーマであるかが理解できよう。表2は教授交代の際にありがちな「academic harassment」とも呼ぶべき陰湿な人権侵害の事例であるが、講座から臨床検査医を排除することを目的としている場合には、我々の存立を脅かす敵対行為として、組織的に対抗措置をとらねばならない。また表3の事例は主に検査技師に対するものであるが、調査用紙には、粗雑なマネジメントによる失態が表に出ないよう、必死で自分たちの職場を守ろうとする技術部員の涙ぐましい姿が切々と綴られており、胸に迫り来るものがある。図1に示すように、職員をスポイルして思い通りに動かそうとする意図が明らかな場合には、臨床検査に携わる者全体への挑戦として、技師会などと協調し徹底的に報復すべきである。

表2 臨床検査医でない教授のデメリットの実例
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 専門医の研究用備品の使用妨害
 研究業績集からの専門医の業績の抹殺
 専門医への不当な退職勧告
 専門医への再就職妨害
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表3 臨床検査医でない部長のデメリットの実例
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 病院執行部への盲従
 技術的配慮に欠ける人員配置
 一貫性や計画性に欠ける業務運用
 技師の意欲や能力の抑圧
 臨床検査医と技術部員との接触妨害
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図1 検査部長交代前後における所属技師による学会発表数の年次推移
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 相対年度┃前/現┃発表演題数(□海外)
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  −4 ┃○  ┃■■■■■
  −3 ┃○  ┃■■■■■■■■■■
  −2 ┃○  ┃□□■■■■■■■
  −1 ┃   ┃□■■■■■■■
   0 ┃  ●┃■■■■■■
  +1 ┃  ●┃■■■■
  +2 ┃  ●┃■■■
  +3 ┃  ●┃■■■
  +4 ┃  ●┃■
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 なお、誤解がないように付け加えておくが、著者は学問的興味に基づく研究も積極的に進めており、いわゆるアカデミックな研究を頭から否定するものではない。ただし、定期的に雑誌が発刊されるほど陳腐化していない最先端の医療情報学分野では、印刷物として論文を書く機会が少ないため、代わりにインターネットを通じて独自に研究内容を公開している(http://square.umin.ac.jp/mn/works.html)。原則として日本語で記載しているが、日本語が読めない人のために英語による説明を添付したところ、世界各国から問い合わせや共同研究の申し込みが相次ぎ、今や特許の出願や新しい国際学会の設立に発展しつつある。論文の蓄積などなくても研究の展開には全く支障が感じられず、この事実だけでも、従来の業績評価手法がいかに時代遅れであるかは明らかである。

おわりに
 稿を終えるに当たり、講演及び本稿の中で、著者の失礼な言葉遣いにより不快な思いをされた先生方には心からお詫びしたい。決して特定の方への攻撃を本意とするものではなく、あくまで著者の強い危機感がストレートに表現されたものとしてご理解いただければ幸いである。また、今回の講演の内容には、数多くの会員から頂戴した貴重なアドバイスが盛り込まれている。具体的な氏名の列挙は差し控えるが、この場を借りて厚くお礼を申し上げたい。


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