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加藤泰治先生の遺言
当時まだ図書館に入っていない雑誌Cellを捜しているうちに、加藤泰治先生が個人購読されていることを知りました。そこで生化学研究室に雑誌を借りに行くと、加藤先生は机を囲むように天井まで書籍とノートを積み上げ、机上にはアメリカ風にご家族の写真を配置し、論文を纏められている最中でした。土砂降りの雨の中、自宅まで自動車で送ってもらう途中「臨床、基礎、臨床とやって、最後に基礎医学に挑戦する」夢を聞かせていただきました。1989年に浅井清文先生を右腕として生体制御部門を設立することでその夢を結実されました。シカゴ大学留学時代に発見されたグリア細胞栄養因子精製や、その関連遺伝子群のクローニングなどの研究を進めつつ、培養細胞株をあらゆる研究者へ「分け隔てなく」分与して、自由な研究活動を日本に植え付ける努力をされました。「グリア細胞が神経細胞を包み込んで補佐する」姿を愛しく思い、人と人の心を結びつけて子を育む女房役に自ら徹しようとされる姿に、私たちは心を打たれました。
私は小児科臨床研修後に北海道大理学部、カナダ国カルガリー大学留学を遍歴して10年近くも母校を離れておりましたが、1998年に医学部機構改革で予期せぬ人事の展開があって、加藤先生が主宰されていた生体制御部門へ分子生物学者として加わる運命に巡り会いました。その時先生は、従来の講座教授支配体制では助教授以下の母校出身者の意欲が引き出せない点を理解されて、「これから研究のことで、何も言いません。自分の研究を精一杯やってください。私は研究を応援するのが仕事です。」と加藤先生から激励していただきました。講座体制を越えた市大神経科学研究グループ(NSP-NCU)を結成して、民主的な研究交流の場を企画され、人望の故に多くの研究者が集まりました。MEDLINE文献検索ネットワーク、医学部ホームページ公開を支援するボランティア仲間に声をかけ、お酒は飲まれないにもかかわらず、労をねぎらう宴席を設けて皆と一緒になって喜んでくださる人情の持ち主でもありました。 臨床系の同窓助教授が市民病院へ転任される会の席上で「『送別会』という表現は間違っています、これからは臨床教授として後輩を御指導いただく『教授就任祝賀会』です。」と祝福の言葉を述べられて、大学病院を越えた規模での臨床研修体制をすでに念頭に置いておられました。
今年の正月は好きな餅も食べることができず、体調が悪かったようです。年明けて精密検査を受けて胃癌の全貌が告知されました。2月7日の緊急スタッフ会議で御自身の病状を直接聞かせていただきました。半年後の死期を覚悟されて研究費の総括、教室員の名前と研究論文の進行状況等を印刷して用意されておられました。「私の研究を引き継いで生体制御部門を発展させて欲しい。そのために二人で協力して一報でも多く論文を書く。」との遺言をいただき浅井先生と私は涙を流しました。以後半年間は、笑顔の現役教授として執務をこなされました。7月20日遂に酸素投与が必要な段階となり入院。7月25日の朝、かすれた小声で「忙しいところすまんが、教授会の少し前に病室に来て車椅子を押して行ってくれませんか?」と加藤先生からの電話を受けました。 当日は第二生化学教授選の最終投票という重要案件がありどうしても出席されたいご意志でした。教授会室に到着した加藤教授は経鼻酸素チューブをはずしてドアを入って行かれました。1時間ほどして、会議室から出て来られ、一服のタバコではなく車椅子で「酸素」を吸いながら暗いロビーで休んでおられました。
危篤状態に陥った後、奇跡的に意識がもどられた瞬間に、病棟に伺いました。厚生省評価会のスライドが完成した旨を伝えると、加藤先生は無声で口を動かしておられます。脇に控えておられた息子さんが「何もできないが、宜しく頼みます。」と通訳してくださいました。握手をして帰ろうとすると。目はまっすぐ天井を目据えて、ゆっくりと右手を揚げて挨拶され、バイバイの手を振られました。これが死の前日です。加藤泰治先生が研究室に持ち帰られた御自身の胃生検細胞は、私たちの手で培養細胞株として樹立し、研究の自由と母校を愛する女房役の精神とともに生き続けております。(名古屋市立大学医学部同窓会会報 第79号掲載 昭和61年卒 分子医学研究所分子神経生物学助教授 三浦 裕)
Yutaka MIURA (September 30, 2000)
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(Last modification, October 31, 2000)