Yutaka Miura's home page (the third page level) |
私の最初の昆虫採集は6歳で補虫網を振り回していた頃から始まる。その頃に住んでいた東京都杉並区方南町457番地の郵政省官舎(木造平屋建)の庭に飛来したヒョウモンチョウを捕獲した所から始まった。捕獲したチョウチョを父が展翅して奇麗な昆虫標本に整形してくれた。その標本は今も大切に昆虫箱に保管している。昆虫箱の中には当時の美しい輝きのままの美しい昆虫が並んでいる。昆虫の輝く色は、美しい花の色素(化学物質)とは随分異なる。植物と同じような発色団をもつ化学色素なら簡単に酸化されて、何ヶ月も経たないうちに茶色に変色してしまうだろう。特に甲虫類の輝く色は構造色と称し、表面の物理的な凹凸で反射する光の回折現象で作られている。化学的に安定な物理的構造体によって作りだされる発色だから、50年を経ても昆虫標本の色はまったく褪せない。
今年も昆虫箱の防虫剤を入れ替え作業した。昆虫箱の上に、毎年ぼろぼろになって古びていく紙切が載せてある。その紙には私の名前とともに「指導:豊島和夫」と書かれている。豊島先生は、私の小学校4年生から6年生までの担任の先生で、私の昆虫標本を評価して夏休み自習課題作品コンクールに応募出品して金賞をもらうチャンスを与えてくださった。水泳部顧問でもあった。名古屋市東区水泳大会直前に、バタフライにエントリーしている選手がほとんどない情報を得て、私に「バタフライで泳げ」と命じられた。「はい。ところでどうやって泳ぐのです?」と私は聞き返した。じつは私も含めて小学校にはだれもバタフライで泳げる児童はいなかった。豊島先生自身もバタフライは泳げない。ドルフィンキックというものがどういう泳法なのか?誰も知らない。水泳大会直前で練習する時間もほとんどない。豊島先生は「むずかしいことを考えず、平泳ぎの足でいいから,両手を空中で前に出せばいい。やれ!」と号令一喝。そんな簡単な命令でバタフライ選手に仕立てられた。実際にほとんど競争相手もない試合だったので優勝してしまった。すこし後ろめたい優勝だったが「これで無罪放免」とほっとした。しかし何と「東区の優勝者」として名古屋市大会の出場権を得てしまった。名古屋市全体の公式大会となるとまともなスイマーが何人も参加する。本番は8人で決勝になり、結局私は7番目ぐらいの成績だったように記憶している。それでも名古屋市大会のバタフライ代表選手に選抜された名誉は自分の素晴らしい自信になった。以来、水泳は我が人生の大切な楽しみとなり、今年も名古屋市職員水泳大会のバタフライ種目にエントリーして童心に帰って水泳を楽しんでいる。
「仰げば尊し我が師の恩」を歌って小学校を卒業して以来、豊島先生に年賀状の挨拶だけは続けていた。しかしこの数年はその年賀状のやり取りが途絶えて、心配していた。思い切って電話を掛けてみた。何年ぶりだろうか、電話口の声は確かに豊島先生の声だった。少し耳が遠くなられたのか、こちらの言葉が伝わらないままガチャンと切られてしまった。短い会話であったが、悠々自適のあの雰囲気が伝わってきて嬉しかった。
夕方になってからもう一度電話を掛け直し奥様を介して挨拶に伺う約束ができた。自宅を訪問すると、81歳になられた豊島和夫先生が杖をついて奥の間から出て来られた。そのお姿は髭が生えて仙人のような風貌に変っておられた。最初は神妙な顔つきのままで、私が誰だかわからない雰囲気だった。すこし話しはじめるとだんだん昔を思い出され、笑顔が出てきた。「三浦君はちょっと太ったな。お父さんは痩せられたが….」などと観察力も鋭い。痩せっぽちだった妹のこともよく覚えていてくれて、ほんとうに懐かしい再会を果たすことができて嬉しかった。